一 : 慶長四年 - (9) 火の無い所に煙を立たせ
上杉家の一行は東海道を進み、八月二十二日に会津へ到着した。領国へ戻った景勝・兼続は長旅の疲れを取るよりも先に手付かずだった内政に執り掛かった。留守の間に溜まった仕事と並行し打倒家康の準備も進めねばならず、兼続は一日の大半を執務の間で過ごす日々が続いた。
政務に忙殺される事、五日。若松城に「中納言(景勝の官名)様へお目通り願いたい」と申し入れる者が現れた。その者の名を耳にした兼続は即座に許可し、御殿の大広間で対面する段取りを指示した。
景勝・兼続のみならず主立った重臣が大広間に勢揃いする状況で、その男は平包を脇に抱え入室してきた。重臣達の視線を一身に浴びながらも男は堂々と進み、どっかと腰を下ろしてから徐に口を開く。
「前田“慶次郎”に候。此度は突然の訪いにも関わらず面会のお許しを頂戴し、真にありがとうございまする」
名乗りを述べ、深々と頭を下げる慶次郎。天下にその名を轟かせる“傾奇者”“婆娑羅者”の慶次郎がどんな格好で来るか重臣達は気を揉んでいたが、背中まで伸ばした長髪ながらも黒髪で肩衣・袴に折烏帽子の正装姿に肩透かしを喰らう一方で胸を撫で下ろしていった。
直後、慶次郎は持参した平包を前へ差し出す。包みが開かれると、現れたのは三本の大根。どれも形が曲がっていたり凸凹している上に泥も付いており、殿様へ献上するには正直不格好だ。
意図が掴めず訝しむ面々に、慶次郎はハキとした声で告げる。
「拙者、見てくれこそこの大根のように多少見栄えはよろしくありませぬが、噛めば噛む程に良い味を出しまする。必ずや、貴家の役に立ってみせましょう」
その口上に、重臣達だけでなく兼続も唸らされた。初対面の場でこういう趣向を凝らして自らを売り込む諧謔心を持っているからこそ、慶次郎は多くの人々から好かれ愛される証拠だ。教養を備え風雅を理解している点がただ目立ちたい似非者とは異なる。
遣り取り一つで懐疑的な見方をしていた者達を黙らせた慶次郎に、景勝は常と変わらずムスッとした顔で声を発す。
「……期待している」
「ははっ!!」
督励の言葉掛けに、慶次郎も謹んで頭を下げる。対面を終えた景勝が退室するのを全員が叩頭し見送るが、驚きの顔つきをしている者が少なからず居た。
寡黙な景勝は家中に於いても言葉を発する事は滅多になく、あっても「うむ」といった非常に短いものだった。それが多少面識のある人物であれど、仕官してきた者へ当てにする旨を伝えるのは異例な対応と言っていい。
主が去った大広間から、重臣達が退室していく。唖然とする者、疑わしい視線を送る者、穢らわしいと無視する者、十人十色の反応を示すのを、慶次郎は愉快そうに眺めていた。
この後も、兼続は腕利きの浪人を勧誘し続けた。蒲生家旧臣・岡“左内”定俊、佐野家旧臣・山上道及、剣豪の一面も持つ上泉“主水”泰綱など、錚々たる顔触れが上杉家の家臣となった。著名な者の他にも浪人を召し抱え雑兵を雇い入れた事から上杉家と関係の悪い越後の堀秀治や出羽山形の最上義光などが家康へ通報するも、各大名家が大なり小なり随時行っている事だった為に『引き続き注視してもらいたい』と答えるしかなかった。
来るべき時に備え、粛々と戦支度を進める上杉家。執政として不在だった間に山積した治政を猛烈な勢いで処理する傍ら、必ず訪れるであろう家康との兵戈の事を頭の片隅に置く兼続だった。
目障りだった他の大老達を国許へ追い払った家康は、留め立てする者が居なくなった事を好い事に自らの天下獲りへ足場固めに乗り出す。
慶長四年九月七日、二日後に控えた重陽の節句で主君・秀頼へ祝意を述べるべく家康は上坂。重陽の節句とは無病息災・長寿を喜び祈願する“季節の行事”で、九日に大坂城へ登城した家康は秀頼と淀の方へ拝謁した。挨拶を済ませた家康は政務を執る伏見へ戻る筈が……大坂にそのまま留まり続けたのである。秀吉の遺命を無視する形で留まったのはある理由があった。――自らに対する暗殺計画が発覚したのだ。
