第25話 四人目になれ(後編)
【オサム視点】
国境の川床から四日ぶりにザルツへ戻った日の夕方、俺が町外れの工房で隊商の荷を下ろし終えたころに、見習いのヨナが戸口から顔を出した。
「師匠、ちょっと来てもらえますか。杭の外に、人が一人立ってるんです。旗もないし馬もいなくて、さっきからずっと、そこから動かなくて」
外へ出ると、境界杭の向こうに確かに人が立っていた。背が高く、赤い短髪で、頭の上に獣の耳が二つ出ている。腰の後ろで尾が揺れていて、胸甲を着けていない上半身は、筋肉の形がはっきり出ているのに肩の肉が落ちていた。足は裸足で、脇に提げた革靴は、両方とも底から裂けていた。
整備記録の通算は、四千四百二十日。今日が転移から四十日目だった。
「……オサムさん」
ドレイクだった。
十二年、俺はこの男の機体を毎晩直していた。ギルドの戦果報告には、戦闘に出た者の名前と機体の画像が並ぶだけで、整備担当の欄は無かった。欄が無いのだから、誰かが外したわけではなく、最初からそこに入る想定が無かったのだと思う。十二年のあいだに、俺の名前が入った報告は、一度もない。その男が今、裸足で、杭の向こうに立っている。
「あの……雇ってもらえないっスか」
声が、小さかった。この男が小さい声を出すのを、俺ははじめて聞いた。
「乗り手として、まだやれるっス。操縦Bだし、機体の癖も、体が覚えてるんで。……でも、グランツの機体、もう全部止まっちゃってて」
「王都から八百キロある。何日歩いた」
「十五日くらいっス。途中、隊商の荷車に何回か拾ってもらったんで。シズクさんがくれた靴、十日目に底が抜けちゃって」
「それで、裸足で五日か」
「いや、獣人なんで。足の裏は、まあ、なんとかなるっス」
「一緒に出た連中は、先に着いてるぞ。十九人だ」
「……十九人っスか。二十二人で出たんスよ、俺ら」
ドレイクは、裂けた靴を提げた手を、少しだけ握り直した。
「三人は、途中で砂の下っス。一人目は四日目に砂潜りにやられて、二人目は水が足りなくて、九日目の夜に動かなくなって。三人目は俺が担いで歩いてたんスけど、十二日目の朝に、もう息してなかったっス。……みんな、生身の筋力が八十もなかったんスよ。俺もっスけど」
「埋めたのか」
「埋めたっス。手で掘って。……それで、遅れました」
「……乗り手は、足りてる」
「え」
「フィーネがいる。リンもいる。足りてる」
男の喉が動いた。後ろでは、ヨナとミナと、もう一人の見習いが、丸太の上から黙って見ている。三人とも、何も言わなかった。
「……じゃあ、何なら、いいんスか。俺、何でもやるっスよ。荷運びでも、見張りでも」
「整備士が足りん。覚えてから来い」
「え。……え? 俺が、整備っスか?」
「そうだ」
「いやいやいや、俺、整備Eっスよ。たぶんこの世界で、一番下じゃないっスかね」
「俺の生身は、筋力Sで魔力がEだ。Eが一個あるのは、お前と同じだよ」
「……それ、全然慰めになってないっスけど」
「慰めてない。順番の話をしてるだけだ」
俺は工具袋から手帳を出して、めくった。見習いの欄には、ヨナとミナと、もう一人の名前が並んでいる。
「一人前になるまで四千日かかる。見習いはもう三人いるから、お前は四人目だ。四人目になれ」
「四千日って……十年以上じゃないっスか」
「十二年だ。お前は二十四だったな。終わる頃には三十六になる。俺が追放されたのは三十五の時だったから、お前のほうが、一年ぶんだけ余裕がある」
「その計算、ぜんぜん嬉しくないっス」
