第26話 六時の手
【オサム視点】
転移から四十一日目の朝六時、ザルツの工房の前には二十人の面接希望者が並んでいた。王都の騎士団を抜けて歩いてきた十九人と、その列のいちばん端に、借り物の革靴を履いたドレイクが一人だ。夜明けの砂はまだ冷たく、境界杭の向こうから吹いてくる風が、並んだ者たちの外套の裾を同じ向きに揺らしている。誰も口をきかず、俺が工房の戸口から出てくるのを、全員で待っていた。
俺はその十九人のうち、半分以上の顔に見覚えがあった。正直すれ違ったくらいだと、名前までは出てこないが、VGOの頃、ギルドの格納庫で夜中に機体を直していた時、出撃の前に一言も言わずに乗り込んでいった連中だ。整備の礼を言われた覚えは、一人もない。それでも今朝は、手を見る基準を変えないと決めていた。爪の際の油は、誰の機体を触ってきたかまでは教えてくれないからだ。
「全員、手を出せ。手のひらじゃない、指の腹を上に向けろ」
十九人が、ばらばらの速さで両手を前に出した。俺は端から一人ずつ、指先を見て歩いた。磨かれた爪、ささくれ一つない指、手綱だこだけが硬くなった掌。騎乗職の手は、ほとんどが乗り手の手だった。乗ることしかしてこなかった手は、操縦桿の形に固まっていて、工具を握る形にはなっていない。
八人目の、まだ二十歳そこそこに見える騎乗職の青年の指で、足が止まった。爪の際に、細い黒い線が入っている。洗っても落ちない種類の、古い油の色だった。
「お前、名前は?」
「カイトです。……あの、何かまずかったですか」
「この油はどこで付けた」
「放熱翼です。俺の機体、PLの一般機なんですけど、夜中に一人で翼の溝を拭いてました。拭くと、次の日ちょっとだけ機体が軽い気がして。……ギルドの規則だと整備は班の仕事なんで、内緒でやってたんですけど」
放熱翼の溝を夜中に一人で拭く騎乗職がいたことを、俺は十二年知らなかった。知らなかったのは、俺が自分の機体のほうしか見ていなかったからかもしれない。
「お前とりあえず残れ。今日から見習いだ」
結局、爪の際に油が入っていたのは六人だった。騎乗職が三人、砲術職が三人だ。砲術職の手は、砲身の掃除と弾込めで汚れていて、本人たちはそれを恥ずかしそうに隠そうとしていた。残りの十三人の顔から、音を立てるように血の気が引いていくのが分かった。
「残りの十三人。まだ帰れとは言ってない」
俺は戸口の柱に打ち付けてある板を、親指で叩いた。昨夜、ガウス爺とバルドと三人で書いた割り振りの板だ。
「人手が足りないのは、整備だけじゃないんだ。騎乗職の四人は、町の騎兵の予備の乗り手になれ。RX-07Hが戻れば、交代で乗る人間が要る。二人は爺さんの下で石を積め。天幕のままじゃ、冬を越せない。残りの騎乗職二人と砲術職一人は、整備の補助だ。見習いじゃないから、部品を運んで、洗って、工具の番をしろ。給金は日当で出す」
「……あの、俺ら剣士の二人はどうすればいいですか?」
「そうだな、ちょうどバルドが護衛を探してる。お前たちは、元ギルドで生身で戦える数少ない層だ。隊商について歩け。記録係のお前は、町の帳簿をつけろ。人の数、備蓄、料金。書式は俺のを写せ。砲術職の最後の一人は、国境の要塞に行ってもらう。ザイデルって砲兵将が、順番表を回せる人間を欲しがってる。帝国から、ヴァルで給金が出るぞ」
十三人は、しばらく板の文字を見上げていた。記録係の女が、最初に小さく頭を下げた。トワという名前で、手の甲にインクの染みがあった。
「……本当に、置いてもらえるんですか。私たち、あなたを追い出した側のギルドにいたんですけど」
「追い出したのは団長だ。お前たちは、そもそもそれを知らなかったか、黙って見てただけだろう。黙って見てた奴を全員追い返してたら、この町には誰も残らん」
列の後ろのほうで、誰かが鼻をすする音がした。それから、ぽつぽつと、道中の話が出た。二十二人で王都を出て、三人が犠牲になり、彼らを砂の下に置いてきたこと。一人目は四日目に砂潜りに引きずり込まれ、二人目は九日目の夜に水が切れて動かなくなり、三人目はドレイクが担いで歩いたが、十二日目の朝には冷たくなっていたこと。誰も泣かずに、犠牲者の名前だけを順番に言った。俺は三つの名前を、手帳の端に書き留めた。
