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二 : 上杉征伐 - (6) 誤算

 江戸に着いた家康は上杉征伐に加わる後発組の到着や各方面の攻め入り時機見極めの為、暫し行軍を停止。慶長五年七月七日、家康は各方面の大名に向け「二十一日に出陣する」旨を通達した上で、連携し上杉領へ侵攻する段取りを行うよう命じた。

 七月十九日、徳川勢の主力で構成され家康の嫡男・秀忠を大将とする先遣隊が江戸を出陣。家康も告知していた二十一日に本軍を率いて発《た》った。翌二十二日に先遣隊は宇都宮へ到着。家康も二十三日に古河へ着陣した。

 敵方の動向は“軒猿”を介して逐一《ちくいち》景勝・兼続の元に届けられた。十万を超す軍勢が下野《しもつけ》国まで迫り、いよいよ決戦は間近か……と覚悟を固めていた。

 しかし――!! 兼続や景勝にとって、想定外の謀報が飛び込んできた。

 時は遡《さかのぼ》り、七月十七日。夜半過ぎに火急の呼び出しを受け登城した兼続は、主君の寝所《しんじょ》に百足の姿があった時点で嫌な予感がした。

 兼続が現れたのを確かめ、百足は徐《おもむろ》に口を開《ひら》く。

「畿内で、内府追討に向けた兆候が見られます」

「馬鹿な……!!」

 口を衝《つ》いて出たのは、否定の気持ち。顔を歪める兼続へ、それを裏付ける情報を百足が明かす。

 七月二日、上杉征伐に加わるべく領国の越前・敦賀城から出陣した大谷吉継は美濃・垂井《たるい》に着陣。そこへ石田家の家臣・樫原彦右衛門が訪れ、吉継は佐和山城へ招かれた。大谷勢は数日滞陣し、反転大坂へ向かったこと。五日、大老の一人・宇喜多秀家が秀吉の廟所《びょうしょ》・豊国社《とよくにしゃ》を参詣《さんけい》。また、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行が活発に動いていること――。

 百足からの報告を受け、兼続も認めざるを得なかった。吉継は三成にとって“盟友”と呼べる相手、自陣営へ引き込む意図は明白だ。秀吉が生前『紀ノ介(吉継の幼名)に百万の兵を預けて采を振るう様を眺めてみたい』とその将器を絶賛された程で、家康を倒すには欠かせない存在だ。そして、宇喜多秀家は先日の御家騒動で家康が裏で糸を引いていた恨みから上杉征伐に加わる筈がなく、三奉行も家康討伐へ向け水面下で動いているのだろう。

「どう見る?」

 景勝から意見を求められた兼続は、苦虫を噛み潰したような表情で応える。

「……残念ながら、決起は間近と捉えてよろしいかと」

 そう述べる兼続の言葉には、無念さが色濃く滲む。

 今回の計画は家康が会津へ入り交戦している事が大前提である。泥沼の戦で足を抜けられない間に三成が主導する形で挙兵し、迅速に東征し挟撃する。自前で七万前後の大軍を動員可能な上に嘗《かつ》て十万の兵を率いた秀吉相手に約二万の軍勢で負けなかった戦巧者たる家康を倒すには、協調し息を合わせるのが唯一の勝ち筋だった。その事は三成も重々承知しているものと思っていただけに、兼続は腸《はらわた》が煮えくり返る思いだ。

 ドンと拳《こぶし》を畳に叩き付けた兼続は、怒りのままに天へ向かって叫ぶ。

「治部殿!! あれ程我等から報せが届くまで起つなと申し上げたのに!! 何故待てなんだか!?」

 遥《はる》か西に居る三成へ兼続は糺《ただ》す。綿密な打ち合わせをしていたにも関わらず先走られた事に兼続は裏切られた気分だった。

 畿内の情勢が今どうなっているか具《つぶさ》に把握している訳ではないが、計画の前倒しを余儀なくされる程に緊迫しているとは言い難《がた》い。寧《むし》ろ、専横を極めていた家康が離れた事で政《まつりごと》は正常化し、安定を取り戻していたくらいだ。理知的で実直な性格の三成は交わした約束を遵守《じゅんしゅ》すると信じてきたが、吏僚畑《りりょうばた》をずっと歩んできたが故に戦の機微《きび》を知らぬ弊害が出たか。確かに“戦は生き物”とよく表現され不測の事態に直面すれば柔軟に対応すべきではあるものの、挙兵を急ぐ理由は見当たらない。兼続は懸命に三成の思考を探ろうとするも、どんなに頭を捻っても理解するには程遠かった。

 景勝や百足が能面の如く沈黙する中、悔しさや苛立ちの入り混じった瞳で兼続は西の方角をずっと睨み続けた。


 慶長五年七月二十二日。若松城の景勝へ、重要な書状が届いた。景勝は直ちに兼続を含めた重臣を秘かに招集、密議を開《ひら》いた。

 皆が揃ったのを受け、景勝は切り出す。

「本日、公儀より内府が犯した数々の罪を糾弾する『内府ちがひ(い)の条々』が齎《もたら》された」

 淡々とした口調で述べた景勝は、一通の書状を懐から取り出す。まず兼続が受け取り、文面に目を通してから本庄《ほんじょう》繁長《しげなが》・安田能元(よしもと)へと回す。

