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二 : 上杉征伐 - (3) 詰問と返書

 上杉家が戦へ向けた準備をしている――直近まで上杉家の家臣だった藤田信吉の通報に家康は厳正に対処すべく腰を上げた。

 とは言え、『戦支度をしている』と訴えがあったから直ちに「討伐する!」と結び付けるのは時期尚早だ。信吉の証言が嘘の可能性も鑑み、先《ま》ずは当事者たる景勝から話を聞く事にした。この点は昨年自らに掛けられた“公儀へ無断に諸大名と婚姻を結んだ”嫌疑の時と同様、手順を踏んで追及する構えである。

 家康は相国寺《しょうこくじ》の住持《じゅうじ》で豊臣家の相談役・外交僧の西笑《さいしょう》(“せいしょう”とも)承兌《しょうたい》に兼続へ宛《あ》て『畿内で“上杉家が軍備を整えている”との風聞が流れている』と述べた上で『この件について話を聞きたいので上坂するように』と促す文書を認《したた》めさせた。大名間で手紙の遣り取りをする際に外交僧や重臣同士で授受《じゅじゅ》するのは慣行《かんこう》としてよくある事だった。勧告の態《てい》ではあるが事実上の上坂命令で、昨年の前田家と同じく容疑を前提に取り調べる算段である。

 慶長五年四月一日、家康の家臣・伊奈“図書《ずしょ》”昭綱《あきつな》と増田長盛の家臣・河村“長門守”が承兌の書状を携《たずさ》え豊臣家の使者として会津若松へ向け出発。十三日に到着した両名は若松城にて景勝と対面し、書状を渡した。両名は問罪使の役目も兼ねており、返書を受け取るまで滞在する事となる。

 面会を終えた後、景勝と兼続は余人《よじん》を排し書院に籠もる。始めに景勝が承兌の書状に目を通し、兼続へ差し出す。主君から受け取った書状に、兼続も心して向き合う。

 承兌の書状は要約すると以下の通りである。

『会津中納言(景勝の受領名《ずりょうめい》)様の上洛が遅れていること、内府様は懸念なされておられます。上方《かみがた》(畿内)で貴家(上杉家)にまつわる不穏な風説が流れておりますので、伊奈図書と河村長門を送りました。特に神指で新たな城を築いたり越後国内の川に橋を架けたりなされているのは好ましくありません。会津中納言様の行いを直江山城守様がお止めなさらないのも失態を言わざるを得ず、内府様の気懸かりも尤《もっと》もです。

一.会津中納言様に公儀へ叛心の無い事を起請文にして差し出すべきと内府様はお考えです。

一.会津中納言様は信義の人である事は太閤殿下や内府様も認めておられます。誠意を以《もっ》て釈明なされればきっとお許しになるでしょう。

一.近隣の堀監物(かんぶつ)(秀治)から上杉家に叛意《はんい》ありと頻《しき》りと申し入れてますので、きちんと謝罪しない限り許されないと思われます。ご留意下さい。

一.昨秋《さくしゅう》、前田肥前守(利長)に疑義が生じた折、内府様は公正な裁きに拠《よ》って潔白であるとお示しになられました。ご参考にして下さい。

一.京では増田右衛門少尉(うえもんのしょうい)(長盛)様と大谷刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)(吉継)様が内府様との間に入って話をされておりますので、釈明なされる際は両名にお伝え下さい。また、(上杉家との取次《とりつぎ》を務める)榊原《さかきばら》式部大輔《しきぶのたいふ》(康政)様にも一報入れるのがよろしいかと。

一.諸悪の根源は会津中納言様の上坂が遅れている事に起因しておりますので、貴殿(兼続)からも是非働きかけて下さい。

一.上方で上杉家が武器を集めている事や道・橋の整備している事を問題視されております。内府様が会津中納言様の上坂を待っているのは高麗《こうらい》(李氏朝鮮)との停戦交渉を進めているからです。破談になれば来年か再来年《さらいねん》に再出兵となります。その話し合いを含め、早急に上坂し弁解すべきです。

