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一 : 慶長四年 - (2) 治部誅殺の企て

 前田家弔問の差配を済ませ自室に戻った兼続だったが――誰も居ない筈の部屋に気配がある。

「――“百足《むかで》”か」

 部屋の隅に目を遣《や》ると、黒尽(づ)くめの者が片膝立ちで控えていた。

 上杉家には独自の忍び“軒猿《のきざる》”を抱えている。但し、上杉家の史料や軍記物など公式・非公式を問わず忍びの存在を仄《ほの》めかされても“軒猿”の名称は出てこず、様々な名称で呼ばれている、また、忍びの起源は山岳信仰の派生や農業に適さない峻険《しゅんけん》で狭隘《きょうあい》な地形で生きる為に体術を鍛えた・果てには異能を持つ者が異国から渡来し継承されてきた等の何かしら根拠に辿り着くが、“軒猿”が誕生した経緯は不明だ。それでも謙信が長尾姓を名乗っていた頃から“軒猿”を積極的に用い、主に諜報《ちょうほう》や機密保持の点で暗躍していた。特に天正五年〈一五七七年〉九月には能登・畠山家の居城である七尾城落城の事実を織田方へ漏れるのを阻止し、畠山家の要請で救援に向かっていた織田勢はそれを知らず加賀国を北上していると知った謙信は加賀へ出撃。七尾城陥落と上杉勢接近の報を同時に知った織田勢は慌てて引き返すも、加賀国の大河・手取川《てどりがわ》を渡るのに難渋していた状況で上杉勢が急襲し、溺死者を含め多数の死傷者を出した織田勢は這《ほ》う這うの体《てい》で越前へ逃げ帰る有様だった。この大勝は“軒猿”の働きに拠る所が大きかったと言えるだろう。

 その“軒猿”、謙信の代より頭目《とうもく》の名を“百足”としている。百足は毘沙門天の遣《つか》いとされ、武神である毘沙門天の化身を自称する程に崇《あが》め奉《たてまつ》っていた謙信がその縁起の良さを買い改名した次第だ。家督が景勝に確定したのに伴い景勝・兼続の前に現れ、今日《こんにち》まで蔭から上杉家を支えている。天下統一が果たされた後も“軒猿”は畿内を中心とした諜報活動と上杉家の機密保持の任に従事してもらっている。“軒猿”の存在は家中でも薄々知られているものの姿を見せるのは景勝と兼続のみだ。

 百足が姿を現したとなれば、何か起きたのだろう。それも、急を要する事態が。

「申し上げます。石田“治部《じぶ》”を討たんとする企てがある模様」

「何……」

 覚悟していたにも関わらず、兼続は驚きで声が漏れる。それ程までに衝撃的な内容だった。

 石田“治部少輔《じぶのしょう》”三成は秀吉の最側近でその死後も五奉行筆頭格として豊臣家の中枢で治政を支えている要人だ。選《よ》りにも選って大老筆頭で豊臣家の重鎮たる利家が身罷った当日にそんな馬鹿げた事を仕出かそうとは一体何処(どこ)の誰なのか。

 唖然《あぜん》としたのも束《つか》の間、直ぐに頭を切り替えた兼続は訊《たず》ねる。

「仔細を申せ」

「はい。加賀大納言(前田利家の通称)様逝去の報を受けた清州《きよす》侍従《じじゅう》を始めとする武将数名が加藤“主計頭《かずえのかみ》”の屋敷へ集まり、当初は故人の想い出を語り合っておりましたが次第に話は積年の鬱憤《うっぷん》へ変わり、熱を帯びていく内に『この機に佞臣《ねいしん》・治部を討つ!』という流れに……」

 淡々と述べる百足の報告に兼続は無意識に舌打ちする。こんな大それた事を短絡的に決める輩《やから》は限られ、兼続の頭の中で浮かんだ人物の名もその中に含まれていた。

 豊臣家では今、深刻な対立が生じている。槍働きで出世してきた“武断《ぶだん》派”と治政や兵站《へいたん》等で蔭から支えてきた“文治《ぶんち》派”の二つに分かれ、啀《いが》み合っていた。両者は秀吉が近江・長浜城主時代に小姓として側仕えしていた豊臣恩顧(おんこ)の大名が多く、当時も尾張閥と近江閥・血気盛んな性格と怜悧な性格で互いに相容れない点はあれど、正室の寧々《ねね》や秀吉の弟・秀長が仲を取り持ち衝突に至らなかった。しかし、いけ好かない印象は両者の間で痼《しこ》りとして残り、喉に刺さった鯁《のぎ》の如く心に刻まれていた。