重陽の節句に合わせ大坂へ上る家康一行を奇襲し、仕留める――この計画は事前に徳川方が掴み警戒を強めたのもあり未遂に終わるも、家康の命を狙う企図は豊臣家の天下を脅かす重大事案である。長束正家・増田長盛の奉行両名が計画について報告すると、家康は直ちに下手人捜しへ着手した。
調べ始めて数日、容疑者が明らかになった。実行犯は大野治長・土方雄久(“よしひさ”とも)、指示役は五奉行の一人・浅野長政。ただ、挙げられた三名は命じられたに過ぎず、真の首謀者は――。
「――加賀中納言が裏で手を引いている、と」
十月中旬、若松城・景勝の寝所。余人を排し兼続から齎された報告を受け、景勝は信じ難いといった風に溢した。
土方雄久は前田利長の母・芳春院と兄弟姉妹の説がある程に関係が近く、浅野長政も嫡男・幸長が前田利家五女・与免と婚約を結ぶ(与免夭折に伴い解消)など前田家と繋がりを持ち、家康の存在を危険視した利長が同じく家康を快く思っていなかった淀の方の乳母・大蔵卿局の嫡男・大野治長を巻き込み起死回生を図った――これが畿内で流布している家康暗殺の見立てである。
政治の中心地たる畿内には、選りすぐりの“軒猿”を多く配している。伏見留守居役の千坂景親が収集した情報は足に自信のある“軒猿”によって逐一国許へ届けられる万全の体制が敷かれていた。
「どう思う?」
「牽強付会の妄論ですな」
主から見解を求められた兼続はバッサリと斬って捨てる。景勝も同じらしく軽く頷いた。
「先代の大納言様や弟の能登守(前田利政の通称)ならいざ知らず、あの御仁に限って断じてありません。内府を討つならば前田家の全てを擲ち差し違える覚悟が求められますが、そんな博奕を打つ人ではございませんので」
強い口調で兼続は利長の関与を完全否定する。解釈次第では“勝負に出れない腑抜け者”とも聞こえる散々な言われ様だが、その評価は必ずしも“器量に劣る”“軟弱な愚昧”とはならない。
武家で最も避けるべきは、御家の断絶だ。どんなに栄華を極めても断絶すれば全て無に帰す。父祖伝来の土地と共に家名・血筋を次代へ繋ぐ事こそ武家の務めであり、滅亡の危険を承知で高みを目指すか継承を優先し安全策を採るかは当主の性格に因るところが大きかった。
尾張の土豪だった前田家が加能越八十三万石の版図と豊臣家大老の高位に昇り詰めたのは、偏に利家が信長・秀吉と二人の天下人に好かれ信頼されたからだ。慎重居士の利長は身に余る厚遇は自分の功績と全く思っておらず、可能な限り現状を維持し次代へ託したいと考えているのだろう。そんな利長が自ら進んで家康を害す無謀な企みを冒すなど、まず有り得ない。
「本気で内府を討つなら闇討ちが最も成功が望める反面、綿密な計画を立てねばなりません。伏見から大坂へ移動する手段、行程、決行に最適な箇所の選定に当日の段取り、そして幾つもの事態を想定・考慮し念入りに準備する必要があり、仮に襲撃の目論見が事実だったとしても杜撰過ぎます。第一、大坂から遠く離れた金沢に居る中納言殿が事細かに指示を出せる筈がありません。それでも黒幕に仕立て上げたのは、疑いを掛けるのは容易く晴らすのは困難だからです」
誰も利長が家康の命を狙ったと本気で思っていないが、時の権力者たる家康が被害を訴えれば一転事実と受け止められる。嫌疑を掛けられた本人が領国に居て弁明まで刻を要するが、その間も畿内では家康の言い分が人々の中で浸透していく。実に汚い遣り口ではあるものの、とても効率的な方法ではある。
「前田家の申し開きを聞くよりも先に、征伐へ向けて動き出している模様」
十月二日、家康暗殺に加担したとして大野治長を下野国結城・土方雄久を常陸国水戸へ、それぞれ流罪に処す事を発表。また、浅野長政は自ら隠居を申し出た旨を斟酌され武蔵国府中で蟄居が命じられている。さらに翌日には前田領と隣接する南加賀・小松城主の丹羽長重へ前田征伐の先鋒を申し付けるなど、既成事実化を着々と進めていた。
