第九章 やっつ灯して、館を閉じる
館は、人を守るために建てられる。
雨を避ける。
風を防ぐ。
夜を締め出す。
外敵から身を隠す。
壁とは本来、こちら側の命を守るためにある。
扉とは本来、危険を選別するためにある。
鍵とは本来、誰かを拒むためにある。
だが十二灯館では、すべてが逆だった。
壁は人を迷わせるためにあり、扉は人を閉じ込めるためにあり、鍵は助けへ向かう道を塞ぐためにあった。
そして館の管理者である氷室圭吾は、自分が守ってきたはずの館に、食われかけていた。
*
「開けるな。館が、閉じる」
応接室の向こうから聞こえたのは、氷室圭吾の声だった。
だが氷室本人は、真壁彰のすぐ後ろにいた。
顔色を失い、唇を震わせ、自分の喉に手を当てている。
自分の声が、自分の身体の外から聞こえるという異常に、彼の理解が追いついていなかった。
「今の……私の声です」
氷室は言った。
その言葉が、廊下の空気をさらに冷やした。
神楽坂小夜子は、二階堂壮也に支えられたまま立っていた。
声を奪われ、喉を押さえ、涙で濡れた目を大きく開いている。何かを訴えようとしても、息だけが漏れる。
鳴海栞は温室で意識を戻したものの、まだ立てない。
白い花の匂いと薬剤の影響を引きずり、九条雅紀が何度も呼吸を確認していた。
烏丸鏡花は階段下にいる。
動かせない。
落下ではなく、落とされたように見せられた重傷者。
御子柴瑠璃子は消えたまま。
死者は三人。
西園寺雅治。
葛城慎一郎。
蓮見詩穂。
生きている者は、まだ生きているというだけで、もう無傷ではなかった。
誰もが少しずつ壊れていた。
氷室は自分の声に怯え、小夜子は自分の声を奪われ、二階堂は自分の言葉が犯人に使われる恐怖を抱え、九条は死体と生存者の間で引き裂かれ、鳳恭介は建物を読むたびに犯人へ近づいていく。
そして真壁は、全員の恐怖が、犯人の用意した順番に流し込まれていくのを見ていた。
「氷室さん」
真壁は声を低くした。
「応接室の中に、誰かいる心当たりは」
氷室は首を振った。
「ありません。応接室は、今夜は使っていません。鍵も……」
「鍵は?」
「管理室にあります。ただ、応接室は通常、内側から施錠できません。来客用の部屋ですから」
「では、向こうから押さえている」
鳳が扉の隙間を見ながら言った。
彼は扉に触れない。
床。
蝶番。
取っ手。
隙間。
壁の厚み。
上枠の歪み。
それらを見ている。
「真壁さん。この扉、内側から単純に押さえているだけではありません」
「どういう意味です」
「扉の下端が、わずかに浮いている。内側に何か噛ませています。さらに、向こう側で重い家具が当たっている可能性がある」
「バリケードか」
「はい。ただし、急いで作ったものではない」
二階堂が顔を上げる。
「また事前準備?」
「おそらく」
鳳の声は、いつもより硬かった。
「応接室を安全地帯にしようとした瞬間、使えない状態になった。偶然ではありません」
「犯人は、俺たちがここを選ぶと読んでいた」
真壁が言う。
「窓が少なく、反射が少ない。声と映像の錯覚を避けるなら、自然にこの部屋を選ぶ」
鳳は頷いた。
「そして、その部屋を閉じた」
廊下の奥で、館が軋んだ。
木材が寒さで縮むような音。
だが今は、館そのものが息をしているように聞こえた。
「開けますか」
朽木怜二が言った。
これまで冷静を保っていた男の声にも、薄い焦りが混じっている。
「中に人がいるなら、助けるべきです」
「その声が録音なら?」
二階堂が言った。
「開けた瞬間、別の罠が動くかもしれない」
「では、放置するのですか」
「そうは言ってない」
二階堂の声が少し荒くなった。
すぐに自分で気づいたのか、彼は息を吐いて声を整えた。
「開けるなら、開け方を考える必要があるという意味です」
朽木は口を閉じた。
彼もまた疲れていた。
理屈で身を守る人間が、理屈の使えない状況に削られている。視線が何度も死者のいる方へ動き、そのたびに顔の筋肉がこわばる。
死が近すぎる。
