第32話 誰かが消している(前編)
【オサム視点】
転移から六十二日目の昼、ザルツの北門に、白い上着の女が一人で立っていた。門番を務めている元ギルドの予備乗り手が、どう扱っていいか分からないという顔で、格納庫まで俺を呼びに来たのだ。墓場の鉄屑の山を背にした門の前で、女は荷物も持たずに、自分の左手首を右手で押さえていた。
年は二十代の半ばに見えた。検証用の白い上着は砂と汗で灰色になり、袖に印刷された管理番号だけが、まだ黒く読める。髪は顎の線で切り揃えてあったが、左右の長さが揃っておらず、目の下には、何日寝ていないのか分からない濃い隈があった。左の手首には包帯が巻かれていて、その包帯もまた、何度も巻き直した跡で端が毛羽立っていた。
「はじめまして。白瀬灯と申します。VGOでは、チケットという名前で、不具合の報告を書いていました。そうですね、分かりやすく言えば運営側の、検証の担当です。……あなたが、ザルツの整備士の方ですね。南西の辺境でRX-09が止まった話を、隊商の方から聞きました。整備されていなかったからだ、と。それで、歩いてきました。四十日かかりました」
「歩いてきたのか。王都の近くから」
「いいえ、帝国の街道からです。高速転移が使えないので。……あの、報告します。転移の夜から、高速転移の行き先が一件ずつ消えています。壊れたのではありません。誰かが、一件ずつ、手で消しています。消し方に癖があるので分かります。それを止めるか、戻すかしたいのですが、わたし一人では、どこから手をつけていいのか分からなくて」
彼女は、一息にそこまで言ってから、少しだけ頭を下げた。下げた拍子に体がふらつき、門番の予備乗り手が慌てて肩を支えた。
「……すみません。VGOなら、食事はほぼ不要でしたのにね――」
「まずはたっぷり食え、話はそれからだ。フィーネ、黒パンと豆のスープを、格納庫に二人分頼む」
格納庫の作業台でスープを三杯飲み干すまで、白瀬は一言もしゃべらなかった。四杯目を断ってから、彼女は袖で口を拭い、左の手首の包帯を少しだけずらして見せた。転移の夜に捻ったのだという手首は、六十日経った今も、捻った翌日と同じ色をしていた。
「治らないんです。他の傷は、少しずつ治るのに。これだけが、転移の夜のまま止まっています。……わたしの種族欄も、転移の夜から読めません」
ちょうど格納庫に来ていたミナが、鑑定札を一枚、白瀬の手首に当ててみた。札の上に浮かんだ種族の欄には、白い四角が三つ並んでいるだけだった。
「……師匠。この方の種族、読めません。札が壊れたのかと思って、自分に当て直してみたら、私のは読めるんです」
「札は壊れてない。その人の欄のほうが、読めないように書かれてるんだ」
「なああんた、運営側の人間だろう。運営側の道具は、どこまで使えるんだ。こっちに来てから、試したか?」
「試しました。全部です。……以下、ご報告しますと――」
白瀬は、作業台の上で指を折りながら、不具合報告を読み上げる時の平らな声で数えていった。
「例えば無敵。実行すると、『対象が見つかりません』と返ってきます。無敵にする相手の、プレイヤーとしての記録が、わたしにはもうないんです。壁抜け。転移の夜に、宿の壁で試しました。抜けませんでした。手首は、その時に捻りました。座標移動と、物品生成も、『権限がありません』です。食べ物を出せていたら、四十日も歩いていません」
「開発者権限は全滅か」
「全滅ではありません。内部表示は、半分動きます。テレポーターや機体の記録、物に付いている印は読めます。でも、生きているものの数字は、全部空欄です。人も、魔獣も、ミナさんも、オサムさんも。……それと、自由視点は動きます。ただ、ゲームの頃と違って、カメラに体があるんです」
「カメラに、体——?」
「壁を抜けません。地面にも潜れません。三十メートルより遠くへは飛びません。そのうえ、カメラを飛ばしているあいだ、わたしの体は空っぽで、その場に倒れます。……それから、使えるコマンドの数が、毎朝減っていきます。転移の夜は千三百八十ありました。今朝は、二百十四でした」
白瀬は、指を折るのをやめて、両手を作業台の上に置いた。
「検証の担当として言わせてください。この世界、仕様がおかしすぎます。運営の道具が運営の言うことを聞かないなんて、十二年で一度もありませんでした」
「十二年、修理職の道具が修理職の言うことを聞いたことは、一度もなかったぞ」
「……それは、存じ上げています。わたしが、報告したので」
白瀬はそう言って、懐から折り目のすり切れた紙の束を出した。転移の夜から書き続けている、宛先のない報告書の控えだった。
その夜、白瀬と俺は、格納庫の作業台で夜明けまで話をした。彼女はVGOの十二年のあいだに書いた不具合報告の数を覚えていて、それは二千通を少し超えていた。そのうち修正されたのは、三百通ほどだという。
「オサムさん。ここでLv.100に到達した時、何か通知は出ましたか。実績の解除の音とか、画面の端の表示とか」
「そうだな、何も出なかったはずだ」
俺はVGOのことを思い出していた――あれは十二年のうちの、九年目の冬だった。廃坑の深層で、生身で鉱石を掘っている最中に、レベルの欄の数字が九十八から九十九に変わった。修理職でLv.99に届いたのは、たぶん俺が最初だった。だが、それを祝う音も、画面の端の飾りも、フレンドへの知らせも出ず、俺は数字が変わったことに気づいたあと、そのまま掘り続けた。その夜の採掘量は、いつもと同じ三十四個だった。
