一 : 慶長四年 - (6) 毛利家の智嚢
慶長四年五月、加藤清正や福島正則など“武断派”と呼ばれる諸将は先の朝鮮の役で戦功が正しく伝えられてない疑いがあると公儀に訴え出た。これを受け家康が主導する形で再調査が行われた結果、慶長二年十二月から翌年一月にかけて繰り広げられた蔚山城の戦いで歪曲された報告がなされたと認定し、不正を働いたとして当時の軍目付だった福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・太田一吉の四名へ改易・蟄居処分が言い渡された。しかし、当該の報告は捻じ曲げられたと覆す程ではなく、あくまで現場と事務方の解釈の違いだった。それでも処罰されたのは長堯と直盛が三成の父・石田正継の娘を娶っていた事から三成に近い存在と受け止められ罰せられた見方が強い。
家康が徐々に独自色を出し始める中、兼続も強大な敵を倒すべく秘かに動き出していた。五月下旬、兼続は天王寺に向かった。“寺”と付いているが地域名である。推古天皇元年〈五九三年〉、聖徳太子の創建で我が国最古の官寺である四天王寺が造られた事から一帯は“天王寺”と呼ばれるようになり、その後は様々な宗派の寺院が建てられ仏教の街として発展した。
ある寺に着いた兼続は門前の稚児へ訪いを告げると、本堂へ案内される。釈迦如来の本尊像に見守られ、小坊主が運んできた白湯を飲みながら相手の到着を待つ。
上杉家の家宰たる兼続は政務や外交で繁忙な日々を送る。俗世から隔離された静寂の時は日々酷使してる頭や心を休められ、何よりの持て成しだった。
穏やかな気持ちで五感に集中していた兼続は、廊下からこちらへ歩いてくる足音が聞こえた。瞬時に公の顔に切り替え、相手を迎える姿勢になる。
「やぁ。お待たせしましたかな?」
開口一番に相手は飄々とした話し振りで問い掛ける。桔梗色の法衣に身を包み、中背痩せ型に特徴的な丸刈りの大頭な年嵩の男性。
「なぁに。久しく忘れておりました無心に浸っていましたらあっという間です」
朗らかに返した兼続へ「それは良かった」と男性が声を上げる。
「しゃかりきに働くのもよろしいですが、偶に手を止め自然に身を委ねるのも大切ですぞ」
「まるで大師のような語り口ですな、御坊」
「世俗にどっぷり浸かっておりますが、これでも一応得度を積んでおります故」
兼続が揶揄うと、男性はニカッと笑う。腰を下ろした男性は案内してくれた僧へ告げる。
「拙僧は般若湯を」
男性の求めに黙礼した後、下がっていく僧。完全に去ってから兼続は質す。
「仏に仕える身で酒を口にするのは戒律破りでは?」
それに対し、男性は毅然と返す。
「酒に呑まれるのは自らを律する仏の道から外れますが、智恵が浮かぶのを後押しする目的で摂取するのは禁じられておりません。加えて、酒は“百薬の長”ですから」
理路整然と弁ずる男性に、兼続は苦笑を浮かべるのみだった。
安国寺恵瓊、天文六年〈一五三七年〉(天文八年〈一五三九年〉とも)生まれで六十四歳。安芸武田家に生を享けるも、天文十年に毛利元就の侵攻で御家は滅亡。家臣の手引きもあり安国寺(不動院)へ入山した恵瓊は幼少だった事もあり助命された。その後、京・東福寺へ移り竺雲恵心を師事し仏の道に邁進する。
恵心は当時の毛利家当主・隆元から特に頼りとされ、毛利家の相談役兼外交僧として深く関わっていた。高名な僧が戦国大名と繋がりを持つのは珍しい事ではなく、その智嚢から優れた助言を得るのみならず僧侶間で独自の組織網を有し互いに情報を交換していた点・仏僧に危害を加えるのは禁忌とされたのを活かし第三者の立場で使者に遣わされる点などが挙げられる。代表的なのは織田信長に沢彦宗恩・伊達政宗に虎哉宗乙などだが、特に有名なのは今川義元の勉学の師だった太原雪斎で、その才を買われ義元の参謀と同時に今川家の一武将として軍勢を率いた程である。恵心の手伝いを通じて恵瓊も毛利家に関与するようになり、永禄元年に恵心が京へ戻ると恵瓊がその役目を引き継いだ。
