三 : 最上攻め - (11) 本望成就の奇策
慶長六年七月一日、景勝・兼続は畿内へ向け若松より出立。大坂に着いた景勝は先ず秀頼・淀の方に謁見。その後二十四日に上洛、八月八日に伏見城へ出仕した。
一昨年まで同格として車座で着席していた景勝だが、今は上段から下がった位置に腰を下ろしている。まだ大老職に就いているものの形骸化しており、隔世の感があった。
暫く待っていると、奥からこちらへ歩いてくる足音が聞こえてきた。景勝、その後ろに控える兼続は黙って深く頭を下げる。
入室してきた人物が上段に座るのを確かめ、僅かに頭を上げた景勝が徐に口を開く。
「内府様の御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」
景勝の口上に「うむ」と短く応じる家康。その言上は明らかに主君へ述べるもので、立場が変わった事を兼続は内心痛感していた。前に座す主・景勝はどう思っているだろうか。少し、気になった。
対する家康はでんと座っているが、その姿は以前より威厳や貫禄に満ち溢れているように兼続の目には映る。覇権争いを制した事で天下人の地位が確固たるものとなり、環境と自信が風格として表れている感じか。壮健だった頃の秀吉を彷彿とさせた。
さらに、景勝は続ける。
「此度は身の程を弁えず内府様に弓引きました事、加えて上洛が遅れました事、重ね重ね申し訳ございません」
そう言い、畳に額が付きそうなくらい平伏する景勝。兼続もそれに倣う。
雪解け次第速やかに上洛したかった景勝の到着が夏までずれ込んだのは相応な理由があった。陸奥国内の情勢が不安定で会津を離れるのは危ないと判断した為だ。
関ヶ原の戦い・慶長出羽合戦が終結しても騒乱が継続していた元凶は、“独眼龍”こと伊達政宗。家康より秀吉に取り上げられた旧領返還の密約(通称“百万石のお墨付き”)を得るも、三十四歳と野心溢れる政宗は満足せずさらなる高みを目指した。伊達家本貫の地たる伊達・信夫両郡を自らの手で取り返したい政宗は慶長六年四月十六日に白石城を出陣、再び上杉領へ侵攻し二十六日に松川の地で激突した。両軍入り乱れる激戦となるも兵の質・量で優る上杉勢が押し崩し、伊達勢は敗走に追い込まれた。この時、岡定俊が政宗へ迫り、辛くも逃れる醜態を晒している。流石に二度も斥けられた事に懲りた政宗は奪還を諦めた。
政宗による版図拡大の企みはもう一つ進行していた。北条征伐時に小田原へ参陣しなかった奥羽の国人の大半が改易の憂き目に遭い、その決定に反発し各地で一揆が続発した。その中の一つ、陸奥国北部の和賀郡を地盤としていた和賀義忠も天正十九年に蜂起するも敗北、敗走途中で土民に討たれ御家は滅んだ。しかし、義忠の遺子・忠親に利用価値があると考えた政宗は伊達家で匿った。慶長五年に入り奥羽で動乱の兆しが出始めるや忠親に『御家再興の好機到来』と嗾け、旧臣達に参集を呼び掛けさせ兵や武器を融通するなど蔭ながら支援した。伊達家の後ろ盾もあり、南部利直が最上家への加勢で出撃した隙を突き挙兵。和賀・稗貫郡統治の要たる花巻城を急襲するも……落城寸前まで追い詰めながら南部勢必死の抵抗に遭い退却。出端を挫かれた旧和賀勢は敗北を重ね、岩崎城に籠もったところで冬を迎えた。人の体温を奪う厳しい寒さと移動を制限する深雪の為に戦は一時停止となった。
慶長六年三月十七日、南部勢は城攻めを再開。前以て制圧に向けた段取りを組んで臨むも、追い込まれた旧和賀勢による壮絶な抵抗もあり難航した。しかし、兵数で劣る旧和賀勢に戦況を覆す程の力はなく、四月二十六日に岩崎城は陥落。城を脱出した忠親は伊達領へ落ち延びたものの、煽動した罪が自らに及ぶのを恐れた政宗から見限られ、観念した忠親は分尼寺にて自害した(事実隠蔽の為に謀殺したとも)。但し、政宗の悪巧みは奥羽へ放っていた伊賀者の報告や南部・最上家等の注進により家康の耳に届き、“百万石のお墨付き”は反故にされている。
そうした背景があった為、奥羽の情勢が鎮静化するまで景勝は上洛を先延ばしせざるを得なかった。家康も景勝が留守の間に騒擾が起きても困るので遅参の件は不問としている。
「向後は天下泰平の為、忠勤に励む所存」
真摯に反省し謝罪する姿勢を見せた上で、そう述べる景勝。忠誠を誓う相手については言及してないが、家康を主君としているのは明らかだ。これに対し家康は満足気に「うむ」と頷く。
「面を上げい」
過ちを詫び臣下の礼を執った事に満足した家康が促し、景勝と兼続は作法に則り僅かに顔を上げる。家康は険しい顔つきのまま脇息に肘を置き、頬杖をした姿で切り出した。
「然ても然ても、主家存続を勝ち取るべく思い切った条件を示すとはのぅ。計謀を巡らせれば当家一の佐渡も流石に驚いておったぞ」
砕けた口調で兼続へ語り掛ける家康。その話し振りから感心している事が伝わってくる。
寡黙で多くを語らない景勝に代わり、執政であり最側近の兼続が応対するのは間々ある事だ。多くの場合は上杉家公式の見解や主張を受け答えするのに対し、今は珍しく“直江兼続”という人物に水を向けていた。
家康も舌を巻いた内容とは――『本多“佐渡守”正信の次男・政重〈※徳川家家臣時代の名が不明な為、認知度の高い“政重”表記とします〉へ将来的に兼続の娘・於松を娶らせ、直江家の跡継ぎとする』というものだった!
