一 : 慶長四年 - (1) 前田利家、死す
慶長四年〈西暦一五五九年、以下西暦省略〉閏三月三日。大坂の上杉屋敷に居た兼続は今し方届いた報せを伝えるべく、主君の元へ向かっていた。
直江兼続。永禄三年〈一五六〇年〉生まれで四十歳。樋口兼豊の嫡男に生まれた兼続(幼名・与六)は、樋口家が属す上田衆の代表・長尾政景の次男・顕景の小姓として仕えた。その顕景が永禄七年(一五六四年)に上杉家当主・輝虎(後の“不識庵”謙信)の養子となると、兼続も春日山城へ同行したとされる。兼続五歳の時、十歳だった顕景と共に“越後四箇之道場”の一つ・金城山雲洞庵の第十三世住職・通天存達から勉学を教授された。因みに、幼少期の兼続に関する史料は少なく、元服時期や謙信の薫陶を受けたかは定かでない。
兼続の名が世に出始めたのは、天正八年〈一五六〇年〉。天正六年〈一五五八年〉三月十三日に謙信が急死したのを引き金に勃発した上杉家を二分する家督争い“御館の乱”を制した景勝の取次役として頭角を現していく。当初は兼続と狩野秀治の二人で内政外交を担当する執政体制が天正九年〈一五八一年〉頃に確立されたが、蒲柳の質だった秀治は床に臥す事も多く天正十二年〈一五八四年〉に死去したと思われ、これ以降景勝・兼続に依る双頭政治が執り行われる。また、景勝を支える有力者の一人・直江信綱が毛利秀広の凶刃に倒れる大事件が起こると、直江家の断絶を惜しんだ景勝の差配で兼続は未亡人の船と結婚し婿養子に入った。
先述した“御館の乱”や織田家の侵攻で滅亡の瀬戸際まで追い詰められるも時局に助けられる形で乗り切った主従は、二十代にして乱世の荒波に負けない強かさを身に着ける。天正十七年〈一五八九年〉六月に佐渡国を平定すると兼続に統治を一任され、与騎の志駄義秀を派遣し鉱山開発を進めさせ、発掘された銀で上杉家の財政を大いに潤わせた(金脈の発見は徳川家に没収された慶長六年〈一六〇一年〉で、“上杉家が佐渡金山を保有していた”とする説は虚偽の可能性が高い)。
慶長三年〈一五九八年〉一月十日、当時の天下人・豊臣秀吉の哀訴嘆願を受け、上杉家は越後から陸奥へ移封。その際に秀吉から米沢三十万石は兼続に与える旨の命令が出ている。移封で百二十万石の大身になったとは言え、実に四分の一の所領を陪臣に授けるのは異例の処遇である。秀吉は大名家で有能な家臣に大封を与え主従の絆に罅を入れようと画策する事が間々あり、“秀吉に買収された”と不信感を抱いた主君が疑心暗鬼に陥り忠臣を冷遇した結果御家がガタガタになる例もあったものの、幼少期から苦楽を共にしてきた景勝が全幅の信頼を寄せる兼続には心配無用だった。その景勝・兼続は秀吉が体調を崩しがちになったと聞き、転封直後にも関わらず内政を後回しにし上洛。同年八月十八日、太閤豊臣秀吉薨去。享年六十二。ただ、朝鮮で戦う将兵の撤収や秀吉の死に伴う事務手続き等で畿内に留まり続け、現在に至る。
景勝の居室に着くと、ちょうど朝餉を摂っていた。それでも兼続の菅良を目にした景勝は箸を置き、膳を脇に寄せる。
「殿、一大事にございます」
険しい口調で切り出した兼続に、景勝はムッとした顔のまま岩のように固まっている。食事を邪魔されて不機嫌になった訳ではなく、これが常の姿である。
