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一 : 慶長四年 - (7) 家康の勧め

 自らの天下獲りへ向け存在感を高める家康に、他の大老達も対抗する動きを見せ始めた。

 慶長四年六月十五日、毛利輝元は秀元に対し穂井田元清の旧領を与え、隆景の旧領を毛利宗家が接収する裁定を下した。輝元・秀元・吉川広家の三者が納得する合意に無事達した一方、家康による内政干渉は当主たる輝元にとって気持ちの好《い》いものではなかった。

 そして――時は移ろい、八月。大坂城で行われる定例の大老合議の席で、家康からある提案がなされた。

「皆々様に於《お》かれましては、昨年夏に太閤殿下が体調を崩されて以降ずっと畿内に滞在せざるを得ない状況が続いておりましたが、ようやく政情も落ち着きを取り戻した事で常駐する必要性は失われました。如何《いかが》でしょう、一度国許(くにもと)へ戻られては?」

 ニコニコと人の好《い》い笑みを湛《たた》え勧めてくる家康。あくまで親切心を前面に押し出している態《てい》だが、腹の中は違う。邪魔者を一刻も早く畿内から排除し足場固めをしたい、そんな魂胆《こんたん》が透けて見える。

 ただ……家康の企図《きと》を知りながらも、帰国を優先したい事情を各々が抱えていた。

 宇喜多秀家は年初の騒動で離反した家臣領の接収、毛利輝元は前述した秀元への割譲移行を、そして上杉景勝も入封《にゅうほう》直後の上洛要請で手付かずな内政に一刻も早く着手したい切実な状況だった。

「内府様は如何《いかが》されるお心算《つもり》ですか?」

 そう質《ただ》したのは前田“権中納言”利長。永禄五年一月生まれで三十八歳。若年期は信長に近侍《きんじ》していたが、本能寺の変後は父・利家の麾下《きか》についた。慶長三年四月二十日に利家の隠居に伴い家督を相続するも、家中運営は引き続き父が握っていた。或《あ》る老賢者曰(いわ)く『前田中納言様は父君《ちちぎみ》が後半生で得た分別《ふんべつ》を、能登守(利家次男・利政《としまさ》)は前半生の気性《きしょう》を、それぞれ継承なされた』と評した通り石橋を叩いて渡る慎重居士《こじ》だった。大老就任から最も日の浅い利長は普段合議の席で発言する事を控えていたが、年齢も格も遥かに上の家康へ際どい問い掛けをする事自体勇気の要《い》る行動だろう。

 利長は天正十三年の佐々征伐の論功行賞で越中射水(いみず)・砺波《となみ》・婦負《ねい》郡三十二万石を与えられ、領地を接する上杉景勝とも一定の交流があった。兼続も公の場で不言《ふげん》を貫く主君に代わり遣《や》り取りを交わしていたので、知らぬ仲ではない。

 一瞬ピリついた空気になるも、家康は表情を変えず鷹揚《おうよう》に答える。

「私は亡き太閤殿下より天下の仕置を任された身。伏見に残り、引き続き政《まつりごと》を執り行う所存」

 やや残念そうな雰囲気を匂わせる家康だが、嘘だ。秀吉の死後、天下人に最も近い存在なのは大老筆頭たる家康であるのは明白。天下の仕置は大老五名の合議で決定されるものと定義され、筆頭の位にあれど他四名の反対があれば否決される。自らの権限を恣《ほしいまま》にする為にも、目の上の瘤《こぶ》な他の大老達を是が非でも国許へ帰したい筈だ。

 家康の独走は阻止したい反面、帰国したい思いは強い。葛藤で黙り込む四名で真っ先に声を発したのは、意外にも景勝だった。

「……では、内府様の御好意に甘えさせて頂こう」

 滅多に喋らない景勝が亥の一番に同意を表した事に他の三名は大層驚いた。上杉家は会津へ移封して間もなく上洛を強《し》いられた。統治の方針や施策の検討すら未着手で、家中の内輪揉めが発端の毛利・宇喜多家とは問題の次元が異なる。家康を野放しにする危険は理解しつつも背に腹は代えられなかった。

 稍《やや》あって秀家・輝元も家康の提案に応じる旨を表明し、残る利長も三名に倣《なら》う形で呑んだ。四名が受諾した事に家康は至極満足そうにうんうんと頷いた。

「良き哉《かな》良き哉。皆々様が領国へ戻られている間は私がしかと睨みを利かせておきます故《ゆえ》、万事お任せあれ」

 大船に乗った気分で引き受ける家康の姿に、陪席する兼続は「胸裏《きょうり》でさぞ北叟笑《ほくそえ》んでいるのだろうな」と穿《うが》った見方をしていた。


「一先《ひとま》ず、内府の理想的な展開になりましたな」

 上杉家の屋敷に戻った主従は、真っ直ぐ景勝の部屋に入り密談へ移った。兼続から水を向けられた景勝は「うむ」と短く応える。

 家康からすれば目障《めざわ》りな大老共を畿内から追い払い“せいせいした”と思っているだろうが、上杉家は違う。正当な理由で会津へ帰り、近い将来に起こるであろう家康との決戦に向けた準備に取り掛かれる。その証拠に大坂の上杉屋敷ではいつ帰国の命が出ても大丈夫なよう秘かに支度が進められていた。

「一両日中には大坂を発《た》てる手筈は整っております。それから、秀頼公へ拝謁する段取りも奉行衆との間で擦り合わせ中です」

 会津百二十万石・大老の格にある上杉景勝が帰国するとなれば、相応の陣容を揃え段階を踏む必要がある。煩《わずら》わしい人員手配や豊臣家との調整は兼続が一括で担い、景勝は決まった流れに従うだけだ。

「……畿内には、誰を残す?」

 景勝の問いに、兼続は即答する。

「千坂対馬守殿に、引き続き伏見留守居役をお願いしようかと」

 秀頼の大坂移徒で大多数の大名が伏見の屋敷を引き払う中、上杉家は家康が在中している事から景親など若干名を残していた。兼続とはまた別の交渉窓口を持ち情報収集能力に長ける景親に畿内の動静を探らせる任を託す腹積もりだった。景勝も景親の人物像や能力を高く評価しており、適任だと無言で頷く。

「殿には出立《しゅったつ》まで御手数をお掛け致しますが、何卒《なにとぞ》ご容赦を。大老に列する者に相応しい格を保つ為に必要な事です故《ゆえ》」

「……分かった」

 已《や》むを得まいと了解する景勝。承諾された兼続はその日の内に帰国に向けた手続きに移った。

 慶長四年九月三日。主君・豊臣秀頼に帰国の挨拶を済ませた景勝は会津へ向け大坂を出発。大坂と伏見に若干名の留守居を残し、大半の者は帰国の途に就いた。

(次に畿内へ帰って来る時は、勝って堂々と)

 多くの家士《かし》が政治・文化の最先端を行く京・大坂へ名残惜しそうな視線を送る中、一切の未練を匂わせず兼続は胸を張って前を見据えている。必ず、成し遂げてみせる。その心中は大いなる野望の炎が燃え滾《たぎ》っていた。


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