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一 : 慶長四年 - (5) 上杉の“義”

 閏三月に三成が失脚させられて以降、家康の決裁を四大老が承認し四奉行が粛々と執行する流れが常態化した。毛利輝元は昨年秀吉が薨去した十日後の八月二十八日に『五大老の中で秀頼公の御身《おんみ》を危うくする行動をした者が居た場合、豊臣家へ味方する』と五奉行の間で起請文《きしょうもん》を交わした上で国許《くにもと》から軍勢を呼び寄せる狡猾《こうかつ》さを発揮したものの、今年閏三月二十一日には家康との間で起請文を交わし『家康を兄・輝元を弟とする』と実質的に屈服していた。宇喜多秀家は年初に勃発した騒動の弊害が依然尾を引いており、父の死去に伴い大老の座に就いた前田利長は職務を覚えている段階で、家康に対抗する意志を持つ者は不在だった。

 片や、景勝。他三名が家中に火種を抱える中、只一人そうした杞憂《きゆう》とは無縁である。毛利家は一時養嗣子(ようしし)だった一門・秀元の領土割譲問題、宇喜多家は出奔・流出した家臣の領地問題、前田家は利家存命時から譜代・本座・外様と混沌《こんとん》化していた状況で利長直臣(じきしん)が編入した事に伴い軋轢《あつれき》が生じていた。大老三名の足元がぐらつく中で景勝は家康の専横を止めようと思えば出来たが、静観に徹した。日を追う毎《ごと》に影響力を高める家康に反発し心象を損ねれば、味方に名乗り出る者が居ないまま潰されてしまう。豊臣家を凌《しの》ぐ勢いにある家康へ景勝も思うところはあれど、敵対する事は避けていた。

 慶長四年五月上旬。大坂城から上杉屋敷へ帰ってきた景勝は夕餉を済ませると、自室に籠もった。夜も更けてきた頃、腹心《ふくしん》たる兼続が訪ねてきた。

「殿」

 障子《しょうじ》の外から声を掛けると、中から「うむ」と返ってくる。入室の許可を得た兼続は障子を開《あ》けてサッと入る。

 景勝は太刀の手入れをしている最中で、真剣な面持ちで今は打粉《うちこ》で刀身《とうしん》を叩いている。兼続もそれを分かっていたからこそ、風が入らないよう配慮したのだ。

 主君・景勝は愛刀家で、刀剣の蒐集《しゅうしゅう》や手入れが唯一の趣味と言えた。世間では茶の湯や連歌《れんが》等が流行の最先端で、大名や公家・豪商達が挙《こぞ》って嗜好《しこう》した。しかし、寡黙な景勝は社交性が求められる事からそうした席へ自発的に出向くのを控えた。その点、実用性もあり一人で没頭出来る刀剣は景勝の性格と合致していた。後年、景勝の優れた鑑識眼《かんしきがん》から選び抜かれた三十五振(ふり)『上杉家御手選(おてえらび)三十五腰(よう)』の目録を編纂《へんさん》している。上杉家には長尾姓を名乗っていた頃より愛蔵されていた年代物から謙信が参内《さんだい》した折に帝から下賜《かし》された逸品《いっぴん》まで名刀・良刀《りょうとう》を数多く所有していた。

 刀剣の手入れは神経を使う。柄《つか》・鎺《はばき》を外した刀身の古い油や汚れを拭《ぬぐ》い、紙で拭き取り、鎺元から切先《きっさき》へ砥粉《とのこ》を振り裏返して反対方向へ同様に、錆《さび》や疵《きず》の有無を確認してから丁子油《ちょうじあぶら》を浸《ひた》した油塗《ゆと》紙で刀身を薄く均等に塗り、鎺を付け柄を嵌《は》めた後に鐔《つば》を装着し、鞘《さや》へ納《おさ》める。この作業を主に春・秋の二回行う。油は薄ければ錆や疵の、多ければ柄や鞘を腐らせる原因になる。細やかな手入れがある事で造形美と切れ味を併せ持つのだ。刀と向き合っている間は無心になれる、その時こそ景勝の楽しみであり息抜きだった。兼続は部屋の隅でその様をじっと見つめる。

