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一 : 慶長四年 - (3) 潜伏先にて

 三成を亡き者にせんとする“武断派”の手勢に見つからぬよう、隠密に移動した兼続は宇喜多屋敷の勝手口から中へ入った。

 広間へ通された兼続は、居合わせる面子を確かめる。追われる三成と逃亡を手助けした善宜、屋敷の主たる宇喜多秀家、それに三成と懇意《こんい》にしている大谷吉継に小西行長、石田家重臣・島清興(きよおき)の姿もある。

「山城守(兼続の通称)、お主どうして此処《ここ》に? ……いや、いい。お主が来てくれた事で百人力《ひゃくにんりき》だ」

 何の前触れもなく現れた兼続に当初驚いた三成だが、深く詮索しなかった。寧《むし》ろ、景勝の右腕で知謀家《ちぼうか》の兼続が合流した事で上杉家の後援を得たと好意的に受け止めた模様だ。

 石田三成。永禄三年生まれで四十歳。近江・石田村を地盤とする土豪・石田正継(まさつぐ)の三男に生まれ、秀吉が長浜城主になった頃に父や兄と共に仕官・小姓になったとされる。因《ちな》みに、二人の出逢いで有名な『秀吉が鷹狩《たかがり》の帰りに立ち寄った寺で下働きをしていた三成が温度と器の大きさを変えて茶を三杯提供した(通称“三献茶《さんこんちゃ》”)』逸話は近年後世の創作とする説が有力となっている。

 算勘能力に長けるのみならず決裁処理の早さ・交渉能力の高さから次第に重用されるようになり、秀吉が中国方面担当に任じられた頃には現代風に言えば筆頭秘書官の地位に登り詰めた。その秀吉が天下人になると治政面だけでなく地方の大名家との取次として斡旋《あっせん》したり大名領の検地を代行したりと、権限と地位を高めていく。秀吉の晩年に政権運営の実務を担う五名の奉行の一人に任じられ、三成は行政担当として辣腕を振るった。

 ただ、怜悧《れいり》な性格や冷徹で斟酌《しんしゃく》しない物言いが居丈高《いたけだか》・生意気と捉えられ、秀吉の威光を笠に着ていると誤解されたのも相俟《あいま》って“平懐者《へいくわいもの》”と蔭で唾罵《だば》された。特に朝鮮の役《えき》で在りのままを伝えたにも関わらず、秀吉から咎《とが》を受けたり戦功を過少評価されたと思い込んだ武将達から深い恨みを買っていた。敵も多かったが理知的な性格や教養の高さ・(公務とは言え)検地のやり方や財政の立て直し方を指南するなどした事から三成に味方したり評価する者も少なからず存在した。

「喜んでばかりいられんぞ」

 楽観的な三成の発言に白頭巾の男が釘を刺す。

「紀ノ介……」

 大谷“刑部少輔《ぎょうぶのしょう》”吉継《よしつぐ》、永禄八年〈一五六五年〉生まれで三十五歳(永禄二年〈一五五九年〉生まれの説あり)。秀吉の正室・寧々の取次役だった東殿を母に持ち、その縁で秀吉の小姓として仕えた。天正十年十二月には賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる長浜城攻めにおいて事前に吉継が城主・柴田勝豊(かつとよ)の家臣に内応を働きかけ、早期開城へ多大な貢献をしている。主に吏僚として豊臣家を支えるも、生前秀吉から『紀ノ介(吉継の幼名)に百万の兵を預け、その戦振りを眺めてみたい』と絶賛される程の軍才も兼ね備えていた。その実力から奉行に名を連ねていても不思議でないにも関わらず無役なのは特別な事情がある。

 癩病《らいびょう》(ハンセン症)――当時“業病《ごうびょう》”と忌み嫌われていた病を罹患《りかん》し、現在は皮膚が爛《ただ》れ視力は殆《ほとん》ど失われていた。本来なら療養すべきだが天正十八年七月の奥羽仕置(しおき)では出羽国の検地を担当したり天正二十年に始まった文禄の役では軍監として渡海したりと、秀吉は吉継に仕事を与え続けた。それだけ器量を高く評価し信頼していた裏返しではあるものの、病は吉継の体を着実に蝕《むしば》んでいた。