 本庄“越前守《えちぜんのかみ》”繁長、天文八年生まれで齢六十一。天文二十一年、十四歳の時に謙信へ仕え始め、川中島の戦いや関東征伐に従軍。ただ、自立志向の強い掲北《あがきた》衆に属していた繁長は様々な不満が募った末に一時反旗を翻し、その後帰参が認めるも謙信存命中は一家臣の立場に甘んじていた。“御館の乱”で景勝方に味方すると戦後揚北衆の代表的立場となり、庄内地方を巡る最上家との争いでは大宝寺家を支援し勝利に多大な貢献をしている。しかしながら天正十八年に庄内地方で一揆が勃発した際に“裏から煽動した”として改易処分を受けた(後に赦免され、帰参している)。かなり浮き沈みの激しい経歴だが実力は本物で、反旗を翻した折は“軍神”と崇められた謙信と精兵を相手に負けるどころか大損害を与えた事から『上杉家に鬼神あり』と他家にも通じる程の人物だった。

 回された『内府ちがひの条々』は要約すると以下の通りである。

『此度の上杉征伐は家康が差し出した誓紙・太閤殿下の御置目《おんおきめ》に違反し、秀頼公を其方退《そっちの》けにしての出陣です。我等(長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行)相談の上、家康追討を決定致しました。家康の糾弾される罪は別紙にまとめてあります。

一.五大老と五奉行で誓紙を交わしたにも関わらず、短期の内に奉行二名(三成・長政)を失脚させたこと。

一.加賀中納言(利長)は身の潔白を示したにも関わらず、人質を要求し過度に追い込んだこと。

一.会津中納言(景勝)は何の咎も無いのに、太閤殿下の遺命に背き討伐しようとしていること。

一.知行《ちぎょう》宛行《あてがい》権を濫用《らんよう》し、大名へ勝手に所領を与えたこと。

一.豊臣家の所有する伏見城へ無断で入ったこと。

一.禁じられている五大老と五奉行以外の大名と誓紙の遣り取りを交わしたこと。

一.北政所様の御住まいたる大坂城西ノ丸を家康が我がものとしていること。

一.西ノ丸に天守を築いたこと。

一.諸大名の妻子は豊臣家への人質にも関わらず、自らに近しい者(真田信幸(のぶゆき)・京極高次等)を国許《くにもと》へ帰したこと。

一.大名間の婚姻は公儀への届け出が必要だが、無断で複数の者と結んだこと。

一.若衆(俗に“武断派”と呼ばれる面々)を唆《そそのか》し、徒党を組ませたこと。

一.大老五名の合議で政務を執り行うべきところ、家康一人で決裁していたこと。

一.(自らの側室・お亀の方《かた》の実家である)石《いわ》清水八幡宮へ勝手に検地を免除したこと。

 上記を踏まえ、太閤殿下より受けた恩に報いるべく秀頼公への忠節を果たすべきです』

 皆が文面を確認し、書状は景勝の元へ戻る。静かに畳んだ景勝は、不意に問う。

「徳川は、どうなっておる」

「先遣隊は宇都宮城へ入り、本軍も下野《しもつけ》国を北上している由《よし》」

 間髪入れず答えた兼続。“軒猿”を束ねる百足から逐一報告が届き、家康の率いる軍勢の動向も把握していた。

 上杉家に弾劾状『内府ちがひの条々』が到着したとなれば、家康に付き従う諸大名の手にも渡っていると解釈していいだろう。実際、上杉征伐で先鋒に任じられた長岡忠興は二十一日付で国許の丹後・豊後へ宛てた書状の中で“内府様追討の兵が挙がった”と言及しており、遅くとも二十一日には忠興が手に入れていた証拠である。

 この『内府ちがひの条々』が発布されたのは、七月十七日。予《あらかじ》め全国の大名へ送付する事を前提に準備が進められていたとは言え、関東に駐留する忠興へ僅か四日で届けられたのは馬か飛脚が速達の輸送手段である当時としてはかなり早かった。

「して、我等は如何《いかが》なされますか?」

 訊ねたのは能元。過去の戦で足に障碍《しょうがい》を負い内政官へ転身するも、武将の実績と器量を買われ会津転封後は小峰《こみね》城代に指名され、今回の決戦でも一番隊を率いてもらう予定だった。非常に重要な役回りを任せる都合上、この先の方針について確認するのは当然の流れである。