館のどこにいても、誰かが死んだ場所から遠ざかれない。
「氷室さん」
真壁は訊いた。
「応接室へ別の入口は」
「ありません」
即答だった。
だが、その早さが気になった。
「本当に?」
「はい。少なくとも、私が知る限りは」
鳳がわずかに顔を上げた。
「“私が知る限り”」
氷室は鳳を見る。
「何ですか」
「この館では、その言い方は危険です」
氷室の顔が歪んだ。
「私は管理者です。この館のことなら――」
「知っているはずなのに、知らない場所がある」
鳳は静かに言った。
「それがこの館です」
氷室の喉が上下した。
怒りではない。
恐怖だった。
管理者である自分が、館を知らない。
その事実が、彼を芯から怯えさせている。
「古い施工図では、応接室の裏に保守用の空間があります」
鳳は図面の束から一枚を抜いた。
「現在の展示図面にはありません。ですが、壁厚が合わない。応接室の奥、暖炉の裏側に、人ひとりが通れるほどの空間がある可能性があります」
「そこから中へ?」
「入れるかもしれません。ただ、危険です」
「どう危険です」
「狭い。暗い。床が古い。さらに、犯人がその動線を知っているなら、罠を仕掛けている可能性がある」
二階堂が苦く笑った。
「安全な道、ひとつもないな」
「ありません」
鳳は即答した。
その正直さが、廊下にいた者たちの心をさらに削った。
安全はない。
この館では、どの選択も誰かを危険に近づける。
九条が小夜子の状態を見ながら言った。
「長時間ここに立たせるのも危険。小夜子さんは薬物の影響がある。鳴海さんも動けない。烏丸さんもいる」
「応接室が使えないなら」
二階堂が言った。
「どこに集める?」
答えはなかった。
食堂には葛城。
書庫には蓮見。
玄関広間には西園寺。
階段下には烏丸。
温室には鳴海の被害現場。
湖上回廊には瑠璃子の失踪。
館の中から、使える場所が消えていく。
部屋が一つずつ死んでいく。
「館が、閉じる」
氷室が呟いた。
自分の声で聞こえた言葉を、なぞるように。
「そういう意味だったのか……」
「何か心当たりが?」
真壁が問う。
氷室は顔を上げた。
「二十年前にも、同じような話がありました」
「同じ?」
「事件の夜、館の一部が使えなくなったと聞いています。扉が開かない。廊下が塞がる。灯りが消える。誰がどこにいるのかわからなくなる。だから、発見順が混乱したと」
「公式記録には?」
「ありません」
「なぜ」
氷室は言葉を詰まらせた。
真壁は一歩近づいた。
「なぜ、記録にない」
「混乱を避けるためだと……聞いています」
二階堂が低く言った。
「また出たね。混乱を避けるため」
氷室は目を伏せた。
「私は当時、まだ若くて、管理を引き継いだのは後です。詳しいことは」
「詳しくないのに、館を守ってきた?」
朽木が言った。
その声には、責めるような響きがあった。
「管理者でしょう。あなたが知らないなら、誰が知っているんです」
「私だって知りたい!」
氷室が叫んだ。
その叫びに、全員が息を止めた。
氷室の目は赤くなっていた。
「私は、守ってきたんです。この館を。事件のあと、皆が忌み嫌ったこの場所を、資料が残る場所として、記憶を残す場所として、壊さずに守ってきた。なのに……なのに、私の知らない扉がある。私の知らない声が出る。私の知らない灯が消える。私は何を守っていたんですか」
最後の言葉は、ほとんど泣き声だった。
管理者が、館に裏切られている。
その姿は見立てそのものだった。
館の管理者が、館を知らない。
館の管理者が、館に閉じ込められる。
第八灯。
真壁は奥歯を噛んだ。
犯人は氷室の心を先に折りに来ている。
殺す前に、役を着せる。
「氷室さん」
真壁は静かに言った。
「今は守る対象を変えてください」
「え……」
「館じゃない。生きている人間です」
氷室の顔が揺れた。
「あなたが知っていることを話す。それが今できる管理です」
氷室は黙った。
そして、小さく頷いた。
その瞬間だった。
