二 : 上杉征伐 - (7) 景勝の“義”
畿内で西軍が挙兵したのに伴い、上杉征伐の流れにも変化が現れ始めた。
慶長五年七月二十三日、家康は最上義光へ『畿内で不穏な噂が出ている』として上杉征伐の中止を伝え、『引き続き上杉を牽制して欲しい』旨を要請した。この時点で同行する大名達には『内府ちがひの条々』が届いている事から、不確定ながら畿内で大きな動きがあったと認識している表れとも解釈出来る。
翌、二十四日。下野国小山に進軍していた家康の元へ伏見城を守る鳥居元忠から敵の攻撃を受けているとの急使が駈け込む。この急報を受け家康は行軍を停止、先発していた本多忠勝や榊原康政を呼び寄せ限られた重臣達と共に今後の方針について密談した。
そして同日。若松城に詰める兼続の元にも火急の報せが届いた!
「申し上げます!! 白石城に伊達勢が仕寄せてきました!!」
一報を受けた兼続は無意識の内に歯噛みする。選りに選って上杉家の命運が懸かる大事な時機に邪魔が入った事に激しい怒りを覚えた。
「藤右衛門殿は何と申していた!?」
甘糟“藤右衛門”景継、天文十九年〈一五五〇年〉生まれで五十一歳。景勝の出身である上田長尾家に仕える登坂家に生を享け、天正五年に主君たる謙信の命で甘糟継義の養子となった。甘糟家の出自は諸説あるが謙信の躍進に多大な貢献をした“上杉四天王”の一人・甘糟“近江守”景持の一族と思われる。個の武勇のみならず軍を動かす将才も優れた人物で、御館の乱や新発田重家の乱で活躍したとされる。その手腕と実績を高く評価した景勝・兼続が対伊達の最前線で刈田郡支配の最重要拠点たる白石城へ配置したのだが――。
「それが……」
歴戦の猛者たる景継ならば伊達勢の急襲にも動じず適切な対処をしてくれると確信していた兼続は、使者の曖昧な態度に違和感を抱く。
言い淀んでいた使者は兼続の厳しい視線に観念したらしく、正直に打ち明ける。
「我が殿は……奥方様が身罷られたと聞き、吉利支丹の教えに従い葬儀へ参列すべく指揮を甥御殿へ託され、若松に向かわれました由」
「なっ――」
白状された内容に兼続は絶句する。
吉利支丹や耶蘇教(キリスト教)に疎い兼続は、身内の不幸があれば死者の元へ駆け付けるのが何より優先されると初めて知った。しかし、景継の犯した事は武人にあるまじき行為、しかも戦が眼前に迫る緊迫した情勢下で職務放棄に等しい愚挙と言わざるを得ない。
景継もまた状況を理解していたからこそ、実践豊富な家臣や精兵を残し甥の登坂勝乃が代理を務めても大丈夫な体制を整えていた。しかし、軍勢の強さは采を振る大将の器で変わる。景継と比べ勝乃では格が落ちるのは明らかで、苛烈な戦に揉まれた伊達勢相手では荷が重過ぎた。
腸が煮えくり返る思いの兼続は努めて怒りを抑え、使者に応える。
「……これより殿へ報告し、対応を協議する。暫し待て」
「ははっ」
まるで裁きを受ける罪人の如く額を床に打ち付けんばかりの勢いで平伏する使者を気の毒に思いつつも、すぐに頭を切り替え席を立つ。一刻を争う由々しき事態に歩を進める度に憤怒が増していく兼続だった。
急ぎ足で主君の元へ向かう兼続は景継の振る舞いを言語道断と立腹する傍ら、ふと気付く。
(……そういえば、伊達家も優れた忍び衆を抱えていると聞いたな)
上杉家が“軒猿”を抱えていたのと同様に、伊達家も“黒脛巾組”と呼ばれる忍び集団を持っていた。乱世で版図を拡げる戦国大名の多くが情報の価値を重要視していた事から、政宗の肝煎りで創設された。