「上杉の手の者が優れているとは言え、山城守殿が此処を突き止めたなら他の者にも早晩《そうばん》知られることだろう。佐吉(三成の幼名)、速やかに次の策を考えねばなるまい」

 お互いに幼名で呼び合う三成と吉継。秀吉の小姓時代から馬が合ったのもあるが、二人の絆を象徴する逸話がある。

 ある時、秀吉が催《もよお》した茶会の席に参加していた吉継から一滴の膿《うみ》が茶碗に垂れてしまった。癩病の伝染力は自然免疫で防げる程度に弱かったものの、感染《うつ》るのを恐れた参加者達は口を付けるフリをして飲むのを避ける中、親友である三成の番に回ると全て飲み干したのだ。この漢気《おとこぎ》溢れる対応に吉継は“終生《しゅうせい》佐吉の味方であろう”と胸に固く誓ったとされる。

「左様《さよう》。大谷“刑部”様の申される通り、敵が押し寄せる前に殿は動かねばなりません。逃げるか、それとも受けて立つか」

 顔の輪郭に沿って髭を生やす男が吉継の意見に賛同する。

 島“左近《さこん》”清興《きよおき》。天文九年〈一五四〇年〉生まれで六十歳。筒井家重臣として同じ大和《やまと》国内の松永久秀・久通《ひさみち》と鎬《しのぎ》を削り、松永家が滅ぶと縁戚にある明智光秀の謀叛にも中立を保つよう進言するなど時局を巧みに読みながら御家の存続・繁栄に貢献した。しかし、主君の代替わりで冷遇され不和が生じた末、天正十六年二月に筒井家を致仕《ちし》。その後、蒲生氏郷・豊臣秀長に仕えた。

 予《かね》てから自らに戦の才に欠けると自覚していた三成は、経験・実績・何より“梟雄《きょうゆう》”松永久秀や厄介な寺社勢力が跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する大和国で筒井家を安定した統治を実現させるに至った才気を兼ね備えた左近を高く評価し、二万石の大禄《たいろく》で召し抱えた。仕官時期は“天正十四年一月に近江水口(みなくち)四万石の身だった三成が半分の知行を渡した”逸話で知られるが、三成に水口を治めたとする史料は発見されておらず偽りの可能性が高い。

 左近の口から応戦の選択が出て、俄《にわ》かに表情を硬くする若者。

 宇喜多“権中納言”秀家、元亀三年〈一五七二年〉生まれで二十八歳。備前・美作《みまさか》に備中半国・播磨三郡五十七万四千石を治める大大名で、五大老の一人でもある。

 凋落《ちょうらく》していた宇喜多家を一代で再建した父・直家が天正九年十一月から天正十年一月の間に亡くなり、幼年で家督を継いだ秀家は秀吉による後見もあり勢力を維持。その器量を見込んだ秀吉は秀家を一時猶子(ゆうし)にした程で、文禄の役では総大将を務めている。正室は前田利家の四女で秀吉の養女(子宝に恵まれない寧々の希望で二歳の時に貰い受けた)・豪姫、血の繋がりこそ無いが我が娘同然に育てられた経緯から豊臣家一門衆に遇された。将来性や将器を鑑み大老の一人に抜擢されている。

 しかし……直家は有力な国人を併呑《へいどん》する形で版図《はんと》を拡げた弊害として、石高に対し宇喜多家直轄領の割合は少なく家臣達は独立色が強い上に発言力も大きいという致命的な弱点を抱えていた。加えて二度の朝鮮出兵に天下普請の参加・秀家が畿内から離れられないが為に発生する交遊費が嵩《かさ》み、宇喜多家の財政状況は破綻寸前だった。こうした状況に危機感を抱いた重臣の長船《おさふね》綱直《つななお》は領国を留守にする事の多い秀家に代わり検地や河川改修等の改革を断行。作事知識のある豪姫付きで転籍してきた前田家家臣・中村次郎兵衛(じろべえ)や浮田太郎左衛門を登用するも、改革で実入りが減る事や発言力の低下・さらに吉利支丹《キリシタン》と日蓮宗の宗派対立も重なり、宇喜多家中に深刻な亀裂が生じていた。

