三 : 最上攻め - (9) 撤退戦
翌、慶長五年十月一日。月が替わるとそれまでの形勢は引っ繰り返った。
最上攻めの継続を断念した上杉勢は夜明け前から撤退を開始。万を超す大軍が円滑に移動すべく狐越街道を進んだ。
しかし、上杉勢が退くのを最上勢が黙って見過ごす筈がない。積年の恨みを晴らすべく稲荷塚から出陣、傍観に徹していた伊達勢も同調し、上杉勢へ襲い掛かった!!
攻め寄せる最上勢は嵩に懸かり押し寄せて来る。侵略者が兵を引く絶好機に手柄を挙げたい、雪辱を果たさんと戦意衝天に合わせ、中央の戦の結果を受け自らは“官軍”で敵は“賊軍”に転落した事も背中を押す要因となっていた。気炎万丈で猛襲する最上勢に厳しい戦を幾度も経験してきた精兵揃いの与板衆も受け身になる一方だった。苦境に喘ぐも統率は維持されているのは日頃の鍛錬もあるが――。
「はーっはっは!! 緩い!! 吾の血を滾らせてくれる剛の者は最上に居らぬのか!?」
最後尾で狂風の如く暴れ回るは、前田慶次郎。朱で統一された具足・長槍と敵の目を引く出で立ちながら、兜首欲しさに吸い寄せられる雑兵を次々と屠っていく。その様はまるで舞い踊っているように鮮やかだった。穂で刺し、刃先で斬り、柄で叩き、石突で突く。攻撃方も多彩で自らの手足同然に槍を操る。特筆すべきは敵を“殺す”より“倒す”事に重きを置いている点だ。
士分なら甲冑に籠手・脛当・壺袖と体の大部分を覆う武装を、雑兵でさえ胴丸に陣笠・鉢金と急所を守る防具を着用している。慶次郎は周囲の状況や相手の動き・力量から防具の隙間である脇や踵骨腱〈アキレス腱〉・保護されてない首や頭部を必要最小限の動作で攻撃し、場合に依っては穂の平らな面で頭を叩いたり首を横打・または心臓や肺のある胸部を石突で突く手段を選んだ。要は“行動不能にすればいい”のであり、気絶させたり致命的な傷を負わせれば目的は達せられる。向かって来る敵を全て殺そうとすれば体力を多く消耗し、やがて限界を迎え討たれてしまう。時に“手を抜く”のも大切だと将兵達に教示する良い手本だった。
慶次郎が扱う獲物は刃長二尺半〈約七十五センチメートル〉・全長二間半〈約四メートル七十五センチメートル〉の大身槍で、鎧を貫く他に穂を引けば裂く事も可能な反面、寸法の大きさや重量で取り回しは難しい。それにも関わらず慶次郎は軽々と振るい、激しい動きを続けながら笑みを浮かべる余裕さえ窺わせる。今年六十八歳の老体には到底見えなかった。
その慶次郎、組外衆ながら殿に加わると申し出てくれた。兼続に面と向かって「また正気を失われても困るから、吾が責任を持って連れ帰る」と宣言した際には思わず苦笑したが、一騎当千の古強者が加勢してくれるのは本当にありがたかった。恐怖に呑まれかけていた味方の足軽に声を掛け我に返らせたり、時機を見計らい引くよう促したりと好影響を与えている。慶次郎以外にも「他所者に負けてたまるか!」と腕に自信のある旗本の勇士数名が殿に志願している。戦況は厳しいながらも悲観する程ではなかった。
一方、総大将の兼続は富神山の山裾に布陣し馬上から采を振るう。山中には若松より援軍で送られてきた“軒猿”達が目を光らせ、迂回し背後から急襲されたり木の上から狙撃されたりされる不安は無用だ。それ故、眼前の敵の対処に集中出来る。周りには警護の近習が何名か控えるのみで、多くは前線に配置されていた。馬に跨るのは目線を高くし戦況を悉に確かめたい意図もあったが、万一の際に出撃または離脱する事を想定しての備えだった。
