二 : 上杉征伐 - (2) 二十三回忌法要
事実上の天下人として捉えられ始めた家康は、自らの力を誇示するように権力基盤を固める行動に出る。慶長五年二月一日、森忠政が美濃兼山七万石から信濃川中島十三万七千石へ加増・転封を決定。忠政は昨年一月に大坂・伏見の間で緊張が高まった折、伏見の徳川屋敷に三日間警固で詰めていた親徳川派の人物で、天正十年の武田征伐で兄・長可が授かった思い入れのある土地を与えられたのは、この時の行動に対する報酬との見方も出来る。さらに、七日には長岡忠興へ豊後木付(後の杵築)六万石を加増。丹後を治める忠興が飛び地の形で新たな所領を得たのは、こちらも昨年一月の緊張が高まった折に両家と深い繋がりのある忠興が鎮静化へ尽力した事に対する見返りの意味が込められていた。どちらも豊臣家の蔵入地で本来なら他の大老に諮るべき案件だが、家康の独断で決裁された事により誰が権力を持っているか内外に示した格好だ。
また、同年三月十六日に豊後国黒島に阿蘭陀国籍の商船“リーフデ号”が漂着。難破し回航された船と共に生存者の乗組員十四名は大坂へ移送され、三月三十日に家康が引見した。幼君・秀頼は政務を執るのがまだ難しいが故の代行措置だったが、国外に“家康が政治を動かしている一番偉い人物”という印象を植え付けた。
公の場で存在感を高める一方、越後の堀秀治や出羽山形の最上義光などから上杉家の動向が逐次届けられた。『神指に新たな城を築いている』との報せが舞い込んだ際は家康も討伐の動機になり得ると一瞬考えるも、調べていく内に戦備えではなく純粋な移転が目的と分かり、『豊家の天下を揺るがす』と追及する材料には弱いと捉え断念した。
家康や会津周辺の大名達がその一挙手一投足を注視する中、三月十三日に上杉家で大規模な式典が執り行われた。先代・謙信の二十三回忌法要である。
神懸かり的な軍才と威厳で上杉家の黄金期を築いた謙信は、死後も崇敬の対象として扱われた。霊柩は生前謙信が春日山城内に設けた“不識院”で保管されてきたが、会津転封に伴い若松城内へ移されている。入封直後に上洛し長らく国許から離れていた為に霊廟は仮構のものだったが、今回の法要に合わせ相応しい建物が造られた。
主君・景勝を筆頭に、上杉家の主立った臣が参列し追福供養がしめやかに営まれる。粛々と進められた法要は円滑の内に終了し、喪主の景勝が家臣達の前に立つ。
軍議や評議の席で話し合いの中心に居るのは専ら兼続で、景勝は最後に一言許可を下す事が多かった。寡黙な性格の景勝が自ら発言を行う事自体が珍しく、それだけでこの場に賭ける強い表れでもある。
皆の視線を一身に受ける中、景勝は厳かに声を発す。
「不識庵様は“義”の精神を第一に掲げ、爾来一貫し救いを求めてきた者達の為に戦い続けた。豊臣家の麾下に入ったのも、延々と続く乱世で疲弊し荒んだ万民に天下安寧を齎す事が上杉家の目指す理想と合致したからである。太閤殿下が天下統一を果たされ、豊臣家による日ノ本を治める体制が確立された」
そこで一旦言葉を区切る景勝。居並ぶ家臣達が揃って真剣な眼差しで聴き入る姿を確かめ、語を継ぐ。
「然れど、太閤殿下が築かれた泰平を壊さんとする不敬な輩が現れた――徳川内府である」
敬称を付けず明言した景勝は怒りを滲ませながらさらに続ける。
「太閤殿下が薨去なされてから、『御掟』に反し諸大名との間で婚姻を結んだのを端緒に豊臣家の所有たる伏見城へ無断に転居し、他の大老や奉行に諮らず独断で大名に所領を与えている。例え太閤殿下より政を委ねられたとは言え、まるで天下人になったが如き専横は到底許されるものではない」
景勝の家康批判に対し、一部の家臣から「そうだそうだ!」と賛同の声が挙がる。上杉家には先代・謙信に倣い自らを厳しく律する景勝に敬慕の念を抱く者が大勢居り、この場に同席する大半が同調していると考えていい。
熱を帯びてきた雰囲気に背中を押された景勝は、はっきりとした口調で告げる。
「内府が“義”に悖る振る舞いを続けるならば――豊家・天下万民の為、起ち上がる覚悟だ」
魂の込められた決意表明に、家臣達から興奮気味に「おおっ!!」と野太い雄叫びがあちこちから澎湃として起こる。家康と対峙する意向は家臣達も薄々察していたが、敢然と表明した事により感銘を受けている様子だった。
昨年の始めから次々と取り決めを破り騒動を裏で糸を引いたりと挑発する行動をしてきた家康に、景勝は真向から戦うと宣言したのだ。それが鎮静化した社会に波風を立たせる事になったとしても、御家が滅ぶ危険を承知の上で豊臣家の統治を守るべく上杉家は一歩踏み出した。景勝の重大な決断に家臣達は全面的に支持した事で、兼続は内心手応えを感じていた。
二十三回忌法要の後に景勝の口から抗戦宣言をする計画は、兼続の方から提案したものだ。家中から神と崇められる謙信を慰霊する場は自然と尽忠の精神は高まる為に対決を表明するなら絶好の機会だと進言したのだ。悪く言えば謙信を利用しているとも捉えられるが、景勝は兼続の申し出を言下に了承した。そればかりか、皆の前で話すのは当主たる自分の役割だと景勝自ら名乗り出たのは兼続も驚かされた。いつもは全幅の信頼を寄せる兼続に議論のまとめ役や御家の方針を示させ景勝はそれを黙って見守る事が大半なだけに弁説の不安はあったが、普段言葉数の少ない主君が熱を帯びて語る姿に家臣達の心を揺さぶる説得力となり良い方へ働いた。
(流石は、我が殿……!!)