毛利家の外交僧になった恵瓊は大名家や足利将軍家と行き来を重ね、次第に重用されるようになる。難しい交渉を幾つも成立させ毛利家に貢献したのもあるが、恵瓊自身が有能だった点も大きかった。天正元年十二月、毛利家の家臣に宛てた書状の中で『信長はいつか高転びするように見受けられる。(織田家中でも)藤吉郎はなかなかな奴だ』と記しており、飛ぶ鳥を落とす勢いにある信長の横死と秀吉を将来有望株と見抜いた恵瓊の優れた人物眼を象徴する逸話である。豊臣家へ友好的な姿勢から秀吉より知行を得る一方、毛利家重臣として輝元を支えていた。
「さて。拙僧へ内密にお会いしたいとの申し出でしたが、どういう用向きですかな?」
運ばれてきた徳利から茶碗に中身を注ぎながら、恵瓊がサラリと切り込んできた。
今日対面の場として兼続が指定したのは、摂津にある安国寺。そもそも安国寺は貞和(“ていわ”とも)元年〈一三四五年〉に光厳上皇の院宣で室町幕府初代将軍・足利尊氏とその弟・直義により利生塔と共に全国に建立された。これは天平十三年〈七四一年〉に聖武天皇が度重なる災害や天然痘の蔓延に国家鎮護を目的に建立された国分寺を参考に、鎌倉幕府討幕より始まった争乱で疲弊した国や民を鎮める為に実施したのだが、諸般の事情で新設されず既存の寺を指定し改修する事でお茶を濁したものも多かった。国は異なれど安国寺の僧である恵瓊と秘かに会うならば恰好の場所だろう。
その矛先を躱すように、兼続はゆったりとした口調で訊ねる。
「毛利家には日頼洞春(毛利元就の戒名)様より『天下を望むべからず』との遺訓があるとお伺いしておりますが、事実でしょうか?」
唐突な質問に恵瓊は即座に「然り」と認める。
弘治三年〈一五五七年〉十一月二十五日に毛利元就が嫡子・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景に宛てた文書(通称“三子教訓状”)の中で、『毛利の名を廃れさせぬ事こそ第一』と挙げ、元春・隆景には兄たる隆元を支えると共に三兄弟が不仲になれば『皆滅ぶ』と忠告した。隆元は永禄六年〈一五六三年〉八月に四十一歳の若さで急逝するも、隆元の嫡子・幸鶴丸(現在の輝元)を“毛利両川”と称された元春・隆景の叔父二人が後見する体制を敷き今日に至る。
元就は安芸の弱小国人だった毛利家を中国地方の覇者にまで押し上げた英邁だが、息子達には『勢力維持を優先せよ』と伝えている。天下獲りは御家を滅ぼす危険が伴う。自らの後継者がその器があるか分からぬ以上、下手な博奕を打つより手堅く勢力を維持すべきと説いたのだ。その方針は孫に当たる輝元にも踏襲され、紆余曲折ありながら秀吉に友好的な姿勢を示した事で“西国の雄”たる地位を確立し元就の頃より版図を拡げている。
「して、此度の密会と如何なる結び付きになりますかな?」
話を本題へ戻した恵瓊に、白湯を一口含んだ兼続は徐に口を開いた。
「近頃の内府の動きについて、御坊はどう思われてますかな?」
内府の単語を耳にした瞬間、恵瓊の肩がピクリと反応するのを兼続は見逃さなかった。
表面上は平静を装いながら恵瓊は答える。
「……大老筆頭の身として、精力的に政へ勤しんでおられるな、と。それ以上でも以下でもございません」
「それはどうでしょう。風の噂だと、内府様が毛利家中の懸案に口を挟まれたと聞いてますが」
逸らかそうとする恵瓊に対し、そうはさせまいと兼続が畳み掛ける。痛いところを突かれた恵瓊は口を噤む。
今、毛利家はある火種を抱えていた。毛利家一門・毛利秀元の処遇問題である。
