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一 : 慶長四年 - (10) 黒大豆を蒔きたるが如く

 天下獲りへの階《きざはし》を着実に昇っていく家康は自らの色を出し始めた。我がものにした大坂城西ノ丸を“大老筆頭に相応しい在所”とすべく天守の普請《ふしん》に着手。完成後は本丸と西ノ丸に天守が二つ並び立つ異様な状態となる。また、十月一日に隠居した堀尾吉晴へ“これまで豊臣家へ多大な貢献をした”として越前府中五万石を隠居料名目で与えた。御家の発展に功績があった者に対し隠居する際に幾許《いくばく》かの所領を授ける例はよくある事ながら、家康は豊臣家の直轄領を誰にも諮《はか》らず独断で決めたのだ。去る二月、利家と家康の間で武力衝突の危機が高まった折に両者の仲裁に尽力した報酬の意味合いが込められていた。

 片や、会津に帰った兼続は、逐一《ちくいち》届けられる畿内の情勢を気にしながら政務に忙殺される日々を送っていた。

 赴任早々に畿内へ急行する事となり、戻って来れたのは約二年後。年貢の歩合《ぶあい》や統治の方針など各大名家で異なる仕様《しよう》を上杉家式に変更・統一させるだけでも大変なのに、未着手の状態で二年間も放置してしまった。最高決定者不在という異常事態でも国を治めねばならず暫定的に前任の蒲生家のやり方を踏襲するなどして乗り切ったが、兼続としては一刻も早く改めたいところだ。

 通常の仕置《しおき》だけでも処理すべき事柄は山のようにあるにも関わらず、それと並行して将来を見据えた戦支度も進める必要がある。領内の主要な城砦の修繕・増強、各方面に伸びる街道の整備、兵糧弾薬を始めとする輜重《しちょう》の確保、そして将兵の採用・訓練――。執政の兼続は全てに於いて対応が求められた。

 多事多端《たじたたん》で仕事に追われる兼続の元にちょっとした苦情が入ったのは、十一月も半ばに差し掛かろうとした頃だった。

「組外衆の振る舞いに家中でモヤモヤが溜まっている、とな」

 報告を受けた兼続は反応薄く相手の言葉を繰り返す。

「左様《さよう》、やれ『新参者のクセに朱塗りの槍を持つなど生意気な』だの『大した功も挙げておらぬのに“大武辺者《おおぶへんもの》”と名乗るのは不遜である』だの……どれも取るに足らぬ戯言《たわごと》なれど思いの外《ほか》に根が深くてのぅ。“上総《かずさ》”殿にも伝えているが対応に悩まれておられる様子だった故《ゆえ》、旦那へ相談するに至った次第」

 そう語るのは、水原《すいばら》“常陸介《ひたちのすけ》”親憲《ちかのり》。天文十五年〈一五四六年〉生まれで五十四歳。上田衆に属す大関親信(ちかのぶ)の子に生まれ、謙信・景勝の下で各地を転戦し功を挙げる。一時上杉家から離れていた時もあったが、復帰後には景勝の求めで揚北《あがきた》衆の名門・水原姓の名跡《みょうせき》を継ぐなど、上杉家の屋台骨を支える実力者の一人だ。縦に長い顔で日灼《ひや》けした肌に多数のホクロがあった事から『黒大豆を蒔《ま》きたるが如く』と表現される程に特徴的な面貌《めんぼう》をしていた。

 安田“上総介《かずさのすけ》”能元《よしもと》。弘治三年生まれで四十三歳。幼少期には謙信の小姓として仕え、御館の乱や新発田重家による内乱鎮圧にも参加。ただ、天正十一年の放生橋の戦いで殿《しんがり》を務めた能元は片足を負傷。歩くのに支障を来《きた》す後遺症を負った事から内政官に転身。“跛《ちんば》(“びっこ”)上総”の渾名《あだな》で家中に広く知られる人物だった。病弱だったり障碍《しょうがい》・年齢等で前線から退《しりぞ》いた者が就く吏僚が多い中で能元は優れた働きをしていた事から、景勝・兼続から厚い信頼を寄せられ組外衆の後見人に任じられている。