利長の対応次第では、上杉家にも征伐に参加するよう家康が求めてくる可能性がある。大老四名と奉行衆が手を携えて家康を倒す計画を企てている身からすれば、前田家八十三万石を失うのは戦力的にも今後の統治構想の面でも狂いが生じてしまう。かと言って利長が家康の無理難題に屈して徳川の軍門に事実上降るのも困る。正に“痛し痒し”な状況だ。
「内府の専横はこれだけに留まりません」
畳み掛けるように兼続は語気を強める。
「去る九月二十六日、北政所様が京の太閤御屋敷へお移りになられますと、空いた西ノ丸へ内府が入りました。北政所様の御意向はあれど、太閤殿下の御遺言を破ったのは明白。許し難い暴挙にございます」
淀の方が家康を豊臣家に害を為す存在と危険視していたのに対し、北政所は豊臣家の天下運営に家康の力は不可欠と捉えていた。北政所は秀吉の死後も一定の発言権を保持していたが、秀頼の生母と秀吉の正室で “女主人”が大坂城に二人居る悪影響を考慮し自ら退いた形だ。是が非でも大坂に移りたい家康の方からそれとなく北政所へ匂わせていたのもあるが、今回の転居は豊臣家の将来を踏まえ恩を売る政治的な判断も多分に含まれていた。
北政所が自らの住まいである西ノ丸から退去し実質的に譲られた家康は、二十八日に入居。喉から手が出る程に欲していた大坂城内の拠点を確保した家康は、以降西ノ丸で政務を執り行うようになる。
「内府は遂に“玉”を握ったか」
「はい」
眉を顰める景勝に、苦々しい表情で応える兼続。
まだ幼い秀頼は諸大名の上に君臨する象徴的な存在であれど、政や戦の判断を下す能力は有していなかった。それ故に政を担当する家康が『秀頼公の御意思である!』と宣言し権力の濫用を何より恐れた秀吉は伏見在番を厳命し、家康と唯一対抗可能で尚且つ豊臣家に絶対の忠誠を誓う前田利家を大阪に置き睨みを利かせようと考えた。しかし、頼みとする利家は秀吉の死から約八ヶ月後の今年閏三月に死去。この前後から家康は豊臣家が管理する城へじわじわと格を上げ、遂に大坂城への転居を許してしまった。秀頼の居る大坂城西ノ丸へ入った家康は“秀頼公の代行者”として独裁を振るう下地が整った事になる。
「加賀中納言様の出方次第になりますが、当初の構想とは大きく異なった対応になるやも知れません。あらゆる事態を想定し、支度を進めてさせて頂きます」
厳しい顔つきで兼続が述べると、景勝は無言で頷き了承する。前田家討伐を発端に反家康の機運が醸成される可能性も否めず、逆に討伐への参加を強いられる可能性もある事から、柔軟に対処すべく出兵の用意をしておく必要に迫られた。
濡れ衣を着せられた利長は腹心の家老・横山“大膳”長知を大坂に居る家康の元へ派遣。あの手この手で“利長に家康を害する気はあった”言質を取りたい徳川方の追求を長知は凌ぎ切るも、家康から『本当に叛意が無いならば、証として芳春院を差し出せ』と要求したのだ! 家臣の身で回答出来る内容ではない為に前田家へ持ち帰った長知は主君に判断を仰いだ。罪を捏ち上げられたのみならず前田家の象徴的存在たる母を人質に寄越せと言われた利長は家康と相対する意志を固めたが、当事者たる芳春院が自ら人質になると宣言したのもあり翻意。家康が突き付けた条件を呑む道を選んだ。
武力衝突の可能性が消滅した事により畿内を中心にざわついた空気も緩和へ向かった。一方で、大老の一人である前田利長が事実上家康に屈服した事は、打倒家康を目指す勢力にとって大きな痛手だった。ただ、公儀が家康追討の兵を挙げた際は前田家も同調すると兼続は踏んでいたので、特段気落ちする事はなかった。
それでも、利長が家康の下に降ったのは紛れもない事実で、世間に衝撃を与えたと同時に実質的な天下人たる家康の心象を良くしたいと考える大名や豪商・文化人などが挙って接近する動きが加速することとなる。