「わたし、それを報告したんです。修理職のLv.99到達時に、実績の通知が出ません、って。そうしたら、返ってきた回答が、『優先度:低。該当者なし』でした。……該当者は、いたんですね」
「まあな、ここにいた」
「すみません。当時直せなくて」
「あんたが謝ることじゃない。書いたんだろう。書いた奴は、書かなかった奴より、だいぶましだ」
白瀬は、しばらく作業台の木目を見ていた。それから顔を上げて、少しだけ笑った。目の下の隈が、笑うと余計に濃く見えた。
翌朝、格納庫に入ってきたフィーネは、作業台に突っ伏して眠っている白瀬と、その向かいで工具を磨いている俺を見比べて、手に持っていた朝食の盆を、いつもより少しだけ強く台に置いた。
「……おはようございます。お二人とも、目の下が同じ色ですね」
「報告書の話をしてた」
「十二時間もですか?!」
「二千通分もあったからな」
「……オサムさん、夜は寝る時間ですよ。整備で起きてる夜は仕方ないですけど、報告書で起きてる夜は、仕方なくないです!」
フィーネは盆の上の黒パンを、俺の前に一つ、眠っている白瀬の頭の横に一つ置いて、格納庫を出ていった。出ていく時、白瀬の分のパンのほうが、ほんの少しだけ大きかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
六十三日目の昼、俺たちはザルツの南の砂丘帯へ入った。俺と白瀬と、森霊のミィル、それに白い機人のサクの四人だ。
ザルツの南には、白い砂の海が広がっている。風が作った細い波紋が砂丘の背を斜めに走り、日が高くなると砂の照り返しで目が痛くなる。南へ十日も下れば、地下に機人の都を抱えた砂漠に入るが、そこまでのあいだに、人の住む場所は一つもない。ミィルは裸足のまま、白い砂の上を平気で歩いていった。淡い緑がかった銀髪を二つに結び、尖った長い耳の先だけが、日に焼けて赤くなっている。サクは艶のある白い装甲の体で先頭を歩き、ときどき膝をついて掌を砂に当てた。歩くたびに、右の足首の軸がカチ、と鳴った。
「整備屋、本当にこんなとこに祠があるの? あたし、砂の下の水の音しか聞こえないんだけど」
「ある。原作の隠しエリアだ。『砂の下の転送祠』。入口は、砂丘の影が三つ重なる場所に、日没の一時間前だけ開く」
「影が三つ重なる、って……そんなの、砂丘は風で動くでしょ。毎日、影の場所が変わるじゃない」
「変わる。だから、どの砂丘とどの砂丘の影かは決まってない。決まってるのは、三つ重なること、だけだ。VGOの頃、それを探すのに、掲示板の連中が二年かかった」
祠の入口の探し方は、攻略wikiの隠しエリアの頁に、地図なしで一行だけ書かれていた。見つけた者がわざと地図を載せなかったのだ。俺は昨夜のうちに、白瀬と話しながら、砂丘帯の風向きと今日の日没の時刻から、影の重なりそうな窪地を三つまで絞っておいた。ロープを四十メートル、杭を六本、灯りの油を三日分。サクに持たせた荷は、祠の中が原作どおりなら足りる量だった。
窪地を三つ回るあいだに、白瀬は一度だけ自由視点を飛ばした。砂丘の上から影の向きを見るためだ。彼女が目を閉じた瞬間、体が糸の切れた人形のように前へ倒れ、隣を歩いていたミィルが慌てて抱きとめた。十秒ほどして目を開けた白瀬は、青い顔で口を押さえた。
「……三十メートルで、止まりました。見えない天井に、カメラが頭をぶつけて。……うう、酔いました」
「ねえ、チケット、あなたさっき死んでたよ!? 息してなかったよ!?」
「体が空っぽになっていたので。……でも、二つ目の窪地です。影が、いちばん早く寄っていきます」
日没の一時間前、二つ目の窪地で、三つの砂丘の影が一つに重なった。影の重なった真ん中の砂が、音もなく、すり鉢の形に沈み始めた。
「……沈んでいきます。下に、空洞があります。深さ八メートル。石の階段が、三十二段です」
「なんで分かるのよ、そういうの! 整備屋もサクも、地面の下が見えてるとでもいうの!?」
「見えてない。俺は覚えてるだけだ。サクは実際に聞いてる」
「わたしは、データで知っていました。この祠の記録は、運営の資料にも残っていたので。……ただ、入口の開く条件は、資料には『影』としか書いてありませんでした。影が三つ、というのは、遊んでいた人たちが見つけたことです。運営より先に」
「ふうん。じゃあ、その運営って、何を知ってたのよ」
「作ったものの名前と、場所です。どうやって入るのかは、遊んでいた人のほうが詳しかった。……それが、十二年、ずっとそうでした」
ミィルは分かったような分からないような顔で頷いて、それから、白瀬の左右の長さの違う髪をしげしげと小さい身体で見上げた。
「ねえ、チケット。その髪、どうして右と左で長さが違うの? 森霊の作法だと、左右を揃えないのは喪に服してる時なんだけど」
「……転移の前の日に、自分で切ったんです。鏡を見ないで。右から切って、左を切る前に、仕事の連絡が来て。そのまま、こちらに」
「じゃあ、あたしが揃えてあげる。森霊は、髪を切るのが上手なのよ。百二十年、自分の髪は自分で切ってきたんだから」
「……ありがとうございます。でも、揃えると、転移の前の日の記録が消えてしまうので。もう少し、このままでいたいんです、今は、お気持ちだけで――」
ミィルは「ふーん、変なの」と言ったが、それでも白瀬の隣を歩くのをやめなかった。




