終 : むざむざと斃れず
慶長六年八月十六日(十七日とも)、上杉家への処分が正式に言い渡された。佐渡・越後並びに出羽・陸奥の大部分を没収の上、出羽置賜郡と陸奥伊達・信夫郡約三十万石の領有が認められた。この米沢三十万石は秀吉の命で兼続に与えられたもので、奇しくも毛利家と似た形となった。四分の三の減封も然ることながら莫大な運上金を齎してくれる酒田湊や稲作に適した肥沃な地を失ったのは石高以上に大きな損失だった。
石高が減れば余剰人員を削るのが定石であるのに対し、上杉家は蒲生家へ復帰する岡定俊など自らの意志で去る者を除き全ての家臣を受け容れた。この為、上杉家の武士に下働きの者、越後から会津へ付き従った商店や寺院などが一挙に米沢へ移転する運びとなり、城下町の拡張が完了するまで住居・土地の問題を抱える事となる。経済的な負荷を承知で召し放ちをしなかったのは、“戦力を保持する事が徳川家への牽制になる”と考えたからだ。
片や、“直江家の婿養子に迎える”話の当事者たる本多政重は……福島家に仕えるも短期間の内に去り、その後三万石の高禄で前田家の家臣となった。前田家は諸大名で唯一百万石を超えていた事から徳川家もその動向を注視し、前田利長も恭順を示すべく政重を受け容れた事情がある。兼続の申し出が実現されるのは慶長九年〈一六〇四年〉閏八月、婿入りした政重は“大和守”直吉と名を改めた。ところが……慶長十四年〈一六〇九年〉に元の姓名に戻した政重はその二年後に上杉家を致仕。政重が去った理由は不明だが、上杉家に徳川家へ逆らう兆候は見られないと判断しての行動と推察される。ただ、恩義に感じていたらしく慶長十七年〈一六一二年〉に前田家へ復帰した際に政重の家族と共に上杉家の家臣二十~三十名が転籍し、財政負担の軽減に貢献する置き土産を残した。
そして――兼続は家宰として辣腕を振るい続けた。収入増を図るべく開墾・治水事業に乗り出し、額面上三十万石だった獲れ高を五十一万石まで押し上げた。それだけに留まらず新たな産業の振興や鉱山開発も行い、財政状況の改善に尽力した。一方、跡取りの景明は慶長二十年〈一六一五年〉に二十二歳の若さで死去。元和五年〈一六一九年〉十二月十九日に兼続が六十歳で死去した後もこれまでの功績を鑑み直江家は存続するも、正室・船が寛永十四年〈一六三七年〉一月四日に死去すると後継不在を理由に断絶した。しかし、家中で最も高禄だった直江家が消滅した事でその知行地は上杉家へ返還され、台所事情の改善に繋がっている。最期まで上杉家の為に奉公する生涯だった。
もし兼続が最上攻め失敗の責めを負い自裁していたら、その後に待ち受ける上杉家の御家存続が叶ったとは考えにくい。恥と知りながら帰還した事で、主家を改易の窮地から救ったのだ。直江家の旗標に取り入れられている雁金は春になると生息地へ戻って来る。ボロボロになっても斃れず主君・御家の為に尽くした兼続の生き様は、宛ら雁金と呼ぶに相応しいのではなかろうか――。
(了)