使い番が報告に駆け込み、兼続の目から危ういと感じた部隊への対処を伝えるべく使い番が発せられる。人の出入りが激しい中、兼続はあるモノに勇気を貰っていた。
(よし、雁金は健在だ)
旗指物に描かれている雁金紋に汚れや破れのない事に、兼続は秘かに励まされる。雁金は忠誠の証、“無事に帰る”吉兆の象徴だ。絶対に主君の元へ戻る決意を固めた兼続にとって何よりの縁起物に映った。
戦局は正直なところ不芳である。慶次郎達の活躍はあれど、末端の兵の死傷者が刻を追う毎に増えている感覚だ。精神的優位に立つ最上勢は侮れず、一進一退を保っているのも健闘していると見ていい。
最上勢は損害を出して一旦引いても、直ぐに新手が現れる。交代を繰り返しながら波状攻撃を仕掛けてくる一方、上杉勢は延々防戦に追われるので次第に疲れが溜まり始めていた。追躡してくる最上勢は手柄を欲する気持ちが先走り刀槍で群がり、敵味方入り混じる白兵戦では鉄砲や弓など飛び道具を封じられているのも間合いを取り一息入れたい上杉勢へ不利に働いた。
幾度目となる敵勢が引き揚げていく様を目にしながら、兼続は妙な違和感を抱いた。
(……やけにしつこいな)
引っ掛かるのは、最上勢の執拗な攻撃だ。何回も撃退されれば『一度やり方を変えるか』と考えたり『これ以上損害を出すのは好ましくない』と自重へ判断が傾いたりするのに対し、敵は馬鹿の一つ覚えの如く突貫を繰り返す。先日来の侵攻で命を落とした同朋の仇討ちや郷土から侵略者を放逐したい気持ちが戦意を高める要因となるのは分かるにしても、少々異様だ。
顎に手を当てモヤモヤの理由を探る兼続。そこへ「おーい、旦那」と呼び掛ける声がした。最前線で戦っていた慶次郎が愛馬に乗り近付いてきた。
「如何なされた? どこかお怪我でも?」
「なぁに、勢い任せに仕寄る雑魚ばかりで欠伸が出そうさ。それより……」
言うなり馬を寄せた慶次郎は、耳元で囁く。
「相手の攻めが、ちと諄いように思う。意趣返しにしては度が過ぎている」
「貴殿もか。私も同じように考えていたところだ」
歴戦の猛者たる慶次郎もおかしさを感じたとなれば自分の勘が正しいと思う反面、薄気味悪さを覚える。この正体が何なのか解明したいのは山々なれど、生憎悠長に考える時間は無い。
二人が怪訝な顔を突き合わせていると、ひどく狼狽した様子の使い番が駈け込んで来た。
「も、申し上げます!!」
「如何した、そんなに取り乱して。“上杉家の士分たる者、常に平静を保つべし”の教えはどうした?」
動転する使い番に慶次郎はやんわり落ち着くよう促す。此処は戦場、どんな事があっても不思議でない。場数を踏んでる兼続も周章する使い番を見て逆に冷静となった。
慶次郎の指摘に使い番は一つ唾を飲み、ハキハキとした声で告げる。
「最上勢の先頭に“鍬形台”に“竹に雀の紋”の前立を配った兜を被る武者あり!! 恐らくは――」
「見つけたぞ!! 直江山城守!!」
使い番の言葉を掻き消すように、遠くから割って入る声が響く。遥か先に装飾の施された甲冑に身を包む武者が微かに視認出来る。身形から相当高位にある者と推察されるが、敵の中で兼続を呼び捨て可能な人物は一人だけだ。
「――出羽侍従」
ボソッと呟く兼続。成る程、使い番が血相を変えて急を告げる訳だ。そして、最上家の士気が異様に高いのも合点がいく。
新手の部隊の先頭で声を発した人物は……敵の総大将・最上“次郎太郎”義光!!