 以上の事情から宇喜多家は立て直しの真っ只中にあり、本音を言えば三成を庇《かば》う余力など無かった。武断派の手勢が攻めて来ても応戦する兵も体制も整っておらず、この場に集う面々の兵を合わせても勝ち目は薄い。

「山城守殿、市中はどのような感じでしたか?」

 平静《へいせい》な様子で訊ねる小柄な男。大小を差していなければ商人《あきんど》と見紛《みまご》う雰囲気を漂わせていた。

 小西“摂津守《せっつのかみ》”行長《ゆきなが》。永禄元年〈一五五八年〉生まれで四十二歳。堺の商人・小西隆佐(りゅうさ)の次男に生まれ、備前の魚屋《ととや》九郎右衛門《くろうえもん》の養子に出される。そこで宇喜多直家に器量を買われ士分に取り立てられ、その後羽柴家との交渉役を務めると秀吉がその才に惚れ込み、自らの家臣にした。天正十二年に吉利支丹大名の高山右近に勧められ、洗礼を受ける。

 天正十五年の島津征伐・天正十六年の肥後国人一揆鎮圧での働きが認められ、南肥後宇土(うど)・益城《ましき》・八代《やつしろ》三郡約二十万石が与えられた。天正二十年から開始した文禄の役では先鋒を任され、漢城《ソウル》・平壌《ピョンヤン》制圧という大功を挙げている。明・朝鮮軍の反撃で苦戦に陥ると休戦交渉に尽力、泥沼の戦いを危惧した文治派の思惑を受けつつ秀吉の現実離れした条件から実現可能な点で合意を取り付け、講和成立に漕ぎ着けた。ところが、明からの書簡を直訳され自らの示した条件が悉《ことごと》く入ってない事に気付いた秀吉は激怒。主君を騙そうとした行長へ死罪を申し付けられようとされるも、家康・利家や淀の方などの取り成しで何とか免れた。慶長二年に再開された慶長の役でも先鋒を任され、先述した不忠を雪《そそ》ぐべく奮戦。日本軍の撤収にも大きく貢献している。

 商人出身ながら武人として頭角を現し、文治派の中でも戦に通じている貴重な存在である。

「まだ敵と思しき兵は見かけませんでしたが、早晩《そうばん》出てくることでしょう」

 率直な見立てを述べる兼続。

 武断派の将兵達は続々と加藤清正の屋敷へ集結しているが、完了次第動き出すのは明白だ。人が出回れば捕捉される可能性は高くなる。そうなれば市中での戦闘へ発展する恐れがあり、移動中に非業の死を遂げるかも知れない。のみならず、仮に無事切り抜けたとしても伏見城下で交戦したとなれば仕掛けた敵は当然として正当防衛のこちら側も公儀から処罰の対象となる。動くなら急ぐべきだ。

「如何《いかが》なされますか、治部殿」

 八の字型の立派な口髭を蓄えた男が質《ただ》す。

 佐竹“右京大夫《うきょうだゆう》”義宣、元亀元年生まれで四十歳。父は“鬼義重(よししげ)”“坂東太郎”の異名を誇る“常陸介《ひたちのすけ》”義重。常陸に留まらず下野《しもつけ》・陸奥《むつ》(磐城《いわき》・岩城《いわしろ》郡)も版図とし、栃原《とちはら》金山を始め常陸国内にある複数の金山開発で石高以上に経済面で潤沢と、恵まれた状態で善宜は家督を継いだ。しかし、弟が養子に入り事実上佐竹家の傘下にあった蘆名家は天正十七年六月の摺上原《すりあげはら》の戦いで伊達政宗に敗れ黒川城を始めとする岩城郡を喪い、下野国の領有権を巡り北条家と激しい鍔迫り合いを演じるなど、難しい舵取りを迫られた。