パーティ募集の掲示板で、俺は十二年のあいだに何度も弾かれた。『回復もできないのにパーティ枠を使うな』という一行は、言った奴の名前も顔も覚えていないが、文字の形だけは今でも覚えている。今朝、俺の前に並んだ手の中に、あの一行を書いた指が混じっているのかどうかは分からない。分からないまま、俺は全員に仕事を割り振った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
昼前、ドレイクはすでに三度怒られていた。
一度目は、ボルトの仕分けで太さの違うものを同じ箱に入れて、ヨナに怒られた。二度目は、当て板を重ねる向きを逆にして、ミナに怒られた。三度目は、二人に怒られたことを俺に言い訳しに来て、もう一人の見習いに「師匠は今、手が離せないんです」と追い返された。百九十近い獣人の男が、十六と十七の子どもに順番に叱られて、耳を伏せている。
「ヨナ先輩、これ、太さってどうやって見分けるんスか。どれも同じに見えるんスけど」
「同じじゃないです! まずねじ山の数を数えてください。一センチに何山あるかで、全然違うんです」
「一センチに何山って……え、それ、全部数えるんスか」
「全部です! 師匠は、指でなぞっただけで分かるんですよ!」
「えぇ、マジっスか……」
ドレイクは箱の中のボルトを一本つまんで、指でなぞって、首をかしげた。それから黙って、ねじ山を一つずつ数え始めた。十二年、機体の操縦桿しか握ってこなかった太い指が、小さな山を一つずつ数えている。数え間違えるたびに、最初からやり直していた。
「オサムさん。俺、思ってたより、だいぶ下みたいっスね」
「事実、下だ。見習いの四人目だからな」
「……はいっス」
「返事は『はい』だ」
「はいっス!」
直らなかったので諦めた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
昼過ぎに、ノイズが地下の振動を拾った。
「整備長。南西より、地中を移動する反応が十。深さ一メートル以内。毎分二百メートルで、まっすぐ町へ向かっております」
「来たか。水場だな」
巣母が二体死んだあと、散った砂潜りの残党は、いちばん近い水場へ寄る。原作では、群れの親を倒したあとに、残った小物が最寄りの泉へ湧き直す仕様だった。プレイヤーの間では、泉の前で待っていれば稼げる、という小技として知られていた。この世界でその仕様が残っているなら、国境の川床から一番近い水場は、ザルツの井戸になる。
だから昨夜のうちに、俺は井戸の周りに、幅三メートルの濡れ砂の帯を作っておいた。ミィルに水を呼ばせて、砂の表面を締めさせた帯だ。昨日の夕方、井戸の周りにだけ水を撒いている俺を見て、ガウス爺は「貴重な水を砂に食わせる気か」と本気で怒っていた。濡れて締まった砂の中は、砂潜りが潜って進めない。
「師匠、なんで昨日、井戸の周りに水を撒いてたんですか。もったいないって、ガウスさん、まだ怒ってましたよ」
「今日、ここに客が来るからだ。……フィーネ、継接を出せ。武装として重刃を持って行け」
「はい!」
重刃は、今朝仕上げたばかりだった。坑道の支柱にしたベヘモスの脚から、余った装甲板を一枚剥がし、巣母の甲殻を背に重ねて、三日かけて削り出した。刃渡り四メートル、刃は鈍いままにしてある。切るための剣ではなく、継ぎ目に差し込んで、梃子にして起こすための鉄の板だからだ。
町の南西で、砂が十か所、同時に盛り上がった。盛り上がった砂の筋は、まっすぐ井戸へ向かってきて、濡れ砂の帯の手前で、一斉に止まった。止まった場所から、灰色の甲殻の背中が、潜り切れずに砂の上へ押し出されてくる。
ザッ。
「フィーネ、帯の手前で止まってる奴の首の第三節に、重刃を差せ。差したら起こせ。叩くな」
「差して、起こす、ですね!」
ツギハギが、重刃を両手で構えて前に出た。十メートルの機体が、四メートルの鉄の板を地面と平行に倒し、一体目の首の継ぎ目に、刃の先を差し込む。差し込んだまま、柄を下へ押し下げると、甲殻の節が下から持ち上がって、頭と胴が外れた。三百キロの体が、帯の手前で静かに崩れた。
「起きました! オサムさん、本当に、起こすだけで外れますね!」
「切ってないからな。外してるだけだ。よし、次だ」
俺も生身で帯の内側に立って、八十キロのレンチを担いでいた。帯を越えようとして跳ねた二体を、空中で顎の継ぎ目に噛ませ、半回転させて落とす。ゴキッ、と顎が外れる音が二つ続いた。
その時、井戸の反対側から、ドレイクの声が上がった。
