第17話 仕様書は、乗る奴が書き足す
その夜の焚き火は、枯れた灌木の枝で熾した。
パチッ、と爆ぜる音が、砂の上でやけに乾いて聞こえる。魔晶石は、煮炊きにも暖にも使わない決まりだった。拾える枝で済むことは、枝で済ませる。
ミィルは干した果物を、一粒ずつ、数えるように噛んでいた。十二号は火から離れた砂の上に、背筋を伸ばして立ち、星の位置を測るようにして夜空を見ている。食わない、眠らない、暖も要らない。焚き火を囲む三人とは、別の時間の流れ方をしていた。
フィーネは膝の上に袋を置いたまま、手を入れていなかった。
「食わないのか」
「いただきました。先ほど、乾パンを半分ほどは」
「半分で足りるのか、お前の体は」
「騎乗者は少食ですから。長く乗る人間は、胃が小さくなるんです。体が、乗る時間に合わせて変わりますから」
それらしい理屈だった。理屈としては、確かに聞いたことがある。ただ、聞き覚えがあるのは、乗り手が飯を抜く時に、決まって出てくる言い訳としてだった。
俺は袋の紐を解いて、中を数えた。
乾パンが二つ、干し肉が一切れ。九日分のはずの袋に、二日分も残っていない。道端の転移者の青年に渡した分を引いても、減りが早すぎる。町を出る前に、誰かへ分けていたのだ。
「フィーネ」
「はい」
「この袋の底に、何が見える?」
「……袋の底です」
「整備士の言葉で言う。これは、規定量を割った油圧オイルだ。入れ足しをしないまま走らせて、焼き付くまで気づかない」
自分の袋から乾パンを一つ出して、半分に割った。割り口が粉を噴いて、焚き火の光の中で白く舞った。片方を、彼女の手に載せた。
「お前の言う少食は、俺の知ってる少食と違う。いいから食え。今、ここで」
「でも、オサムさんの分が」
「俺は整備士だ。燃料の残量は、自分の分から先に把握してる。足りる」
彼女は、手の中の欠片を、しばらく見下ろしていた。
それから、前歯で端を削るようにして、小さく噛んだ。飲み込むのに、ずいぶん時間がかかった。
明日の朝までに戻るのは、せいぜい半日分だ。三日分の借りが、一晩の半分の乾パンで返せるわけがない。
それは分かっていた。分かっていて、今日できることを、今日のうちにやった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
四日目の朝、風向きが変わった。
砂が舞い上がる向きが逆だ。地面を打つ音が、足の裏から上がってくる。
ドッ、ドッ、と、低くて重い、間延びした拍子だった。腹を砂に打ちつけている音だと、すぐ分かった。
「ミィル、水を呼ぶな」
「えっ、なんで」
「水の気配に寄ってくるやつがいる。砂潜りだ。原作だと、砂漠の序盤に出る小物だが」
「そ、そんなに弱いの?」
「弱い。ただし、五体以上でかかってくると、騎兵の足首を持っていく。膝から下を噛まれたら、機体はその場で釘付けだ。こんなところで足止めされちゃかなわんからな」
砂潜りは、Lv.18前後。砂漠街道の序盤で稼がれる敵だった。素材の顎板は安い鋼板の代わりに掲示板で買い叩かれていて、誰も、こいつが機体の足首を持っていく敵だとは書いていなかった。レベル表の数字に、足首は載っていない。
俺はミィルの膝の上から水袋を一つ取ると、留め紐をほどいて、隊列から四十メートルほど離れた砂丘の斜面へ放った。袋は斜面で跳ね、口を下にして転がって、乾いた砂に黒い染みを広げていく。原作の図鑑には、砂潜りは震えと水の両方に寄る、と一行だけ書いてあった。誰も読まない欄だったが、十二年、俺はそれを読む側だった。二日前の夜に地図へ書いた三つの丸は、一つ目が干上がって窪みしか残っておらず、二つ目だけが当たって、桶に三杯の水をくれた。その一杯分を、今、砂丘に捨てている。足の裏に来ていた震えの半分が、黒い染みのほうへ流れていくのが分かった。
ノイズの声が、肩の通話口から入った。
「整備長。地下に、複数の反応。数は、特定できません。一体は、すでに右足首の真下です」
「フィーネ! 止まれ!」
「止まってます!」
返事はすぐ来た。ただ、その声が、昨日の声と違っていた。
右足首の装甲が、ガンッと一度、下から叩かれた。
次の瞬間、砂が大きく割れて、六メートルほどの甲殻の塊が、継接の足首に食いついた。砂色の斑の背中、二枚の顎板が鋏のように閉じて、関節の油圧管の手前で止まっている。
引きずり込む力が、足首を通して脚全体に伝わった。
ツギハギが、ぐらりと右へ傾く。
「フィーネ! 左で支えろ!」
「はい!」
彼女の返事は、確かに来ていた。