 やがて、手入れを終えた最後の刀を鞘に納め、景勝はフゥと息を吐く。張り詰めた空気が緩んだ頃合を見計らい、兼続は障子を開け小姓達へ離れるよう促す。これで主従二人きりだ。

「……与六」

「はっ」

 主従二人きりの時、景勝は兼続を仮名《けみょう》(通称)で呼ぶ。幼い頃より仕えている親しい間柄であるが故《ゆえ》だが、水魚《すいぎょ》の交わりである景勝はわざわざ仮名で呼ぶのは理由があった。

「百足の他に、数名。何ぞ」

 その指摘は、正しい。部屋の外のみならず天井裏や床下にも“軒猿”が警固する念の入れ様《よう》で、情報が洩れるのを絶対阻止する思惑が色濃く出ている。

 只ならぬ気配を察した景勝へ兼続は何の説明も挟まず、やおら切り出した。

「殿。不識庵《ふしきあん》(謙信の庵号《あんごう》)様が掲げられた“義”の表と裏の面を御存知ですよね?」

 訊ねた兼続に、景勝は黙って頷く。

 上杉謙信は“義”の精神を重んじた人物として広く認知されている。“義”とは人間の行動・思想・道徳で「よい」「正しい」とされる概念で、時代が進むにつれ『自らの利害を顧《かえり》みず他人の為に尽くす』意味へ変容を遂げた。謙信は権力争いの絶えない長尾家臣団を“義”の精神で纏《まと》め上げ、自らも家臣達の模範として厳しく律し没するまで貫き通した。それを示すように、春日山城山麓の林泉寺《りんせんじ》山門《さんもん》には謙信直筆の『第一義』の額《がく》が掲げられていた。

 天文二十一年〈一五五二年〉一月には北条氏康に上野《こうずけ》国を追われた関東管領・上杉憲政を、翌天文二十二年〈一五五三年〉八月には武田晴信(後の信玄)に北信濃を追われた村上義清・小笠原長時などの国人達を受け入れた謙信は、奪われた領地を取り戻すべく行動に移した。北条家とは永禄三年から関東出征を数回敢行し、永禄四年〈一五六一年〉には反北条勢力が結集し九万を超える大軍勢で氏康の本拠・小田原城を包囲するまで追い詰めた。また、武田家とは川中島周辺を舞台に五度干戈(かんか)を交えている。

 また、天文二十一年九月に上洛すると落魄《らくはく》していた後奈良天皇、第十三代将軍・足利義輝(よしてる)と拝謁。この時、帝へ内裏《だいり》修繕の為の献金を行《おこな》っている(翌年の説あり)。天正四年〈一五七六年〉には備後・鞆《とも》へ追われた足利義昭の要請に応じる形で協力関係にあった織田信長と手切れとし、版図を越中から能登へ拡げるだけでなく天正五年九月には柴田勝家率いる織田勢の大軍を加賀・手取川《てどりがわ》で散々に打ち破っている。

 ただ、戦を興《おこ》したり天皇家・足利将軍家へ援助するには金が掛かる。その点、上杉家は財政的に恵まれていた。越後国は古来より衣服の原料だった青苧《あおそ》(カラムシ)は日本一の生産地で、青苧や麻織物の最高級品とされた越後上布(じょうふ)を日本海航路で当時“七湊”にも挙げられた今町(現在の直江津)湊から一大消費地たる畿内や全国へ輸出していた。謙信は青苧や越後上布の流通・販売等に関する権限(通称“青苧座”)を蔵田五郎左衛門に委ね、取引や運搬に課した税と含め莫大な運上金を得た。この“打出《うちで》の小槌《こづち》”がある御蔭で、大規模な出征を何度も行えたのである。余談ながら、越後が米の一大生産地となるのは灌漑《かんがい》・干拓事業が行われた江戸時代以降で、佐渡の鉱山も多少の銀は採掘されるも金《きん》の大量採掘が始まるのは徳川領になってからで、当時の上杉家に富を齎《もたら》していない。