 そんな善宜にとって幸運だったのは、早い段階から豊臣家に誼《よしみ》を通じていた事だ。しかも(過去に“上杉謙信の関東出征に馳せ参じた”縁で上杉景勝が充《あ》てられたが)出頭人《しゅっとうにん》である三成が取次役だった点も大きかった。北条征伐に加わり正式に豊臣家へ臣従すると、奥羽仕置後に常陸国の大部分と下野・陸奥(岩城郡)の一部で約三十五万石の領有が認められた。善宜は父・義重と共に佐竹家へ反抗的な国人の謀殺や三成主導の検地で佐竹直轄領の知行が増え、慶長二年に義兄・宇都宮国綱が改易された際に連座の罪が及びそうになるも三成の取り成しで回避した事から、一方《ひとかた》ならぬ恩義を抱いていた。

 当人の三成は暫し顎に手を当て考え、ふと何か閃いたらしくポツリと漏らす。

「――よし。ここは伏見へ逃れよう」

 三成の発した内容に、行長や秀家は仰天する。

「正気か!? 敵中へ飛び込むようなものだぞ!?」

 慌てた様子で再考を求める行長。

 それもその筈で、伏見には秀吉の遺命で政《まつりごと》を執り行う家康が居る。一月十日に秀頼が大坂城へ移徙《わたまし》したのに伴い多くの諸大名も伏見から大坂へ転居しており、今では実質的な家康の支配圏となっていた。日頃からその存在を危険視し先日の『御掟』違反の際も大老職剥奪など厳罰に処すべきだと強く主張していた反家康の急先鋒たる三成が伏見へ行けば、実効支配する家康に囚《とら》われるか謀殺されるのが目に見えている。

「いや。なかなかの妙案だ」

 死にに行くようなものだとばかりに止める行長に対し、ポンと膝を叩き賛同する兼続。

「何を申すか、山城守!! 伏見へ行けば内府は確実に治部殿の御命《おいのち》を――」

「そうとも限りませんぞ」

 兼続の賛意に猛反発する行長へ、左近が割って入る。よく見れば吉継もに何度も頷《うなず》き同意を示している。

 解《げ》せぬという不満顔の行長・秀家へ、兼続は告げる。

「“窮鳥《きゅうちょう》懐《ふところ》に入らば猟師も之《これ》を撃たず”」

 逃げ場に困り懐へ飛び込んできた鳥は、例え猟師であろうと殺す事を躊躇《ためら》う。“救いを求めてきた者に危害を加えない”という意味の故事成語で、行長は何を言わんかしている事を察した一方、秀家は懐疑的な表情で訊ねる。

「然《さ》れど、あの内府様がやってきた政敵を見過ごすとは思えませぬが……」

 その素直な疑問に対し、年長者の左近が答える。

「仰る通り、殿を始末するのは容易《たやす》いです。しかしながら、それでは内府の大望《たいもう》は遠のいてしまいまする」

 意味深な左近の言葉に、秀家は何かに気付いたらしく「あっ!」と叫ぶ。

 全員が理解したのを確かめ、三成が再び口を開《ひら》く。

「彼奴奴《きやつめ》の狙いは天下獲(と)りだ。伏見へ落ち延びた私を殺すなり阿呆(武断派)共に突き出してしまえば、豊臣家中の内紛で完結してしまう。天下を奪うには大きな戦が必須、その為には自分を倒さんとする旗頭が居る」

「……それが、治部殿と?」

 秀家の問いに、三成は首肯《しゅこう》する。

「私が死ねば面と向かって自分に歯向かう者が居なくなり、そうなれば戦を興す事が難しくなる。故《ゆえ》に、彼奴《きやつ》は私を生かす。将来の火種を絶やさぬ為に、な」

「ただ、無傷とはいきますまい」

 兼続が懸念を表すと、吉継が言葉を継ぐ。

「御主《おぬし》を討たんと躍起になっている者共の怒りを鎮《しず》める為には、何らかの処罰は下されよう。騒ぎの発端だからな」

「そんな……治部殿は命を狙われただけなのに罪人扱いとは!!」

 理不尽だと憤《いきどお》る秀家に、行長は宥《なだ》めるように諭《さと》す。

「備前中納言(秀家の通称)様のお気持ちは御尤《ごもっと》も。なれど、積年の恨みを晴らすべく決起した者達からすれば諸悪の根源は治部殿にあると妄信《もうしん》している以上、治部殿に罰を与えるのが穏便に事態を収束させる落とし処《どころ》かと」