 武官と文官の確執は間々(まま)ある話だ。武将達は『我等が命を懸《か》けて戦へ出ているのに、前線へ立たぬ輩が一丁前《いっちょまえ》にあれこれ査定したり決めたりするのは癪(しゃく)に障(さわ)る』と憎み、吏僚達も『我等が裏方と支え戦に専念出来る環境を整えているにも関わらず、感謝どころか馬鹿にしてくる粗暴者』と侮蔑する。これは日本に限らず明《みん》や李氏朝鮮でも似たような事例があり、水と油の関係だった。文武両面で慕われていた秀長は天正十九年〈一五九一年〉一月に死去し、その後は秀吉の求心力と威光で辛うじて繋ぎ止めていた。

 しかし、両者の軋轢《あつれき》を決定付ける出来事が起こる。――朝鮮の役《えき》だ。

 明征服を目論む秀吉による大号令の下、天正二十年〈一五九二年〉四月に開始した“文禄(同年十二月八日改元)の役”では、李氏朝鮮の政治腐敗や軍人軽視など敵側の悪条件も重なり当初から快進撃を続ける。ところが、日本軍侵略に対抗すべく結成された義勇軍や李舜臣《りしゅんしん》(イ・スンミン)率いる朝鮮水軍が猛威を振るい、次第に前線へ兵糧弾薬の輸送が支障を来《きた》すようになった。李氏朝鮮から救援を求められた明も同年七月に参戦し、日本軍は明・朝鮮連合軍に義勇軍を相手に厳しい戦いを強いられ、季節が冬を迎えると飢えや極寒に伴う病の蔓延《まんえん》で病死・凍死者が続出するなど、将兵達は過酷な状況に置かれた。

 現地に入っている石田三成を始めとする奉行達も決して手を拱《こまね》いていた訳ではない。日本・名護屋の秀吉や吏僚達に現状を詳《つまび》らかに報告し、苦境に喘《あえ》ぐ将兵達を救うべく物資運搬の頻度を増やしたり水軍の増強を要請した。だが、朝鮮沿岸は疎《おろ》か釜山《プサン》へ到着する前に船は沈められ、無事に荷揚げ出来たとしても前線へ向かう途中に義勇軍の襲撃に遭い、兵糧弾薬の枯渇問題は解消に至らなかった。朝鮮人による軍民両方が牙を剥いたのもあるが、快進撃で足場固めをせず戦線を延ばした日本軍の過失も後を引いた。

 武将達は兵站の機能不全のみならず軍令違反や専横な振る舞いを奉行達が秀吉に報告していた事に激昂。奉行達は与えられた職務を忠実に遂行していただけだが、秀吉から譴責《けんせき》や処罰に対し『讒言(ざんげん)だ!』と一方的に解釈、不和は怨念へ悪化した。文禄の役・慶長二年〈一五九七年〉一月から開始された“慶長の役”で寸土も得られず多くの将兵を喪《うしな》った上に重い財政負担だけが残り、不満の矛先は薨去した秀吉ではなく三成を始めとする“文治派”へ向けられる事となる。

 秀吉の死後“武断派”の不満が爆発しなかったのは、偏《ひとえ》に大老筆頭の前田利家が睨みを利かせていたところが大きい。清正を始めとする“武断派”の者達は面倒見が良く“文治派”へ気持ちを代弁してくれる利家を敬畏《けいい》し、三成など“文治派”の面々も“武断派”に感情的な行動を窘《たしな》める利家に感謝し、双方の仲を取り成した事でどうにか豊臣家は分裂を回避していた。

