二 : 上杉征伐 - (8) 西軍挙兵の余波
家康追討に端を発した動きは、時を追う毎に加速していく。
慶長五年八月一日、鳥居元忠が守る伏見城が落城。これにより畿内一円から徳川方の拠点は消滅した。西軍は家康の東進に備えるべく、決戦候補地の一つである美濃や東軍方に属す大名の多い伊勢へ軍勢を派遣し掌握へ乗り出す。また、同日には越後で上杉家旧臣や重税に苦しむ百姓達が主体の一揆が蜂起。越後の広範囲で同時多発的に沸き起こった一揆勢は東軍方の城へ攻め寄せ、上杉征伐に参加予定だった大名達は鎮圧に動かざるを得なかった。
片や、東軍。上杉征伐に参加していた諸大名は東海道を西進し福島正則が城主の清州城に入る傍ら、総大将の家康は八月五日に江戸へ戻ってから行軍を完全に停止。これは上杉勢の追撃や一度は会津方面へ進軍するも水戸へ引き返した常陸の佐竹勢の動向を注視していたのもあるが、豊臣恩顧の大名達が果たして本当にちゃんと戦ってくれるか確信を持てず様子見する意向が強かった。
戦乱は地方へも波及していった。まず、北陸方面。東軍方に属す前田利長が七月二十六日に南加賀へ侵攻。八月四日に越前北部まで進軍するも、西軍で北陸方面担当の大谷吉継が流した『西軍は海から前田領へ攻めようとしている』とする偽情報に騙され、撤退を決断。金沢へ戻る途上、八月九日に西軍方の小松城主・丹羽長重の手勢と浅井畷の地で激闘を繰り広げ損害を出すも、無事に帰還している。
次に、丹後方面。丹後は東軍の長岡忠興の領国ながら上杉征伐に加わっている為、隠居していた幽斎に五百程度の兵しか残っておらず兵力を守りの固い田辺城へ集約していた。七月二十二日から始まった田辺城の戦いは一万を超す大軍の西軍勢が序盤から圧倒し、下旬には本丸を残すのみと落城寸前まで追い詰められた。しかし――ここで予想外の横槍が入る。平安時代より脈々と受け継がれてきた古今和歌集の解釈“古今伝授”を唯一修得していた幽斎の死で伝承が途絶えるのを危惧した皇室・公家衆の強い意向により戦の中断を命じたのだ。古来より武家同士の戦に介入する事を避けてきた皇室・公家衆としては異例の対応で、戦闘を禁じられた西軍勢は城を囲むのみで帝の勅命により降伏開城する九月十三日まで長岡勢は持ち堪えることとなる。
そして、奥羽方面。上杉征伐は西軍挙兵で中止され、関東へ引き揚げていく東軍勢を上杉勢が静観したのを受け、家康から牽制を求められてきた伊達・最上の両家は恐怖を抱いた。当初の目論見では家康率いる征伐軍と上杉の主力勢が激突すると予想し呼応する形で侵攻する手筈だったが、西軍挙兵を境に潮目が変わった。無傷の巨大戦力を擁する上杉勢が南ではなく北へ矛先を向けられる事を脅威に感じた政宗・義光は一旦自領へ退き逆に侵攻へ備える方針転換を余儀なくされた。特に甘糟景継の不在を突き白石城を取り返した政宗は逆襲されるのを恐れ、驚きの行動に出た。
「伊達が和議を申し入れてきた、とな?」
慶長五年八月上旬。若松城内の茶室で兼続から明かされた情報に、景勝は反問する。
「はい。あちらより『どのような条件も併むので和議を結びたい』と」
眉間に皺を寄せながら淡々と述べる兼続。腹の中では怒りの炎が燻っているのは明白だ。
家康率いる上杉征伐勢が関東を北上する状況で逸早く上杉領へ攻め込んだのは伊達勢だ。齢三十四の政宗は若さもあり野心に満ち溢れ、この機に乗じて奥羽で版図を拡げ天下へ挑む足懸かりにしたいと考えていた。ところが、家康は畿内で西軍挙兵の報を受けるや上杉征伐を中止し来た道を引き返してしまった。攻勢から一転窮地に陥った政宗は自らの立場を重々理解し、平身低頭和議を申し込んできたのである。
変わり身の早さを苦々しく思う一方、時局を読む能力と危機を乗り切るなら泥水も啜る殊勝な心掛けに、兼続も政宗の器量を認めざるを得なかった。成功体験から抜け切れず損切が遅れたばかりに傷口を広げてしまった例は多々あれど、生き残る為に恥も外聞も捨てて恭順を乞うのはなかなか出来る事ではない。天正十二年に十七歳の若さで家督を継いでから僅か五年で周辺の中小勢力を滅亡・傘下に収め五十万石超の上積みにより百十四万石の大大名へ伸し上がった才器は本物だと改めて痛感させられた。
「如何致す?」
