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二 : 上杉征伐 - (5) 迎撃計画

 家康が主導する形で“上杉家は豊臣家の敵”と認定され、大坂や伏見の上杉屋敷は閉門処分を科された。留守居役の千坂景親は制約のある状況でも畿内の情勢を本国へ送り続けた。

 大坂を出発した家康率いる本軍は東海道を進み、越後や奥羽の大名達は来《きた》るべき時に備え戦支度を急がせる。関東から会津・奥羽に至る東国は日毎(ごと)に緊張の度合いが増していた。

 月は改まり、七月。上杉領内でも各方面からの侵攻に備え城を預かる有力家臣が持ち場へ戻る中、兼続は景勝と今後の方針について協議すべく宵の内に密行した。

 景勝の居室で主従二人きりの状況で、兼続は徐《おもむろ》に切り出す。

「内府は近々江戸へ着く見込みです。同行する諸大名に移動の兆候は見られず、恐らくは当面江戸に留まるものかと」

 徳川家は元々伊賀の忍びである服部家の一族を直臣にしており、信長による天正九年の伊賀掃討戦で難を逃れた伊賀衆を保護した。この縁があった御蔭で翌天正十年六月の伊賀越えでは地侍の協力を得て三河へ生還を果たし、恩に感じた家康は伊賀衆との繋がりをさらに深めた。こうした経緯から家康の周りは優秀な伊賀忍びが目を光らせ、“軒猿”でも動向を探るのが非常に難しかった。その為、大坂から来た本軍の動向については従軍する諸大名から掴んでいた。

「我が方の支度は」

 景勝が訊ねると、兼続は即座に回答する。

「領内は各方面からの侵攻に備え、要衝《ようしょう》に将兵を集中させてあります。また、越後国内で蜂起する手筈も整えております。堀や溝口などはそちらへの対応に追われるでしょうから、戦力を北と南に回せまする」

 慶長三年に本貫の地である越後から会津へ移った上杉家だが、家臣の中には同行せず故郷に残る選択をした国人も一定数存在した。“一所懸命”が示す通り、先祖代々受け継がれてきた土地に愛着を持ち、生まれ育った場所で生涯を閉じる事を当たり前と考える武士は当時珍しくなかった。戦国乱世も時を重ねていく内に“領地は主君から与えられるもの”とする価値観が定着し始めても、父祖伝来の土地から移る事を拒む者はどの家にも必ず居た。

 こうして武士の身分を捨て農民や猟師などになった元上杉家臣は、越後全土に広く分布していた。また、上杉家の善政や後に赴任してきた堀家が重税を課した不満が領民の中で蓄積され、旧臣を介して秘かに一揆へ加わるよう求めると応じる者も多く居た。兼続は秘密裏に金銭や武器を送り、後方から攪乱《かくらん》せんと目論《もくろ》んだ。

 堀家や溝口家は“転封の際に昨年収穫された年貢の半分を後任の為に残す”取り決めを違反した上杉家が全て持ち去った事により、統治の元手となる金銭を確保すべく税を課す事を強《し》いられた。当然ながら領民達の恨みを買い、上杉家の誘いに協力的な姿勢を見せた。上杉家の去った越後は複数の大名に分け与えられ石高の規模も中小程度に留まる。石高は兵力に直結する為、仮に越後全土で一揆が蜂起した場合はその対処で手一杯になる。一揆が失敗に終わったとしても鎮圧するまでの間は上杉征伐へ参加するなど不可能な為、敵の数は減る事になる。どう転んでも上杉家にとって良い結果になるのは目に見えていた。

「内府率いる軍勢にはどう対処する?」

 やはり気になるのは、総大将・家康率いる本軍だ。一万石当たり二百五十名から三百名の兵力と換算され、二百五十万石の徳川家単独で六万二千五百名から七万五千名を動員可能だ。これに同行する諸大名の戦力と合わせ、総勢十万を超す規模となる見込みだ。対する上杉家は百二十万石で三万名から三万六千名、加えて俸給《ほうきゅう》で召し抱えた将兵も加えて五万の兵を揃えた。ただ、上杉家は地の利があれど最上・伊達の方面にも兵を割かねばならず、対徳川勢に投入出来るのは三万が限度だ。さらにもう一つ不利な条件を挙げるならば、上杉領の一部は元伊達領で、特に米沢は伊達家本貫の地である為に土地勘があり馴染みもある。伊達家に恩義のある国人や民が蜂起した場合、家康を会津で釘付けさせる構想は頓挫《とんざ》してしまう恐れがある。