 それでも難色を示す秀家へ、三成はケロリと言った。

「何《いず》れにせよ、あの古狸は私を闇に葬る事は出来ぬ。雌伏《しふく》の時と考え、暫くの間は大人しくしている心算《つもり》さ」

 達観《たっかん》したような口振りに、秀家も受け容《い》れる他なかった。言いたい事を言った三成はサッと立ち上がると、その足で部屋を後にした。

 刻《とき》が惜しいのは分かる。衆議一決《しゅうぎいっけつ》で即行動へ移せるのは好判断であり三成の利点ではある。が……。

 三成の去った場は、モヤモヤとした空気に覆われている。皆三成の性分《しょうぶん》を承知してはいるものの、残された面々は渋面《じゅうめん》や眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。

「皆々様、申し訳ありません」

 残っていた左近が全員に向かい深々と頭を下げる。危険を冒《おか》して馳せ参じた者達へ謝意《しゃい》も述べず辞去した三成の非礼に、気分を害する者が居て当然だ。

 左近の謝罪に、吉継はハァと重たい溜息を吐《つ》く。

「アレはアレで美点である反面、アレの所為《せい》で余計な敵を作っておる。この先の事を見据え、いい加減にあの態度は改めてもらいたいものなのだが……」

 半分諦め気味に溢《こぼ》す吉継。兼続も同感だった。

 秀吉存命時は天下人の威光を背に受けていたので他人の気持ちに斟酌《しんしゃく》したり配慮したりする必要は無かったが、今は違う。以前と同じ振る舞いを続ければ反感を買うだけだ。実際、機転を利かし女輿を用意した善宜や急に押しかけられた秀家は、明らかに気分を害していた。そうした気遣い心配りに欠けている事こそ、多くの敵を作り今回の騒動に至った根源と誰もが思っている。

 無論、吉継も行長も兼続も左近も、三成に相手を不快にさせる態度や言動は厳に慎むよう忠告している。しかしながら当の本人は“生まれ持った性分《しょうぶん》だから今更直らない”と開き直る始末。善処するにしても三成自身に変える心算《つもり》が無いので、今後も足を引っ張る事になるだろう。悪意が無い分、余計にタチが悪い。

 当座は凌《しの》げるだろうが、いざ家康と決戦になった際にどれだけの者達が味方してくれるか。兼続の心は暗澹《あんたん》たる思いに覆われた。


 宇喜多屋敷を密《ひそ》かに抜け出した三成は、伏見城内にある自らの屋敷・治部少丸へ移動。これと合わせ伏見に居る家康へ事情を説明する使者を送った。

 翌、閏《うるう》三月四日。三成の潜伏先を掴んだ武断派の面々は伏見を実効支配する家康へ身柄の引き渡しを求めた。それに対し家康は三成が罪人ではなく武断派の行動は寧《むし》ろ豊臣家の法と秩序を乱す行いだと非難。三成を討つならば自らが相手になると啖呵《たんか》を切った。その一方で武断派の不平不満に理解を示した上で“悪いようにせぬ”と三成の処罰を仄《ほの》めかし、武断派も「それならば」と引き下がった。一先《ひとま》ず武力衝突は回避されたものの、今回の事態を重く見た家康は北政所《きたのまんどころ》(秀吉の正室・寧々)と合同の仲裁で三成を佐和山へ護送する代わりに“奉行職を解き隠居する事”と“朝鮮の役における査定の見直し”を決めた。三成は家康の次男・結城秀康に守られ閏三月十日に佐和山へ戻った。

 騒動は終息したが、三成は豊臣家の中枢から追われる重い代償を払わされた。邪魔者の排除に成功した家康は閏三月十三日に公儀へ無断で向島城から伏見城へ“留守居”の名目で転居。豊臣家の持ち城である伏見城へ移った事に対し奉行の長束《なつか》(“ながつか”とも)正家・増田長盛は厳重に抗議するも、家康は無視。これを機に、家康は他の大老や奉行に諮《はか》らず独断で政《まつりごと》を決裁する事が増えていく。

 前田利家の死を潮目に流れが変わったのを肌で感じながら、兼続は上杉家の身の振り方について考えていく事となる。


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