こちらも渋い表情の景勝。勢いよく噛み付いてきたのに状況不利と悟るや降参してきた事を快く思っていないのであろう。
それでも兼続は「受けましょう」と即答した。腹心の言葉ながら不満気味な景勝は懸念を示す。
「……和議を結んだとて、形勢次第でまた裏切るとも限らぬぞ?」
「ですから、あの若造にちときつい苦汁を飲んでもらいまする」
兼続の意味深な発言にも『あの煮ても焼いても食えぬ政宗の首に鈴なぞ付けられるか?』と懐疑的な視線を送る景勝。ただ、妙案のある兼続は自信ありげに告げる。
「例えば……“上杉勢が関東へ攻め込む際は伊達勢が先鋒を務める”とし、将も“片倉備中守か伊達安房守のどちらか”と指定しましょう」
腹心の口から飛び出した内容に、景勝は目を大きく見開く。
交戦状態にある中で和議を結ぶ場合、再び相手が軍事行動を起こさぬよう抑止の枷を嵌める事が多々ある。それが敵側から仕掛け且つ形勢不利で申し入れてきたなら制裁的要素を盛り込むのも当然だ。加えて、隙あらば寝首を掻く気満々な政宗。違約した際に高い代償を払わされると知らしめる必要があった。
そこで兼続が思いついた案が、“上杉勢の関東侵攻に於いて伊達勢が露払いの役目を行う”・“片倉景綱か伊達成実を人質に差し出せ”という要求である。
前者は言わずもがな、『事実上降伏したのだから上杉家の為に戦え』という半強制的な命令である。これに関しては戦国乱世でよくあった事なので政宗も織り込み済みで、家康の意向に背く行為になるものの上杉家に攻められて滅ぶよりマシだと割り切っているに違いない。
問題は、後者。兼続が指名した人物に重要な意味があった。
片倉“備中守”景綱。通称である“片倉小十郎”の方が認知度はあるか。政宗の幼少期より近習として仕え、主に智略の面で主君を支えてきた。外交の取次を任される程に全幅の信頼を寄せる政宗は、小十郎の提案を殆ど取り入れたとされる。
伊達“安房守”成実。母は政宗の祖父・晴宗の次女で伊達家一門衆の家に生まれた成実は、激戦となった天正十三年十一月の“人取橋の戦い”や天正十七年六月の“摺上原の戦い”で目覚ましい武功を挙げた猛将である。北条征伐の折に徹底抗戦を唱えた事や秀吉に唯々諾々と従う政宗の姿勢に反発した成実は文禄四年秋に出奔。上杉景勝や徳川家康などから仕官の誘いを受けるも固辞、在野を貫いた末に今年七月の白石城攻めで帰参している。
今回“智の片倉景綱”“武の伊達成実”を指名した背景には、政宗の両腕たる重臣を上杉家の人質にすると同時に『伊達は徳川と手を切った』事を内外に喧伝する狙いが込められていた。理由はどうであれ上杉の尖兵として働けば当然ながら家康の心象も地に堕ち、徳川方へ再転向しようにも猜疑心の強い家康は政宗を信用せず受け容れまいと兼続は睨んだ。
「……そんな厳しい条件、彼奴が呑もうか?」
「呑むでしょう。然もなくば潰されると当人が一番分かっております故」
未だ信じ難い景勝は疑問をぶつけるも、兼続はきっぱり断言する。
上杉勢は元々家康の侵攻を想定し石高規模を遥かに超える戦力を抱えていた。それが畿内で西軍挙兵を境に上杉征伐は中止、家康は主戦力を率いて来た道を引き返してしまった。これに困ったのは別方面を担当する大名達で、越後の面々は蜂起した一揆の対応に追われ、奥羽の伊達・最上は無傷の上杉勢の矛先が向けられるのではと戦々恐々の思いにある。おまけに家康の指示で最上義光の指揮下に入る予定だった中小大名達は上杉征伐中止に伴い自領へ戻り、さらに形勢が悪くなった。
政宗は上杉征伐を契機に旧領奪還を目論むも、状況次第で家康と手を切り上杉方へ鞍替えするのも已むを得まいとするしたたかさも併せ持っていた。圧倒的な武力で脅す一方で関東侵攻が実現し上杉家が相応の版図を得られれば政宗が望む旧伊達領を返還しても構わないと兼続は考えていた。現時点で景勝は関東侵攻に否定的だが、兼続の中ではまだ諦めておらず主君を翻意させる条件が揃うのを待つ構えだった。
「……分かった。交渉は任す」
自信に満ちた顔の腹心に、景勝は言葉短く対応を委ねた。主君の許可を得た兼続は一礼すると足早に辞した。
硬軟織り交ぜた遣り取りの末、政宗は屈辱的な条件を受け容れ和睦が成立した。厄介な相手を一つ潰した事で、兼続は将来を見据え周囲をアッと驚かせる計画が閃き、その実現に向け邁進していくのであった。