応接室の向こうから、何かが倒れる音がした。
重い家具が床を擦る音。
そして、くぐもった呻き声。
今度は録音ではなかった。
真壁は直感した。
誰かが本当に中にいる。
「開ける」
真壁は言った。
「正面からは危険です」
鳳が止める。
「裏から行きます」
「案内を」
「僕が先に」
「だめだ」
真壁は即座に言った。
鳳は真壁を見る。
「なぜです」
「鳳さんを一人で裏導線に入れるわけにはいかない」
その言葉に、鳳はほんの少し目を伏せた。
疑われていることを、改めて受け取った顔だった。
「わかりました」
「俺と行く。二階堂はここで全員を押さえろ」
二階堂が頷く。
「了解」
「九条、小夜子さんと鳴海さんを」
「見てる。烏丸さんも気になるから、長くは無理」
「早く戻る」
「早くじゃなくて、生きて戻って」
九条の声は淡々としていた。
だが、真壁には、その淡々さの下にある焦りがわかった。
もう誰も、次に何が起こるかに耐えられる状態ではない。
死体は増え、怪我人は増え、失踪者は出て、声は奪われ、部屋は閉じていく。
全員が、次は自分だと思い始めている。
それが一番危険だった。
人間は、死の順番を待つようになると、自分で犯人の用意した席へ座ってしまう。
*
応接室の裏導線は、展示室の奥、壁掛け絵の裏にあった。
鳳が指をかけると、絵の額がわずかに浮いた。
額そのものが扉になっているわけではない。
額の裏の壁に、細い点検口が隠れていた。
「昔の暖炉設備の保守口です」
鳳は言った。
「煙道と壁内配管を確認するための空間だったはずです」
「人が通れるのか」
「ぎりぎりです」
「罠は」
「ある前提で」
真壁は小さく息を吐いた。
鳳は点検口を開いた。
中は暗かった。
埃っぽい空気が流れ出てくる。
古い木材と煤と湿気の匂い。
人が日常的に通る場所ではない。
だが、床の埃には筋があった。
誰かが通っている。
最近。
真壁はライトを向けた。
狭い通路が、壁の内側を横へ伸びている。
幅は肩がぎりぎり通る程度。
床は木板だが、ところどころ沈んでいる。
頭上には古い配管と電線。
蜘蛛の巣が破れている箇所があった。
鳳が先に入ろうとする。
真壁は肩を掴んで止めた。
「俺が先です」
「構造がわからないと危険です」
「犯人なら、構造がわかる人間を先に行かせたいかもしれない」
鳳は真壁を見た。
その目に、一瞬だけ痛みのようなものが浮かんだ。
「疑われるのは、仕方ありませんね」
「疑っています」
真壁ははっきり言った。
「でも、必要ともしています」
鳳は少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
「それは、なかなか厳しい評価ですね」
「すみません」
「いえ」
鳳は真顔に戻った。
「では、真壁さんが先に。右の壁に触れながら進んでください。左側は配管が古い。床の中央を踏まないで。端の根太に体重を乗せて」
「了解」
真壁は身体を横にして通路へ入った。
狭い。
肩が壁に擦れる。
埃が服に付く。
床板が体重を受けて低く鳴る。
ライトの光が、前方の闇を細く切る。
後ろから鳳が入ってくる。
「三メートル先に段差があります」
「見えるんですか」
「床板の高さが変わっています」
真壁は慎重に進んだ。
段差。
確かにあった。
床が十センチほど下がっている。知らずに進めば足を取られる。
さらに進むと、壁の向こうから声が聞こえた。
呻き声。
男の声。
「……開けるな……」
氷室の声。
だが今度は、録音ではない。
声がかすれている。
息が混じっている。
苦痛がある。
「氷室さん?」
真壁が声をかける。
壁の向こうで、息を呑む気配があった。
「誰……」
「真壁です」
「真壁さん……?」
「今、応接室の裏にいます。あなたはどこにいる」
「わからない……暗い……狭い……」
真壁は眉を寄せた。
氷室本人は廊下にいたはずだ。
いや、違う。
廊下にいた氷室は、いつから氷室だった。
真壁の背筋が冷えた。
さっき廊下にいた氷室。
