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名もなき虐待

 それから、里奈のアニマでの暮らしが始まった。

 かつての白を基調とした、汚れ一つないマンションでの生活とは真逆の世界。カビと鉄錆の匂いが漂う地下で、里奈は毎日、他の母親たちとスープを煮込み、子供たちの世話に追われた。


「2人目」の赤ん坊は、今もときおり感情のスイッチが狂ったように「アハハ」と空虚に笑い出す。しかし、里奈はもう怯えなかった。笑い出せばただ静かに抱きしめ、涙を流せば一緒に泣いた。思い通りにならない我が子をあやすその腕に、今まで決して得られなかった、確かな「生きている実感」が宿っていた。


 和樹との連絡は、完全に平行線のまま途絶えがちになっていた。

 画面越しに見る彼の顔は、会社のキャリアを守るために「3人目」の完璧な個体を購入し、必死に『理想の家庭』を演じ直しているようだった。しかし、その瞳は完全に死んでおり、人工的な幸福の檻の中で擦り切れていく元夫の姿は、かつての里奈そのものだった。



 アニマの拠点の片隅で、「2人目」を寝かしつけながら、里奈はいつも同じアパートの方向を、遠い目で見つめていた。


(いつか、アリスに会いに行こう)


 あの廃棄区の薄暗い部屋で、別の親の汚れた指を必死に握りしめていた、最初の娘。

 会いに行ったところで、何になるのだろう。虫のいい話だと自分でも分かっている。アリスからは激しく拒絶されるかもしれない。道具として自分を捨てた元母親を、狂おしいほどに恨み、憎んでいるかもしれない。


(それでも、いい……)


 罵倒されても、石を投げつけられても、生きて、いつか大きくなった彼女の姿をこの目で一瞬でも見られるなら、どんな報いでも受ける覚悟はできていた。あの指の長さの数ミリの違いを「不良品」と切り捨てた自分の罪を、一生をかけて背負い続けること。それだけが、今の里奈にできる唯一の贖罪だった。



 世界は、一朝一夕には変わらない。

 ハルトたちの決死の告発やアニマの激しい抵抗運動があってもなお、国家の少子化対策の基幹である「赤ちゃん自販機」が廃止されることはなかった。ライフ・ベンダー社は「一部の過激派によるデマ」として事態を鎮火し、今日も平然と営業を続けている。


 深い夜。雨上がりのアスファルトの上に、一台の最新型自販機『LB-09』が鎮座していた。

 破壊された過去の残骸を覆い隠すようにリニューアルされたその筐体は、闇の中で、不気味なほどこうこうと白いLEDの光を放ち、街頭を冷たく照らし出している。


 ガラスパネルの向こう側では、親たちの欲望オプションをすべて詰め込んだ、透き通るように美しい子供たちのホログラム広告が、完璧な黄金比の笑顔を浮かべて、夜の街に静かに語りかけ続けている。


『さあ、あなただけの「理想」を、今すぐその手に——』


 そのハッチの横で、返品された命をいつでも吸い込む準備を整えた「リターン・ボックス」が、静かに、深く、暗い口を開けて待っていた。

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