現時点で兼続には正室・船との間に儲けた平八(後の景明)が居る。平八は文禄三年〈一五九四年〉生まれで当年八歳、このまま順調に育てば直江家の次期当主になると誰もが思っていた。そんな嫡男が存在しながら敵とも言える徳川家、それも謀臣として近年頭角を現しつつある本多正信の子を婿に迎え継嗣に据えるとは一体どういう了見か。上杉家中に知られれば反発必至な提案を兼続が申し入れたのは深い理由がある。
本多政重、天正八年生まれの二十二歳。正信や兄・正純など吏僚肌の多い家筋には珍しく武闘派だったが、慶長二年に諍いを起こし相手を斬殺・出奔してしまった。こうした経緯から親徳川派な大名は召し抱えを躊躇い、始めは大谷吉継、次いで宇喜多秀家の家臣となっている。宇喜多家では“正木左兵衛”の名で二万石の高禄を得た。関ヶ原の戦いでも宇喜多勢の一員として活躍、ただ西軍は敗北し逃亡の末に近江国堅田で隠棲している。
徳川家重臣の座まで昇り詰めた正信からすれば“本多家の名を穢す不肖の子”と恥じ存在自体を抹殺したいであろうが……兼続は別の見立てをしていた。
同輩を殺め出奔したのは大罪で他家に政重を家来にする事を禁じる“奉公構”を通達してもおかしくない筈なのに、仕官の自由を認めていた。“家康の最側近・本多正信の子”という肩書に徳川家へ仇為す行動、徳川家の内情をよく知るという理由から反家康の大名家から多くの誘いがあり、実際に西軍の主力を担った大谷・宇喜多両家へ仕えている。そして浪人になった今も複数の大名家が声を掛け、関ヶ原の戦い勝利に貢献した福島正則に再仕官するとの情報を“軒猿”から兼続へ秘かに伝えられている。その正則は東軍ながら加藤清正と並び豊臣家へ篤い忠誠心を持ち、家康が秀頼を害そうと企てれば“武力を以て楯となる”覚悟を持っていた。徳川家を頂点に統治する体制を構築したい家康からすれば要注意人物で、その動向を常に把握しておきたかった。偶然にしてはあまりにも都合が良過ぎる。色々考えた末に導き出した仮説は――『徳川家にとって危険な大名家の内情を探る密偵』。
正信の意に沿う形で警戒対象の大名家を監視する密命を帯び転々としている政重を、言わば“獅子身中の虫”を自ら進んで取り込もうというのだ。一見上杉家を徳川家に売る背信行為のように映るが、この申し出は兼続による深慮遠謀が詰まっていた。
大名家の内情は当然ながら機密事項である反面、意外な形で漏洩する事も多い。その最たる例が嫁いできた奥方やその付き人だ。同盟締結や関係修復など政治的な色合いが濃い大名同士の結婚に於いて輿入れした妻は両家を繋ぐ象徴であり裏切らない証の人質として扱われるのだが……嫁いだ先の家が実家に危害を及ぼそうとする動きがあった際、妻と一緒に移ってきた女中が秘かに内通する事が多々あった。妻も実家が安泰だからこそ正室の座を保てるので、裏切りを未然に防ぐ間諜の役割を有していたのである。それを逆手に取り、政重を迎え入れる事で上杉家の内部を詳らかにし『徳川家へ叛心などございません』と見せつけるのが第一の狙いだった。
第二に、政重を上杉家で召し抱えるに当たり“直江家の婿養子にする”という厚遇を提示した点だ。兼続は当主に次ぐ執政の座にあり、その役職は恐らく政重に引き継がれる。そうなれば家臣で最大の封地に加え、上杉家の政は将来的に徳川家の意向が強く反映される事となろう。家康や正信も兼続の想定を遥かに超える譲歩に度肝を抜かれた格好だ。
最後に……徳川家臣団に罅を入れる策略だ。関ヶ原の戦いを制した家康は徳川家による統治体制の構築を図るが、その過程で勃発する可能性が高いのは家臣間の主導権争いである。豊臣家でも天下統一を果たした後に武断派と文治派の深刻な対立が生じた。徳川家の家臣団は三河の弱小大名だった頃より鉄の結束を誇る一方、酒井・石川・本多・大久保など譜代が一族を挙げて影響力を競ってきた過去を持つ。和睦交渉で取次を務めたのは結城秀康だが、兼続は千坂景親を介して本多正信に働きかけを行い、手柄の独り占めを阻止させた。秀康からすれば横槍を入れてきた正信を快く思わないだろうし、正信も家康の最側近たる立場を秀康に脅かされるのを恐れている。些細な事かも知れないが、小さな亀裂が後々大きな分断へ繋がる布石となるのを兼続は秘かに期待していた。
「真に畏れ多い。我等と致しましては最大限の誠意を示したまで。ただ、それだけにございます」
控え目に応じる兼続。その殊勝な態度に不満を抱いたのか家康はフンと鼻を鳴らした。
姿勢を正した家康は真剣な面持ちで告げる。
「沙汰については後日改めて言い渡す。以上だ」
言い終わるなりサッと立ち上がった家康に、兼続は景勝と共に退室するのを平伏して見送る。天下人の座に就いた家康に気分転換を兼ねて雑談する時間も発想もないみたいだ。
ただ、それは二人も同じ。目的を果たした景勝と兼続も辞去すべく体を起こす。改易という最悪な結末は回避するも、この先に待っているのはいっそ死んだ方がマシだったと思えるくらい苦難に満ちたものであると確信していた兼続は、凛とした表情で会見場を後にした。