だが、左足が出るまでに、ほんの少しだけ間があった。操縦桿を握り直す、ほんの短い間だ。ふだんの彼女なら、そんな遅れ方はしない。
肩の上から、操縦席の窓越しに横顔が見えた。
顔色が、紙のようだった。額に汗が浮いて、手袋の指が小刻みに震えている。握りが、浅い。
満腹度を、見るまでもなかった。
三日分の借りが、そのまま手の握りに出ている。
「ノイズ、フィーネの反応遅延は」
「現在、通常比で、約〇・四秒。昨日の同時刻の、三倍です」
「分かった。それ以上は言うな」
右足首が、沈み始めた。
このまま四体が脚に取りついたら、ツギハギは砂の中に引き倒される。倒れてしまえば、顎板は腹の下の継ぎ目へ回る。整備士なら、そこがいちばん柔らかいことを知っている。
俺は、肩の荷縄を解いた。
「フィーネ、ハッチを開けろ」
「えっ?」
「代われ。立ち上がらなくていい。横へ出て、ミィルに預けろ」
「オサムさん、でも、あなたは操縦Eでは」
「Eだ。だから、動かさない。座るだけだ」
ハッチが開く。熱い空気と、乾いた革の匂いが一緒に出てきた。
フィーネは何か言いかけて、結局、唇を噛んだまま、シートのベルトを外した。体がふらついた。細い腕を、俺が脇の下から支えて、肩の上のミィルへ手渡した。軽かった。軽すぎて、手に残る感触が、鉄の板みたいだった。
シートに腰を下ろす。座面が、まだ彼女の体温を残していた。
操縦桿を握る。冷たくて、細い。俺の手には、ほんの少し小さい。
ノイズの声が、少しだけ硬くなった。
「整備長。搭乗者の切り替えを、検知。――搭乗者反映、読み込み中」
視界の端に、数字が並んだ。
【搭乗者反映:筋力980/器用940】
【総合出力:S】
仕様書の一行だった。XG-00ツギハギの欄に、十二年前から書いてあった。
攻略wikiの評価欄には、『標準的な搭乗者では最弱。ネタ機体』とあった。標準的な搭乗者、というのは、生身のステータスを振っていない普通のプレイヤーのことだ。
乗ったことはない。乗せたいやつがいなかった。生身に極振りした整備士なんかを、騎兵に乗せようとするゲームはないからな。
足首の下で、砂が崩れた。
「整備長。右足首、顎板の挟み込み、継続。左足は、支持可能です」
「分かってる。動かすな。まず、音を聞く」
「聞く、とは」
「踏む。左足で、一度だけ。地面を叩く」
左足を、持ち上げた。
操縦桿を倒した指に、機体が応える。応え方が、さっきまでと違った。重い鉄が、俺の手の動きにそのまま乗ってくる。遅れも、迷いもない。
足裏が、砂を打った。
ドンッ。
地面の中に、音が潜っていった。
足裏のセンサーが、返ってくる反響を拾って、ノイズが数字に直す。
【反響:地下 2.6m/3.4m/4.1m/4.9m/5.7m】
【個体数:5】
「整備長は、いま、機体をソナーとして、お使いになりましたか?」
「そうだな、しっかり聞こえるな」
「仕様書には、書かれていない用途です」
「仕様書は、基本だ。乗る奴が用途を応用で書き足すもんだ」
右足首を噛んでいる一体は、いちばん浅い。
打音の返りは、顎板の付け根で鈍い音になっている。蝶番の部分が、甲殻より薄く、それが他の四体にも共通していた。
叩いて分かるなら、そこだけを外せばいい。
「右手、前へ。握れ」
操縦桿を押す。ツギハギの右腕が、前に出る。
だが出すぎた。
右肩がぐんと突き出て、勢い余った手が、足首の少し手前の砂を掴んだ。砂が、指の隙間から零れた。
操縦Eは、こういうことだ。
「オサムさん! そこじゃありません、もう少し奥です!」
ハッチの上から、フィーネの声が降ってきた。
彼女は、ミィルに腕を取られたまま、ハッチの縁から身を乗り出して、必死に指さしていた。
「顎の付け根、蝶番です! 足首より、握り二つぶん奥!」
「握り二つだな。分かった」
「そこで握って、右へ半回転。左じゃ駄目です、右に切ってください!」
彼女は、目が覚めたように、細かい指示を出していた。
腹は空いていても、騎乗者の目だけは、止まっていない。
俺は、操縦桿を、握り二つぶん、手前へ引いた。
ツギハギの右手が、顎板の蝶番を、挟んだ。
握る。
甲殻が、ミシ、と鳴った。
半回転。ベキッ。
顎板の片方が、根元から外れて、砂の上に転がった。
外れた蝶番の奥から、薄い緑色の体液が、一筋だけ流れる。残った一枚が、ばたりと開いたまま、動かなくなった。
それで足首が、自由になった。
足の裏から、砂の割れる気配が四つ、同時に上がってきた。
左右から二体、背後から二体。どれも顎を開いている。狙いはもう足首ではなく、脇腹の継ぎ目だ。