 困り顔の親憲に、兼続も仕事の手を止め腕を組む。譜代と外様の軋轢《あつれき》は間々(まま)ある話だが、兼続もそうした不満の声は把握していた。

 戦国乱世を渡り抜いてきた者は自尊心が高く独立気質が強い傾向にあった。それ故、“受ける扶持が自分の実力・実績に対し少ない”とか“我が主として仕えるに値しない”という理由で家臣の方から暇乞《いとまご》いを申し出て他家へ鞍替えする例も珍しくなく、中には複数の家を転々としてきた古強者《ふるつわもの》も居た程だ。上杉家も長尾姓の頃より主家へ反旗を翻したり家臣同士の対立が衝突に発展したりを経験し、謙信も家中の不和に嫌気が差して一時全てを投げ出し高野山《こうやさん》へ上《のぼ》っている。

 兼続も、譜代達の言い分は理解出来る。朱塗りの槍はどの大名家でも特に優れた武功を挙げた者にしか持つ事を許されない憧れの象徴、他家でどれ程の戦績を重ねていても上杉家には貢献しておらず「自重《じちょう》すべきだ!」と主張するのは尤《もっと》もな話だ。“武辺者”の名乗りも同様。しかし、上杉家の気風や秩序を乱していると安直に結び付けるのは早計だと思う。

 渋面の兼続に親憲は話を続ける。

「今述べたのは前田慶次郎殿のことだが、『岡左内は兎角《とかく》“銭だ”“金《かね》だ”と卑《いや》しい』だの『上泉主水は剣の修練に明け暮れるばかりで、将の器に非《あら》ず』だの文句が多数寄せられておる。皆の言う事は分かるが、単なる新参者への苦情とは思っておらん」

 型破りな性格や振る舞いの所為《せい》で悪目立《わるめだ》ちしている慶次郎に批難の矛先が向けられるも、他の者達にも不満が渦巻いていると親憲は指摘する。

 当時としてはかなり稀少《きしょう》な“お金大好き人間”で部屋一面に敷き詰められた銭の上で昼寝をしたとする逸話がある岡定俊や、剣の道を究《きわ》めんと追求する上泉泰綱は、どちらも戦国時代における武士の模範的な姿とはかけ離れていた為に、冷ややかな視線を送られていた。異端者が加入した事で溝が生まれ、日に日に深く広がっているのを親憲は危惧していた。

 ただ、親憲は譜代を代表し苦情を言いに来た訳ではなかった。

「……上田衆の重用に対する不快感が、根底にある。そう仰りたいのですな?」

 絞り出すような声で兼続が問い掛けると、親憲は首肯《しゅこう》した。

 上杉家の前身・長尾家は越後守護代として守護職の上杉家(謙信が継承した関東管領を務めてきた山内上杉家とは別)を支える立場にあったが、謙信の父・長尾為景(ためかげ)の代に下剋上で越後国主の座を掴んだ。その後に『毘沙門天の生まれ変わり』と公言し自らを厳しく律した謙信の絶大な威徳《いとく》と“義”の精神で国人衆が無二の忠誠を誓い、“戦国最強”と謳《うた》われる程の軍事力を備えるまでに飛躍を遂げた。これは神懸《かみが》かり的な武略の才を持つ謙信の力に因《よ》るところも大きかったが、主従・家臣同士で鉄の結束を誇っていたのも重要な要素だった。

 ところが――絶対的な存在だった謙信が天正六年三月に急逝。偉大過ぎる君主を喪《うしな》った国人衆は所領拡大や要職への登用などの見返りを期待し、景勝・景虎の跡目争いに参加した。御館の乱を制した景勝は戦後に論功行賞《ろんこうこうしょう》を行《おこな》ったものの、景勝の身内とも言うべき上田衆に大幅な加増や中枢への抜擢が目立ち、明らかに偏りのある内容だった。当然ながら景勝方に加わった国人達は望んでいた対価を貰えず不満を抱き、有力国人だった新発田重家の造反を招いた。重家の内乱を鎮圧した後も上田衆の厚遇に家中では鬱憤が燻《くすぶ》り続け、現在に至る。

 兼続自身は御館の乱における恩賞は公平性を欠いたと思っていない。有力国人や北条家の支援で景勝が窮地に立たされる中でも上田衆は踏ん張り、逆転するまで奮闘した。上杉家の当主となった景勝が信頼厚い人物を身近に置くのも自然な流れだ。しかし、景勝へ与した他の国人衆からすれば“上田衆ばかり良い思いをしている”と捉えてしまった。家中の均衡を考えず処遇の匙加減を見誤った所為《せい》で、上杉家中に痼《しこ》りを残す結果になった。