上杉“権中納言”景勝、弘治元年〈一五五五年〉十一月二十七日生まれで四十五歳。南越後の上田庄を地盤とする上田長尾家の当主・政景の嫡男に生まれるも、永禄七年に輝虎(当時)の養子となる。これは“生涯女犯”を誓った謙信が自らの姉・仙洞院の子で同じ血筋を後継に据えたい思惑が少なからずあったと推察されるが、同年七月に夫である政景が溺死し身寄りを喪った母子を引き取った側面も恐らく含まれていた。天正三年〈一五七五年〉に“景勝”と改名すると共に謙信の官途名(“受領名”とも。帝や朝廷による正式な手続きを経ず私称した官職名)である“弾正少弼”を譲られ、一門衆筆頭に遇された。
しかし、北条家と同盟を結ぶに当たり永禄十三年〈一五七〇年〉に上杉家へ人質に出された北条氏康の七男・北条“三郎へ元亀元年〈一五七〇年、四月二十三日改元〉四月に謙信の姪で景勝の姉を継室に娶らせた上で自らの初名“景虎”を与えるなど厚遇。端正な顔立ちで華のある景虎の器量を謙信が評価していた事から、景虎を次の当主に推す家臣も一定数存在した。こうした経緯から謙信は景勝と景虎を互いに競わせ、両者の才覚を見極めるまで後継について具体的な明言を避けた。
しかし――この方針が上杉家に災いを齎す。天正六年三月九日、春日山城内の厠で倒れた謙信は昏睡状態に陥り、十三日未の正刻〈午後二時〉に死去してしまったのだ。享年四十九。謙信急逝で跡目を巡り景勝方・景虎方の間で苛烈な争いの火蓋が切られた!!
景勝方は景虎方に先んじて春日山城本丸を制圧するも、景虎は前関東管領・上杉憲政の住まいである“御館”へ移り景勝方と対立する家臣達を自陣営へ引き込むと同時に実家である北条家へ協力を求め、上杉家を乗っ取れると判断した北条氏政は兵を越後へ送り込むと共に同盟を結ぶ武田家にも協力を仰いだ。苦境に立たされた景勝方は大幅な譲歩を提示し敵である武田勝頼を懐柔させる事に成功。徐々に形勢は景勝方に傾き、天正七年〈一五七九年〉二月一日、景勝は御館への総攻撃を開始。兵の離反が相次いだ景虎は“御館”を脱出し関東へ落ち延びようとするも途中で家臣の裏切りに遭い、妻子と共に自害した。これにより、景勝が上杉家当主の座を掴み取った。
しかし、景勝の試練はまだ続く。家中を二分する内紛劇の間に織田勢は上杉領を侵食し、 “御館の乱”の論功行賞に不満を抱いていた北越後の新発田重家が信長の調略に応じ天正九年六月に造反。そこへ追い討ちをかけるように同盟相手の武田家が天正十年〈一五八二年〉三月に滅亡、同日には織田家で北陸方面を担当する柴田勝家率いる四万の軍勢が越中東部の要衝・魚津城を攻囲した。西・北・南の三方向に敵を抱える状況に、同盟を結ぶ佐竹義重へ宛てた書状に景勝は自らの心境について『自分は良き時代に生まれた。六十余州を越後一国で戦いに挑み、滅尽するのは死後の想い出になる』と記している。滅亡を覚悟しながら悲愴感は滲んでおらず、寧ろ誇りにすら思っている文面だった。六月三日、魚津城落城。遂に織田の大軍が越後へ雪崩れ込んでくる――最期の決戦に肚を固める上杉勢に、神風が吹く。六月二日、信長が宿泊する京・本能寺を重臣・明智光秀率いる軍勢が急襲!! 信長は非業の死を遂げ、この凶報を知った織田勢は上杉攻めを中止した。上杉家は首の皮一枚で救われた。
その後、空白地帯と化した旧織田領である甲斐・信濃・上野の三ヶ国を北条・徳川と三つ巴の争奪戦となった“天正壬午の乱”では北信濃奪還に留まり、反旗を翻した新発田討伐も天正十一年〈一五八三年〉九月(時期については諸説あり)の“放生橋の戦い”では景勝の命が危ぶまれる程の惨敗を喫するなど、復権は順調と程遠い状況だった。こうした中、局面を打開する転機が訪れる。信長の後継となった羽柴秀吉との連携だ。