 以上の経緯から分かる通り、形骸化した権威や助けを求めてきた者達を救うべく損得抜きに行動した――これが、謙信の掲げた“義”の表《おもて》面。

「不識庵様による高潔《こうけつ》な“義”の精神は、家の内外に好影響を与えました。然《さ》れど、綺麗事のみで戦をしていた訳ではありません」

 長尾姓の頃から家臣同士の主導権争いや派閥間の暗闘を繰り返し、それに嫌気の差した謙信は弘治二年〈一五五六年〉三月に『出家・隠居する』と突如宣言し高野山へ上《のぼ》る騒動があった程だ。絶対的君主の存在感を自覚した家臣達は謙信に畏敬《いけい》の念を抱き、“義”の心で結束した。神格化された謙信によって浸透された“義”の精神は景勝に継承され、上杉家の行動理念になっている。

 また、北条氏康に奪われた上野領や武田晴信(信玄)に奪われた北信濃領を取り返した謙信はそれぞれ元の国衆へ返還した。周辺諸国に“上杉家は義理堅い”という印象を植え付けた事で、敵対か恭順か迷う国人が降伏する決め手になったり秀吉が景勝を信頼し大老に抜擢したりと様々な良い結果を享受《きょうじゅ》している。

 しかし、戦をすれば必ず将兵に死傷者が出ますし、兵糧弾薬に牛馬の秣《まぐさ》等の消耗品、徴用兵や臨時雇いの者達へ支払う日銭、負傷者への慰労金や戦死した遺族への見舞金と多額な出費が発生する。勝ち取った土地から年貢や運上金で元を取るまで早くて数年・十年を超す事もザラにあるのに対し、謙信は惜し気《げ》もなく元の領主へ返している。一見すれば働き損だが、謙信はそれでも敢えて戦に赴いた理由とは――。

「全ては越後の国や益を守る為。正当な名分《みょうぶん》の下《もと》、敵を攻められます」

 兼続は禁忌と言うべき裏の面について躊躇せず言及する。

 衰退し凋落《ちょうらく》した幕府や関東管領の再興や侵略者に国を追われた者達を救済したい気持ちを、謙信は常に持っていた。それは事実である。ただ、戦は慈善事業ではないし、時間や金が掛かる事を考えれば頼ってきた者達を助けたところで謙信や上杉家には無駄な行為に等しい。それにも関わらず断行したのは、偏《ひとえ》に損以上の得があるからだ。

 上杉家が治める越後は国域が広い事もあり、越中・信濃・上野・陸奥(会津)・出羽(庄内)と東西南北に隣接している。幕府の影響力が低下し守護大名も衰えると勢いのある実力者が台頭する下剋上の嵐が全国で吹き荒れ、守護代だった謙信の家系も主家《しゅけ》を凌《しの》ぎ越後の国主となった。それと同時に能登を地盤とする畠山家に属す越中の国人が越後へ攻め込むようになり、その対処に追われた。実際、謙信の祖父・能景《よしかげ》は越中出兵中に討死《うちじに》している。越後の富を侵されぬよう、緩衝《かんしょう》地帯を設けたい意図があった。

 関東を席巻する勢いにある北条家が三国《みくに》峠を越えぬよう上野に版図を持ち、信濃国境から程近い春日山城が海を欲する武田家の北上を阻止すべく北信濃を奪還し、一向一揆と手を組んで上杉勢を牽制してくる越中国人衆を排除した。また、越後と接する出羽の大宝寺《だいほうじ》家と友好関係を結んだ。謙信は『関東管領の要請を受けて』とか『故郷を追われた者達を救うべく』と大義を掲げる事で出兵を正当化し、自領の安全を確保したのである。

 理由付けは非常に重要で、中立の勢力が味方に加わる判断材料になったり将兵達の士気が上がったりと好《い》い影響を与える。特に末端の兵は“自分達の戦いは正しいのか?”という事に敏感で、迷いがあれば戦意が鈍る。その点、謙信は動機付けがとても上手で、人を殺《あや》め掠奪《りょうだつ》する倫理に悖《もと》る疚《やま》しさを大義で打ち消す事により将兵の力を最大限に引き出した。これに“毘沙門天の生まれ変わり”と自称する謙信の天才的な用兵術と相俟《あいま》って、上杉勢は戦国屈指の強力な軍隊として名を馳せた。

