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二 : 上杉征伐 - (9) 大望の火は消えず

 江戸へ戻った家康は、その後も留まり続けた。西軍方の切り崩し工作・東軍方の繋ぎ止め工作に諸大名へ手紙を書く事に注力し、実際に鳥居元忠の一報を受け取った七月二十四日から関ヶ原の合戦前日の九月十四日までに百五十五通を送っている。ただ、行軍を停止しているのは巨大戦力を擁する上杉家に常陸の佐竹家の動向が不透明だった点、家康に従うと表明した豊臣恩顧の大名達が本当に自分の為に働いてくれるか疑念を抱いていた点が大きな要因だった。

 片や、上杉征伐に参加していた諸大名は家康がいつまで経っても来る気配の無い事に『我々を捨て駒にする心算《つもり》か!?』と苛立ちを募らせていた。ピリピリと張り詰めた空気の中、慶長五年八月十九日に家康から遣《つか》わされた村越直吉が清州城へ到着。家康の来訪は何時《いつ》になると問い詰めた諸大名を前に、直吉はこう告げたとされる。

『お主達が敵を攻めぬから我が殿も判断に困られておる。まずは行動で示すべきだ』

 それまで必死に諸大名の怒りを宥《なだ》めていた軍監の本多忠勝・井伊直政は直吉の言葉に顔面蒼白となった。火に油を注ぐような発言に堪忍袋の緒が切れた諸大名の離反も覚悟したが――場に不釣り合いな笑い声を上げる者が居た。家康の来訪が遅れている事に最も忿怒《ふんど》していた福島正則である。

『成る程、その通りだ。ならば我等の誠意をご覧頂き進ぜよう』

 直吉へそう宣言した正則を始めとする諸大名は八月二十一日に清須城から出陣し美濃へ侵攻。二十四日には美濃国における最重要拠点で西軍方・織田秀信の居城たる岐阜城を攻め落とした。この報せを受けた家康は自ら不在の間《かん》に戦が決着するのを恐れ、大急ぎで西進の支度を整え九月一日に江戸を発《た》った。また、前日の八月二十九日には上杉勢の南進に備え宇都宮に駐留する秀忠へ中山道《なかせんどう》経由で美濃へ向かうよう指示を出した。上杉勢の押さえに異母兄《いぼけい》・結城秀康と一万の兵を残し、秀忠は徳川家譜代を中心とする約三万八千の軍勢を率いて中山道を西に進み始めた。

 他方、奥羽方面。政宗は当面の危機を乗り切るべく極秘で上杉家と和睦。そうと知らぬ家康は政宗へ引き続き上杉家の背後を牽制するよう要請すると共に『戦勝の暁には秀吉に没収された旧領を与える』旨の、俗に“百万石のお墨付き”を八月二十二日付で送った。現在の所領と合わせれば百万石の大封を得られるケチな家康には珍しい大盤振る舞いな約束手形(但《ただ》し“独力で切り取った場合のみ”との付随条件はある)を切った形だが、逆に考えれば野心家の政宗を何が何でも引き留めたい思惑が透けて見える。

 そして、生き残りを模索するのは伊達家に限った話ではなく――。

「最上も和睦したい、とな?」

 慶長五年八月二十日。若松城の景勝の居室で内密に伝えてきた兼続にそう漏らした。

「はっ。嫡子の修理大夫《しゅりだいふ》を質に差し出すと申しております」

 最上“修理大夫”義康(よしやす)、天正三年生まれで二十六歳。義光の長男で天正十四年五月に旧領奪還を目論む小野寺義道が侵攻してきた折には期を同じく庄内地方へ侵攻してきた大宝寺勢の対処に向かう父・義光に代わり大将を務め、小野寺勢を退《ひ》かせる事に貢献している。大事な跡継ぎを証左に差し出すのは実質的な降伏と言って差し支えないだろう。