無意識の内に手綱を握る手の力が強くなる兼続とは対照的に、ヒュゥと口笛を鳴らす慶次郎。
「御大将自ら斬り込むとは、なかなか豪気だのう」
「感心している場合か」
お気楽な物言いの慶次郎へ、思わず咎める口調になる兼続。只でさえ形勢不利な状況に悪い要素がさらに一つ増えた。
数十や百程度の国人なら当主自ら部隊を率いるが、俗に“大名”と呼ばれる一万石を超す身分の大将は基本的に最前線から離れた場所で指揮を執る。総大将は御家の代表であり象徴である。それまで圧倒的優勢だったとしても総大将が討たれた瞬間に敗北となる。実際、上杉謙信の祖父・長尾能景は永正三年〈一五〇六年〉九月に越中・般若野の戦いで討死した為に長尾勢は壊走、永禄三年五月には尾張へ侵攻し勝勢確実だった今川義元が桶狭間(田楽狭間とも)で小休止中に織田信長率いる軍勢に急襲され討死・二万を超す今川勢は取る物も取り敢えず自領へ逃げ帰っている。総大将が敵に討たれる例は稀なれど、最優先に守るべき存在なのは常識だった。
ただ、一方で数千・万を超す大軍でありながら総大将が死傷する危険を冒して先鋒を務める例も少なからずあった。武家の者なら主君、末端の雑兵からすれば殿様が最も危険な最前線へ出る。それだけで将兵達の発奮材料となり、士気は大いに高まる。例を挙げると天正四年五月に石山本願寺勢の大軍に包囲され絶体絶命の窮地にある天王寺砦の明智光秀・佐久間信栄を救出すべく三千の手勢で一万五千の敵に挑んだ織田信長、元亀二年常陸へ侵攻してきた北条勢が旗色悪しと兵を退いた際に自ら追撃の先陣を切り七人の武者を倒したとされる佐竹義重など……。何れにせよ、兵数の少なさや逆境を撥ね退ける為に総大将が陣頭に立つのは有効な手ではあった。
(“出羽の驍将”の二つ名に偽りなし、か)
苦々しい思いで兼続は奥歯を強く噛む。
巷では“羽州の狐”の通称が浸透し『群雄割拠の奥羽でしたたかに勢力を拡げた狡賢い人』の印象が強い義光だが、そうした面がある一方で実体はかなり異なる。元々御家の方針や考え方の違いから義光と父・義守の父子間で不和が生じており、元亀元年五月に一旦和解し八月に義光が家督を継ぐも、天正二年〈一五七四年〉一月に再び関係が悪化。独自路線を貫きたい義光に対し隠居し出家した父・栄林は旧来の“血縁に依る共生”を堅持すべく娘・義姫の義父・伊達輝宗へ助力を要請。栄林と同じ考え方の輝宗は要請を受諾、最上領へ攻め込んだ。これに義光の姿勢に反発する国人達が同調、旗色の悪かった義光は二月に栄林の意を汲んだ条件で和睦を結ばざるを得なかった。それでも義光は諦めておらず自ら軍勢を率いて敵対勢力を各個撃破、九月に今度は義光優位の和睦を締結させた。後に“天正最上の乱”と呼ばれる内紛劇を制した義光は、抗争の後始末と共に版図拡大へ乗り出す。
天正八年頃より敵方の重臣を調略し併呑していく傍ら、天正十二年六月に寒河江高基を自ら出陣し滅亡させ武将として実績を重ねた。内紛終結直後は家臣の離反も相俟って縮小した所領も、約十年で出羽南部の大半を治める一大勢力へ成長を遂げた。秀吉の北条征伐に伴う奥羽仕置で義光の蚕食鯨呑は断念したが、弱体化した御家を立て直したのみならず周辺の国人を討ち倒し倍以上の勢力圏を確立させた手腕は『強く勇ましい武人』を意味する“驍将”に相応しい。
もし仮に義光を討ち取れれば形勢は即座に覆るものの、屈強な武者を従えている為に鉄砲や
矢など飛び道具でない限り難しい。そんな奇蹟より寧ろ“御大将出陣”と“敵方の総大将・直江兼続が居る”の二要素で士気が最高潮に達している最上勢は雄心勃勃、大いに奮い立っていた。
自然発生的に起きた敵の喊声に、百戦錬磨の上杉勢も怯みの色が見える。戦は心持ち次第で実力は数倍にも何分の一にも増減する為、対峙している現時点で相手の気に呑まれている状況を兼続は特に案じた。
「如何致す、旦那」
彼方に居る義光を見据えつつ質す慶次郎。選択肢は幾つかあるも、答えは一つに絞られていた。
「出羽侍従が出張ってきた以上、迎え撃つ他あるまい」
溜息を吐きたくなるような声色で兼続が応えると、慶次郎も分かっていたらしく「だな」と短く返した。
