不完全な世界
廃棄区の最奥、錆びついたトタンと無数の配線が這う地下倉庫の扉を開けた先で、里奈は激しい雨の音からようやく解放された。
そこは、自販機反対団体「アニマ」の拠点だった。
温かいスープの匂いと、いくつもの話し声が混ざり合う空間。里奈が息を切らせて立ち尽くす中、集まってきた人々の姿を見て、彼女は目を見張った。
そこにいたのは、あまりにも多種多様で、不完全な人間ばかりだったからだ。
片足が不自由そうに歩く男。吃音を抱えながらも懸命に子供に絵本を読み聞かせる女。そして子供たちの中には、情緒のパラメータが暴走したのか、突然激しく怒り出したかと思えば次の瞬間にはケラケラと笑う、ライフ・ベンダー社の基準なら一発で「重度バグ個体」として廃棄ルートに弾かれるような少年もいた。
しかし、誰も彼らを排除しようとはしない。怒り出す少年の背中を別の大人がそっとさすり、足の不自由な男を別の子供が当然のように肩を貸している。凸と凹が噛み合うように、彼らは歪な形のまま、パズルのように支え合ってそこに存在していた。
「——ようこそ、アニマへ」
声をかけてきたのは、アニマの創設者である女性、エマだった。彼女の隣には、あの生放送で国家を揺るがした少年・ハルトが、首筋に痛々しい包帯を巻いた姿で静かに佇んでいる。
「あ……、私は……」
里奈は崩れ落ちるように膝をつき、腕の中の「2人目」を狂おしいほどの手つきで抱きしめた。赤ん坊はまだ、引きつったような笑みを浮かべたままだ。
「わからない……もう、何が正しいのか、私には何もわからないんです……!」
里奈の瞳から、堰を切ったように涙があふれ出た。
「私たちは……和樹と私は、ずっと子供が欲しかった。長い時間をかけて、苦しい不妊治療も何度も何度も受けて、それでも授からなかった……! だから、あの『赤ちゃん自販機』が現れた時、本当に救いだと思ったんです。お金さえ払えば、誰にも迷惑をかけず、確実に、理想の家族が手に入るって。あれは、私たちの希望だった……。でも、どうしてこんなことになっちゃったの……!?」
里奈の魂の叫びのような吐露を、エマは否定も肯定もせず、ただ静かに見つめていた。その瞳には、深い哀しみと、ライフ・ベンダー社に対する凄まじい憎悪の炎が宿っている。
「子供を欲したあなたたちを、誰も責められないわ。ライフ・ベンダー社は、人の普遍的な『弱さ』に付け込んで、完璧という名の最悪なビジネスを始めたのよ」
エマはゆっくりと、自分の左腕の袖を捲り上げた。そこには、赤黒い引きつれたような皮膚の痣と、その下に埋め込まれた古い型のICタグの膨らみがあった。
「私はね、ハルトたち『第一世代』よりも前……ライフ・ベンダー社が世に出る前の、実験室の『プロトタイプ(失敗作)』だったの」
里奈が息を呑む。
「遺伝子コードの結合エラー。会社の基準では、出荷にも値しない『産業廃棄物』として、生後数日でシュレッダーにかけられるはずだった。でも、ライフ・ベンダー社の技術者だった私の父親が、データシートを偽装して、私をこっそり施設から盗み出して育ててくれたの。……父はいつも、不自由な私の身体を抱きしめて『お前は失敗作なんかじゃない、俺の愛しい娘だ』って言ってくれた。父が死ぬまで、私は地下の隠し部屋から一歩も出られなかったけれど、私はあの場所で、確かに『人間』として愛されていたわ」
エマの手に、ぎゅっと力がこもる。
「だからこそ、私はあの会社が許せない。あのシステムが社会に何をもたらしたか、あなたならもう分かるでしょう? ライフ・ベンダー社が売っているのは『家族の形をした、合法的な児童虐待システム』よ」
「虐待……?」
「そう。子どもを、親の思うままにしていいわけがない。親の都合の良いパラメータを盛り込み、思い通りに支配し、親が敷いたレールの上だけを歩ませる……。そんなものは愛じゃない。ただの支配。 自分の理想から数ミリ外れただけで『初期不良』と呼び、リターン・ボックスという処刑場に投げ込む。これのどこが少子化対策よ。世界規模の、システム化された『毒親』の大量生産じゃない!」
エマの激しい言葉が、地下倉庫のコンクリート壁に響き渡り、里奈の胸を容赦なく抉った。かつてアリスの指先を見て「投資の失敗」と言い放った自分自身の傲慢さが、あまりにも恐ろしい罪として突きつけられる。
「僕たち第一世代も、ここにいる廃棄区の人たちも、みんな不完全です」
ハルトが一歩前に出て、里奈の腕の中の、笑い続ける赤ん坊を穏やかな目で見つめた。
「僕たちの知能や感情は、思い通りにならないことばかりです。でも、だからこそ僕たちは、一人では生きていけないから、こうして手を繋いで生きている。どちらが正しい生き方かなんて、誰にも決められない。だけど、不完全なまま誰かを支え、支えられることのなかにしか、本当の『命』は宿らないと思うんです」
里奈は腕の中の「2人目」を見た。
赤ん坊の口元は、まだ「アハハ」と小さく震えている。しかし、その目からは、ポロポロと一筋の涙がこぼれ落ちていた。
完璧な幸福なんて、最初からどこにもなかった。
けれど、このバグだらけの世界で、お互いの歪さを認め合いながら生きていく温もりだけは、確かに本物だと、里奈は涙に濡れた視界の中で、強く、強く実感していた。