 兼続の言葉に対し、景勝は顎《あご》に手を置いて考え込む。最上家が最大限の誠意を示した点を評価しているようだ。

 目の前に座す兼続に目で意見を求めると、きっぱり進言した。

「滅すべきかと」

 短いながら力強い口調に、瞠目する景勝。無言で先を促された兼続は理由を述べる。

「伊達と最上では事情が異なります。伊達とは妥協点を見出《みいだ》せますが、最上は庄内を巡り相容れない間柄。関東へ攻め込むにしろ会津に留まるにしろ、禍根は取り除いておくに限りまする」

 家康を倒し越後へ戻る事を目的に動く上杉家は、野心家たる政宗を飼い馴《な》らせるなら旧伊達領の割譲も別に構わないという姿勢だ。対する義光は庄内地方の領有権を互いに主張し、今も隙あらば取り返さんと狙っている。政宗は状況次第で上杉の手駒になり得《う》るが、義光は裏切る可能性が永遠に残り続ける。信頼性の観点から伊達と最上で決定的な違いがある事から、先に潰しておくべきだと兼続は主張する。

 その提言に、景勝は再び黙考する。兼続の話は理に適《かな》っており、一つ頷いてから口を開《ひら》く。

「……誰に任す?」

「僭越ながら、私奴《わたくしめ》が」

 やや緊張した面持ちで名乗りを上げた兼続に、景勝は息を呑む。確かに重要な戦ではあれど、上杉家の頭脳たる兼続は若松に参謀として留まるとばかり思っていた景勝は意表を突かれた。

「最上の件につきましては先々の憂《うれ》いを絶つと共に短期間で完了させる事が求められまする。他の宿老《しゅくろう》方《がた》に託す事も検討しましたが、万全を期すべく私自らが采を振るうのが適格という結論に至りました」

 上杉征伐に従軍していた諸大名の軍勢は尾張まで進んでいるものの、総大将の家康は依然江戸に留まり続けている。畿内の味方次第で情勢が急転する事も充分に有り得《う》る。そう考えた場合、じっくり腰を据えて最上家を倒す暇なぞない。ここは戦力を集中投入し一気に片を付ける、その為に兼続が直々(じきじき)に出陣する勝負手に出る判断に至った。

 他にも出羽・秋田郡の秋田実季(さねすえ)や出羽・北浦郡の戸沢《とざわ》政盛《まさもり》、陸奥・紫波《しわ》郡の南部《なんぶ》利直《としなお》など東軍に属す大名はあれど、最大で十万石程度の中小勢力では上杉家を牽制するには力不足な上に、戦国末期の出羽国内における覇権争いが尾を引いていたのもあって警戒するに値しなかった。西の越後も上杉家旧臣を主体とする一揆の対応に忙殺され、会津へ攻め入る状況とは程遠い。政宗と和睦した今、最上家を滅ぼせば後背《こうはい》を脅《おびや》かされる不安はほぼ払拭《ふっしょく》されると言っていい。

 それに……兼続の心中にはもう一つ大きな狙いがあった。

(敵に攻められる懸念を取り除けば、殿に関東出征を迫る材料となる)

 西軍挙兵の報を受け全面撤退する家康を追撃する絶好機を『上杉の掲げる“義”の精神に反する』と景勝は斥《しりぞ》けたが、気懸かりとして挙げた伊達・最上の問題が解決すればどうか。後顧の憂《うれ》いは霧散《むさん》し逆に攻勢へ出れる下地が整う。上杉家に大軍を率いて南進する動きがあれば、家中で意見が真っ二つに割れる佐竹家も同調に傾く好材料となろう。そうなれば形こそ異なれど“西・北の両面より家康を挟撃する”作戦が復活する。上杉家の輝かしい未来の為にも、豊臣家による安定した統治の為にも、兼続は此度《こたび》の最上攻めは景勝を説得する正念場と心得ていた。

 鬼気迫る表情で主君を見つめる兼続。俯《うつむ》き加減に長考《ちょうこう》していた景勝は、やがて思案がまとまったらしく顔を上げる。

「……分かった。任す」

「ははっ!!」

 主君の言葉に、恭《うやうや》しく応じる兼続。絶対に失敗は許されない重大な作戦を認められ、身が引き締まるのと同時に消えかけていた野望の炎が再燃するのを確かに感じた。