受けるのは、左の腰から腿。
ここは、装甲が厚い。一番厚い場所は、左の第三装甲、六十二ミリだ。
「避けるぞ」
自分に言い聞かせた。避けられるなら、避けている。操縦Eは、避けられない。受ける位置を、選ぶしかない。
左足を半歩、前へ出して、腰を右へ傾ける。第三装甲を、噛みつきの前へ差し出した。
ガンッ。
顎板が、装甲に噛みついた。
六十二ミリの鉄は、顎板の先端を受け止めて、動かなかった。逆に、顎の側の甲殻に、ヒビが走る。噛んだ力のぶんだけ、自分の顎が割れた。
ツギハギの左肘が、勝手に動いた。
筋力980は、そのまま腕の速さになる。振り下ろした拳は、背の真ん中ではなく、さっき打音で拾った甲殻の継ぎ目の線の上に落ちた。ベコッ、と背甲が凹んで、その下で何かが潰れる音がした。
残りの三体が、一斉に退いた。
砂の下に潜って、ドッ、ドッ、ドッと腹を打つ音を遠ざけていく。
やがて、足の裏に伝わってくる振動が、完全に消えた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「オサム、見て! あれ、あれ!」
ミィルが肩の上で飛び跳ねていた。
十二号が、ツギハギの足元で、胸の札に手を当てたまま、じっと見上げていた。
「……お見事にございます」
「お前、見てたのか」
「はい。九日歩いて参りましたが、騎兵が足下の音を聞くのを、はじめて見ました」
俺は操縦席から立とうとして、膝に力が入らないのに気づいた。
腰の奥が熱い。腕が、小刻みに震えている。力を出していたのは機体なのに、体の芯が空っぽになっていた。
【満腹度 58/100】
十三も、減っていた。
機体を動かすのは、乗り手の腹も食うのか。
「整備長」
「なんだ」
「搭乗者反映について、記録を更新します。――当機の性能は、乗り手のステータスに、完全に従います。フィーネ・アストール様で、B相当。整備長で、S相当」
「聞かなくても分かってる」
「その上で一点、申し上げます。整備長の操縦技術は、E相当です」
「それも分かってる」
「着地は、必ず、左足からお願いします。右足首は、先ほどの噛みつきで、〇・五ミリ、ずれています」
「それは先に言えよな」
外へ出ると、フィーネが肩の上で、膝を抱えて座っていた。
最初に彼女が見たのは、俺の顔でも、ミィルでもなかった。
ツギハギの右足首だった。
「ずれは、〇・五ミリですか。今日中に、直せそうでしょうか?」
「直せる。だが、まず飯だな」
彼女の目が、ようやく俺に向いた。
「お前、昨日の晩、乾パンを半分しか食ってないな」
「……すみません」
「謝るな。点検項目を一つ、飛ばしただけだ。次から入れろ」
俺は、袋の乾パンを一つ割って、半分を彼女の手に載せた。
彼女は、受け取ってから、両手で持ったまま、しばらく動かなかった。それから、小さな口で、噛んだ。
咀嚼の音が、風の合間に聞こえた。
「……おいしい、です」
「ただの乾パンだ」
「ただの乾パンが、こんなに、おいしいなんて――」
「腹が減ってりゃ、誰だってそうなるもんさ、ガス欠じゃまともに戦えやしない」
ミィルが、横から身を乗り出した。
「あたしのも、半分あげるよ!」
「お前は自分のを食え。百二十歳でも、身体は十歳くらいだろ」
「でも、あたし、食べなくても三日は平気だよ?」
「三日経ってから倒れられる方が、いざというとき困る」
三人で、干し肉を分けた。
十二号は、少し離れた場所で、背筋を伸ばして立っていた。食事の時間というものを、見るのがはじめてらしかった。スリットが、ミィルの手元と、フィーネの口元を、交互に追っている。
「お三方が、そのように、物を召し上がるのを見るのは、不思議な心地にございます」
「不思議か」
「はい。我らは、食わぬゆえ、食わぬ者同士で同じ時間を過ごします。しかし、お三方は、食う時間のたびに、顔つきが、変わります」
彼は、少し間を置いた。
「……生きておられる、ということにございますな」
俺は、干し肉を噛みながら、答えなかった。
答える前に、風の向きがまた変わった。
十二号の首が、ぴたりと止まった。
彼のスリットが、南の地平を向いている。細い光が、一本の線のように、遠くを見ていた。
「あれは」
砂の稜線の向こうから、細く黒い煙が、一本立ち昇っていた。
太さは一定で、動かない。風に流されない煙だった。
「機都の、方角にございます」
声が、はじめて平坦でなくなった。
「出立の折には、あのような煙は、ございませんでした」