 謙信晩年には越中から能登へ版図を拡げた際も、足利義昭の信長追討に応じる名目を前面に押し出していた。ただ、義昭が京から追放されると足利将軍として武家の頂点に君臨し諸大名へ号令する力は失っており、大義とするには些《いささ》か弱かった。それでも謙信が義昭の命に従ったのは義輝を救えなかった負い目や自らが京を掌中《しょうちゅう》に収める事で都落ちした公方を復帰させたい思いが少なからずあったと考えられるが、日本海航路の主要港たる越中・岩瀬や能登・輪島を支配下に治め実入りを増やす狙いも多分に含まれていたと推察される。

「確かに、不識庵様の義は清濁《せいだく》併せ持っておられた。……何が言いたい?」

 偉大な先代・謙信の暗部を論じに来た訳ではあるまい。そう質した景勝に、兼続は躙《にじ》り寄る。

「殿。内府が主導する政《まつりごと》の形で、本当によろしいとお考えでしょうか?」

 勝負所と睨んだ兼続は本来敬称を付けるべき家康を呼び捨てにして迫る。さらに言葉を継ぐ。

「加賀大納言様が身罷られ、治部殿が失脚した今、内府を止める存在は失《う》せました。内府が豊臣家大老筆頭の座で満足するなら安泰ですが、その地位に収まる筈がありません。この先、必ず天下簒奪に動きます。その時、今現在でさえ内府の専横を止められない殿や他の大老方が野望を阻止出来ると本気でお考えで?」

 兼続の厳しい指摘に、景勝の眉がピクリと反応する。

 今年一月に断行した秀頼の大坂移徒(わたまし)で一人伏見に残った家康の影響力を削いだものの、閏三月に利家死去・三成失脚と立て続けに邪魔者が消えた事で“次の天下人”と思い做《な》し接近する大名や有力者が相次いでいる。政《まつりごと》が家康の提示した内容を他の大老・奉行達が異議を挟まず了承している現状が後押しとなり助長している面もあった。豊臣家を動かしているのは家康、その構図に“待った”を掛けるところから始める必要がある。

「……内府殿が天下を掠《かす》め取る様を座視する心算《つもり》は毛頭《もうとう》無い。しかし、権力を内府殿が一人で握っている以上、真正面から立ち向かうのは愚策ぞ」

「そこで、我等上杉の“義”を示すのです」

 景勝の懸念に、兼続は自信満々に答える。

 家康による天下獲り阻止と上杉家の“義”に、どんな関係性があるのか。疑問を抱く景勝へ兼続は説明を始める。

「内府は大老や奉行の力を弱めた上で、天下獲りへ打って出る事になりましょう。これに対し我等は“豊臣家の天下安寧を乱す内府を、幼君・秀頼公に代わり成敗する”と宣言し反徳川の狼煙《のろし》を上げます」

「なれど、我等単独で太刀打ち出来る相手ではないぞ。それに、内府殿を慕う大名達の加勢も見込まれる」

 徳川家は二百五十万石の大大名、この当時一万石で二百五十名から三百名の兵力があると換算され、これに当て嵌めれば六万二千五百名・七万五千名の動員力を持つ。加えて臨時雇いの兵も合わせれば数はさらに膨れ上がる。上杉家は百二十万石、先述した目安を適用すれば三万・三万六千と徳川家の半分以下。家康に同調する大名の軍勢も上積みされることから、勝てる可能性は限りなく低い。家康の天下獲りは豊臣家への叛乱《はんらん》に等しい一方、非道を訴えても負けてしまえば歴史の闇に葬り去られる。勝利してこそ“義”は通るのだ。

「仰る通り。我等単独では犬死《いぬじに》必至でしょう。――然《さ》れど」

 ここが切所《せっしょ》と踏んでいる兼続は、力を込め言い切る。

「――内府が畿内を離れた隙に、我等へ同調する者達が起《た》ち上がれば如何《いかが》ですかな?」

 予想外な口述《こうじゅつ》に、目を見開く景勝。畳み掛けるように兼続は続ける。

「他の大老方も奉行方も、内府の独り勝ちなど望んでおりません。我等は釣り餌《え》、上杉討伐へ東征した内府が不在の畿内で徳川追討の兵を挙げる。幼君・秀頼公も我等が握っており、内府は一転し豊臣家に刃を向ける敵となります」