 ところが、繋ぎ役だった利家が亡くなってしまった。利家という箍《たが》が外れ、鬱積《うっせき》された忿懣《ふんまん》が一挙に爆発した恰好だ。

「治部殿は?」

「事前に襲撃を察知されたらしく、石田屋敷から退避なされた模様」

 騒ぎを耳にした豊臣家直臣から三成へ密告があり、同時に三成へ恩義を感じていた佐竹義宣(よしのぶ)が駆け付け、女輿に乗せて屋敷から脱出している。但し、この時点で上杉家は三成の動向を掴んでいない。

「私は殿へ報告する。治部殿の居所について引き続き捜《さが》してくれ」

「御意《ぎょい》」

 そう応えた百足は、瞬時に消えた。兼続は支度を中止し、急いで景勝の元へ向かった。


 同行する為の準備に自室へ戻った筈の兼続が平服のまま再び現れても、景勝は眉一つ動かさず何も訊ねなかった。兼続の険しい顔色や雰囲気で変事があったと察したのだろう。

 景勝は着替えの手を止め、人払いをする。それを見届けた兼続は声を落とし告げる。

「予《かね》てより治部殿へ不満を募らせていた一部の者共が、この機に乗じて討たんとしている由《よし》」

 誰もが驚くであろう内容にも、景勝は泰然としている。「そうか」と一言呟いただけだ。

「殿は従前通り、前田家へ弔問を。私は治部殿と合流し、この危機を乗り切るべく手を貸す所存」

 兼続の申し出に景勝は黙って頷く。それ一つの動作で兼続の献策は了承された。言葉を多く交わさずとも意思疎通を図れる点では阿吽《あうん》の呼吸と言えよう。

 さらに兼続は言葉を継ぐ。

「私の代わりは我が弟に任せます。本来なら“対馬守《つしまのかみ》”殿にお願いしたいですが、何分《なにぶん》急な事ですので間に合いません」

 大国《おおぐに》“但馬守《たじまのかみ》”実頼《さねより》、永禄五年〈一五六二年〉生まれで三十八歳。樋口兼豊の次男に生まれ、兼続の弟に当たる。天正十年に景勝の命で越後の名門・小国《おぐに》家へ養子に入り家督を継いだ。天正十五年〈一五八七年〉に聚楽第《じゅらくだい》の新築祝賀の使者で上洛した折、官位官職を授かると同時に秀吉の提案で“大国”へ改姓している。実頼は景勝の名代《みょうだい》として幾度も上洛し、趣味の連歌を通じて文化人を中心に人脈を築いていた。

 千坂《ちさか》“対馬守”景親《かげちか》、天文五年〈一五三六年〉生まれで六十四歳。謙信の父・長尾為景(ためかげ)の代から家老を務める千坂家に生まれた景親は謙信・景勝と仕え、外交・情報収集面で上杉家を支えた。文禄四年十一月から伏見留守居役を務め、政治の中心地たる畿内で他家との交渉や情勢分析の任に就いている。兼続からすれば長く伏見に在番し他家へ顔の利く景親を自らの代役にしたかったが、時間や距離の面で難しく断念した。

 そこへ、部屋の隅に黒い影が現れた――百足である。“軒猿”の存在は家中で噂程度しか知られておらず、その頭目たる百足も景勝・兼続のみに姿を見せる。

「殿、旦那。治部殿は宇喜多屋敷に潜伏しております」

 上杉家中において景勝は“殿”・兼続は“旦那”と呼ばれていた。主君と同等の権限を有し上杉家を運営する兼続の器量を(好悪《こうお》は別として)評価している事が窺《うかが》い知れる。

 三成の動向が早くも掴めたのは、先述した通りこの国の政治の中心地たる京・伏見・大坂に“軒猿”の人員を多く配置していた裏事情がある。この差配も兼続の意向が強く反映されていた。

「分かった。引き続き、相手の動きを探れ」

「御意」

 兼続の命を受け、百足は一瞬で姿を消した。それから景勝の方に向き直り、告げる。

「では、これより宇喜多屋敷へ参ります。何かありましたら百足を通じてお報せ致します」

「……うむ」

 景勝の了解を得た兼続はサッと立ち上がり、足早に辞去する。今は一刻を争う。事態が急変する事も充分に考えられる。豊臣家を守る為、延《ひ》いては上杉家の為、ここで三成を喪う訳にはいかなかった。兼続は急ぎ宇喜多屋敷へ向かった。


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