感情が込み上げてくるのをグッと我慢し、兼続は前へ進み出る。上杉家の方向性は定まった。それを具体化させていくのは家宰たる自分の務めと理解していた。
こうして、謙信の二十三回忌法要は近い将来に起こり得るであろう対徳川の軍議へと移行された。天下を我がものにせんとする家康の野望を打ち砕き豊臣家を守るという大義の下、上杉家は一枚岩になろうとしていた――。
三月十三日、夜。法要に参加していた家臣達が次々と下城する一方、運営を取り仕切っていた兼続は険しい面持ちで景勝の元へ向かっていた。
夕餉の最中だった景勝は、兼続の姿を目にするなり箸を置く。腹心の顔色で何かを察知した兼続は小姓達に席を外すよう目で促す。二人きりになったのを確かめ、兼続は切り出す。
「つい先程、百足より報せが入りました。能登守の屋敷に荷造りの動きが見られる、と」
「……遁逃、か」
ボソリと呟いた景勝に、兼続は無言で頷く。
正月に家康と面会した藤田信吉は上杉家中で少数派の非戦論を説いていた。それが今日景勝による徹底抗戦の表明で、御家の方針と相反する主張の信吉が身の危険を感じて出奔を決断しても不思議でない。出奔は機密情報の流出や主君への背信行為に当たる重罪で、咎は親類にも及ぶ。その為、一族郎党が揃って逃走するのが一般的だった。
「先手を打ち、始末するのか」
「いえ。動くのは能登守が決行してからにして、そのまま取り逃がそうかと思います」
兼続の答えに景勝は怪訝な顔を浮かべる。
いつもの兼続なら家中を引き締める意味も込め殲滅すると進言していた事だろう。裏切者が他家へ駈け込めば武士の面目は潰れる上に内情が漏れてしまう為、是が非でも阻止するのが常識だ。それを敢えて逃すとは、一体どういう了見なのか。
不可解な対応について、兼続は説明する。
「能登守を徳川へ奔らせる事で、内府へ『上杉が戦支度をしている』と確たる情報を与えます。天下獲りに戦は絶対条件の内府にとって、我等の不穏な兆候は恰好の動機でしょう。これを梃子に追及してくる事でしょう」
「……成る程。内府を畿内から釣り出す撒き餌か」
合点がいった景勝が溢すと、兼続は「然り」と応える。
摩擦相手の近隣大名から齎された情報はどうしても恣意的な見方が含まれる為に話半分で聞かざるを得ず、詰問するには決定力に欠ける。仮にも秀吉から天下の政を委ねられた大老筆頭の位にある家康が偏見や作為的な情報を基に判断するのは、立場上憚られた。しかし、つい最近まで上杉家に仕えていた者が訴え出れば、信憑性は高く有効打に成り得る。信じるに値する証言を軸に、家康は上杉征伐へ一気に畳み掛けると兼続は睨んだ。
「分かった。任す」
「はっ」
主君の許可を得た兼続は一礼すると、サッと立ち上がり部屋を後にする。主従の間で交わした意図を敵味方に悟られぬよう巧く信吉を逃がすのは至難の業ではあるものの、やり遂げねばならぬと兼続は不退転の覚悟を固めた。
同日夜、藤田信吉は一族郎党約二百五十名と共に出奔。信吉の誘いを受けた非戦派の大森城主・栗田国時も同じく一族郎党約百五十名を連れ出奔を企てるも、事前に予兆を掴んでいた追手により鏖殺された。ただ、信吉一行は追手を振り切り領外へ脱出に成功。徳川家へ駈け込んだ信吉は景勝・兼続が戦支度をしていると江戸で留守を預かる家康の嫡男・秀忠へ訴え、その旨を大坂に居る家康の元へ大至急送った。
信吉の出奔で上杉家が徳川家と対峙する計画が明るみとなった。これを境に、乱世の終息で平和が訪れた日ノ本に天下を巡る大きな戦へ向け動き出していくこととなる――。
余談ながら……上杉家を出奔した信吉はその後京・大徳寺に入り、出家。関ヶ原の合戦後に家康から一万五千石が与えられた事から還俗、その際に名を“重信”と改めている。だが、慶長二十年〈一六一五年〉に豊臣家が滅んだ大坂夏の陣後に改易。元和二年〈一六一六年〉七月、死去。享年五十八。出奔した理由について『(主戦論者たる)兼続が命を狙っている』との噂を信じた信吉が『上杉家に二心ない』旨の起請文を残して逃走した、との説がある。また、上杉征伐へ赴く際に家康から道案内役を求められるも固辞したとされる。何れにせよ、出奔した信吉は上杉家に刃を向ける行いはしなかった。不本意な形で御家から離れるも、忠義の心は最後まで持ち続けたとする見方も強ち間違いではないのかも知れない。




