三 : 最上攻め - (4) 慮外な足止め
翌、慶長五年九月十五日。日の出と共に上杉勢約一万八千は長谷堂城へ総懸かりを開始した。しかし――。
日没まで果敢に攻め立てるも、城はほぼ無傷。逆に上杉勢は多数の死傷者を出す有様だった。報告を受けた兼続は想定を遥かに上回る損害に頭を掻いた。
泥濘んだ土に足を取られ、棒立ちになった兵達は敵の鉄砲に撃たれる。竹束で対策を施しても丸太や岩を落とされ、傾斜で加速し転がる巨体に弾き飛ばされ圧し潰される。結果、塀に辿り着く事さえ叶わなかった。
最上方も長谷堂城が山形城防衛にとって最後の砦であると重々承知しており、五百挺もの鉄砲を送り込んでいた。その分山形城の守りは手薄になるが、長谷堂城が敵の手に渡れば山形城の命運は尽きたも同然で義光も必死だった。
「明日の城攻めは取り止める。近隣の村より戸板や筵を掻き集めよ」
苦渋に満ちた表情で伝える兼続。このまま無策で突貫しても兵を損じるのは明白、進軍を妨げる緩い土への手当てを優先する事にした。
ただ、この長谷堂城攻防戦開始を境に、最上攻めの潮目が少しずつ変わり出す。
同日、庄内方面より侵攻した上杉方別働隊は寒河江・白岩城を攻略。最上川沿いに内陸へさらに進軍した。片や、長谷堂城に兼続率いる大軍が迫ったのを受け、義光は甥で同じ東軍方の伊達政宗へ嫡男・義康を救援の使者に送った。これに対し政宗の右腕にして“武の伊達藤五郎(成実)”と共に双璧を成す“智の片倉小十郎”こと片倉景綱は『静観なされませ』と両家を争わせ漁夫の利を得るべしと進言するも、政宗は『(出奔後実家へ戻っていた)母を見捨てる訳にはいかぬ』と拒否。叔父・留守政景を大将とする軍勢を送る事を決め、翌十六日に伊達勢三千は出羽へ向け出立した。
十六日夜半、長谷堂城を守る鮭延秀綱は精兵二百名を率い上杉方の春日元忠陣へ夜襲。数で大きく下回る城方がまさか打って出ると予想していなかった春日勢は大混乱に陥り、同士討ちを起こす醜態を晒した。この奇襲戦で最上勢は二百五十の首級を挙げたとされ、大損害を出した事に兼続は苦虫を噛み潰したような思いだった。
日付を跨ぎ、九月十七日。兼続は刈田行為で城方を挑発。目の前で百姓達が汗水垂らして育ててきた稲を無防備な敵の手で刈り取られる様は統治者たる志村光安にとって屈辱的な仕打ちだったが、追い払おうと兵を出せば数で圧倒する上杉勢に殲滅され長谷堂城へ雪崩れ込まれるのは自明の理だった為、「笑止」と受け流した。
同日、上杉方にとって悪い動きが二つ起きる。
十七日、掛入石仲中山口から侵攻した上杉別動隊約四千は上山城を攻めた。しかし、城主・里見民部は上杉方の想定に反して出撃、加えて城外に伏せていた草刈志摩の手勢が上杉勢の背後から攻め立て、志摩が激戦の中で討死するも四百の首級を挙げて撃退させた。首級は士分以上の者を指し足軽などの雑兵を合わせれば死傷者はさらに膨らむ。手痛い損害を出した上杉勢は慎重にならざるを得ず、この方面に展開していた別動隊は兼続率いる本隊への合流は適わず終戦を迎える事となる。そして……。
「申し上げます! 伊達勢、山形城の東に着陣致しました!」
物見に出ていた者からの報せを受け、兼続は小さく舌打ちする。
伊達勢は約三千と上杉勢約一万八千に比べれば少ないが、現状では長谷堂城を落としても山形城を攻める際に伊達勢が牽制する位置に陣取っているのが厄介だった。また、山形城へ入れば最上勢四千と合わせ七千となり、守りは厚くなる。何れにせよ、伊達勢の到着前に決着をつけたかった兼続からすれば望ましくない展開だ。
どう対処すべきか思案を巡らせていた兼続だが、はたと気付き物見の者に訊ねる。
「……伊達勢の動向は?」
「はっ。小白川に陣を布いてから、動く兆しは見られません」
その返答に、兼続は顎に手を当てて再び考え込む。
存亡の危機にある最上家を救いたいなら、義光の居る山形城へ真っ直ぐ入るか長谷堂城攻めの真っ只中にある上杉勢の後背を脅かす場所に陣を据えるのが定石だ。伊達勢はどちらも選ばず中途半端な距離を置いて停止した。この行動から導き出される狙いは――。
(高みの見物を決め込む心算か)
戦の趨勢が定まるのを見極め、勝ち馬に乗る。何とも狡い手だと兼続は奥歯を強く噛むも、自らが同じ状況に立たされたら同じ選択をしたことだろう。