毛利輝元は永禄十一年〈一五六八年〉十一月に南の大方を正室に迎えたのを端緒に複数名の側室と関係を持つも、跡取りたる男児に恵まれなかった。そうした中、文禄二年〈一五九三年〉八月に待望の実子を授かった秀吉が、扱いに困っていた縁者で猶子の秀俊を毛利家の養子にする案が浮上。この動きを機敏に察知した毛利家と懇意にしている黒田如水が小早川隆景に相談、隆景は秀吉へ「秀俊様を是非我が跡継ぎに」と申し出たのだ。小早川家を犠牲にする事で本家の毛利家乗っ取りを阻止した形で、嫡子不在の状況に危機感を抱いた輝元は元就の四男・穂井田元清の嫡男・秀元を養嗣子に据え後継問題を解消させた。
しかし――文禄四年十月、輝元の側室・二ノ丸殿が男児を出産。毛利家にとって大変目出度い話である一方、秀元の立場が一転宙に浮いてしまった。秀吉公認の世子だった秀元は御家の分断を避ける為に継承権を放棄、代わりに別家となる事で手打ちとした。ところが……父の遺領を相続したい秀元・自領が対象となっている吉川広家・隆景死去後に空白となっていた三原領を接収したい輝元の三者で思惑の相違が発生し、分配する地を巡り紛糾する事態になった。
慶長三年八月、死の床にある秀吉が『秀元へ出雲・石見(石見銀山を除く)、広家に隆景遺領を代替』の案を示すも、輝元を含めた三者はその裁定に納得せず。その後秀吉が薨去したのもあり、この案は握り潰された。今年一月には豊臣家の取次役たる石田三成が『秀元に出雲・伯耆・隠岐、広家は隆景遺領へ転封』する案を提示したが、こちらも三者が納得せず無視した。打開策が見つからない中、閏三月に三成が失脚。四月に入り家康が新たな配分案を示したのだ。三成失脚の混乱渦中に輝元は家康へ起請文を差し出し接近していたが、明らかな内政干渉に警戒感を露わにした。
家康が毛利家中を掻き乱そうとしているのは明らかで、輝元としてはこれ以上の介入を食い止めるべく早期の幕引きを目指し調整している最中だった。
沈黙を肯定と解釈した兼続は言葉を継ぐ。
「内府が大老筆頭の座で大人しく満足されるとは到底思えませぬ。天下を我がものにせんと、必ず仕掛けてくる事でしょう。そうなれば、大領を持つ毛利家へ矛を向けるのは火を見るよりも明らか。御坊、危機が迫っていると知りながら静観するお心算ですかな?」
水を向けた兼続に、深く息を吐いた恵瓊は奥歯に物が挟まった言い方で返す。
「……山城守殿の申されること、御尤も。なれど、毛利家も色々な考えを持つ者が居ります故」
言葉を濁す恵瓊。その表情は苦悶とも不快とも捉えられるように歪んでいた。
嘗ては“毛利両川”と呼ばれた吉川元春・小早川隆景が当主・輝元を後見する盤石の体制が機能していたが、歳月の経過と共に変化が現れた。本能寺の変で信長が横死し織田家中の主導権争いが勃発した折、中国攻めで苦い思いをさせられ秀吉に嫌悪感を抱いていた元春は柴田方に、秀吉の才覚を高く評価していた隆景は羽柴方に、それぞれ付くよう主張。直接の影響を受けない事から毛利家は傍観に徹し、賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると羽柴家と友好的な関係を築く方針へ舵を切った。この過程で秀吉から心象の悪い元春は一線から退き、逆に秀吉から厚遇された隆景は家中の主導権を握るようになった。元春・隆景の兄弟間で勢力争いをした訳ではないにせよ、隆景や羽柴家との折衝を任されていた恵瓊が重用され元春や譜代の家臣達が冷や飯を食わされる構図が生まれてしまったのである。
状況がさらに動いたのは、慶長二年。毛利家重鎮として輝元を支え続けた隆景が六月十二日に死去。“秀俊”から改名した“秀秋”が家督を継いだ小早川家は毛利家から独立し、不遇を託っていた吉川広家や譜代の臣達の発言権が徐々に回復したのだ。広家達は隆景や秀吉の威光を背に権勢を振るっていた恵瓊を恨んでおり、恵瓊も“時勢の読めぬ輩共”と蔑視していた為、毛利家中は“広家派”と“恵瓊派”で深刻な対立が生じていた。五大老の一人として豊臣家を下支えする立場の輝元は恵瓊を頼りとするも、広家達は“次の天下人は家康”と目し徳川家へ接近すべしとする考えを持っていた。