一.愚僧《ぐそう》(承兌)と貴殿は予《かね》てより交友を深めていただけに現状を心配しております。貴家の存亡・興廃《こうはい》が決まる岐路にありますので潜考《せんこう》こそ肝要です。この事は使者にも伝えてあります。頓首《とんしゅ》。 豊光寺《ほうこうじ》(相国寺)承兌

 卯月《うづき》朔日《ついたち》 直江山城守殿 御宿所《みしゅくしょ》(“貴方《あなた》様の側近の人達へ”の意味)』

 末尾まで読み終えた兼続は、静かに書状を折り畳む。その表情は穏やかそのものだ。

 概《おおむ》ね“友人の兼続へ上杉家にまつわる不穏な噂を承兌は心配している”体裁《ていさい》の文面ではあるものの、「今なら誠心誠意詫びれば許してやる」という家康の思惑が透けて見える。その証拠に堀秀治の通報や前田利長の前例に触れ、家康の名を重ねて出し強調した上で「従わなければ討伐する」と脅している。宛名こそ兼続だが、実態は家康から景勝への最後通牒(つうちょう)に等しい。

 この書状が持つ重要性を、景勝も認識していた。心做(な)しか普段より顔つきが険しいように映る。

「殿」

 務めて自然体な声で、兼続が呼び掛ける。主君がこちらを向いたのを受け、続きを発す。

「返書につきまして、私の方で対応してよろしいですね?」

 大坂から届いた書状はあくまで承兌が兼続に送ったものであり、返答するのは宛名主《あてなぬし》たる兼続が行うのが筋だ。しかし、この返信は個人間の遣り取りではなく上杉家公式の見解として解釈され、返書は家康の元へ確実に送られる。それを踏まえた上で、対応を一任して欲しいと兼続は承諾を求めた。

 本来なら承兌の書状を重臣達に披露し、家中で議論を交わし定まった方向性に基づいて兼続が代表者として回答すべきなのだろうが……問罪使の二名を待たせる訳にもいかず、反対意見が出て家中の結束に罅《ひび》が入る恐れもあった為に、他の家臣達に諮る考えは毛頭無かった。それでも、御家の未来を左右する対応を全幅の信頼を寄せるとは言え兼続一人に託すのは危険過ぎるとの見方もある。果たして、景勝の決断は――。

「……うむ」

 兼続の求めに景勝は直答《ちょくとう》で認めた。家康による天下獲りを阻止すべく上杉家が起《た》ち上がる方針を主従の間で不動の認識であるのと合わせ、先々の事を含めて筋書きを立てているのは兼続である点も大きかった。

 許しを得た兼続は無言で一礼すると、速やかに主の前から辞した。刻が惜しいとばかりに早足で廊下を歩く兼続は、ギラギラとした目付きで高揚感が全身から滲み出ていた。


 自らの屋敷に帰った兼続は着替えを済ませると、文机《ふづくえ》の前に座る。硯《すずり》にたっぷりの墨汁《ぼくじゅう》を用意し、真《ま》っ新《さら》な巻紙《まきがみ》と向き合う。

 これから認《したた》めるのは外交文書ではない。天下人に最も近い強大な敵への宣戦布告状だ。中途半端な挑発では不充分、読んだ家康が怒り狂う程の激烈な文面にする必要がある。

 静かに息を吐いた兼続は墨を含ませた筆を手に取り、丹田《たんでん》に力を込めて書き出す。

『一.其方《そちら》(上方《かみがた》)で東国の噂に内府様が疑心を抱かれている事は残念です。ただ、京と伏見の間でも色々取り沙汰されるのですから、もっと遠くの若輩者たる景勝なら雑説《ざっせつ》が流れるのも当然です。内府様に於《お》かれましては安心するよう、聞いてもらいたいです。