 只《ただ》でさえ上田衆の寵遇《ちょうぐう》にモヤモヤを募らせている状況に余所者《よそもの》が新たに加わり、上杉の家風《かふう》にそぐわぬ行動が散見《さんけん》される。神格化された先代謙信に少しでも近付こうと日夜努力し威厳を保つ景勝の下《もと》、ようやく一つに纏《まと》まりかけてきた中で分裂の呼び水になりかねないと親憲は言うのだ。

「……分かりました。組外衆の件については私の方で対処しましょう」

 世話役は能元だが、牢人に声を掛け召し抱える決定をした兼続が責任者だ。大きな問題へ発展する前に対応する義務がある。組外衆の面々から話を聞き、家中の和を乱す振る舞いは控えるよう説得する心算《つもり》だ。

 これで話は終わり……と思いきや、親憲は席を立とうとしない。「はて」と内心小首を傾《かし》げる兼続に、親憲は改まった口調で質《ただ》す。

「のう、旦那。この際だから腹を割って話したい。……何を企《たくら》んでおる?」

「企む、とは」

 鋭く切り込んできた親憲に兼続ははぐらかそうとするも、「惚《とぼ》けなさるな」と逃さない。

「帰国早々に城砦の修繕・増強や兵糧弾薬の購入手配、浪人召し抱えに足軽の大量採用。上杉家が戦の準備をしていると隣国の大名共から通報されてもおかしくありませんぞ」

 懸念を示したのは、やはり昨今の軍備拡大の動きについてだ。景勝や兼続など主立った面々が留守にしている間も雑兵の新規募集や領内にある城砦の点検等は行われていたが、畿内から戻るや否やより顕著《けんちょ》となった。これでは近隣の大名が『戦支度をしている』と誤解しかねない。

 親憲の指摘に対し、兼続は常を変わらぬ声色で答える。

「御心配には及びません。我等は長らく国許を離れておりました故、不在の分を取り戻すべく精力的に動いているまで。それに、草莽《そうもう》の勇士に仕官を働きかけるのは他家でもやっております。転封に伴い石高も増えましたから相応の陣容を短期間で成し遂げる為に致し方ない事と考えています」

 平然と言い切る兼続に、まだ納得のいかぬ顔の親憲。

「理屈の上ではそうだ。しかし、我等を貶《おとし》めんとする者達からすれば、恰好の攻撃材料となろう」

 上杉家に訴訟を起こした堀秀治・最上義光、本貫の地奪還を目論む伊達政宗といった面々は景勝を追い落とす材料を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。家康は自らの天下獲りで邪魔になるであろう大老家の弱体化を画策しており、上杉家の隙は討伐の動機に直結する。怪しまれる行動は厳に慎むべきと親憲が進言するのも分からなくない。

 一つ間合いを詰めた親憲は兼続の目を見据えたまま告げる。

「牢人集めや城砦の手直しは豊家《ほうけ》に疚《やま》しい気持ちなぞ有りはせぬから存分にやってもらって結構。だがな、内府へ喧嘩を売るような真似は流石に如何《いかが》かと思うぞ」

「……常陸介殿は内府を敵に回すのを恐れておいでで?」

「あぁ、そうとも。今の内府を下手に刺激せん方が賢明だと思う」

 兼続の反問《はんもん》に親憲はきっぱりと断言する。口を噤《つぐ》み根拠を促す兼続の意思を汲《く》んだ親憲は自らの見解を述べる。

「口惜しいが、内府は事実上の天下人で絶大な権力を握っておる。先の前田家にまつわる騒動でも分かる通り、例え白いモノでも内府が“黒”と言えば黒となる空気が出来上がりつつある。こうした状況下では足元を掬《すく》われぬよう慎重に立ち振る舞うべきだと個人的に考える」

 淡々とした口調で明かされた親憲の見立ては、的を得ている。現状を客観的に分析し、上杉家が生き残っていく為の最善策を見極める能力を親憲は有していた。安全な道を採《と》るなら親憲の言った通りにすればいい。

 しかし――『上杉家が囮《おとり》になる形で家康を畿内から誘い出し、東西で挟撃し討伐する』という壮大な計画が既に動き出している。この秘密を知るのは上杉家だと景勝と兼続のみで、

