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二 : 上杉征伐 - (1) 新春

 年が明け、慶長五年〈一六〇〇年〉元旦。景勝を始めとする上杉家の人々にとって初めてとなる国許《くにもと》での正月を迎えた。

 新年祝賀の挨拶を述べに登城する家臣達との対面を済ませた景勝は、夜になり兼続を秘かに召し出した。

「新しき城、にござりますか」

 主から『相談したき儀がある』と伝えられた兼続は、内容を伝えられると膝を叩いた。

「それはよろしゅうございます! 実を申しますと私も同じ事を考えておりました」

 賛成の意を示す兼続。これには理由があった。

 現在上杉家が本拠としている若松城は元々“黒川城”の名で蘆名家の居城だったが、奥羽仕置後に入封した蒲生氏郷は前時代的な造りのままでは統治の面でよろしくないと考え、当世流《とうせいりゅう》の天守を構える城郭《じょうかく》へ大規模な改修を行《おこな》った。これと並行し城下町も整備し、奥羽の政庁に相応しい街へ変貌を遂げた。しかし、多少手を加えたものの盆地の中という地形の都合で城下町をこれ以上拡張するのは無理だった。その点、蒲生家の次に入封した上杉家は新たな家臣を多数召し抱えたのもあり、住まいに充《あ》てる宅地不足に頭を悩ませていた。

 加えて、若松城には守りの面で致命的な弱点を抱えていた。城の南東半里〈約二キロメートル〉に城を見下ろせる程の標高がある小田山《おだやま》の存在だ。鉄砲への備えは為《な》されていたものの、射程も長く威力も強大な大筒(大砲)について考慮されていなかった。朝鮮出兵で明《みん》勢の仏狼機《フランキ》砲を始めとする砲撃に大損害を被《こうむ》った経験から、国内で大筒の輸入や鋳造《ちゅうぞう》の機運が高まっていた。高台に大筒を据えられ撃ち込まれれば、落城必至の脅威となろう。因《ちな》みに、慶応四年〈一八六八年〉の戊辰《ぼしん》戦争で新政府軍は松平勢が籠もる若松城を小田山から砲撃している。

 この先家康率いる大軍と対峙する事を前提に動いている兼続は野戦《やせん》を基本線に対応策を考えているが、状況次第で籠城戦になる事も想定していた。戦巧者な家康がこちらの欠陥を見過ごすとは思えず、それならば新たに城を築いた方が勝てる可能性は高い。作事に要する費用や決戦に間に合わせるべく大量の人員を確保する必要になるも、十分な見返りはあると兼続は踏む。

(それに……)

 兼続は新たな城を築く事に対し、別の思惑も込められていた。

 新城築事となれば隠密裏《おんみつり》にとはいくまい。作事に携わる人夫《にんぷ》を上杉領内だけで賄《まかな》うのは不可能な為、必然的に他国にも募集をかける事となる。そうなれば上杉家の動向を注視する他家は『これ幸い!』と家康へ通報する。戦を仕掛けたくてウズウズしている家康にとって渡りに船となる情報だろう。城砦の修繕増強や積極的な将兵の召し抱え・武器弾薬の調達はどこの大名家でもしている事なので指摘しにくいが、本拠を移す城の築事なら『公儀への叛心疑惑がある!』と正当な理由で糾弾出来る。

 此方《こちら》にとっても彼方《あちら》にとっても好都合。兼続は野望の成就が一歩近づいた事に胸を躍らせた。

「では、適した地を探しまする」

 殊勝な態度で応じる兼続。“思い立ったが吉日《きちじつ》”とは言うが、流石に慌ただしい年初は予定が詰まっている。動き出せるのは松の内が明けた頃になるか。明日の予定について景勝と遣り取りを交わす傍ら、脳内で下見の算段をする兼続だった。

 その後、兼続は複数の候補地を検分した結果、神指ヶ原(こうざしがはら)が最適と判断。主要な街道が通る上に越後まで続く長大な河・阿賀川(越後では“阿賀野川”)が流れており、商業地として発展する要素を備えていた。築事惣(そう)奉行となった兼続はまだ雪が積もる二月十日から作業を開始。上杉領内のみならず近隣諸国にも人夫の募集をかけ、早期の竣工《しゅんこう》を目指し大規模な工事を進めた。因《ちな》みに、神指城は従来“対家康戦の要塞”と考えられてきたが、遺構調査や文献研究などから“若松城下が手狭に感じた上杉家による本拠移転”の見方が通説となりつつある。

