二 : 上杉征伐 - (4) 親憲の疑義
慶長五年六月六日、大坂城西ノ丸にて上杉征伐の軍議が催された。米沢口から最上義光、信夫口から伊達政宗、津川口から前田利長・堀秀治、仙道口から佐竹義宣、そして家康率いる本軍は白河口から攻め入る事を決定。また、本軍の先鋒を福島正則・長岡(旧姓細川)忠興・加藤嘉明に任じた。
片や、上杉家でも迎え撃つべく臨戦態勢に入っていた。神指城の築事を一時中断し、領内から足軽を徴発。国境の警備を強化したり兵を増員したりと対応に追われた。その中心人物たる兼続は平時の政務と合わせ、猫の手も借りたい程の多忙を極めていた。
「旦那、ちょっとよろしいか?」
吏僚や文官も総動員し発給や指示の書類を記し送付する最中、訪ねて来たのは水原親憲。近い将来に起こるであろう徳川勢との決戦で一軍を率いる将として期待している譜代の臣の一人だけに、兼続も作業の手を止め書類を脇に置く。
「如何なされました?」
にこやかに応じる兼続とは対照的に、固い顔つきの親憲。周りの者に目を遣る親憲に何かを察した兼続は、場所を変えるべく席を立つ。
政務に追われる兼続が“息抜きする為”の名目で親憲を茶に誘った、という態で若松城内の茶室へ移動する。密談するだけでもいいが茶を飲みたい気分だった兼続は亭主役で茶を点てる。本当に茶を飲むとは思わず親憲はやや困惑するも、兼続が点てる準備を始めると面差しが穏やかになる。親憲は『上杉将士書上』に拠れば“乱舞・連歌をよく行う風流人で、茶の湯の数奇者として知られ人の噂に挙げられる程に多かった”とする記載があり、家中でも屈指の文化人の一面を持っていた。茶室内は釜の中で沸き立つ湯の音や茶筅を振る音が響く静寂に包まれるも、亭主役の兼続がのびのびと進められるよう親憲がゆったり構えている御蔭か居心地は悪くない。ちょっとした気配りだがそれを出来るか否かで天地の開きがある。
先に点てた茶を客役の親憲へ出し、次に自分が飲む茶を点てる兼続。チラリと見た感じでは、茶を喫する親憲はこの席を楽しんでいるように映る。風雅を理解している者は違うなと兼続は改めて思う。慶次郎にも当て嵌まるが、どんな状況でも柔軟に対応する肚の据わり具合が他の者達と比べ群を抜いている。
自分の茶を点てた頃合を見計らい、親憲が満を持して切り出す。
「来るべき徳川の戦いで、確認しておきたき儀がござる」
引き締まった表情で訊ねる親憲。内容を予想していた兼続に驚く様子は見られない。
一口茶を含んでから、親憲はさらに続ける。
「内府は“天下に騒擾を起こさんとする上杉を征伐する”大義の下、自らに近い大名を率いて東向するでしょう。南のみならず西と北にも敵を抱え、三方から攻め寄せられれば敗北は必定。そんな滅亡の道を無謀にも突き進むとは思えず、旦那は何か勝てる策がおありと推察されるが――」
そこで一度言葉を切った親憲は、兼続の目を見ながら迫る。
「――梯子を外される可能性は無いと、断言出来ますか?」
真剣な眼差しで問い掛ける親憲。質された兼続は直ぐに答えられた筈なのに思わず躊躇ってしまった。
帰国前に三成や恵瓊と密約を交わすも、確実に履行する保証は無い。勝機が薄い、決起に賛同する者が想定を下回る、総大将に据える毛利輝元が難色を示した等々、当初描いていた構想が暗礁に乗り上げた場合、上杉家を見殺しにする可能性は充分に有り得た。会津と畿内の二方面による家康挟撃作戦は壮大な計画だった為に上杉家中に秘匿としてきたが、親憲は今回の挙兵が単純な義憤から起因したものではないと見抜いた上で訊いたのだ。
親憲の懸念は兼続も分かる。何事も“絶対”は存在せず、生真面目で誠実な性格の三成も状況次第で取り決めを破る可能性はある。畿内で反家康の兵が挙がらなければ上杉家は三方向から袋叩きの末に徒死の運命を辿る。そうなれば兼続は“御家を滅亡させた奸佞邪知の大悪人”と後世評されるのは確実だ。
それに対し、一つ息を吐いてから兼続は努めて平静に答える。
「確約するのは無理ですね」
兼続は親憲の危惧を否定せず、認めた。険しい顔の親憲へ「ただ」と言葉を継ぐ。
「戦は始まらない限り結果が分からないように、この世で“必ず”とか“確実”などございません。常陸介殿が以前申されました通り、我等が勝つ為に幾つか“仕掛け”をしております。それが機能するか否かは、天のみぞ知ること。……今は『信じて下さい』としか」
具体的な内容に触れず曖昧に濁した兼続に、親憲の雰囲気は幾分和らいだ。下手に誤魔化したり詳らかにするよりも相手の不安に寄り添う姿勢を示す事が最適と判断した兼続の対応だった。
四の五の理屈を述べても無意味で、人事を尽くして天命を待つ他なかった。それは僅かな差で生死を分ける戦に何度も出てきた武人である親憲にとって、何よりも重たい言葉であった。
「……相分かった」
暫し沈黙していた親憲は、絞り出すような声で短く応えた。納得してくれた事に兼続は内心安堵した。『“仕掛け”とは何だ』と食い下がられた際はどうしようかとビクビクしていた。
家中には親憲のように家康号令の下で戦う事を不安視している者が一定数存在すると思われる為、その対策も早急に行う必要がある。兼続の脳内は如何に万全の態勢で決戦の時を迎えるかで一杯だった。
慶長五年六月十六日、家康は大坂城より出陣。自らに近い大名達と共に、大軍勢を率いて東海道を東へ進んだ。日一日と戦に向けた機運が否が応でも高まっていった――!!




