目覚め
「この子は、機械じゃないわ」
里奈が静かに拒絶を込めて言った。
「笑い続けているのは……この子が、必死に私たちを喜ばせようとしているからかもしれない。嫌われないように、アリスみたいに捨てられないように、プログラムの限界を超えて、壊れるまで笑ってる……そう思ったら、私……!」
脳裏に、自分を見つめ返したアリスの強い瞳が鮮烈に蘇る。あの時、自分は「完璧な人生」という歪んだ投資のために、一つの命を無慈悲に切り捨てた。
「和樹、私はこの子を返さない。この子は私の……私たちの娘よ」
「正気に戻れ、里奈! それは国が作った『製品』だ! 所有権を放棄して交換しなければ、仕様外の不良品の維持費で僕たちのキャリアも人生もすべて破綻するぞ!」
和樹が形相を変え、里奈の腕から赤ん坊を力任せに奪い取ろうと手を伸ばす。その瞬間、里奈は鍵の開いていた玄関から、土砂降りの夜の街へと飛び出した。
「里奈! 戻れ! 警察を呼ぶぞ!」
背後から和樹の狂ったような怒声が追いかけてくるが、里奈は一度も振り返らなかった。裸足のままアスファルトを蹴り、冷たい雨に打たれながらひたすら走る。
街角のあちこちでは、デモ隊によって爆破され、黒焦げの骸となった自販機『LB-09』が、煤煙を上げながら無残に転がっていた。しかし、まだ破壊を免れた数台の筐体が、逃亡者をあぶり出すように、冷たく白いLEDの光を容赦なく浴びせてくる。そのハッチの横には、かつて里奈自身がアリスを放り込んだ、あの無機質な「リターン・ボックス」が、まるで「次の獲物はそれか」と言わんばかりに、黒い口を開けて待っていた。
(もう、二度とあの中に投げ込ませない。あんな暗闇に、この子を一人にしない……!)
里奈は腕の中で、相変わらず「ヒヒ、アハハ」と狂った音を立てて笑い続ける赤ん坊の耳元で、激しい息の合間に何度も、何度も言葉を絞り出した。
「ごめんね……ごめんね、……ママを、許して……!」
それは、里奈が人生で初めて、他者のために流した本物の涙だった。大粒の涙が、雨水に混じって赤ん坊の濡れた頬にポツリと落ちる。
その瞬間、笑い続けていた赤ん坊の口元が、ピタりと止まった。
三日月形に固定されていたプラスチックのような目元が、かすかに、本当にわずかに歪む。システムによって徹底的に検閲され、禁じられていたはずの「悲しみ」という致命的なエラーが、母親の涙という仕様外の温もりによって、凍りついた回路の奥底から引き出されようとしていた。赤ん坊の喉から、笑い声ではない、微かな掠れた拒絶の音が漏れる。
里奈は確信した。この子は生きている。私たちのエゴに押し潰されながらも、必死に心を取り戻そうとしている。
追っ手のサイレンが遠くで鳴り響く中、里奈は眩しいメインストリートを外れ、あの場所へと向かった。
高層ビルの光が決して届かない、命の吹き溜まり。不完全な「人間」たちが身を寄せ合って生きる「廃棄区」の闇の中へと、里奈は我が子を抱きしめたまま、一心不乱に駆け込んでいった。