 兼続の口から明かされた壮大な計画に、景勝も驚きで固まる。

 嘗《かつ》て秀吉が公称十万の兵を率いて負けなかった家康は“戦巧者”として広く知られる。そして、質朴剛健な三河兵・信玄の薫陶を受けた旧武田家の将兵・関東制覇を掲げ厳しい戦いを積んできた旧北条家の将兵と質の面でも群を抜いている。精悍な上杉勢でも些か旗色が悪い。

 ただ、前後を挟まれれば話は別だ。家康は西と北の両面に敵を抱えて兵力の分散を強制され、難しい采配を迫られる。おまけに主君・秀頼はこちらの手の内にあり、公儀の命で諸大名へ徳川討伐の軍に加わるよう呼び掛ける事も可能だ。あとは畿内の大軍勢が駆け付けるまで上杉勢が粘れば、“豊臣家の敵”と認定された徳川勢を挟撃出来る。

 暫し考え込んでいた景勝は、息をフーッと吐き出してから問い掛ける。

「……流石は与六だ、内府の野望を打ち砕くならこの方法が最適だろう。然《さ》りながら、第二第三の内府が出ないとも限らぬ。その都度、討伐する心算《つもり》か?」

 腹心《ふくしん》の献策を評価した上で訊ねる景勝。

 非業《ひごう》の死を遂げた織田信長から天下統一の夢を引き継いだ秀吉は、対抗勢力を滅ぼす信長の方針を踏襲せず地方の有力大名を懐柔する方針を執《と》った。結果、北条家を除き秀吉と敵対した大名は減封されるも存続している。その背景には早期に天下統一を実現させたい秀吉の意向もあったが、水呑み百姓の生まれで譜代の臣を持たぬ秀吉が嘗《かつ》て上役だった織田家旧臣達に配慮する事情も含まれていた。実際、圧倒的に劣る勢力の越中・佐々成政や紀伊・雑賀衆の討伐も秀吉が大将を務めている。唐入りを見据え徹底的に殲滅するのは避けたにせよ、有力大名を取り込む手法は有効だった反面で弊害も生じた。絶対的君主たる秀吉が存命時は臣従しても、没後にどれだけの人数が豊臣家へ忠誠を誓うか分からなかった。今は家康が天下獲りに向け動き出しているが、野心家の伊達政宗や黒田如水、もしかすると毛利輝元もその座を狙っているかも知れない。景勝はそれを危惧していたのだ。

 ただ、その可能性も織り込み済みらしい兼続ははきと応じる。

「心配要(い)りません。対策は考えてます」

 すると、兼続は懐中より一枚の畳まれた紙を取り出し、景勝の前に開《ひら》いて置く。

「内府を排除した後、大老四名による合議で政《まつりごと》を執り行います。軸となられますのは殿と安芸《あき》中納言(毛利輝元の通称)様、備前中納言様と加賀中納言(前田利長の通称)が補佐する形を想定しております」

 流れるような説明に聞き入る景勝。

「石高でほぼ同格な上杉家と毛利家はお互いに暴走せぬよう牽制すると共に、国境《くにざかい》を接する毛利家と宇喜多家・上杉家と前田家がそれぞれを監視する体制を敷きます。これで均衡《きんこう》は保たれる事でしょう」

「……待て。我等の会津は前田家と隣接しておらんぞ」

 矛盾を指摘した景勝へ、兼続はサラリと述べる。

「えぇ。内府を倒した暁には、本貫《ほんがん》の地たる越後へ戻る腹積もりです。徳川を倒せば会津で睨みを利かせる必要性も低下しますので」

 会津は寒冷地の奥羽で稀少な米処《こめどころ》ではあるものの、青苧の売買や日本海航路有数の寄港地たる今町湊から入る運上金には劣る。長尾姓の頃より慣れ親しんだ故郷・越後へ戻りたい気持ちは兼続を始めとした家臣達も少なからず抱いていた。家康を討てば会津の地理的重要性は低下し、他の有力者が治めても問題は無かろう。

 移封へ触れた事から、兼続の脳内には家康を倒した後の知行構想を持っている模様だ。

「我等上杉は越後へ復帰した上で加増、毛利家は備中領を手放す代わりに筑前の一部を加増、前田家は南加賀の加増、宇喜多家は備中・播磨国内で加増とします。上杉・毛利家は百二十万石、前田・宇喜多家は百万石と隣接する大老同士の勢力が拮抗させる事により、お互いに抑止する環境が整います」