政宗は懐刀たる片倉景綱の進言を斥けたが、その意志を叔父の留守政景に伝えたか分からない。もしかすると体裁上断った態で家中に示した裏で、叔父には『積極的な介入は控える』よう内命を出した可能性もある。戦国末期に奥羽の中小勢力の間で暗黙の了解とされてきた“敵領へ攻め込んでも滅ぼす前に第三者が仲裁し手打ちとする”慣習を破り勢力を拡大させた伊達政宗を近隣の大名達は“和を乱す危険因子”と見做し巨大な包囲網を敷かれ一時は存亡の危機に追い込まれるも、政宗はしぶとく生き残り百万石を超す版図を築いた。秀吉による北条征伐で豊臣の軍門に降る事となったが、もし北条征伐がもう少し後になっていたら伊達家の領土は常陸または陸奥の北へ侵食していた可能性も有り得た。政宗は若さもあり恐れを知らぬ“昇り龍”で、寸土でも得るべく幾つも仕掛けを打つ野心家なのは周知の事実だ。
母・義姫の居る最上家を見殺しにするのは肉親の情として阻止したい反面、上杉家とは和睦を結んだ手前交戦するのは避けたい。最上と共闘する事で伊達家は上杉家と対峙出来るのであり、最上が潰えれば前提は崩れてしまう。奥羽で頭一つ抜きん出た戦力を擁する上杉家の矛先が伊達家へ向けられた場合、待っているのは“滅亡”の二文字だ。援軍を寄越したのは腹立たしいが、遠巻きに傍観するのであれば直接的な脅威にならない。“最上方に加勢しない”なら上杉家にとってギリギリ認められる線引きで、「そのまま最上家が滅ぶのを見ているがいい」というのが兼続の気持ちだった。
時間の経過と共に、兼続の心中で沸いていた怒りが収まり、冷静な思考が戻ってきた。フーッと長く息を吐いた兼続は、落ち着いた口調で答える。
「伊達勢については一旦置いておく。物見を放ち動静を注視し、奴等が参戦する前に片を付ける」
「承知致しました!!」
兼続の命に物見の者は深く頭を下げた。急ぎ足で下がって行くのを見届けた兼続は、長谷堂城の方を見遣る。
(此処さえ陥とせれば、最上は虫の息も同然。今こそ切所ぞ)
数で圧倒的優位にあり瀬戸際まで追い詰めている上杉勢へ、伊達勢が危険を冒してまで最上勢を助けるとは考えにくい。ただ、状況次第で変わる可能性があると兼続は自覚している。“軒猿”の報せでは上杉征伐に従っていた諸大名の軍勢は尾張に達し、美濃に駐留している三成は伊勢・北陸方面へ展開している部隊へ大至急こちらへ向かうよう要請を出したと聞く。決戦の機運は日毎に高まっており、万一味方が敗れた事を想定すれば一刻も早く最上攻めを完了させるべきだ。どれ程の猶予が残されているか分からないが、最上攻めの途中で西軍が敗北した場合――東軍方に属す最上攻めは即刻中止、追い風に乗った最上勢と勝ち馬に乗る伊達勢の双方を相手に退却する厳しい未来が待っている。敗れ逃れる軍勢は“死”の恐怖に怯えながら嵩に掛かって押し寄せて来る敵勢と戦いながら退く事を強いられ、大軍であろうと壊滅的な損害を出す例は過去幾つもある。豊臣家を支える二柱の片方として確固たる地位と版図を築く兼続の野望は消滅するどころか、『徳川に弓引いた大罪』を咎められる身に転落する。家名を存続出来れば御の字、改易された上に景勝や兼続が斬首に処されてもおかしくない。撤退戦で多くの将兵を喪えば処分に反発し兵を興しても“力で押さえ込める”と家康は判断し改易の選択を下す後押しになってしまう。自分の命で贖えるなら甘んじて受け容れるが主君や御家に罪が及ぶのは長尾家・上杉家の血脈を継承してきた先人の方々に顔向けが立たない。最悪の結末を迎えるのだけは断固阻止したかった。
少しずつ戦況が悪化する中、兼続は追い詰められた気分になっていた。
慶長五年九月二十四日、上杉勢は二度目の長谷堂城攻めを敢行した。泥濘対策を施した上で総懸かりしたのだが――火の出る勢いで猛攻を仕掛けるも、多数の死傷者を出しただけで城内に侵入した者は皆無と惨憺たる戦果だった。
日没と共に引き揚げてきた各陣から損害の報告が届く度に、兼続は頭が痛くなる思いだった。
(こんな所で足止めを喰らうとは……)
想定外の事態に直面した兼続の中に渦巻いていたのは、焦燥感だ。
相手の意表を突く電光石火の侵攻で、無人の野を往くが如く最上領を制圧していった。兵数で圧倒しているのもあり、この勢いのまま今月中に最上攻めを完了するのも夢ではないと考えていた。しかし、最後の砦たる長谷堂城に半月も費やしながら攻略の糸口すら掴めないのは大いなる誤算だった。山形城を目前にしながら進軍を阻まれている内に伊達の援軍が到着するという好ましからぬ状況も招いた。中央の情勢が緊迫の度合いを増しているとも聞いているので、早く決着をつけるべく何か打開策はあるかと必死に頭を回転させる。