ドレイクは、裸足のまま、杭の内側を見た。墓場の町だ。鉄屑の山と低い家と、井戸が二つ。一か月近く前、この男は十・五メートルの機体の上から、ここを見下ろしていた。
「……入って、いいんスか。俺、ここに一回、取り立てに来てるんスけど」
「掟がある。捨てられたものは、拾った者のものだ」
「俺、捨てられたんスかね」
「知らん。それは、お前が決めることだ」
俺は手帳に、四人目の欄を作った。名前を書く場所は、空けておいた。
「朝は六時だ。遅れるなよ。靴は貸す」
「……っス。よろしくお願いしますっス」
「返事は『はい』だ。見習いの一日目は、そこからだ」
「……はいっス」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜、俺はドレイクに貸す靴を探して、工房の奥の棚をひっくり返していた。墓場から拾ってきた騎乗靴が三足あったが、どれも左右で大きさが違い、獣人の足に入りそうなのは、右が指一本ぶん大きい一組だけだった。ドレイクはそれを両手で受け取ると、作業台の端に腰を下ろして、工房の中をぐるりと見回した。
「オサムさん。俺、今夜どこで寝ればいいんスか」
「十九人の天幕に入れ。一人ぶんくらいは空いてるはずだ」
「っス。……で、オサムさんは、どこで寝てるんスか」
「そこだ」
俺は、ドレイクが今座っている作業台を、顎で指した。墓場の装甲板を四本の脚に乗せただけの台で、油が一方へ流れるように、わざと水平を出さずに傾けてある。
「……え。これっスか。作業台の上っスか」
「床は冷える。上のほうがましだ」
「いやいやいや、王都の格納庫で十二年、俺らの機体を毎晩直してた人が、作業台の上で寝てるんスか? しかもこれ、傾いてるじゃないっスか」
「頭を高いほうに向ければ寝られる。油の流れと同じだ」
ドレイクの声は、王都の格納庫で鳴らしていた頃の大きさに戻っていて、戻っていたのが悪かった。工房の戸口でヨナが叩きかけの当て板を落とし、丸太の上のガウス爺が、煙管を口から外してこちらを向いた。
「お前さん、まだあの台で寝とったのか。わしはてっきり、長老会の誰かの家に転がり込んどるもんだと思っとったぞ。四十日もだぞ」
「誰の家にも転がり込んでない」
「なら、うちの物置を使え。屋根はあるし、藁も敷ける。わしの寝床とは壁一枚だが、銭は取らん」
「壁一枚か。爺さんのいびきは、軸受けが割れかけた時の音がする。夜中にあれを聞いたら、起きて直しに行っちまう」
フィーネが豆のスープの鍋を抱えて入ってきたのは、ちょうどその時だった。話の途中から聞いていたらしく、鍋を作業台の端に置くと、俺の顔ではなく、台の傾きのほうをじっと見た。
「オサムさん。アストール家の屋敷に、離れがあります。父が書斎に使っていた部屋で、今は誰も入っていませんが、寝台も窓もあります。屋根も、雨は漏りません。……お代は、いりません」
「お代がいらないのが困るんだ。ただで借りたものは、返し方が決まらない。返し方の決まらない借りが、世の中でいちばん高くつく」
「では、払っていただければ」
「いくらだ」
「……それは、考えていませんでした」
荷車の帳簿をつけ終えたバルドが、算盤を提げて戸口に立っていた。商いの匂いがすると、この男はどこにいても寄ってくる。
「宿でよろしければ、私どもの隊商が使う宿が、町の北の外れにございます。一泊十五ヴァル、ひと月まとめてなら三百五十ヴァルで、朝の黒パンが付きます。家をお求めでしたら、隣町に売りに出ている石造りを一軒、六千ヴァルで仲介いたしましょう。手数料は一割頂戴いたしますが、護衛料と相殺でも構いません」