「うおっ、こっちにも一体来てるっスよっ!」
帯の外を回り込んだ一体が、補修用の荷を積んだ手押し車の下から顎を出していた。ドレイクは手押し車の取っ手を握ったまま、後ろ向きに走っていた。逃げるなら荷を捨てればいいのに、捨てずに引きずっている。筋力八十足らずの脚で、満載の手押し車を引いて走るのは、どう見ても遅かった。
「ドレイク、荷を置け!」
「置いたら、部品が砂に埋まるっスよ! これ、今朝ヨナ先輩に三回怒られて仕分けたやつなんス!」
俺は井戸の縁を蹴って、その一体の背中に飛び乗った。レンチの口を首の第三節に噛ませ、全身の体重を乗せて捻る。
バキッ。
首が外れて、手押し車の車輪のすぐ手前で、砂潜りが止まった。ドレイクは取っ手を握ったまま、尻もちをついていた。荷は、一つも砂に落ちていなかった。
「……荷は、無事っス」
「無事だな。だが、次からは捨てろ。部品より、お前のほうが直すのに手間がかかる」
「それ、褒められてるんスか」
「褒めてない。……ただ、荷を捨てなかった理由は、悪くないぞ」
ドレイクは尻もちをついたまま、しばらく俺の顔を見上げていた。それから、何か言いかけて口を閉じ、手押し車の取っ手を握り直して立ち上がった。獣人アバターの耳の先が、少しだけ上を向いていた。王都の格納庫で十二年、俺が夜中に直した機体に乗って朝に出撃していった男が、今は、自分で仕分けたボルトの箱を守って砂の上を走っている。どちらが重い仕事なのかを、たぶん本人はまだ分かっていない。分からないまま、明日もボルトの山を数えるのだろう。
「フィーネ、重刃の刃先を見せろ。今日は十回差したから損耗しているはずだ」
「はい。……あの、オサムさん。私が見たところでは、欠けてないです。一つも」
「切ってないからな。切らない剣は、欠けにくい。その代わり、差す場所を間違えたら、ただの重い板だ」
「差す場所は、オサムさんの声で分かりました。首の第三節、って言われた瞬間に、もう体が動いてて」
「それでいい。次からは、言われる前に動け」
十体を片付けるまでに、六分かかった。帯の内側には、一体も入らなかった。
レンチを肩から下ろすと、腕の奥に、作業を一つ終えた時とは違う手応えが残っていた。体のどこかで、振れる分が溜まった感触だ。自分の画面を開けば、今の筋力も器用も数字で見える。ただ、溜まった分を振る欄だけが、転移の夜から画面のどこにもない。VGOの頃は画面の端に『ポイントを振る』のボタンがあったが、拠点の全快ができなくなったのと一緒に、そのボタンも気づいたら消えていた。溜まった数を知って、それを振るには、鑑定士の鑑定札に指を当てるしかなかった。
「師匠! 鑑定、させてください! 今の、絶対に何か上がってます!」
工房から、鑑定士見習いのミナが、鑑定札の束を抱えて走ってきた。自分で短く切った赤茶の髪の娘で、ふだんは肩を上げて首を前に出して歩くのに、札を扱う時だけは背筋が伸び、指先が驚くほど落ち着く。彼女は俺の手首に札を一枚当てて、目を閉じた。札の表面に、細い文字が浮かび上がっていく。
【鑑定】
【オサム 人 三十五歳】
【主職 整備長 Lv.101】
【筋力 980 S】
【器用 940 S】
【敏捷 420 B】
【体力 760 A】
【魔力 40 E】
【未振り 24】
「師匠……Lv.が、百一になってます。百一って、ありなんですか」
「ありらしいな。VGOのレベルの上限は、上限解放を済ませても百で止まってた。百一は、十二年で一度も見たことがない数字だ」
「それと、この『未振り』っていうのが、二十四も溜まってます。何ですか、これ」
「振ってない力のことだ。この世界は、勝手に強くはしてくれない。魔獣を倒したり、同じ作業を何日も続けたり、初めてのことをやり遂げたりすると、振れる分が溜まるようだな。溜まった分を、自分で振らないと、数字は一つも増えない」
この三日、重刃を削り出すために、同じ鉄の板を三日続けて叩いた。その鍛錬の分と、今朝の十体の分と、レベルが一つ上がった分だ。俺は札の『未振り』の欄に指を当て、十九を筋力へ動かした。札の数字が、目の前で書き換わった。
【筋力 980 → 999 S(上限)】
【未振り 5】
「九百九十九……! 師匠、これ、上限って出てます」
「ゲームの頃なら、ここが表示の天井だった。それ以上は、何をしても増えなかったんだが」