 ただ、上杉家の動きを警戒する近隣の大名達はそう捉えない。新城築事に着手した件は複数の大名から大坂の家康へ通報された。

 この報せを家康はどう受け止めたか。自らの天下獲りに向けキッカケを切望していた家康は、北叟笑《ほくそ》んだ事だろう。兼続はそう予想した。


 慶長五年の元旦、大坂城へ登城した諸大名は主君たる秀頼と淀の方へ年賀の挨拶を済ませると、その足で西ノ丸に居る家康の元へ向かった。流石に秀頼を後回しにする不届き者は居なかったものの、熱量や優先度は明らかに家康の方が上という者が多数を占め、次の天下人の心象《しんしょう》を良くすべく詣でる人で長蛇の列が出来た程だ。

 新年祝賀の和やかな雰囲気を一変させる騒動が大坂で起こる。予《かね》てから家中に火種を抱えていた宇喜多家で内紛が勃発したのだ。

 昨年暮れに御家の政《まつりごと》を主導していた長船《おさふね》綱直《つななお》が死去。これをキッカケに宇喜多家中に蓄積されていた不満が爆発し、改革反対派の面々は次郎兵衛を討とうと決起したのだ。しかし次郎兵衛は間一髪で前田屋敷に逃れると、怒りの収まらない面々は大坂の宇喜多屋敷を占拠・立て籠もってしまった!! この造反劇に激怒した秀家は蜂起した家臣達を処分しようとするも、士分千四百名の内二百五十名余りが加わっていた為に独力での解決を早々に断念。最終的に家康の裁定で参加した者達は他家預かり・蟄居《ちっきょ》処分が下された。一連の騒動で宇喜多家は秀家や改革に反発する家臣達を一掃したものの、有力家臣の大量流出で御家の力はガクンと落ちた。

 片や、上杉家。新たな城を築く計画が着々と進められる中、一月下旬に畿内から帰国した男が出仕してきた。

 藤田“能登守”信吉。永禄二年生まれで四十二歳。武蔵国の国人の家に生まれた信吉は元々北条家へ仕えていたが、天正八年八月に真田昌幸の調略で武田家へ鞍替え・上野《こうずけ》国へ移る。その後武田家の滅亡で滝川一益の家臣となり、本能寺の変で一益が関東から離れると北条家の報復を恐れ越後に落ち延び上杉家へ仕官した。約二年で四つの家を転々とした信吉だが、新発田重家との戦いでは調略・武略で城を落としたり越後へ侵攻してきた蘆名勢を破るなど目覚ましい活躍を見せ、天正十八年の北条征伐でも上杉勢の先鋒を務め武功を挙げる貢献をしている。その才と実績を認められた信吉は外様《とざま》ながら越後津川城代一万五千石と破格の扱いを受けていた。

 その信吉、景勝の名代《みょうだい》として新年祝賀の挨拶を述べるべく上坂《じょうはん》。先にも触れたように頭の回転も早く他家にも顔が利く為に外交も兼ねる使者として適任だと景勝は判断した。

 若松城の広間で対面した景勝は、大役《たいやく》を果たした信吉へ声を掛ける。

「……役目、ご苦労だった」

 労いの言葉に「ははっ」と応じる信吉。直後、頭を上げると狐を連想させる細い目にスラリと伸びる鼻・“ハ”の字の口髭が特徴の面貌《めんぼう》が姿を現す。

 寡黙な景勝から引き継いだ兼続が、信吉へ訊ねる。

「秀頼公や淀の方様は何か仰られておられたか?」

「はっ。“義”の精神を重んじる殿の事を信頼していると言及なされ、『よしなに伝えてほしい』と」

 畏《かしこ》まった様子で信吉は答える。名代ながら陪臣《ばいしん》の身で雲上人《うんじょうびと》と面会しただけでなく言葉を交わした事は武士として最高の誉《ほまれ》と言っていい。秀頼・淀の方の言葉を預かった重責《じゅうせき》を全《まっと》うした信吉の表情が、幾分か緩む。

 一方、兼続は信吉伝(づ)てで秀頼・淀の方の心理や思惑を分析する。文禄二年八月三日生まれの秀頼はまだ八歳の幼子《おさなご》、自らの意志で政《まつりごと》に関わる発言をするとは考えにくい。恐らくは家康を秀頼の立場を脅《おびや》かす存在と危険視している淀の方の想いが色濃く反映されたものと兼続は解釈した。

「それよりも――」

 思惟《しゆい》の海に潜る兼続は、信吉の言葉で我に返る。真剣な眼差しで高座に居る景勝へ向け、切実な声で信吉は訴え掛ける。

「西ノ丸に居《お》られます内府様へも挨拶へ訪れましたが、昨今周辺諸国の大名達から寄せられる報せに『心を痛めている』と仰せになられました」

 信吉の口調が先程と比べ、明らかに力が籠もっている。家康の話になった途端、景勝の眉が微かに反応したのを兼続は見逃さなかった。

 さらに信吉は続ける。

「かの太閤殿下もお認めになられた殿の豊家に対する忠義の心に疑いを挟んでおりませんが、上杉家にまつわる好《よ》からぬ風説に内府様は懸念を示されておられました。今の内府様は豊家の大黒柱として旭日昇天《きょくじつしょうてん》の勢いにあり、心象を悪くするのは避けるべきと存じまする」