 能元は主君たる景勝へ質問したが、答えたのは今回の作戦で全権を託されている兼続だ。

「仮に敵が北上してくれば従前通り革籠原にて迎え撃ちます。ただ、下野に留まる、若《も》しくは江戸へ引き返した場合につきましては……まだ決めかねておりまする」

 やや歯切れ悪く述べる兼続。とは言え、家康が侵攻しなかった時の対処について腹案は持っていたが、まだ主君の景勝にも明かしていない現段階で開示するのは控えた。

 景勝は兼続の反応に以心伝心の様子で軽く頷く。片や、今度は繁長が発言する。

「徳川も大事だが、北は如何《いかが》すればよい?」

 繁長は上杉征伐が決定したのに伴い、本貫の地たる信夫《しのぶ》・伊達両郡の奪還に執念を燃やす伊達政宗の侵攻に備え会津北部の要衝・福島城へ配置転換されている。伊達領の国境《くにざかい》にある梁川《やながわ》城の須田長義や白石《しろいし》城の甘糟《あまかす》景継《かげつぐ》といった譜代の将と共に対処する構えだ。

 もし仮に家康が関東へ戻るとなれば、上杉勢の追撃を緩めるべく北の伊達政宗・最上義光へ侵攻するよう命じるであろう。特に政宗は秀吉に取り上げられた伊達家父祖伝来の地を取り返さんと息巻いており、この機に乗じて攻め懸《か》かるのは明白だ。家康率いる大軍が北上する可能性が低くなった今、優先すべきは伊達勢の対策である。

 それに対し、落ち着いた口調で兼続は答える。

「越前守殿には当初の計画通り、拠点となる城へ籠もり守りに徹して頂きたいです。御歴々(おれきれき)の皆様方(がた)には厳しい戦となりましょうが、何卒《なにとぞ》力行《りっこう》願いたい」

 言うなり兼続は繁長へ頭を下げる。この先どのような道を選ぶにしても伊達勢の侵攻は確実で、繁長を筆頭に将兵達の踏ん張りが今後の作戦を左右すると断言していい。それだけに兼続は辞を低くして乞う姿勢を示した。

「頼む。越前守」

 腹心の懇請《こんせい》を後押しするように、景勝からも短い言葉と共に身を屈《かが》める。主君から頼みとされた繁長は「畏《かしこ》まりました」と恐縮しながら応えた。

 当面の対処方針が定まった事で、密議は散会となった。対徳川・対伊達の方面指揮官たる繁長・能元は直ちに持ち場へ出立する。

 そして……兼続は百足から家康の動静についての報せを待った。家康が畿内で挙がった徳川追討の動きにどう反応するかで、主君・景勝へ進言する内容が変わるからだ。歴史の転換点に立っている自覚の高揚感からか、刻の経過を遅く感じる景勝だった。


 絶対的権力者たる家康が上杉征伐の為に東国へ下向した事で、その独走に待ったをかけたい勢力が遂に動き出した。

 慶長五年七月十二日、石田三成の兄・正澄《まさずみ》は近江国・愛知川《えちがわ》に関を設置。上杉征伐へ遅れて参陣しようとしていた長曾我部《ちょうそかべ》盛親《もりちか》や鍋島勝茂など主に西国《さいごく》の大名達は東進を阻まれ、已《や》む無く大坂へ引き返した。同日、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行は連署で安芸・広島に居る毛利輝元へ上坂要請を出した。円滑に準備が進められる背景には当代随一の能吏《のうり》で反家康の急先鋒だった三成が一枚噛んでいると考えるのが自然だろう。

 七月十七日、三奉行による『内府ちがひの条々』が発布。直ちに諸大名の元へ送られ“豊臣家の敵”と認定された家康を討伐すべく馳せ参じるよう呼び掛けた。同日、輝元に先んじて大坂入りしていた毛利家一門・毛利秀元が大坂城西ノ丸に留まっていた徳川家の者達を追い出し接収。また、家康追討の意志を公《おおやけ》にしたのに伴い、上杉征伐へ加わる諸大名の妻子を大坂城へ移そうと試みるも、長岡忠興の妻・ガラシャが拒否・自害し屋敷が炎上する騒ぎに発展。身柄移送は一旦保留とし屋敷の周囲に見張りの兵を置く処置に軟化せざるを得なかった。十八日、佐和山で蟄居していた三成が豊国社へ参拝、その後大坂に移っている。

 翌、七月十九日。予《かね》てより伏見城を預かる徳川家家臣・鳥居元忠へ開城を勧告するも、拒否。交渉は無意味と判断し城攻めが開始された。同日、四日前に広島を発《た》った輝元が大坂に到着、西ノ丸へ入った。また、七月二十二日には家康方に属す長岡家の所領・丹後へ大坂から討伐を命じられた丹波衆などの軍勢が留守を預かる長岡幽斎の籠もる田辺城攻めが開始している。

 決起時機を除き、兼続と交わしていた計画は順調に進められた。畿内で“打倒家康”の一石《いっせき》が投じられたのを端緒《たんちょ》に、波紋となり地方へ影響を及ぼしていくこととなる。


(以降、家康方を“東軍”・反家康方を“西軍”と表記します)


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