顔色を失い、自分の声に怯えていた男。
あれは本当に氷室圭吾だったのか。
声。
名前。
見た目。
館は全部を曖昧にする。
「鳳さん」
真壁は低く言った。
「廊下にいた氷室さんを、誰か確認したか」
後ろの鳳が息を止めた。
「顔は見ました」
「顔だけか」
「声も。ですが……」
「録音がある。声は信用できない」
「まさか」
鳳の声に初めて揺れが出た。
「入れ替わり?」
「まだ決めない」
真壁は壁の向こうへ声を向ける。
「氷室さん。あなたはいつ応接室に入りました」
「応接室……? 違う……私は、管理室に……船の鍵を確認しに……」
「管理室?」
「二階堂さんに言われて……いや、違う。誰かに……私の声で……」
氷室の呼吸が荒くなる。
「私の声で、管理室へ来いと……」
真壁は歯を食いしばった。
録音。
声。
誘導。
氷室は自分の声に呼ばれて動いた。
館の管理者が、館の中で自分自身に誘導された。
「そのあと」
「暗い通路に……扉が閉まって……息が……」
声が途切れる。
重い咳。
真壁は前方を照らす。
狭い通路の先に、小さな格子があった。
換気口のようなもの。
向こう側に空間がある。
鳳が言った。
「暖炉裏の空間です。応接室の壁内にある」
「開けられるか」
「格子の固定具を外せば。ただし、周囲が脆い」
「やる」
真壁は格子に近づいた。
その瞬間、足元の床板が沈んだ。
カチリ、と小さな音がした。
鳳が叫ぶ。
「止まって!」
真壁は動きを止めた。
通路の奥で、何かが落ちる音がした。
金属。
遅れて、壁の中から白い煙のようなものが漏れ始める。
「罠か」
真壁が言う。
「おそらく、粉塵か刺激性の煙です。戻ってください」
「氷室さんは」
「このままだと危険です!」
真壁はハンカチを口に当てた。
「氷室さん! 聞こえますか!」
向こうから咳き込む音。
「……苦し……」
「今開けます!」
鳳が背後から言った。
「真壁さん、右上の固定具です! 左は触らないでください。配管と連動しているかもしれない」
「右上」
真壁はライトを口にくわえ、ハンカチ越しに固定具へ手を伸ばした。
錆びている。
動かない。
力を入れる。
指先に痛みが走る。
固定具がわずかに緩む。
白い煙が濃くなる。
目が痛い。
喉が焼けるように熱い。
「真壁さん、下がって!」
鳳の声。
「まだだ!」
真壁はさらに力を込めた。
固定具が外れた。
格子が内側へ落ちる。
向こう側に、人の腕が見えた。
血がついている。
「氷室さん!」
真壁は腕を掴んだ。
氷室は狭い空間に押し込められていた。
応接室の暖炉裏、点検用の空洞。
身体を折り曲げるように閉じ込められ、腕と額に傷がある。
口元に布を巻かれていたが、ずれている。
目は血走り、呼吸は荒い。
生きている。
だが、長くは持たない。
「引き出します!」
真壁は叫んだ。
鳳が背後から支える。
「肩からです! 首を曲げすぎないで!」
真壁は氷室の腕を引く。
氷室が呻く。
狭い格子の縁に肩が引っかかる。
血が滲む。
「痛い……痛い……」
「我慢してください」
「無理だ、狭い、息が……」
氷室の声は子どものようだった。
館の管理者の声ではなかった。
死の恐怖に削られた、生身の人間の声だった。
「引きます!」
真壁は歯を食いしばり、さらに力を込めた。
氷室の身体が格子から抜けた。
狭い壁内通路へ崩れ込む。
同時に、奥の空間で何かが作動した。
応接室側から、重い音。
家具が倒れる音。
そしてモニターの起動音。
赤い光が、壁の隙間から漏れた。
廊下の方で、二階堂の声が響く。
「真壁! 第八灯が消えた!」
真壁は氷室を支えながら、壁内通路の中で顔を上げた。
外の灯が消えたのは見えない。
だが、わかった。
第八灯。
館の管理者が、館に閉じ込められる。
氷室圭吾。
モニターが、おそらくその名を表示している。
そして案の定、応接室側のスピーカーから声が流れた。
――やっつ灯して、館を閉じる。
白い文字が浮かんでいるのだろう。