「残りの五は、どうするんですか」
「取っておく。何に要るか、まだ分からんからな」
レベルが上がったことを知らせる音も、実績の通知も、今度も出なかった。出なくてかまわない、と思えるようになったのが、たぶん十二年で一番変わったところだ。
「整備長。筋力が、上限に到達したと伺いました。おめでとうございます、と申し上げるべきでしょうか」
「申し上げなくていい。上限なら、そのうち外れるだろ」
「……外れる前提で、お話しになるのですね」
「この世界は、ゲームの天井をだいたい外してきてる。ただし、振らなきゃ届かない」
「さようでございますか」
「下がる時は勝手に下がる。上がる時は、自分で振る。……工場と同じだ」
「工場と同じ、でございますか。それでしたら、当機の記録とも合います。最初の九年、整備長がお見えになるのは、決まって夜勤明けの朝でございました。お休みになってからではなく、お休みになる前に、でございます」
「……昔の話だろ?」
「では、今夜の話をいたします。上限に届いた筋力を、整備長は今夜も、横になる以外のことにお使いになるおつもりですね」
「今日は寝る。本当に寝るって」
「その台詞は、記録上――」
「いちいち覚えてるな、お前は!」
「覚えております。当機の仕事ですので」
ノイズはそれきり黙ったが、数えるのをやめたのか、黙って数えているのかは、声だけでは分からなかった。俺はその夜、本当に寝るつもりでいたのに、寝る前に作業台の部品を一つだけ見ておこうと思ったのが間違いで、気づいた時には、明かり取りの窓が白み始めていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
【ギルド視点】
同じ日の午後、グランツ王都の騎士団本部に、貴族院の書記官が二人来た。灰色の長衣に、院の紋を染め抜いた肩布をかけた中年の男たちで、二人とも、騎士団の誰とも目を合わせようとしなかった。
「グランツ騎士団の、備蓄台帳を拝見したい。王城の倉から騎士団へ渡った穀物と、その残りの数を、院として確かめさせていただく」
書記官の言葉に、レオンハルトは礼装の襟を整えながら、いつもの調子で答えかけた。
「問題――」
そこで、声が止まった。問題ない、と言えば次に返ってくるのは数字で、その数字を彼はもう知っていた。備蓄は残り十五日で、団員は昨日より三人減っている。
「……シズク。台帳を出せ」
「はい。こちらが、写しです」
シズクは、あらかじめ用意してあった紙の束を、書記官の前に置いた。書記官は一枚目をめくり、二枚目をめくり、三枚目で手を止めた。そこには、彼女が昨日書き足した「担当の欄が存在しない項目」の写しが挟まっていた。
――三 出撃前の全機の調律合わせ
――四 戦闘後の損傷箇所の記録と優先順位付け
――五 予備部品の規格確認(PL系とRX系の互換表。手書き。現存せず)
「……これは、何の一覧ですかな」
「誰の仕事でもなかった仕事の一覧です。騎士団が王都に来てから止まったものを、わたしが数えております」
「数えて、どうなさる」
「記録に残します。それが、わたしの仕事ですので」
書記官は顔を見合わせ、写しを丁寧に畳んで、自分の鞄にしまった。レオンハルトは、それを止めなかった。止めるための言葉を、もう持っていなかった。
【グランツ騎士団 第41日 稼働騎兵 0/12 王都備蓄 残り15日 団員 286名(前日比 -3)】
【担当の欄が存在しない項目 51】
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【オサム視点】
夕方、バルドが帳簿を抱えて工房へ来た。剣士の二人を護衛に雇った礼を、丁寧すぎるほど丁寧に述べたあとで、彼は声を少しだけ落とした。
「オサムさん。北の商人から、妙な噂を聞いてまいりました。王都では今、『墓場の整備士が、ベヘモスを直している』と言われているそうです。……まだ、直してはいらっしゃいませんよね」
「直してない。脚もないし、魔導炉も止まったままだ」
「では、噂のほうが先に走っておりますね。騎士団長のお耳にも、そろそろ届く頃かと」
工房の奥で、胴体だけのベヘモスが、片膝の形のまま横たわっていた。坑道の支柱にした脚の代わりを作るには、冥鉱が要る。廃坑の、いちばん底にある鉱石だ。
「……噂を、本当にしに行くか」