 しかし、兼続も来《きた》るべき決戦に備え策を持っていた。

「革籠原《かわごはら》にて迎え撃つ所存」

 言うなり、懐から取り出した絵図を景勝の前に広げる。絵図は白河から若松までの地形や地名が記されていた。

「我が軍を収容しつつ最大限に活かせる広さながら、敵は人数の多さが故に展開し辛い地、その条件に合致するのが革籠原かと」

 下野《しもつけ》国から奥州街道を北上した場合、奥羽の入り口である白河の関を越えると暫く丘陵《きゅうりょう》地帯が続き、そこを抜けた先の平野が革籠原である。近隣には嘗《かつ》てこの地を治めた(白河)結城氏の拠城だった小峰城や先述した結城氏が過去拠城としていた白川城(別名“搦目《からめ》城”)があり、小峰城の南に二重の防塁を築いて徳川勢と対峙する構想を抱いていた。

 兼続の説明を聞きながら絵図を見つめる景勝だが、眉根を寄せている。智謀家《ちぼうか》たる兼続を信頼しつつも、提示された案に頷けない何かがあった。

 その引っ掛かる点についても兼続は織り込み済みで、さらに続ける。

「今述べました策だけでは、我等より圧倒的に多い徳川勢を多少足止め出来ても最終的に押し切られることでしょう。保《も》って一月《ひとつき》、畿内勢の到着まで間に合いません」

 はっきりと景勝の懸念について認める兼続。小峰城を軸に防戦しても幾許《いくばく》か時を稼げるだけで、本来の目的である“上杉勢と畿内勢で家康を挟み撃ちにし殲滅《せんめつ》する”のは無理である。

「然《さ》れど――佐竹が我等と歩調を合わせるなら、話は変わります」

 不意を突いて飛び出した“佐竹”の名に、景勝も目を見開《みひら》く。

「成る程、常陸侍従(じじゅう)か……」

「はい。現当主たる常陸侍従様は治部少輔殿と昵懇《じっこん》の仲。徳川勢が奥州へ侵攻し次第、後背《こうはい》を突く密約を既に交わしておりまする」

 佐竹義宣(通称“常陸侍従”)は父・義重の代より同盟関係にあった上杉家を介して豊臣家へ誼《よしみ》を通じ、三成が取次を任された事から交友が始まった。豊臣家へ臣従しない関東の北条家や急速に版図を拡げる伊達家を牽制する地理の常陸を地盤とする佐竹家の存在を高く評価していた三成は厚遇し、義宣も北条征伐へ参陣したり伏見城普請に三千人の人夫《にんぷ》を出したりと誠意を示している。北条家滅亡後も関東へ転封してきた徳川家康や腹に一物《いちもつ》ある伊達政宗・最上義光(よしあき)への押さえとして重要視され、慶長二年十月に従兄弟《いとこ》の宇都宮国綱が改易された折には連座で罪が及びそうになるも、氏郷死去後に家中で内紛が起きていた会津の蒲生家が不安定だったのもあり三成から「早く上洛するように」と助言され難を逃れていた。他にも石田家から検地の為に家臣を派遣されるなど恩があった義宣は、豊臣家中で数少ない三成派の人間だった。

 先月大坂城で発表された上杉征伐の陣触れに於《お》いて、佐竹家は仙道口から攻める旨を通達されその命に従い戦支度を進めているが、裏では上杉家と通じていた。兼続は義宣へ家康打倒の計画を三成と結んでいる事を秘かに伝え、家康率いる本軍が白河の関を越えたら反旗を翻して欲しいと要請、先方も快諾した。佐竹家は約五十四万六千石、一門や与力衆も含めれば八十万石超えの規模を誇り、上杉家と合力《ごうりき》すれば戦巧者で知られる家康相手にも充分に戦える。