上杉勢にとって一番避けるべきは“兼続の討死”で、指揮を誰かに託し離脱するのが最も望ましい。ただ、敵も総大将たる義光が居り猶且つ両軍へ聞こえるように兼続の存在を知らしめた為、兼続がこの場から去るような動きを見せれば『山城守は我が身可愛さに勝負から逃げた!』と喧伝される。そうなった場合、紅蓮の炎たる最上勢がさらに猛るのは明らかであり、逆に上杉勢は“自分達を置いて総大将が去った”と知り士気は著しく低下することだろう。この心理的影響が齎した状況で激突すれば上杉勢の惨敗は必至、最悪全滅も有り得る。武士の矜持を守る意味も含め、兼続は“受けて立つ”しかなかった。
「吾の伎倆に見合う相手が、やっと現れた。どれ、一騎打ちを所望してみるか」
「待たれよ、慶次郎殿。勝手な事をなされては困る」
徐ら馬を進めようとする慶次郎を制止する兼続。
首級を挙げるのが武辺者の生き甲斐であり、敵の総大将と相見えるとなれば殊更だ。例え武運拙く討たれたとしても“挑んだ”事が最高の誉となる。ただ、それは状況に依る。敵は総大将御自ら出陣し戦意絶頂にあり、家中で名の知れた慶次郎がもし討たれた場合、相手はさらに勢いづき味方は萎縮してしまう。失敗した時の影響が甚大である以上、一軍を率いる身として気儘な振る舞いを認める訳にはいかない。一対一の手合わせを申し入れ義光を倒せずとも勝ちを捥ぎ取れたら最上勢の士気は大いに下がり撤退も考えられる為、この苦境を乗り切る最善手と捉えた慶次郎の判断を兼続は理解しつつも、些か博奕が過ぎると自重するに至った。
「しからば、如何するお心算で? アレを退けるのは生半にいかぬぞ」
出足を挫かれた慶次郎は不満気に問うと、兼続も苛立ち混じりに「分かっておる」と突っ慳貪に応える。この難局を乗り切る方策を決めかねている状況に、兼続は非常に焦っていた。
只でさえ厳しい撤退戦に敵は総大将直々に出馬してきた。形勢も展開も最上勢が優勢、対処するのは至難の業だ。味方を逃す役目を果たすだけなら全滅覚悟で敵勢に斬り込むのが一番簡単だが、兼続には戦後処理の交渉で上杉家の存続を勝ち取る重大な仕事が残っている。兼続の人生で最大かつ最凶の危機を生きて帰る展望を描けずにいるのも無理はなかった。
「怖気付いたか山城守! 其方が来ぬなら素っ首貰い受ける!」
痺れを切らした義光はそう宣言するや否や、自ら先陣切って攻め寄せて来た。敵勢は騎馬武者が大半を占め、戦の経験を積んだ士分で構成された部隊は最上勢の精鋭と言えよう。対する上杉勢は最前線で獅子奮迅の働きをしてくれていた勇士達が一旦引き揚げていたので巻き込まれずに済んだのは不幸中の幸いだが、津波の如く迫る敵勢への迎撃方針は末端まで行き届いておらず明らかに動揺していた。
事ここに至り、兼続も肚を括る。
「弓箭隊、前へ!!」
総大将・兼続の命に指示を表す旗が掲げられる。威力も射程も優る鉄砲より弓矢を選んだのは、乱戦で同士討ちを避けるべく飛び道具を控えていたのに加え火縄や弾薬の用意や準備の手順が多い事から兵達に心理的な圧力を与え不測の事態を招くのを恐れたからだ。旗を見て弓兵達は慌てて準備し前へ出る。矢を番えた兵達は本陣に掲げられた旗を見つめる頭が発する「放て!」の合図を待つ。
土煙を上げながら接近する集団との距離を兼続はじっと見定め、そして――。
「放て!!」
兼続の声に反応した旗手が、サッと振り下ろす。それを確認した頭から発射が伝えられ、矢の雨が最上勢に向け降り注ぐ。しかし、場数を踏んでいる武者は降り掛かる矢を獲物で払い、進撃の足を落とさず突き進む。
ただ、それは兼続の想定内だ。役目を終えた弓兵を下がらせ、入れ替わりで長槍兵を前へ出す。全速力で走る馬は蹴られたり踏まれたりするのは勿論、馬体に掠るだけでも人を吹き飛ばす程の殺傷力を持つ。石突を地面に刺し低い角度で待ち構えれば、勢いよく襲来する馬や乗っている武者は穂の餌食となる。そう上手くいくと限らないが、兼続は今の時点で最善手と思う策を打つ事に集中していた。
予め出来る対処は全てやった。あとは味方を信じるのみ。
馬蹄を鳴らし大地を揺らし突進してくる最上勢、緊張の面持ちで息を凝らし臨戦態勢の上杉勢。両者の距離は刻一刻と縮まっていく。
互いの間隔が三十間〈約五十五メートル〉程になった、その時――突如炸裂音が轟然と湧き起こった!!