見えなくても、もうわかる。
――氷室圭吾。
――第八灯、消灯。
続いて、平坦な音声。
――守る者は、守った壁に食われる。
氷室が、その言葉を聞いた。
彼の身体が震えた。
「やめてくれ……」
血と埃で汚れた顔が歪む。
「私は、守ったんだ……私は……館を……」
「違う」
真壁は低く言った。
「今はあなたを助ける」
「私は……何も知らなかった……本当に……」
「それは後で聞く」
「信じてください……私は、鍵を……船の鍵を……」
氷室の手が震えながら、ジャケットの内側へ動いた。
真壁は止めようとした。
だが氷室は、血まみれの指で小さなものを取り出した。
鍵だった。
金属の小さな鍵。
船のものか。
管理室のものか。
いや、もっと古い。
真鍮の札がついている。
札には、かすれた文字で書かれていた。
――第七保管室。
真壁の目が細くなる。
「これは」
「管理室の金庫には……ありませんでした……壁の中に……私の手元に……握らされて……」
「誰に」
氷室は首を振った。
「暗くて……声だけが……私の声で……」
「何と言った」
氷室の目が、恐怖で見開かれる。
「開けるな」
「ほかには」
「第七名を、出すな、と」
真壁は息を止めた。
第七名。
少女。
記録ナシ。
名前を呼ぶな。
そして第七保管室。
消えた名前の保管場所。
犯人は、鍵を氷室に握らせた。
館の管理者に。
知らないはずの秘密の鍵を。
つまり、次に疑われるのは氷室だ。
氷室は被害者であり、秘密の鍵を持つ者になった。
まただ。
被害者に、罪の名前を置く。
「真壁さん!」
鳳が咳き込みながら言った。
「ここを出ます。煙が濃い」
「氷室さんを運ぶ」
「僕が後ろを支えます」
二人で氷室を壁内通路から引きずるように戻した。
狭い通路を戻る間、氷室は何度も「開けるな」と呟いた。
自分の声に怯え、自分の知らない鍵に怯え、館の壁に触れるたびに身体を震わせた。
鳳も咳き込んでいた。
埃と煙で目が赤い。
それでも彼は、床の危険な場所を示し、真壁と氷室を導いた。
疑われている男が、一番正確に生きる道を示している。
真壁は、そのことを苦く思った。
*
廊下へ戻ると、空気がまるで違った。
広い。
明るい。
だが安全ではない。
二階堂が駆け寄ってくる。
「氷室さん!」
「生きてる。九条!」
九条がすぐに来た。
小夜子は壁際で座り込み、声のないまま泣いていた。
鳴海は意識を保っているが、青白い顔でこちらを見ている。
朽木は顔を強張らせ、応接室の扉を見つめていた。
氷室を床へ横たえる。
九条がすぐに状態を見る。
「意識あり。呼吸は荒い。煙を吸ってる。腕と額に裂創。肋骨も痛めてるかもしれない」
「命は」
「今すぐではない。でも、これ以上続くと全員危ない」
九条の声が硬い。
それは医師としての限界を超え始めている声だった。
助けたい人間が増える。
処置できる道具はない。
外へ連絡できない。
船の鍵もない。
怪我人を移せない。
死体を守れない。
現場を守れない。
人間を守れない。
九条は、そのすべてを一人で背負わされている。
「九条」
真壁が呼ぶ。
「何」
「優先順位を決めろ」
九条は一瞬だけ真壁を見た。
厳しい言葉だった。
だが必要だった。
「烏丸さん。氷室さん。小夜子さん。鳴海さん」
「順に」
「烏丸さんは動かせないが呼吸は保ってる。氷室さんは煙と外傷。小夜子さんは薬物症状と失声。鳴海さんは意識回復傾向」
「一番危ないのは」
「烏丸さんと氷室さん」
「わかった」
真壁は二階堂を見る。
「応接室は」
「開いた。中は無人。家具で塞がれてた。モニターもあった」
「表示は」
二階堂は苦い顔をした。
「予想通り」
真壁は応接室を見た。
赤いモニター。
――やっつ灯して、館を閉じる。
――氷室圭吾。
――第八灯、消灯。
――守る者は、守った壁に食われる。
氷室はその文字を見ないように顔を背けた。
だが、見なくても聞いている。
自分がどう見立てられたかを。
誰よりもよく。
「氷室さん」
真壁は床に膝をついた。