 具体的な国名を挙げて腹案を示す兼続。さらに続ける。

「奉行方(がた)には要衝の地に三十万石程度で配置致します。そして、豊臣家は畿内一円や堺・博多等の商業地・諸国の鉱山を治め、家臣の大名家が叛《そむ》こうとも単独で対処し得るだけの規模になって頂きます」

 大名の合議で決められた政《まつりごと》の施行や財務・裁判等の実務は奉行が担う傍ら、大老の暴走を注視する役割も合わせて求められる。現状の禄高から大幅に増加させる事で大老に対抗可能な力を持ってもらうのが兼続の狙いだ。

 そして、この国の政《まつりごと》を司《つかさど》る豊臣家は現在も全国各地の商業地を直轄領とし大名が保有する鉱山から産出された金銀銅を一定割合納めさせているが、兼続はさらに所領を上積みし鉱山も直轄化する事で政権基盤をさらに確固たるものにしようと考えた。畿内一円を支配下に置く事により万一大名が謀叛を起こしても旗本などの直臣が大坂への進軍を阻む構えだ。

「当面は四大老五奉行の合議で政《まつりごと》を代行し、秀頼公が成人した暁には関白へ就任して頂き政を執り行って頂きます。以降、豊臣家は関白を世襲、武家と公家の頂《いただき》に立つ唯一無二の存在として統治するのです」

 壮大な計画を明かした兼続は今日一番の熱弁を振るう。

 関白職は天皇に代わり政治を執行する役職で、官職の最高位とされる。平安時代には関白及び天皇が幼少期に政務を代行する摂政《せっしょう》が絶対権力者だった為、その座を巡り帝・皇太子の縁戚形成や朝廷内での駆け引きなど熾烈な権力闘争が繰り広げられた程だ。武家の台頭により治政権は喪失したものの朝廷における最高官職に変わりなく、藤原氏の流れを汲《く》む近衛《このえ》・一条・九条・鷹司《たかつかさ》・二条の五摂家(せっけ)が持ち回りで就く流れが定着していた。

 そんな慣習に一石を投じられたのは、天正十三年。近衛信輔(のぶすけ)(後の信尹《のぶただ》)と二条晴良(はるよし)(“はれよし”とも)の間で関白就任を巡り係争が勃発。この裁定を当時の天下人・羽柴秀吉に委《ゆだ》ねられたが、ここで皆が仰天する案が浮上する。秀吉が信輔の父にして元関白・太政《だじょう》大臣の近衛前久(さきひさ)の猶子となり、繋ぎの関白へ就任するというのだ! 水呑み百姓の倅《せがれ》で高貴な血筋ではない秀吉は武家の頂点へ立つ為に箔を付けたいが、武家の棟梁たる征夷大将軍は源氏の系譜《けいふ》しか就けず、平清盛のように公家の最高位に就く事で武士を臣従させる他なかった。当然ながら秀吉の関白就任案は五摂家の中から反発の声が上がるも、実現の見返りに相応の見返りを与える事で解決させた。本来なら秀吉一代の限定的な和解策になる筈が正親町《おおぎまち》天皇より“豊臣”姓を下賜された事で源平藤橘《げんぺいとうきつ》に並ぶ特別な氏《うじ》と認定され、天正十九年十二月に秀吉の甥で養子の秀次に関白職を譲った事で豊臣家が代々継承する流れが生まれた。秀次が粛清され太政大臣だった秀吉も薨去し関白職は空席となっていたが、秀吉の後継者たる秀頼が将来的に就任するのは既定路線となっていた。

 嘗《かつ》て秀吉が“天下の仕置も務められる実力を備える陪臣”に小早川隆景・堀直政と並び名前を挙げられた兼続は、その評価に違《たが》わぬ国家構想を練り上げた。そして、自らの考えを他者へ正確に伝える説弁《せつべん》能力も併せ持っていた。

 真《しん》に恃《たの》むべき右腕が披露した未来図に、景勝も唸《うな》る。規模の大きな話ながら実現すれば豊臣家の統治は盤石なものとなるだろう。

 俯《うつむ》き加減に考え込んでいた景勝が、顔を上げる。目の合った兼続は主君の意図を汲み答える。

「公儀を支える体制につきましては、足利幕府の“三職七頭《さんしきしちとう》”を参考に致しました。仕組み自体は理想的でしたので、不安要素を補完しまとめた次第であります」