 方針が定まった上杉家は、最上領侵攻へ向け秘かに準備を始める。総大将は直江兼続、この作戦には直江家も属す与板衆のみならず主力の上田衆・揚北《あがきた》衆、さらに組外衆など総勢二万五千という大規模な陣容だった。萩野《はぎの》中山口・小滝口・大瀬口・栃窪《とちくぼ》口・掛入《かけいり》石仲中山口の五箇所から同時に攻め入り、最上領を一気呵成(かせい)に制圧する構想だ。敵方に悟られぬよう“軒猿”を使い『上杉家は先日伊達家に奪われた白石城を取り戻す兆しがある』との噂を広め、実際に伊達領方面へ陽動の兵を出す偽装工作を行《おこな》った。

 秘密裏に米沢へ戻った兼続は、最上攻めの手配を迅速に進めさせた。家運を占う一大決戦に、兼続は胸を躍らせていた――!!


上杉征伐に参加していた東軍方の大名が電光石火の勢いで岐阜城を攻略したのを境に、美濃で決戦の機運が俄《にわ》かに高まった。既に美濃・大垣城へ入っていた石田三成は伊勢・北陸方面に展開する軍勢へ急ぎ美濃へ向かうよう要請を出すと共に、大坂に居る総大将の毛利輝元へ出陣を求めた。これに対し『輝元が大坂から離れれば徳川に内通する者が秀頼公の身柄を押さえる』との流言《るげん》を信じた淀の方から懇願《こんがん》され輝元は大坂に残ったが、伊勢国内における東軍方の城を攻めていた毛利勢や北陸方面に駐留していた大谷吉継を大将とする部隊は順次美濃へ向け移動を始めた。また、しっかり戦ってくれるか見定める心算《つもり》で嗾《けしか》けた筈が想像以上の働きを見せた事に焦りを覚えた家康は、自ら不在の中で決着する最悪の結末を回避すべく東海道を西へ急行した。徳川家の主力を率いる嫡男・秀忠を大将とする別動隊も中山道《なかせんどう》経由で西へ向かうも、西軍方に転じた真田昌幸の挑発や天候不良に伴う道路状況の悪化で進軍は遅れに遅れる事となる。

 東西それぞれの軍勢が美濃へ集結する動きの中、戦乱は地方にも波及する。慶長五年九月二日、越前に駐留していた西軍方の京極高次が突如近江・大津城へ帰還し、籠城の構えを見せ反旗を翻した。畿内から美濃へ兵糧物資を送る際は水陸両面で大津を通過する必要があり、兵站《へいたん》確保の為に伊勢方面へ展開していた軍勢の一部を派遣した。この中には秀吉より徳川家家臣・本多“平八郎”忠勝と共に“天下無双”と絶賛された立花親成(ちかなり)(後の宗茂《むねしげ》)を筆頭に二度の朝鮮出兵を経験した精鋭が顔を揃え、大津制圧の重要性が窺い知れることだろう。

 片や、九州。豊前国中津で留守を預かっていた黒田如水はそれまで貯め込んでいた財を放出し兵を募《つの》り、九千の軍勢を確保。嫡男で当主の長政は家康を次の天下人と見据え上杉征伐に従軍していたが、如水は西軍方に与《くみ》する大名の多い九州を席巻《せっけん》し第三極として天下獲りに名乗りを上げようとしていた。一方、前豊前国主の大友義統(よしむね)は毛利家の支援を受け旧領奪還を目指し、九月八日に豊前へ上陸。大友家旧臣に参集を呼び掛け、それに応じ馳せ参じた将兵達と共に翌九日に挙兵した。翌十日、大友勢は長岡家の飛び地である木付(後の杵築)城を攻撃。城を預かる長岡家重臣・松井康之(やすゆき)は直ちに味方の黒田家へ救援を要請。前日に中津から出陣し豊後方面へ進軍していた如水はこれを受諾し、木付へ向かった。

 畿内の情勢が変わった事で奥羽とその周辺に漂っていた緊張は家康による上杉征伐中止の影響で解消され、緩和の方向に流されていた。しかし、それは豪雨の峠を越えた小康状態のようなもので、次の嵐を齎《もたら》す猪子雲《いのこぐも》はすぐそこまで迫っていた――!!


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