一.景勝の上洛が遅れていますのは、一昨年の国替え直後に上洛し、昨年九月にようやく帰国しました。また上坂《じょうはん》すれば、いつ領国の政《まつりごと》を執り行えばよろしいのですか。おまけに会津は雪国なので十月から三月まで何も出来ません。会津の事情に詳しい者に聞いて頂ければ、景勝に叛心が無いと分かってもらえます。

一.景勝に叛心が無い事は起請文を出すまでもありません。昨年から何枚もの起請文を反故《ほご》にされておりますから、同じ事をする必要性を感じません。

一.太閤殿下以来景勝は律義者と内府様が思っておられるなら、疑うまでもないでしょう。世の中の変化が激しいのは承知しておりますが(秀吉死後に態度を豹変させた家康への皮肉)。

一.前田肥前守(利長)様の件は内府様の望まれた結果になり、さぞ勢威《せいい》があるのでしょうね。

一.増田右衛門少尉(長盛)様と大谷刑部少輔(吉継)様が出世なされたのは大変御目出度(おめでた)い事で、用件がある時は両名にお伝えします。榊原式部大輔(康政)殿は上杉家との正式な取次《とりつぎ》ですから、景勝に別心《べっしん》があるなら式部大輔の方から知らせるのが務めです。その方が内府様の理に適《かな》いますのに、そうなさらず讒言《ざんげん》した堀監物(かんぶつ)(秀治)の主張を取り入れ、景勝を様々な工作で妨害する始末。彼奴《きやつ》(堀秀治)が忠臣か奸臣《かんしん》か、よく見極めてから判断してもらいたいものです。

一.上坂《じょうはん》が遅れている所為《せい》で流言《るげん》が広まっておりますが、実態は今述べた通りです。

一.上方の武士が茶器を蒐集《しゅうしゅう》するように、田舎の武士は鉄砲や弓矢を入手するのがお国柄と思って頂いて構いません。景勝の不届きであり、不釣り合いな道具を用意する事に他意はございません。そんな些末《さまつ》なことに一々反応するなんて、天下の政《まつりごと》を任されている者に相応《ふさわ》しくありませんよ。

一.道や橋を整備するのは国を治める者には当然の務めで、越後でもやってきた事です。堀監物は移封して何も造っておらず、(上杉家が整備していた事は)よく存じている筈です。それに、越後は本貫の地で堀監物如きを潰すのに道を造るまでもありません。我等は様々な国と接していてどの方面にも道を造っておりますが、恐れて騒ぎ立てているのは堀監物のみ。彼奴《きやつ》は戦を全く知らぬ無分別者《むふんべつもの》と捉えて結構。もし謀叛を起こす気があるならば道を塞《ふさ》いだり堀切《ほりきり》を設《もう》けたりするのが自然で、各方面に道を整備すれば敵はそれを利用し攻め込む為に防護など出来ません。どれだけ道を造っても景勝の軍勢が進むのは一方向に限られておりますから、馬鹿げております。江戸から来た使者は白河口から奥を通っておりますので、御疑いのようでしたら使者を遣《つか》わして存分に検分して下さい。そうすれば納得されることでしょう。

一.今年三月は不識庵(謙信)公の追善供養《ついぜんくよう》がある為、景勝は夏頃に上方《かみがた》へ戻る予定でした。領国に居る間に政務を進めていたところ内府様と増田右衛門少尉の使者が訪ねて来て『叛心が無いなら上坂《じょうはん》せよ』と伝えてきました。ただ、讒言した者の主張を此方《こちら》に伝えた上でちゃんと調べて頂ければ、無実であると直《す》ぐに分かります。それをせずに『謀叛の疑いがあるから上坂せよ』とは、乳飲《ちの》み子《ご》の我が儘で話になりません。昨日まで叛心を抱いていた者が何食わぬ顔で上坂すれば褒美を貰える時代は、景勝に合っておりません。そんな気は無いのに謀叛の噂が流れている上方《かみがた》へ向かえば、上杉家が代々受け継いできた弓矢の誇りを失う事になります。それ故、讒言した者と同席して調べない限り、上坂は出来ません。この事は景勝が正しいと信じております。藤田能登守が先日当家より出奔し江戸を経て上洛しているのは承知しております。景勝が間違っているか、内府様に裏表があるか、世間はどう判断するでしょうか。