情報の収集・攪乱が主な任務だが、天正十三年十一月に佐竹・蘆名を軸に奥羽の中小勢力による連合軍との死闘を演じた“人取橋の戦い”では佐竹家の有力武将が陣中で殺害されたり合戦中に飛び交う流言で国人同士を疑心暗鬼に陥らせたりと暗躍し伊達勢勝利に貢献したとされる。その存在を裏付ける確かな史料は発見されておらず疑問視する見方もあれど、腕利きの忍びが伊達家を影から支えた可能性は非常に高い。
もし景継の不在を黒脛巾組が掴んでいたとすれば……伊達勢の急襲も合点がいく。自分が政宗の立場にあっても、同じ判断を下すだろう。偽情報の危険はあれど、旧領奪還の足懸かりとなる白石城を容易く落とせるなら非常に魅力的である。こちらの隙を逃さず迅速に攻め寄せた点も含め、政宗は侮れないと再認識させられた。
城代不在に奇襲・嘗て伊達家が保有し縄張りも把握していた等の有利な条件が揃う寄せ手が序盤から優位に立ち、翌七月二十五日の昼前までに唯一本丸を残すまでに上杉勢は追い詰められた。これ以上の抵抗は難しいと判断した勝乃は降伏、白石城は伊達の手に落ちた。兼続も景勝と協議の末に後詰めを送るも、途中政宗の煽動で蜂起した武装集団の妨害に遭い、退却を余儀なくされた。並行して伊達家家臣・桜田元親が河股城へ奇襲を仕掛け、攻略。伊達勢はさらに南下し幾つかの地域を焼き払った。これにより上杉家は二日間で二つの城を失った事となる。
なお、“景継が吉利支丹だった事”“妻の死で若松に戻っていた事”を示す確かな史料は見つかっていない。若松へ戻っていたのも景勝の召し出しを受け今後の方策について話し合う為だったとする説もある。ただ、景継が離任していた間に白石城が陥落したのは紛れもない事実で、慶長十一年〈一六〇六年〉に江戸城・桜田門普請の働きを認められ幕府より衣服と銀子を賜った記録がある他は公式な記録にその名が出る事は無かった。上杉家中で不当な扱いを受けているとして家康が二万石で召し抱える誘いを持ち掛けるも、景継は「主君の怒りは全て私の責任で罰を受けるのは当然のこと。上杉家に長く仕え、今更他家へ仕官する心算はない」と固辞した――とする逸話が残されている。何れにせよ、白石城陥落の失態で景継は武将失格の烙印を押されその後の人生に影を落とした。
鳥居元忠の急報で西軍挙兵の確証を得た家康は、本多忠勝・榊原康政の重臣に右腕と頼む井伊直政・懐刀で謀臣の本多正信の限られた面子でその日の夜に今後の方針について密談した。
慶長五年七月二十五日。下野国小山で上杉征伐に参加している諸大名を集め軍議を開催。畿内で西軍挙兵を明らかにした上で、諸大名の妻子が人質に取られている事情を汲み「進退は各々に任せる」と告げ家康は退席した。皆が皆様子を伺う中、逸早く福島正則が「これは治部が幼君秀頼公を誑かした許し難い暴挙」と糾弾、家康に従い逆賊・三成を討つと宣言した。これが呼び水となり大多数の将が家康に味方する旨を表明。大勢が決したのを受け戻った家康は上杉征伐を中止し、秀頼公の名を騙る不届き者達を討つべく反転する事を決めた。また、西進の際に通る東海道筋の掛川城主・山内一豊が家康へ「我が城を好きに使って下され」と申し出ている。
西軍と対峙すべく、東向していた上杉征伐勢は翌二十六日から南進を開始。上杉勢の押さえに先遣隊の徳川勢が宇都宮に留まった。
「だから我等の報せを待つよう再三申したのに……!!」
敵勢の報告を受け、悔しそうに憤る兼続。