そこへ、物見に出ていた者が兼続の前へ現れる。
「申し上げます。伊達勢、沼木に着陣しました」
その報告に兼続はチッと舌打ちする。沼木は兼続が本陣を構える菅沢山から北東へ半里〈約二キロメートル〉の距離で、長谷堂城攻めに苦戦していると捉えた伊達勢が後背を突く位置に陣取った形だ。場合に依っては最上勢と共闘し上杉勢に勝てると睨んだからこその強気な行動だろう。したたかな伊達方にそう思われた事自体が兼続の癪に障った。
「……分かった。ご苦労だった」
労いの言葉を掛けられた物見の者はそそくさと退出して行く。兼続の気分を害する事をして怒りの矛先が自分へ向けられぬ為の行動だが、その気遣いさえも儘ならぬ現状を象徴しているようで余計にイライラが増幅される。
苛立ちを募らせる中、兼続の中でふと閃いた。
「誰か、あるか」
兼続の呼び掛けに応じた近習が罷り越すと、平静と変わらぬ声色で告げる。
「我が家中にて、あの城に籠もる者に伝手のある者は居らぬか。内々に我が方へ与した者には『最上攻め後に応分の報酬を渡した上で上杉家にて直参で召し抱える』と伝えさせよ。また、志村・鮭延の両名にも『開城すれば五万石を与える』と使者を出せ」
「畏まりました」
指示を受けた近習は急ぎ足で下がる。それを見送った兼続は人払いをしてから手を三回叩く。直後、全身黒尽くめの衣装をした三名が音も無く現れる。“軒猿”だ。
「お呼びで」
年長者と思しき者が応じると、兼続は声を落として語り掛ける。
「明日、鮭延秀綱へ先日の夜襲で『見事な働きだった』と称讃させ褒美を渡させる。御主達には長谷堂城の下卒達に『鮭延様は上杉に内応を約された。その証拠に褒美を先渡しされた』と触れて回れ」
「承知」
密命を受けた“軒猿”三名は瞬く間に姿を消す。あとは彼等に任せれば仕事を果たしてくれる。
これから兼続が仕掛けるのは、心理的な揺さぶりだ。正攻法で落とすのは難しいと判断し、内部から切り崩す方針へ転換を図った。
城を預かる志村光安が“五万石”という破格の厚遇に食い付いてくれれば儲けモノ、断られても致し方なしと割り切っている。寧ろ狙いは敵中の離間策で、流言を広める事で鉄の結束に罅を入れようとした。
籠城戦は根競べと言い換えれる。守り手は周りを囲まれ脱出不可能な状況の下、如何に寄せ手の攻めを耐え凌ぐかが鍵になる。徹底的に抗う為には飲み水・兵糧の有無が最重要である一方、将兵が一枚岩となる点も成否を分ける大切な要素だ。守り手にとって共通の敵である寄せ手に団結し立ち向かうからこそ城攻めは守る側が優位とされるのが常識とされる。しかし――その和を乱されるとどうなるか? “誰某は内応を承諾したらしい”“何某は次の攻めの際に敵を引き込む約束を交わしたそうだ”といった噂が城内に流れれば、“彼奴も裏切るのではないか?”“誰々が怪しい”と味方内で不信感が蔓延し、味方と味方と思えず疑心暗鬼に陥った守り手は足並みを揃えた対処が難しくなり、結果として防御力が弱まり落城の結末を迎える。人心とは鋼のような強度に見えても、小さな割れ目が生じれば豆腐より脆くなる。
(形振りなぞもう構っておれぬ。一刻も早く、決着を付ける)
追い詰められた兼続は卑怯と誹られようとも万策尽くして最上攻めを完遂させる覚悟を固めた。
翌、二十五日。兼続から派遣された使者は光安へ対し開城交渉を打診するも拒絶される。また、これとは別に秀綱へ十六日の夜襲について『鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし』と絶賛した上で刀剣・金品等を贈っている。片や、上杉方の使者が長谷堂城に入ったのを契機に“光安様は開城に応じる意向と聞いた”“秀綱様は上杉方に買収されるのを見たと言う者が居る”とする真偽不明の情報が流れ、足軽を中心に動揺が広がった。これを知った両名は直ちに噂を否定するも、離間の毒は完全に消えず痼りとして滞留した。
同日、最上義光は最低限の兵を置き、総力を挙げて山形城より出陣。伊達勢のやや北にある稲荷塚に陣を敷いた。野戦では太刀打ち出来ず上杉勢を牽制する狙いだったが、危険を顧みず救援へ駆け付けた事に長谷堂城の将兵達は大いに活気づいた。
長谷堂城を巡る攻防は膠着状態となり、早急に作戦を完遂させたい兼続はあの手この手で局面を打開すべく模索を続けた。そうした最中、驚天動地の報せが飛び込んできた――!!