鉄砲の発射音を感知した兼続は咄嗟に身を伏せる。予期せぬ展開に当惑する中、ある一つの仮説が頭に浮かんだ。
(しまった。羽州三山の存在を失念していた)
羽州三山とは出羽国の月山(月山神社)・羽黒山(出羽神社)・湯殿山(湯殿山神社)の総称で、古代より信仰の対象とされた霊場である。人智を超越した自然の摂理を追究したりその効験を得たりすべく厳しい修業を積む者も多く、教えを広めたり寄進を募る目的で山を下り諸国を渡り歩く山伏(修験者)になる者もあった。この山伏の中には並外れた身体能力を会得する者や摩訶不思議な術を用いる者も居り、時代の経過と共にその技で活計を立てる“忍び”へ派生していく。羽州三山は最上領内にあり、便宜を図る見返りに山伏達を忍び衆代わりに義光が取り入れてもおかしくなかった。
富神山の各地に張り巡らせた“軒猿”を始末し、潜行した最上方の別動隊が上杉勢の死角となる山裾から射撃――自らも見落としていた最悪の事態が兼続の脳裏を過るも、危惧は直ぐに消えた。
慮外な攻撃を受けたのは、最上勢。銃弾を受けた武者や馬が倒れ、虚を突かれ驚いた敵勢は状況を把握すべく突撃を中止し停止していた。
そこへ追い打ちをかけるように、再び斉射音が響く。筒先が向けられたのはやはり最上勢で、戸惑い動きが緩慢になった将兵達へ無情に鉛玉が浴びせられる。
訳が分からぬのは兼続も同じ。真相を掴むべく音の鳴った方へ目を遣る。そちらを見た瞬間、疑問は全て霧散した。
麓よりやや高い位置の茂みに上杉家の軍装に身を包む部隊。掲げる旗の紋は――九曜星!!
(……常陸介殿!!)
九曜星紋は安田堅親(同姓の安田能元とは別の氏族)も使っているが、最上攻めに従軍している中では水原親憲のみだ。その親憲、上杉家随一の鉄砲衆を擁していた。これは鉄砲が将来的に戦の主力になると睨んだ謙信が若手有望株だった親憲に整備を指示し、上杉家で購入した大量の鉄砲を親憲に託すなど大きな後押しもあり他家に引けを取らぬ強力な鉄砲衆を作り上げた。絶体絶命の危機にある兼続にとって水原勢の登場は地獄で仏に会ったような気分だった。
安全が確保された高所から雨霰の如く発射される銃丸は、局面の大転換を齎した。身を隠す場所の無い状況で弾雨に晒された最上勢は、傷付く者が刻を追う毎に増えていく。士分の者が多かったが為に人数は少なくとも軍全体の損害が大きくなり、逆に禍いとなった恰好だ。攻めて攻めて攻めまくる最上勢の気運が萎んだ事で上杉勢も息を吹き返し、慶次郎を筆頭に武辺者が率先し混乱する敵中へ斬り込み反撃へ転じた。
「引け! 引くのだ!」
態勢立て直しは困難と判断した義光は、退却の引き太鼓を鳴らさせた。潮が引くように遠ざかる最上勢を目の当たりにした兼続は、ようやく危地から脱した実感が湧いた。
しかし、安心するにはまだ早い。兼続達は依然最上領内にあり、撤退戦は上杉領内へ戻るまで続く。それでも、最上勢に手痛い損害を与えた事で執拗な追撃は控えるであろう。それくらい今回の勝利は大きな価値があった。気を抜けば足元を掬われる可能性は残るものの、明るい材料を得た事が兼続達にとって何よりの収穫で生還の希望はグッと近付いた。
最上方の逆襲が弱まった隙を逃さず、上杉勢は速やかに後退。小規模な戦闘はありながらも十月三日に荒砥まで戻り翌四日に兼続の居城がある米沢へ帰還した。撤退戦で上杉勢も少なからず死傷者を出すも、大半の将兵が生きて帰れたのは慶次郎や親憲の手助けがありつつ殿の役目を果たした兼続の御蔭と言って過言ではないだろう。
片や、最上方。十月一日の戦では義光の側近・堀喜吽が討死、義光自身も兜に被弾するなど激闘を物語っていた。一連の合戦で両軍の死傷者数については史料により大きく異なる上に全体の総数で記されていたが為に実際のところ不明であるが、双方に相当数あったものと推察される。後に“北の関ヶ原”と呼ばれる慶長出羽合戦は、両者痛み分けの形で幕を閉じた――。