決起の時機が早ければ家康は即座に上杉征伐を切り上げ天下獲りへの大一番に臨むのは明白だった。無傷のまま家康が決戦に向かえば“豊臣家の敵を討伐する”大義を掲げる西軍であろうと勝つ見込みはかなり厳しい。
ただ、兼続も手を拱いている訳ではない。
「殿、出撃致しましょう!! 関東へ攻め入り、内府の西進を遅らせるのです!! 時さえ稼げれば、まだ勝負は分かりません!!」
強い口調で兼続は進言する。
上杉征伐勢が無傷な事は、同時に上杉勢も戦力を丸々保持している事になる。謙信の薫陶を受け幾度の苦難を乗り越えてきた将兵に家康の侵攻に備え他家にも知られる勇士や新たに召し抱えた兵も上積みされている。この戦力は家康にとって脅威に感じているのは間違いなく、だからこそ上杉征伐は中止されても奥羽や越後方面の諸大名に牽制するよう強く求めたのだ。
自領へ引き込んで迎撃するのと敵地へ攻め入るのは勝手が全く異なる。当然ながら上杉家も相応な被害を被るだろう。それでも兼続が攻勢に出るべきだと主張する。北から圧力を掛ければ家康も西へ進むのを躊躇し、関東で足止めしている間に大坂より家康討伐軍が東へ駒を進めれば当初の構想とは異なれど西と北の両面から挟撃する形が成立する。密約を交わす佐竹家が上杉家と連動すればさらに有利な状況となろう。
だが、景勝は腕組みし目を瞑っている。兼続は決断を促すべくさらに捲し立てる。
「内府は豊臣家の敵となりました! 義は我等にございます!! 秀頼公を頂とする統治を未来へ繋ぐ為にも、今ここで討ち果たさねばなりません!! 殿、御英断を」
言うなり躙り寄る兼続。何が何でも景勝から“諾”を引き出さねばならない。豊臣家の将来の為、上杉家の繁栄の為、そして兼続の大望の為に、ここが正念場だ。
家康の領地たる関東で戦うのは想定外だが、勝算は充分にある。二度の朝鮮出兵を経験した西国の有力大名の多くは我が陣営にあり、毛利家を主体に構成された軍は十万を超す規模となろう。それに家康は豊臣家の討伐対象に認定され、西軍に敵対するのは秀頼公へ刃を向けるに等しい。秀吉に引き立てられ多大な恩のある福島正則や加藤清正などの者共は離反せずとも中立を保つだけで家康の戦力はその分減る。敵の戦力が削れれば此方が勝てる可能性は高まり、泥船に乗って沈むのを恐れる東軍の大名から離反者が出るのも見込める。景勝の判断がこの戦の趨勢を握っていると言っても過言ではない。
強く背中を押す兼続に対し、景勝は岩の如く不動を貫く。思わぬ反応に焦れる兼続とは対照的に、暫し瞑目していた景勝は常と変わらぬ落ち着いた声で問う。
「……攻めるとならば我等も総懸かりとなろう。国の守りは如何致す?」
反射的に「何を女々しい事を仰られますか!?」と口を衝いて出そうになるのをグッと呑み込み、一つ呼吸を挟んでから兼続は答える。
「些少な土地など呉れてやりなされませ」
敵の侵攻を容認し自領に与えろと戦国武将にあるまじき衝撃発言をした兼続に、景勝はゆっくりと瞼を上げる。目で真意を糺す主君に、兼続は説明する。
「伊達は本貫の地たる信夫・伊達の両郡を、最上は我等との争いに庄内を、それぞれ取り返したいと考えております。詰まるところ、彼奴等は求めているものを手に入れれば満足します。餓狼も腹を満たせば狩りを止めるように、我等も餌と割り切り伊達・最上に望みを適え鎮めるのです。放棄した分の将兵は若松や米沢など最重要拠点に回せば、不要な戦で数を損なわず守りを固められまする」
力を込めて持論を展開する兼続。「それに」とさらに言葉を継ぐ。