越中・佐々成政との共闘もあり良好な関係を築いていた事もあり、天正十四年〈一五八六年〉六月十四日に上洛した景勝は秀吉に臣従する。これを受け“豊臣(同年九月九日に賜姓)家の天下統一に寄与する”大義名分の下、上杉家と敵対していた新発田家や佐渡の本間家を討伐。さらに天正十六年〈一五八八年〉八月に最上家と領有権を争っていた出羽・庄内を奪取するなど、版図を着実に拡げていった。
慶長三年一月、秀吉の懇請により会津へ移封。元々会津は関東を治める徳川家康の後背を脅かす牽制役と天下への野心を抱く伊達政宗・中小領主が犇く出羽置賜近隣を併呑し勢力を拡大させた最上義光など一癖も二癖もある奥羽の大名へ睨みを利かせる目付役の両方を求められ、東国統治の重要地域の一つだった。当初は信長からも一目置かれた蒲生氏郷に与えられるも、文禄四年〈一五九五年〉二月に急逝。並大抵の人物では務めらないと悩みに悩んだ末、草廬三顧を以て景勝に打診した次第だ。その証拠に旧領の佐渡・庄内及び越後・東蒲原は引き続き上杉家の領有が認められ、氏郷を上回る百二十万石の大封を得ている。
また、死期が迫る秀吉が幼君秀頼に代わり豊臣政権の枢軸と言うべき“五大老”に景勝は名を連ねた。秀吉の猶子だった経歴を持つ二十八歳の宇喜多秀家は特別として、四十四歳の景勝は些か荷が重いのでは? と懸念する声もあったが、謙信以来脈々と受け継がれている“義”の家風を堅持する上杉家は『豊臣家を絶対に裏切らない』と秀吉は確信していた事が決め手となった。
その景勝、寡黙な性格で滅多に言葉を発さず、能面の如く感情の起伏を表に出す事は皆無だった。あまりに表情の変化が乏しい故に初対面の人から“仏頂面”や“不愛想”と誤解されがちだが、喜怒哀楽等を表さないのは意識しての事だった。それが例え自分一人の場であったとしても、貫き通している。これは神懸かった軍才と毘沙門天に生涯を捧げた先代・謙信が自らを神格化させ内紛の絶えなかった長尾(上杉)家を纏め上げたのに対し、景勝もそれに倣い不用意な発言や感情の発露を厳に慎む事で貫禄を保とうとしたのだ。
無論、幼い頃より側近くに仕え苦楽を共にしてきた兼続には、眉や目・口元など容貌の微かな変化で主君の感情や思考は何となく察せられる。正に阿吽の呼吸だ。
「本日、前田“大納言”様が身罷られた由」
兼続の報告に、景勝は僅かに目を瞠る。「そうか」とボソリ呟くと、前田屋敷のある方へ体を向け合掌する。
前田“権大納言”利家。天文(“てんぶん”とも)七年〈一五三八年〉十二月生まれで享年六十二。信長の近習出身で文武両面から織田家を支え、天正九年には能登一国を与えられた。また、秀吉とは身分が低かった頃から“友”と呼べる程に馬が合い、夫婦共々良好な関係を築いた。天正十一年に勃発した織田家内の覇権争いである賤ヶ岳の戦いでは柴田方で参戦するも寄親で多大な恩のある柴田勝家と友垣たる羽柴秀吉のどちらに与するか苦悩した末、戦線離脱を選択。これが呼び水となり勝家に勝利した秀吉は利家を重臣として遇していく。
五大老の仕組みが制定されると、利家は徳川家康と並び筆頭に据えられた。石高は八十三万石余りと家康の三分の一程度だったが、忠義に篤い性格に加え豊臣家中に仰慕する者が多数居た事から、家康に対抗出来る唯一の人物と秀吉は恃んだ。それを裏付けるように秀吉は自らの死後家康は『伏見で政を執り行う』よう命じたのに対し、秀頼の傅役に指名された利家は『大坂で秀頼を後見する』役割を与えている。天下を掠め取る恐れのある家康への警戒と同時に、無二の友へ幼君秀頼の盾となる期待や信頼の表れだった。それを示す試金石となる出来事が今年一月に発覚した、“公儀へ無断に進められた家康と諸大名の婚姻”問題だ。