「心配御無用。御坊が安芸中納言様の手綱をしっかり握って下されれば何の問題もございません」
事も無げに言い切る兼続へ、渋面の恵瓊。その顔には『他人事だからと簡単に言いおって』と明確に書かれていた。抗議する態度に兼続は意に介さず、続け様に囁く。
「御坊。毛利と上杉で天下を山分けに致しませんか?」
俄かに飛び出した衝撃発言に、海千山千の恵瓊も思わず虚を突かれる。しかし、兼続が景勝へ披露した家康排除後の国家構想を滔々《とうとう》と語る内に、恵瓊の目の色も変わってきた。
恵瓊は毛利家の外交僧ながら、豊臣家より所領を与えられた大名でもある。自らの交渉能力で今の地位に昇り詰めた恵瓊は、強い向上心と高い功名心の塊みたいな人物だ。理路整然と利を説けば、必ず恵瓊の中にある野心の炎が燃え上がる。そこまで兼続は読んでいた。
「……毛利と上杉の二柱が手を携えて豊臣家を支える。とても素晴らしい話ではありませんか」
ホゥと息を吐いた恵瓊は、率直な思いを述べる。兼続の示した案が実現すれば、毛利家の地位は飛躍的に高まる。それに付随し恵瓊の毛利家中での影響力も確固たるものとなる。正に良い事尽くしだ。
ただ、兼続にはどうしても恵瓊に確認しておきたい事項があった。
「御坊、一つお伺いしたい」
「何ですかな」
「安芸中納言様に、微々でも天下を望むお気持ちはお在りですか?」
真剣な表情で迫る兼続。
この計画で懸念すべき最大の点は、輝元が“豊臣家大老筆頭の座で満足するか否か”だ。今は家康の天下獲りを阻止する為に共闘しても、徳川家を滅ぼした後に輝元が豊臣家に成り代わり武家の頂点に立つ野望を抱かないとも限らない。そうなった場合、“上杉と毛利を軸に豊臣家を支える”構想が根底から覆る。豊臣家による天下泰平は輝元に天下を欲する野心が皆無である事こそ前提条件だった。
兼続の憂慮に対し、恵瓊は静かに首を振る。
「先に山城守殿が述べられました日頼洞春様の遺訓もそうですが、一度は滅亡の危機に瀕した経験から殿は今の版図や大老の格に満足しておられます。あくまで拙僧の見立てながら、全てを擲ち一世一代の大勝負に出る程の気概は持ち合わせておられぬかと」
後半の発言だけ聞けば『輝元は博奕を打てない軟弱者』と解釈出来るが、本質は違う。元就から中国地方の大半を受け継いだ輝元は自らの器量をよく理解しており、“今ある領土を維持する”ことを最優先に立ち回ってきた。武家は勢力拡大も使命だが、何より大切なのは“御家・血筋を後世に残す”事である。身の丈を超えた侵攻が仇となり戦国乱世の荒波に消えた家は数知れず。臆病だ腰抜けだと非難されても、生き残った者こそ勝者なのだ。
中国攻めの恨みはあれど秀吉に好意的な態度で臨んだ結果、天正十五年の島津征伐後には小早川隆景が毛利家宿願の九州に加増を受けている。百二十万石の大封と五大老の格を与えられた輝元は、豊臣家と心中する程の忠義はないにせよ現状に大変満足していた。
「では、我等が起った折は」
「毛利家も同調致しまする。必ずや」
力強く断言する恵瓊。
家康は毛利家の中へ手を突っ込んできた。揺さぶりをかける意図は明白で、現在の領地と地位を守るには戦う他ない。一線を越えた家康と対峙する覚悟があると恵瓊ははっきり示した。
確約を得た兼続は無言で一つ頷くも、安堵している風には見えない。
「……土壇場で日和見、なんて事はありませんよね?」
兼続は用心深く念押しする。恵瓊を疑っている訳ではなく、確認するのは切実な事情があった。
上杉家が会津で挙兵すれば天下獲りを目論む家康は自ら大軍を率いて東国へ下向する。畿内を離れた隙を突いて徳川追討の狼煙を手筈だが、この時毛利家に静観されては非常に困るのだ。石田三成を筆頭に奉行や宇喜多秀家・前田利長が同調したとしても、西国の雄たる毛利家が加わるか否かで成功が決まる。百二十万石の大封を持つ毛利家の動向次第で他の諸大名の対応も変わる、それくらいの影響力があった。