「内府さえ討てれば、賊軍の彼奴等は処罰の対象。戦後処理にて幾らでも取り返せるのですから、兵と時を無駄に浪費するようなもの。心の中で嗤うくらいの大きな心で臨まれませ」
なかなか支離滅裂な暴論を展開する兼続に、景勝はジロリと見据えるだけで微動だにしない。ただ、一聴の価値ある意見だ。
伊達・最上が幾ら上杉領を削ろうとも、彼等の大将たる家康が負ければ状況は反転する。戦後の論功行賞で敵方に属した伊達・最上の奪取した領地は無効とされ、勝者側の上杉家へ返還される。要するに“無駄な足掻きだ”と兼続は主張する。
確かに、自領を敵に好き放題で刈り取られるのは癪に障るし、“土地を命懸けで守る”武士の本分に反する対応に矜持を傷つけられたと感じる者も出てこよう。然りながら、景勝には一介の武士が持つこだわりに捉われず大局的な視点に立ってもらいたい。小さな負けなぞ大きな勝ちで全て吹き飛ぶ、それくらいの度量で臨んでこそ景勝は名将となれる。兼続はそう信じていた。
ところが――肝心の景勝は、兼続の熱弁に対して反応が薄い。寡黙でむっつりしているのは常の事ながら、幼少期より側近くで仕えてきた兼続には微かな顔の変化や雰囲気から主君の感情や思考を察する事が出来る。これまで兼続が大胆な策を提言した際は必ず何かしらの挙動が見られたのに、今回は明らかに異なる。
内心困惑する兼続へ「与六」と景勝が声を掛ける。
「大なる義を果たす為に封土を敵に切り取り次第を許すのは、武士の本分に反すると思う」
粛々《しゅくしゅく》と語る景勝に、瞠目する兼続。これまで幾度も兼続は策を進言し、採用せずとも参考として取り入れてきた。器量の面で優れる兼続を認め、凡才な景勝は足りぬ分を補おうとしたからだ。それが今回は明確に否定され、初めての事態に兼続も当惑していた。
それでも挫けず翻心してもらうべく兼続は必死に訴える。
「殿の仰ること、御尤も。然れど、我等は豊臣家から天下を簒奪せんと企む内府の野望を打ち破るべく兵を挙げたのですぞ!! 不識庵様より続く“義”に基づく戦いは御為倒しの側面を併せ持つ事も殿は重々承知の筈!! 太閤殿下も本能寺の凶報を受けた際は主君の仇を討つべく手に入れた数ヶ国を潔く捨てられました!! 殿も偉大な先人の例に倣うべきです!!」
世に“英傑”と呼ばれる名将は、大望成就の為なら血汗を流し掴んだ土地に執心せずあっさり手放した。先代の謙信も祖国を追われた国人達に出兵し得た信濃や上野領を返還している。犠牲や多大な出費の代わりに名声を得た事で、何物にも代え難い“信頼”を築き後世の繁栄に繋がった。また、天正十年六月に備中高松城攻めの真っ只中にあった秀吉は京で信長が非業の死を遂げたと知るや、直ちに毛利家と和睦し取る物を取り敢えず中国路を東へ驀進。与力格の宇喜多勢を除く全軍を率いた為、割譲された備中や美作は毛利家が奪還しようと思えば赤子の手を捻るかの如く容易な状況だった。何年も費やした苦労が水泡に帰す恐れを呑んだ上で“中国大返し”を成し遂げた秀吉は他の織田家重臣に先んじて謀叛人・明智光秀を成敗した事により、天下人の階を昇る権利を掴んだ。武士にとって土地は財産であり誇りであるからこそ命を賭して守るべきものだが、拘りを捨てる事が逆に枷から解かれ大きく飛躍する時もある。
兼続は、主君に土地に縛られる前時代的な考え方から脱却して欲しいと切に願っていた。会津はあくまで暫定の赴任地、本貫の地たる越後へ帰る本来の目的を果たすべく“徳川の走狗の伊達・最上を満足させる為に多少の損は已むを得まい”と割り切れる人間になれれば、兼続は歴史に名を刻む傑物へグッと近付く。今回の厳しい戦いを通じて殻を破れれば、豊臣家の大黒柱と呼ぶに相応しい存在となれる。兼続はそう信じていた。