「北の外れから工房まで、歩いて何分だ」
「二十分ほどでございます」
「夜中に格納庫で妙な音がしても、俺が着くのは二十分後か。隣町は話にならん」
ガウス爺が煙管の灰を丸太に叩き落として、もう一つ思い出したように言った。
「なら、長老会の婆さんが言っとった空き家はどうだ。井戸が枯れた時に、南へ出ていった一家の家だ。もう戻らんだろうから、売ってもいいそうだ」
「戻らないって、誰が決めた」
「……誰も決めとらんな」
「なら、買えない。戻ってきた時に、自分の家で知らない男が寝てたら、そいつらが困る」
井戸の縁からは、ミィルが「木の上で寝ればいいじゃない。森霊はみんなそうしてるよ」と言ってきた。谷の縁の木は、俺が乗ったら根元から折れる。そう返すと、彼女は自分の細い腕と俺の腕を見比べて、何も言わずに井戸へ戻っていった。
格納庫の隅では、リンが赤い機体の足元に座ったまま、炭で黒くなった指を布で拭いていた。拭く手を止めずに、顔だけこっちへ向ける。
「つーかさ、拠点は? あんた、拠点どこに登録してたんだよ。全快しなくても、帰還すりゃ、とりあえず屋根の下には出られるだろ」
手癖でメニューを開くと、一番下の欄が、灰色の文字で返ってきた。
【拠点帰還】
【帰還先:未登録】
VGOの頃、俺の拠点はギルドの共用ドックの一番奥、照明が一本切れた個人格納庫だった。拠点を置けるのは所属ギルドの施設か、自分で建てた家だけという仕様で、家を建てる金も手間も、十二年ぶん全部ツギハギに回していた。だから追放の通知をシズクが読み上げたあの夜、所属が外れたのと一緒に、帰還先の欄も消えていたことになる。サービス終了まで四十五分しか残っていなかったから、誰も、俺自身も、そんな欄のことは気にしなかった。
「……未登録って、あたし初めて見たわ。一位の控え室が拠点だったけど、今あそこに帰還したら、たぶん知らない貴族の物置に出るんだろうな」
「お前のほうが、まだましだ。出る先がある」
作業台の奥、壁に立てかけた整備画面のランプが、ちかちかと二度点滅した。
「整備長の、睡眠場所は、記録上、作業台です。四十日のうち、三十一日。残りの九日は、街道と、操縦席と、床です。……腰の、ガタを、ケイコク、します」
「俺の腰は俺が直す。警告は記録しとけ」
「記録、シマシタ。三十二回目、です」
結局、俺はどの話にも乗らなかった。床で足りる、十二年格納庫の一番奥で寝ていたようなものだから壁があるだけ上等だ、と言うと、ガウス爺は鼻を鳴らし、バルドは算盤を一度だけ鳴らして、二人とも帰っていった。ドレイクは借りた靴を胸に抱えたまま、十九人の天幕のほうへ歩いていった。
最後まで残ったのはフィーネで、冷めかけたスープを椀に注いで俺の前に置いてから、戸口で一度だけ振り返った。
「オサムさん。墓場に捨てられた鉄は、拾った人のものです。でも、墓場の土地は、拾えません。町のものです。……管理だけは、アストール家の仕事ですから。もしいつか、建てたくなったら」
返事を待たずに、彼女は夜の通りへ出ていった。
スープを飲み終えてから、俺は工房の裏へ出て、谷の縁を見た。月の下で鉄屑の山が錆の色を消していて、その手前、地下格納庫の扉を埋め戻したあたりだけが、掘り返した土の分だけ少し低かった。十六段の梯子の下には、十二年毎晩くぐった扉と同じ規格の扉があって、継接が膝を折って座っている。帰る場所と呼べるものがあるとしたら、たぶん、あの下だった。
作業台に戻って、頭を高いほうに向けて横になる。帰還先の欄は、その夜も、未登録のままだった。




