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月海  作者: 月原 悠


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3/7

花の訪れ

春は咲き乱れ初々しく、沢田と妙子にとっても例外ではなかった。

二人が通うことになった高校は、その地域でも名門校として知られており、受験の厳しさを象徴しているように校門まで長い坂が続き、坂道の途中では淡い色の桜がゆらゆらと音をたてていた。


沢田は肩で息をしながら歩いている妙子の真横に並んで、坂道を上がって行った。

肩まで下ろした髪に桜の花が降りかかり、薄紅色の髪飾りのようであった。

彼女に気づかれないように、ちらり、ちらりと横目で見ながら、学校の玄関までたどり着いた時には、妙子の姿が沢田の心に焼き付いていた。


沢田の家は貧しく、幼い頃から何かある度に父から暴力を振るわれ、泣き叫ぶ母を見て育った。

母は抵抗することなくじっと我慢していた。

沢田は母が暴力をふるわれているのを見ては、怖くて父親が憎くてたまらなかった。

父はその後、若い女を作って逃げ、行方不明になっていた。

母と二人きりの生活で生活保護を受給しながら育った。


母は沢田を可愛がってくれ、シルクのような柔らかさで沢田の心を包み、大切に育ててくれた。

そんな中で初めてみる妙子の姿は、沢田の母親を思わせるようであり、母親の眼差しのようであった。

彼が生まれた時の残像のような白い肌が、どことなくそう思わせたのであろう。


母親の姿に憧れるのは、ごく自然なことであり、沢田にもそれが当てはまったのである。

育った町は大きな町であったので、高等学校に通う生徒も多く、賑わいを見せていた。 


妙子を一目見てからは、同じ学級であればいいと思ったが、そうはいかないもので、彼女が教室の廊下を通る度に遠くから眺めては、満月のような瞳が、彼の胸に憧れの気持ちを映し出していた。

そして、三年生になると初めて、同じ教室の中で学べる機会を得た。


沢田の心は燕の巣から、ひな鳥が飛び始めたようであり、初めて座った席は妙子の隣で、心の中に一つの雫が落ちていった。

その雫は隠せば隠すほど、広がりを見せていった。


妙子は生まれつき体が弱く、それは虹が空に映し出されては消えゆくように、繊細さを持ち合わせていた。

幼少の頃から病にかかることが多く、それが悩みでもあった。


沢田は大きな樹木のように、幹もしっかりして成長した様子を見ると、妙子は以前から自らが消えゆく蝋燭のように思っており、樹木に咲く花になりたいと感じていた。


二人は隣の席であったが、互いに恥ずかしくて話をすることができなかった。

特に沢田は、自らが父親と鏡映しのように思えていたこともあったのである。

そんな二人に暖かな風が柔らかく吹いて来て、きっかけは突然にして訪れた。


半開きの教室の窓から一匹の紫色の蝶が迷い込んできて、窓寄りに座る妙子の髪に留まった。

妙子はそのことに気づかなかったが、沢田はすぐ気づき、妙子に何と声をかけたらいいのかわからなかった。

蝶はふわふわと、まるで柔らかな音をたてるように、上下左右に動き、妙子の目の前を移動して彼の腕に止まった。

妙子は不思議そうに眼を丸くして驚き、沢田にはその様子が心に何かを語りかけるようであった。

妙子は思わず声をあげた。


「まあ、きれい。紫色の蝶ね。どこから飛んできたの?」

「本当だね、どうする?」

「そのままにしておかないと可哀そう。それにとても可愛らしい」


彼女が言うと蝶は鮮やかな色を残して、再び窓の外へ飛び立っていった。二人の心には、紫の余韻がそっと染み込んだようだった。


時は夕暮れ色に染まろうとして、沢田と妙子は一緒に帰ることになり、肩を並べて茜色に染められた道をゆっくりと進んでいくと、小川のせせらぎが出迎えてくれた。

さらさら流れる音に、二人の吐く息が重なるように漂っていた。

川の途中に大きな岩がいくつか並んで、向こう岸まで続いていた。

妙子は岩を飛び跳ねて渡り、向こう岸まで行くと、花が喜びをあげるように大きな声で叫んだ。


「沢田さん、こっちまで来て。野花が咲いていますよ」

「待って。今からそっちに行くから」

「滑らないように気をつけて」


小鳥がさえずるような妙子の声に応えて、沢田も鳥が羽ばたくように向こう岸へ渡った。


「本当に花がきれいだね」


喜びの声が川に澄み渡るように響いた。


「そうでしょ。ほら、水も冷たくて気持ちいい」


妙子は両手で水をすくって顔を洗った。

子供が歓声をあげるような姿を見て、沢田はとても彼女が可愛らしく思え、自らも顔を洗ってみせた。

二人の透明な笑い声がどこまでも響くようであった。

川の囁くような流れに乗って、沢田と妙子はいつの間にか手を繋いで、再び元の方へ渡っていった。

二人の家はたまたま近くにあった。

よいしょ、よいしょと言いながら、妙子は沢田の手を引いていた。

沢田は子供の頃に母親から手を引かれて、小学校に初めて通った時の様子が、記憶として浮かびあがった。

思えば、あの頃は父親も優しく幸せだった。

改めて沢田には妙子が母親の姿と重なって見えた。


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