家中に打倒家康の意思表明をする時期も決まっていた。親憲が大局的な見地《けんち》で物事を判断する能力があり信の置ける人物だとしても、機密漏洩の危険性を鑑《かんが》みれば隠し通す他なかった。

 暫し脳内で整理した兼続は、静かに息を吐いてからゆったりと答えた。

「――御指摘、忝《かたじけな》い。然《さ》れど、我等の軍備については内府様も承知しております」

 思わぬ発言に親憲も虚を衝《つ》かれたらしく「ほぅ」と漏らす。兼続は声を潜めさらに続ける。

「そもそも我等が会津へ移封となったのは、畿内から遠く離れた奥羽に“独眼竜”や“羽州《うしゅう》の狐”といった厄介者の監視・抑制を亡き太閤殿下から託されてのこと。内府様も同様に考えておられ、奥羽の情勢安定に我が上杉家の力が不可欠との認識です。故に、我等の軍備増強は内府様も承諾し目を瞑《つむ》る約束となっておりまする」

 涼しい顔でスラスラと内情を披露する兼続。当然ながら、今話した内容の大半は親憲を欺《あざむ》く為の嘘である。

 室町幕府・守護大名の衰退と新興勢力の台頭で日ノ本各地で下剋上の嵐が吹き荒《すさ》ぶ中、奥羽では国人同士が婚姻で結ばれ合戦になっても第三者が仲介し双方が折り合う条件で手打ちにする慣習が常態化し、比較的穏やかな状態が長らく続いた。そうした慣行を打ち破ったのが“独眼竜”こと伊達政宗と“羽州の狐”こと最上義光だった。

 天正十二年十月に十五歳の若さで伊達家の家督を継いだ政宗は、従来の縁戚《えんせき》による馴れ合いを無視し近隣の国人を次々と滅ぼし勢力を拡大。血の繋がりに基づく秩序を破壊する異端者と敵視された政宗は最上・蘆名《あしな》など戦国大名の後援を受けた国人連合を相手に幾度も窮地に立たされるも、逆境を撥《は》ね除《の》け当主になった五年後には蘆名家を倒し百十四万石の大封《たいほう》を得るまで伸し上がった。片や、政宗の母・義姫の兄である最上義光も父・義守《よしもり》との主導権争いを制すると、計略・武略を駆使し版図を拡げた。両名共に天正十八年の北条征伐に際し小田原へ参陣し豊臣家へ恭順の意を示すも、領土拡張の野望は捨てておらず面従腹背《めんじゅうふくはい》である事は明白だ。実際、同年十月に新領主として赴任した木村吉清の圧政に苦しんだ民衆や改易された葛西《かさい》・大崎の旧臣が蜂起《ほうき》。この一揆は混乱に乗じて没収された領地を少しでも取り返したい政宗が裏で煽動《せんどう》していた(尚《なお》、一揆鎮圧後に政宗は秀吉から伊達家本貫の地を含む十二郡を没収し葛西・大崎領を代わりに与える事実上の懲罰処分が下されている)。

 政治の中心地である畿内から見れば僻地たる奥羽まで公儀の目は行き届きにくく、家康も自らの天下獲り途中で騒ぎを起こされるのは迷惑千万(せんばん)だろう。兼続が暗に迷惑を結んだと匂わせたのに対し、親憲も有り得ると思わせる程の説得力はあった。

「……そうか。そういう事にしておいてやろう」

 兼続の回答に親憲は納得はしてないが引き下がる事を選んだ。自分の与《あずか》り知らぬ所で何かあると察したのと同時に、これ以上粘っても兼続が口を割らないと判断した様子だ。

 用は済んだと親憲は立ち上がり、部屋から退室する。段々と小さくなっていく足音を聞きながら、兼続は顎《あご》に手を当て考え込む。

 譜代と新参の摩擦は想定内だったが、越後以来の家臣団にもいまだに不協和音が残っている現実を親憲との対談で改めて突き付けられた。そして、上杉家の中に家康との対決を避けるべきだと考える者が居る事も。課題が浮き彫りになったのは収穫だと前向きに解釈する事にした。

 ただ、家中融和は必須と頭で理解していても、どう取り組めばいいか兼続は分からなかった。無暗《むやみ》に修復を試みて逆に溝が深まっては本末転倒だが、残された時間は限られている。ある意味、どんな政務より難しい問題かも知れない。

 思案を巡らせていても時間は過ぎるだけだ。兼続は割り切り中断していた政務に取り掛かった。


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