 立て板に水の如く、雄弁《ゆうべん》に語る信吉。畿内の現状を具《つぶさ》に見てきた信吉なりに御家の行《ゆ》く末を案じての諫言《かんげん》だろうが、家康の天下獲りを阻止すべく動いている兼続とは相反する意見だ。そして、兼続が気に喰わないのは、信吉が明らかに家康へ阿《おもね》るべきだと言及した点である。家康と景勝は同じ大老の身分にあるにも関わらず、信吉は家康へ必要以上に肩入れしている。その姿勢は追従者と表現して差し支えないくらいだ。

 思う所をグッと堪《こら》え、兼続は常と変わらぬ表情で応えた。

「能登守殿の御意見、しかと受け止めました。此度《こたび》は殿に代わり使者を務められ、さぞお疲れのことでしょう。まずは屋敷にて休息を取って頂き、仔細はまた後日改めて伺いまする」

 にこやかな笑みを浮かべながら兼続は高座の景勝へ顔を向けると、「うむ」と短く同意を表した。簡潔ながら報告を終えた信吉は主従に促される形で辞去して行った。

 その日の夜、公務を終え寝所に居た景勝の元へ兼続が秘かに訪ねてきた。

「殿、よろしいでしょうか?」

 一言断りを入れてから入室した兼続を、景勝は無言で迎え入れる。股肱《ここう》の臣が現れるのを分かっていた様子だ。

 自らと向かい合う形で兼続が座った直後、景勝はボソッと呟いた。

「……能登守か」

「はい」

 険しい面持ちで応じる兼続。公の場で言及するのは差し障《さわ》りのある情報を掴んでいた。

「内府との対面を終えて下城する折、能登守へ銀子《ぎんす》や太刀を贈られたとのこと。彼奴奴《きやつめ》は徳川の犬も同然にございます」

 兼続の口から明かされた事実に、景勝も顔を顰《しか》める。

 大名家の当主が他の大名家の家臣へ餞別《せんべつ》や親愛を示す意味で金品を贈る例は少ないがある。しかし、新年祝賀の挨拶を述べに上坂《じょうはん》した使者の信吉へ破格の土産を渡したのは、懐柔《かいじゅう》したい魂胆が見え見えだ。買収しようとする家康も家康だが、相手の意図を知りながら受け取る信吉の態度も問題がある。上杉家の代表なのだから突っ撥《ぱ》ねるのが筋なのに貰うとは何事か。謙信以来誇り高い“義”の精神に反する賤《いや》しい行動に兼続は嫌悪感を抱いた。

 上杉家中も少数ながら徳川と対立するのは望ましくないと考える者は居るが、それは心の底から御家を想う気持ちから来るものだ。片や信吉は家康から収賄《しゅうわい》を受けた事で徳川家の為に働く代弁者に成り下がった。景勝は家臣に調略の手を伸ばした家康は無論のこと、それを受け容《い》れた信吉に対しても不快に思った。

「……そは、真《まこと》か?」

「残念ながら。“軒猿”より裏付けとなる報せが幾つも届いております故、間違いないかと」

 確認する景勝へ断言する兼続。それを聞き景勝はハァと大きく息を吐いてから訊ねる。

「如何《いかが》致す?」

「まだ我が家を害する事はしておりませんので、一先《ひとま》ず泳がせる心算《つもり》です。ただ、叛心を探るべく“軒猿”に監視させます」

 上杉家の忍び“軒猿”の諜報活動は他の大名家のみならず家中も対象としている。家臣の間で徒党を組む動きや人目を忍んで集まるといった謀叛の兆候を事前に察知するのが狙いで、不満が家中に溜まってないか神経を尖《とが》らせている裏返しでもあった。

 その方針に景勝も黙って頷く。信吉から上杉家の内情が徳川家へ漏れる可能性は高い。背信行為が発覚し次第、速やかに“軒猿”へ始末させる手筈を兼続は水面下で命じていた。

 謙信以来“義”の精神で鉄の結束を誇ってきた上杉家に罅《ひび》を入れられたものの、それで家康打倒の計画を中止する考えは主従の頭に無い。もう今更引き返せる段階ではないのもあるが、豊臣家の天下を簒奪《さんだつ》せんと企む家康の野望を阻止したい気持ちが強かった。内憂《ないゆう》を抱えた状況でも逆に燃える景勝・兼続主従は、対決へ向け準備を加速させていくこととなる。


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