文禄四年六月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次に謀叛の嫌疑が突如浮上。巷間で流布する乱行・背徳行為の疑惑と合わせ申し開きするよう秀次に求めた。これに対し秀次は疑惑を否定した上で出頭する意思を示すも秀吉から拒否され、自害した。享年二十八。後継候補を一本化させた秀吉は将来を見据え新たな措置を講ずる。同年八月三日、大坂城の廊下に諸大名や公家・民衆が守るべき項目が記された壁書が張り出されたのだ。この“大坂城中壁書”通称“御掟”は本文五ヶ条・追加九ヶ条の計十四ヶ条で、豊臣政権を運営していく上で基盤・指針となる事を示したものだった。
その内容は“神職仏僧は修学修道に励みなさい”とか“輿に乗っていい人の条件”・“酒を飲み過ぎるな”といった武士以外の者も対象とする条項も含まれていたが、大半を占めたのは大名への規範だ。“公儀に無許可で大名間の結婚は禁止”“大名間での誓紙交換は禁止”“大名は知行分の奉公をすべし”等の主に豊臣家への謀叛や大名間の抗争を未然に防ぐ狙いが含まれていた。それにも関わらず、本来模範であるべき大老筆頭たる家康が公然と破ったのだ。
家康は豪商・今井宗薫の仲介で伊達政宗と婚姻を結んだのを発端に、福島正則・加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政と婚姻をまとめた。これを知った四大老五奉行は事の真意を糺すべく詰問使を派遣するも、家康は『届け出を出すのを忘れてた』と白を切ったばかりか『太閤殿下より政を託された儂にあらぬ罪を着せて追い落とす心算か!?』と逆に恫喝する始末。利家(大坂)と家康(伏見)の間で緊張が高まった事により戦を恐れた民衆に避難の動きが出たり、武力衝突に備え双方の大名屋敷に諸大名が馳せ参じたりと混乱が生じた。ただ、駆け付けた大名の数が思ったより少なかった家康・討伐する事に消極的だった利家双方の思惑が一致していた事から、家康と四大老五奉行の間で誓紙を交わし一先ず最悪の展開は免れた。家康が矛を収めたのは利家の元に世代や派閥の枠を超えた多くの有力者が参集した点が最も大きな要因で、利家の存在こそ家康を自制させるだけの力を持っている事を象徴する出来事だった。
その利家と景勝は少なからず交流があった。天正十三年〈一五八五年〉八月の佐々征伐では加賀の利家と連動する形で越中へ攻め入り、翌天正十四年上洛の折には金沢で饗応を受け、天正十八年〈一五九〇年〉の北条征伐では北国口方面担当で共闘、大老就任時も親子程の歳が離れていても対等に接してくれた。尊敬に値する人物だったと景勝は心から思っていた。
合掌を解いて兼続の方に向き直った景勝へ、話を続ける。
「殿。前田家へ弔問を」
「……うむ」
兼続の求めに短く応じる景勝。
「では、支度を進めておきます」
そう言った兼続に、景勝は無言で頷く。主の前から辞した兼続は早足で自室へ向かう。景勝の用意もそうだが同行する兼続も準備をせねばならない。寡言の景勝だけでは応対も難しいので、交渉や会話は兼続が担う。正に“一心同体”、二人で足並みを揃えているからこそ今の上杉家の繁栄があるのだ。
頭の中で訪問の段取りを組みながら前田家の方々へお悔やみの言葉をどう述べるか同時並行で考えながら、歩みを進める兼続だった。