この選択が上杉家の命運を左右する剣が峰と自覚している兼続は、血走った目で景勝の返答を待つ。いつの間にか掴んでいた袴の腿部分に、強く握られていた事で出来た皺が生じていた。
長く続いた重苦しい沈黙は、景勝の口から吐かれた息を境に解き放たれた。
「御主の申す大義の為に、どれだけの者が悲しまねばならぬ? そして、払った代償の贖いで勝てる見込みは如何程にある?」
「それは……」
予期せぬ問いに対し答えに窮す兼続。怯んだ隙を逃さず景勝はさらに畳み掛ける。
「百足から聞いた。『佐竹の様子が怪しい』と」
兼続が敢えて隠していた情報に言及され、唇を噛む。退却する徳川勢追撃の絶対条件の一つが崩され、反論すら難しかった。
三成に一方ならぬ恩を感じている佐竹義宜とは気脈を通じており、家康率いる上杉征伐軍が会津へ侵攻すれば叛逆し後背を突く手筈を組んでいた。実際に義宜は自らの右腕と頼む知勇兼備な剛の者・車“丹波守”斯忠を秘かに上杉家へ送り込み、客将として対伊達方面に配備されている。しかし――ここに来て、佐竹家内部に異変が生じていた。隠居した先代・義重や弟・蘆名義広を始めとする一族・家臣の大半が「家康に味方すべし」と主張したのだ。特に父・義重はその勇猛さから“鬼義重”の異名で諸国に名を馳せ、家督を譲った後も家中に一定の影響力を有していた。反徳川の急先鋒たる斯忠が離れているのも重なり、義宜は家中の意見に押され佐竹家の動向は不鮮明になっていたのである。
口を噤む兼続へ景勝は諭すように語り掛ける。
「天下泰平を揺るがす内府の企てを止める、その暁に本貫越後への帰還と豊臣家大老筆頭の名実両方を手に入れる。成る程、武士に生を享けたならば冥利に尽きる局面だろう。ただ――我等が本懐を遂げる為に、仮寓の地とは言え領民を不幸にする事は不識庵様の掲げられた“義”の精神に照らし合わせ如何なものか。我は違うと思う」
悠揚な口調で述べる景勝。しかし、その言葉には断乎たる決意が滲み出ている。
いつもは家臣達の意見を全て聞いた上で承認する形を執る景勝がはっきりと自らの考えに言及したのを、兼続は初めて見た。常と異なる凛々しい姿に仕える主として誇らしく感じる一方……それでも、今回だけは上杉家の“義”に背く事になれど攻勢に出るべきだと訴えたかった。
絶対的権力者の地位を確立しつつある家康を倒す機会は然う然う巡って来ず、これが最後になるかも知れない。景勝が“義”の精神を行動指針とし貫徹するのは重々承知しているものの、千載一遇の好機にある今は世間から非難を浴び自らの理念に反しても“義”を捨て勝負に出るべしと兼続は考えていた。しかし、上杉家の当主で最終決定権を持つのは景勝であり、加えて決意が固い為に翻意させる可能性は皆無に等しい。この瞬間、兼続が提言し準備を進めてきた大望は露と消えた。
歯を強く食い縛る兼続の瞳から、一滴の涙が溢れ落ちた。不言で頭を垂れた兼続は、心の中で同時に西へ向けて叩頭した。約束を先に破ったのは相手の方だが、務めを果たせず詫びる気持ちをどうしても示しておきたかったのだ。
こうして、西と北の両面から挟撃し家康を討伐する西軍の構想は、完全に崩壊した。逃げる敵へ背後から攻めるのを好しとせぬ上杉家は、侵攻してきた北へ意識を向けることとなる。




