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三 : 最上攻め - (2) 作戦開始

 慶長五年九月八日。直江兼続を総大将とする上杉勢約二万五千は最上領への侵攻を開始した。米沢と庄内の二方面から同時多発的に攻め込まれた最上勢は上杉勢の奇襲を想定していなかったのもあり、対応は後手に回った。上杉征伐の中止により家康の命令で最上義光の与力《よりき》に付けられていた出羽の中小大名は自領へ引き揚げていたのに加え、次男・家親《いえちか》は徳川秀忠に近侍《きんじ》していた経緯からそちらへ軍勢を派遣していた影響もあり、開戦時点で動員兵力は約七千程度だったとされる(数字については諸説あり)。さらに運の悪い事に主要な城へ将兵を分散させていたが故《ゆえ》に、拠城たる山形城には約四千の兵しか居《お》らず、防戦に差し向ける余力など持ち合わせていなかった。各方面で無人の野を往《い》くが如く最上領を侵食する上杉勢は、順調に制圧域を拡《ひろ》げた。

 削り取られる一方の最上義光も手を拱《こまね》いている訳ではない。家臣達に持ち場の城を放棄し山形城へ入れと命じた。これは数少ない軍勢を比較的防御施設が整っている本拠の山形城に一極投入する事により、厚みを持って上杉勢と対峙した方が勝算はあると義光が判断したからだ。領内の城砦《じょうさい》を一切捨て中核の城に戦力を集中させる戦法は数で大きく劣る側が強大な敵に立ち向かう際に有効な手段の一つで、過去に天正四年十一月の能登・七尾城の戦いでは畠山勢が、天正十三年八月の佐々征伐で佐々勢が、それぞれ採用している。しかし……最上家の家臣達は『敵を前に戦わず逃げるは末代《まつだい》の恥』と義光の命を拒否。各々(おのおの)が約五百前後の兵で徹底抗戦の構えを採《と》った。“名誉を傷つけられるなら玉砕した方がマシ”という武士の面子《めんつ》を優先した形だが、敵を利するに等しい振る舞いに義光は頭を抱えた。

 最上家の内情なぞ露《つゆ》知らぬ兼続は本軍を率い荻野中山口から狐越《きつねごえ》街道を進み、九月十一日には置賜《おきたま》郡方面の最前線・畑谷《はたや》城に達した。兼続は彼我《ひが》の戦力差を鑑《かんが》み無益な血を流さぬよう習わしとして降伏を促す使者を城へ送るも……。

「拒んだ、か」

 幔幕《まんまく》の張られた本陣に戻ってきた使者の表情で悟った兼続は、ポツリ漏らす。

「はっ。『申し出はありがたい。なれど、敵が押し寄せたのに矢の一本も交わさず降《くだ》っては武門の名折れ。欲しければ力づくでどうぞ』……と」

 顔を強張《こわば》らせながら使者の役を務めた武者が述べる。親切心を無碍《むげ》にされた兼続が怒るのを恐れている様子だ。

 一《ひと》呼吸挟んでから、兼続は武者に問い掛ける。

「城内の様子は」

「江口光清(あききよ)以下、将兵の士気は決して低くありません。追い詰められた事で戦う肚《はら》を固めたものと推察されます。それと、近隣の住人も戦に巻き込まれるのを恐れて避難している模様」

 畑谷城を預かるは、江口“五兵衛(ごへえ)”光清。生年・出自不明ながら文禄年間には京・名護屋を中心に連歌会へ参加した記録が幾つも残っている事から、文化人兼外交官として働いていたと思われる。先述した通り上杉勢の侵攻は予測されておらず近在の将兵が駆け付けても三百五十名程度しか居《お》らず、人員総出で空堀《からぼり》と土塁を突貫で設け城の守りを固めるも焼け石に水だった。

 武者の返答に、天を仰ぐ兼続。稍《やや》沈黙の時が流れ、フーッと息を吐いた兼続は顔を戻し端的に告げる。

「撫で切《ぎ》りに致す」

 その瞬間、同席する一同に緊張が走る。

 通常の攻城戦では守り手が白旗を揚《あ》げるか寄せ手の勝利が確定的になった状況で慣習で行う最後の降伏勧告に城方(がた)が応じた際、城主や重臣の首級と引き替えに他の将兵は助命される。武士は名誉や領民の命・財産を守る為、自家のさらなる繁栄を目的に戦うのであり、人を殺《あや》める事に悦楽を感じる者は殆《ほとん》ど居ない。掠奪《りゃくだつ》や強姦《ごうかん》・人攫《ひとさら》いなど倫理に悖《もと》る蛮行《ばんこう》は雑兵《ぞうひょう》達の昂《たかぶ》った気を抑えたり戦に駆り出された対価として黙認する事はあったが、敵方であれど喪《うしな》われる命は最小限に抑える“人”として大切な一線を守る点に武士の矜持《きょうじ》を持っていた。

 ただ――兼続は“撫で切り”、即《すなわ》ち『将兵・非戦闘員を問わず城内に居る全ての人を殺戮《さつりく》せよ』と命じた。武士として貫くべき信念に背《そむ》く非人道的な指示を出したのは理由がある。最上領制圧が最終目標である為、戦闘回数は時間短縮や人命を含む損失抑制の観点から出来る限り避けたい。そこで緒戦《しょせん》の畑谷城を撫で切りにした上で陥落させれば、他の城に籠もる最上方に『我々も同じ運命を辿るのか!?』という動揺を与えられる。金や物・家は生きていれば取り戻せる可能性はあるが、人の命は別だ。誰しも命は惜しいから上杉勢が接近すれば畑谷城の二の舞を恐れ降伏してくる――そういう意図が込められていた。この残虐的な“撫で切り”は戦国乱世の後半から採用されるようになり、特に有名なのは織田信長による元亀二年〈一五七一年〉九月の比叡山《ひえいざん》延暦寺《えんりゃくじ》焼き討ちだろう(尤《もっと》も、焼き討ちは他への脅しではなく延暦寺側が信長に敵対行為をした事への報復措置だったが)。

 苛烈《かれつ》な命令を下《くだ》した兼続も、好き好んでこの選択をした訳ではない。適《かな》うなら最上方の犠牲を一人でも少なくしたいし、戦禍《せんか》に巻き込まれ悲しむ人を極力ゼロへ近付けたい。この侵攻全体で喪われる命の数を抑えるべく、ここで撫で切りにし他へ脅しを掛けた方が得。そう判断し、全責任を負って兼続は指示するに至った次第だ。

「……畏《かしこま》りました」

 総大将の命令に、最も年配の将が代表しそう答えると一斉に頭《こうべ》を垂れた。気は重いが、命じられた以上は完遂《かんすい》せねばなるまい。軍議の終了と共に参加していた将が一人また一人と自陣へ戻って行くも、皆一様(いちよう)に表情は暗かった。

 翌、九月十二日。二万を超す上杉勢は日の出と共に総懸(が)かりを開始。城方も上杉勢へ斬り込むなど果敢に応戦するも衆寡《しゅうか》敵《てき》せず、城内に居た約五百名は全員死亡した。一方で上杉勢も千人以上の死傷者を出し、激戦が繰り広げられた事を物語っていた。

 畑谷城を陥落させた兼続率いる本軍は最上義光の籠もる山形城へ向け、進軍を開始。江口光清を始めとする五百名死亡の衝撃は大きかったが、これはあくまでも始まりに過ぎない。上杉・最上両家の生き残りを賭けた争いは出羽国内に飛び火していく事となる――。


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