 三職七頭とは、応永《おうえい》五年〈一三九八年〉に室町幕府三代将軍・足利義満(よしみつ)が定めた制度で、執事別当(べっとう)に就ける斯波《しば》氏・畠山氏・細川氏の三家(通称“三管領(かんれい)”)と、侍所《さむらいどころ》別当に就ける一色《いっしき》氏・山名氏・赤松氏・京極氏(通称“四職《ししき》”)に土岐氏・今川氏(前述した四職と合わせ通称“六職《ろくしき》”)と政所《まんどころ》執事担当の伊勢氏の七家の、足利家を支える特別な家柄を指す言葉である。これに関東を管轄する“関東管領”の上杉氏を加えた有力大名は地方で数ヶ国を治め、互いに拮抗する勢力同士が牽制し合う事で平穏が保たれていた。室町幕府の統治が崩壊したのは三管《さんかん》四職の大名家内部で生じた権力争いが応仁《おうにん》の乱へ発展し、元々直轄領の少なかった足利家が戦を止められず影響力の弱体化が顕著《けんちょ》に表れた事が原因とされる。同じ轍《てつ》を踏まぬよう公儀たる豊臣家の直轄領を大幅に増やす事で兼続は対策を打った訳だ。

 合点がいったと景勝は頷く。主君の反応に、兼続はもう一押しとばかりに躙《にじ》り寄る。

「殿。内府の野心は最早《もはや》明らか。その毒牙が豊臣家へ及ぶ前に、義の心を以《もっ》て起《た》ちましょうぞ」

 上杉家の誇りであり独自性たる“義”を持ち出し、決断を迫る兼続。

 主君の性格や傾向は幼少期より側で仕えてきた兼続はよく分かっている。謙信を崇《あが》め奉《たてまつ》り、行動や思考の模範《もはん》としてきた景勝にとって、“義”の一字は何物にも代え難《がた》い殺し文句である。是が非でも諾《だく》と言ってもらいたい兼続は勝負手に出た。

 我が意を呑んでもらうべく焚き付けた兼続に対し、顔を下に向け熟考する景勝。鎌倉時代から脈々と受け継がれてきた家と血筋・長尾姓の頃より付き従う家臣とその家族・関連する者達の生活と財産が、景勝に懸《か》かっている。即断即決するには重過ぎる内容だが、兼続はどうしても景勝に首を縦に振ってもらいたかった。全ては上杉家が生き残る為、家名を高める為、さらなる繁栄を齎《もたら》す為に。

 どれくらいの時間が経過しただろうか。石像の如く固まっていた景勝は当人に珍しく長く太い息を吐いてから、ゆっくりと頭を上げる。

「……うむ」

 絞り出すように発せられた言葉は、短いながらも重い。景勝が兼続の建議を受け容れた事で、上杉家は“豊臣家や幼君・秀頼公を守るべく御家の存亡を賭し家康と対峙する”道が決まった。その返答を受けた兼続は承諾してくれると強い自信を持っていたものの、望んだ結果に内心ホッと胸を撫で下ろした。

 重大な決断を下した主君へ、兼続は深々と頭《こうべ》を垂れる。この先に待ち受けるのが修羅《しゅら》の道であろうと突き進む事を選んでくれた景勝へ感謝を形で表したかった。

 景勝は純粋な義侠心《ぎきょうしん》で判断したかも知れないが、兼続は異なる。この機を利用し上杉家の地位や富の向上という欲が含まれていた。否《いな》、景勝も兼続の下心も見透かした上で受諾した可能性もある。綺麗事《きれいごと》だけで激動の時代を生き抜けないのは苛烈な跡目争いや存亡の瀬戸際に追い込まれた経験を踏んできた景勝も身に沁《し》みて理解している筈で、兼続の隠された“義”の裏面も薄々察していることだろう。

 何《いず》れにせよ、景勝は兼続の案を呑んだ。これでやっと動き出せる。顔を上げた兼続の瞳はやる気で滾《たぎ》っていた。


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