一.千言万語《せんげんばんご》を述べるまでもなく、景勝に叛心などございません。しかしながら、上坂《じょうはん》が難しくなるよう仕向けられたのなら是非に及ばず。内府様の求めに応じて大坂に上らなければならないと分かっておりますが、例え太閤殿下の遺言に背き起請文を反故《ほご》にし幼い秀頼公に不首尾な振る舞いで我等が兵を挙げ天下の主になったとしても(暗に『家康と戦っても勝てる』と示唆)、悪人と呼ばれてしまい末代の恥です。そんな事は一切考えておりませんのでご安心を。但し、讒言する者の言い分ばかり聞いて此方《こちら》が不当な扱いを受けるなら別です。

一.景勝に“謀叛の兆しあり”とか“会津(上杉)が攻めてくる”と触れ回ったり戦支度をしていると騒ぐのは無分別者のやることで、聞くまでもありません。

一.内府様に使者を送るべきなのですが、隣国で讒言する者や出奔した藤田能登守が居る状況では“何か隠していて怪しい”と判断されてしまいます。先《ま》ずは讒言した者の話が正しいか調べて頂ければ、我々も従いまする。

一.何事も遠国《おんごく》にある点を推《お》し量って頂かないと、本当の事が嘘になってしまいます。言うまでもありませんが、この書状を読まれるとのことで真実を分かって頂きたく書かせてもらいました。お見苦しい点もございましょうが、愚慮《ぐりょ》を述べたのは分かってもらいたい為に憚《はばか》らずお伝えした次第です。使者奏達《そうたつ》。恐惶敬白《きょうこうけいはく》。直江山城守

 慶長(五年)四月十四日 豊光寺(承兌) 侍者《じしゃ》御中』

 思いの丈《たけ》を勢いのまま文字にし、一気に擱筆《かくひつ》まで仕上げた。見返した兼続は我ながらよく出来ていると褒めたくなる程の手応えを感じていた。

 あらぬ嫌疑をかけられて平身低頭弁解するか正当性を訴えるかの二択と考えているであろう家康に真っ向から喧嘩を売る文面で、どういう反応を示すかこの目で見てみたい程楽しみだった。

 翌日、景勝に文面へ目を通してもらい許可を得たので、会津へ下向してきた使者へ上杉家の回答として引き渡された。両名は直ちに大坂へ向け出立、五月三日に大坂の家康へ返書が届いた。自らが吹っ掛けたとは言え神経を逆撫《さかな》でするような内容に家康は忿怒《ふんど》、その場で上杉征伐を決断した。これに対し七日には奉行の長束正家・増田長盛、三中老の中村一氏(かずうじ)・生駒親正(ちかまさ)・堀尾吉晴(よしはる)が家康へ「兼続の非礼に立腹するのは分かるが、戦になれば秀頼公の身を危うくする」として中止を申し入れるも、断固拒否。豊臣家の天下を脅《おびや》かす存在として上杉家を自ら軍勢を率いて討つ強い意向を周囲に示した。

 俗に“直江状”と呼ばれる兼続からの返書に関して、あまりに出来過ぎな内容から“後世《こうせい》の創作では?”と贋作の説もある。原本《げんぽん》や写しが現存しないのも理由の一つであるものの、当時家康に近侍していた者が「殿は直江山城守の返書を読んで激昂《げっこう》なされた」と記載された史料が存在する事から、改変はあれど兼続の書状で家康が怒ったのは史実である可能性が高い。

 こうして、秀吉の手で齎《もたら》された泰平《たいへい》の世は、上杉家が家康の挑発を受けて立つ姿勢を見せた事で一気に不安定と化した。兼続・景勝を筆頭とした上杉家は臨戦態勢を整えるべく、準備を加速させていくこととなる――。


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