鬼気迫る勢いの兼続へ、恵瓊は「大丈夫です」と言い切る。
「もし仮に殿が失敗を恐れて腰が引けたとしても、拙僧が説得致しまする。この策が成った暁に得られる利と内府の脅威を理解なされれば、必ず呑んで下さることでしょう」
確かに請け負ったと恵瓊は胸を叩く。
小早川隆景没後に公儀との取次役を一手に担う恵瓊は、外交僧ながら毛利家の実質的な重臣として遇されている。輝元も恵瓊の意見によく耳を傾けており、恵瓊が『毛利家の未来を考えればこうすべき』と進言すれば高確率で聞き入れてくれると見ていい。
その言葉を聞き、兼続はホッと安堵の息を漏らす。恵瓊が打倒家康に賛同し協力を明言した事で会談の目的は果たされた。これで憂いなく挙兵に踏み切れる。あとは時機を待つのみだ。
「山城守殿。協定を結んだ印に、一献如何ですかな?」
そう恵瓊が誘うと、兼続は白湯を飲み干し空になった茶碗を差し出す。般若湯の入った徳利を手にした恵瓊が兼続の茶碗へ傾け、自らの茶碗に持ち替えると顔の高さに掲げる。
「では、大願成就を祈念して」
恵瓊の口上から、両名はグッと茶碗を傾ける。願掛けも込めて一気に呷り、揃って酒気を帯びた息を吐く。
誓いの盃、という訳でもないが、志を共にする者同士で連帯を表す儀式と捉えれば最適だろう。兼続も上杉家の家臣として生を享けた身、酒を飲む機会は頻繁にあるので鍛えられている。
平然と口元を拭う兼続へ、恵瓊は不敵な笑みを浮かべながら言った。
「これにて、同盟締結ですな。毛利家の方は拙僧にお任せあれ。お互い、力を尽くしましょうぞ」
自信満々に大役を引き受けた恵瓊は、軽く別れの挨拶を述べると足早に辞して行った。毛利家中の根回しや輝元の説得などやるべき事は山積しているが、その背中は水を得た魚の如く活き活きとしているように兼続の目に映った。
片や、兼続。用事は済ませたのに席を立とうとせず、外の景色をじっと眺めている。
恵瓊をこちら側へ引き込むのは難事のようでいて簡単だ。隆景という大樹を喪い、恵瓊は毛利家中で批難の的になっている。合わせて、輝元が主導する“当主が絶対的な権力を持ち、家臣は扶持を受け管理される体制”への移行に、“先祖代々継承してきた土地に愛着を持ち次代へ託す”のを使命とする中世以来の価値観に縛られている家臣達は猛反発しており、その矛先が無関係な恵瓊へ向けられていたのだ。一門・譜代の臣達からは蛇蝎の如く嫌われている事から、恵瓊は何より明らかな成果を欲していた。だからこそ、“毛利家に大きな利がある”と実をぶら下げ、恵瓊の胸中で燻っている出世欲を焚き付ければ事足りる。あとは恵瓊が何とかしてくれるだろう。
(自然に身を委ねる、か)
会見冒頭に恵瓊が口にしていた言葉を、心の内で反芻する。ぼんやり初夏の風景を見つめていた兼続は、暫く経ってから“無理だ”という結論に至った。
自分は上杉家執政の立場にあり、長尾姓の頃から守り継がれた家名と土地・格式を次代へ繋ぎさらなる繁栄を齎すべく善処する責務を担う。その任を果たす為、常に思考を働かせ時に謀を巡らす。交渉、駆け引き、誘導、陥穽、斟酌、曲解……天下泰平の世は表面上のものに過ぎず、水面下では乱世さながらな術計が飛び交う。大名家の利害・欲の渦巻く暗闘を制した者が優位な立場と版図を掴み取れる。景勝や上杉家がさらなる高みへ昇る為なら兼続は幾らでも泥を被る覚悟だ。……例えそれが兼続個人の野心であろうと、主君と主家にとって良い結果になるなら“忠義”の二文字で上書きされる。
己は所詮、欲に塗れた奸人さ。兼続は自嘲気味に笑った。
さて、天下にその名を知られる直江山城守が油を売っている訳にもいくまい。フゥと一つ息を吐いて立ち上がると、その勢いのまま部屋から退室した。その目は来るべき決戦を見据え、鷹のように鋭かった。