「佐竹勢が背後から襲うだけならまだしも、関東へ兵を出す兆しを見せれば流石の内府も動揺しましょう。徳川勢が退《ひ》けば残りは烏合《うごう》の衆、赤子の手を捻《ひね》るが如く白河の関から先へ追い払えまする」

 自信満々に語る兼続に、景勝は小さく「うむ」と頷く。兼続の立てた策に納得した様子だ。

 戦は勝てると思える時に行う。これが鉄則だ。合戦となれば兵糧弾薬を消費し、多かれ少なかれ死傷者が出る。物は補充出来ても人命は喪われれば二度と戻らない。雑兵なら替えは利《き》けど将は一人前になるまで時間と経験を要する上に才能で優劣が左右される。優れた将は“一騎当千”の喩《たと》え通り稀少な存在で御家の財産だ。そして、戦には莫大の銭が掛かる。城砦修繕の材料や人夫《にんぷ》への日給・食事代、傷病者への見舞金に戦死した遺族への弔慰金《ちょういきん》、戦火《せんか》に巻き込まれ被害を被《こうむ》った者達へ支払う補償金、消費した兵糧弾薬や貸与した武器防具の修理・補充等々……奪い取った領土に対し出ていく金額が嵩《かさ》み結果的に赤字となる例も珍しくない。だからこそ御家存亡の危機や御家の将来を左右する重要な争いを除き、採算を考慮し戦をすべきか否かを決めるのだ。負ければ領土や面子《めんつ》を失い、最悪御家が滅ぶ。中には征服欲が異様《いよう》に強かったり戦を生き甲斐に感じたりする好戦的な性格の当主も少なからず存在したが、大成《たいせい》する大名の多くは無駄な戦闘を避け別の方法で問題を解決し敵を倒している。武士は命を奪う事に快楽を覚える殺戮者《さつりくしゃ》とは違うのだ。

 革籠原の攻防で家康率いる本軍を退却に追い込めれば、大願成就もグッと近付く。上杉家も背後に伊達・最上と厄介な敵を抱えるも、まだ二十四歳の伊達政宗は天下獲りの野心を諦めておらず家康に与《くみ》するのも秀吉に没収された旧領回復が目的で、家康が敗れ関東へ引き揚げた場合こちらから接触すれば“上杉に味方した方が得だ”と心変わりする可能性は大いにある。越後も旧臣の煽動で出征は難しく、残る最上勢だけなら自力で対処出来る。

 徳川勢が尻尾を巻いて逃げれば、上杉家は佐竹家と連携し関東へ侵攻する。会津に留まった場合も粘り強く足止めさせる。そうこうしている間に三成が決起し、豊臣家の天下安寧(あんねい)を乱す簒奪者《さんだつしゃ》家康征伐の軍を編成し東進。北と西の両面で挟撃し徳川を倒す。これが兼続の描《えが》く壮大な計画の全貌だ。

「全ては緒戦《しょせん》の結果次第、か」

「はい。革籠原の戦いに勝つ事が絶対条件となります」

 きっぱりと主君に言い切る兼続。家康の野望を打ち砕くには公儀による“家康は豊臣家の敵”と認定し、それに基づく征伐軍の派兵が必須となる。何より肝要なのは畿内での挙兵時機で、早ければ家康の軍勢が東征する追討軍と無二の戦に臨む前に引き返し、遅ければ三方からの侵攻に孤立無援な上杉家が持ち堪《こた》え切れず滅ぼされ、後顧の憂《うれ》いを絶った家康は追討軍と対峙出来る。家康率いる本軍が会津に引き付けられている状態で挟撃せねば、真の目的を果たすのは難しい。それでも、やり遂げねばならない。上杉家の繁栄の為、豊臣家の天下を後世に繋ぐ為に。

「分かった。任す」

「ははっ!!」

 概略《がいりゃく》を把握した景勝は、兼続に全権を託す。手短ながら重たい発言に兼続は神妙に応じた。

 革籠原の合戦一切を委ねられたのは信頼の証である反面、勝敗の責任を両肩に背負う事になる。その重大性に身が引き締まるのと同時に、気の昂《たかぶ》りを感じていた。

 もうすぐ、天下の行方を方向付ける一大決戦の時を迎える。その場に居合わせる事が出来る喜びや任された誇りに、兼続は覇気に満ち溢れていた。


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