「この鍵に心当たりは」
氷室は震える目で鍵を見る。
「ありません」
「第七保管室は」
「知りません」
「本当に?」
「本当に……」
氷室の声がひび割れる。
「もう、わからないんです。自分が何を知っていて、何を知らないのかも。館のどこが本物で、どこが隠されているのかも。私は管理者なのに……」
「知らないことは罪じゃない」
真壁は言った。
「でも、知らないことを隠すのは罪になります」
氷室の目に涙が浮かんだ。
「隠していたわけでは……」
「なら、今から全部出してください」
氷室は震えながら頷いた。
「第七保管室という名前は、聞いたことがありません。ただ……」
「ただ?」
「二十年前、事件後に一部の資料が“別保管”になったと聞いたことがあります」
二階堂が反応する。
「別保管?」
「公開資料にも、館内の通常書庫にも入れられないもの。身元確認に関するもの。家名に関わるもの。未成年者に関するもの」
「少女」
鳴海が、かすれた声で言った。
全員が鳴海を見る。
鳴海は壁に背を預けていた。
まだ顔色は悪い。
だが目は、先ほどよりはっきりしていた。
「第七保管室は、少女の資料を隠した場所です」
廊下の空気が止まった。
真壁は鳴海を見る。
「知っていたんですね」
鳴海は目を伏せる。
「名前までは、知りませんでした」
二階堂が静かに言う。
「“名前までは”」
鳴海の肩が震えた。
「でも、場所は知っていた」
「……資料の断片だけです。第七保管室という言葉が、古いリストに残っていました」
「なぜ黙っていた」
鳴海は答えない。
答えられないのか。
答えたくないのか。
その沈黙を破ったのは、朽木だった。
「あなたが隠したんですか」
鳴海は顔を上げる。
「違います」
「では、誰が」
「知りません」
「都合がいいですね」
朽木の声が鋭くなった。
彼も限界だった。
死者が増え、怪我人が増え、閉じ込められ、通信を絶たれ、自分もいつ名を呼ばれるかわからない。
理性の表面が剥がれ、恐怖が刃になって他人へ向かう。
「資料担当者が知らない。管理者も知らない。建築の専門家だけが道を見つける。警察関係者は次々と現場を仕切る。いったい誰を信じろと言うんです」
小夜子が声もなく泣く。
氷室が震える。
鳴海が俯く。
二階堂の顔が硬くなる。
鳳は何も言わない。
九条は処置を続ける。
真壁は、その全員を見た。
ここで崩れる。
疑心暗鬼は、犯人の道具だ。
恐怖は、次の被害者を自分で歩かせる。
「誰も信じなくていい」
真壁は言った。
朽木が目を見開く。
「何ですって」
「信じなくていい。今必要なのは信頼じゃない。確認です」
真壁は廊下の全員を見渡した。
「見たものを確認する。聞いた声を確認する。触ったものを確認する。誰がどこにいたか確認する。名前を置く前に、順番を確認する。それだけです」
二階堂が小さく息を吐いた。
その息に、わずかな安堵が混じっていた。
真壁は続ける。
「犯人は、俺たちを信じさせたいんじゃない。疑わせたいんです。鳳さんを疑わせ、二階堂を疑わせ、鳴海さんを疑わせ、氷室さんを疑わせる。疑いを置いて、俺たちにそれを拾わせる」
「では、犯人は誰なんです」
朽木が言った。
「まだ置かない」
「またそれですか」
「そうです」
真壁は低く言った。
「死体より先に、名前を置かない」
朽木は黙った。
その瞬間、館内のすべてのモニターが一斉に赤く点いた。
玄関広間。
応接室。
温室。
湖上回廊。
食堂。
見える範囲の画面が、同じ色に染まる。
生存者たちは、思わず身を縮めた。
小夜子は耳を塞ぐ。
氷室は目を閉じる。
鳴海は息を詰める。
二階堂は唇を噛む。
九条でさえ、処置の手を一瞬止めた。
画面に、白い文字が浮かぶ。
――残り、四灯。
続いて。
――建物は、まだ読まれていない。
鳳の顔から、血の気が引いた。
真壁は鳳を見る。
鳳はゆっくり画面を見上げた。
赤い光が、その横顔を照らしている。
次の名は、まだ表示されていない。
だが、全員がわかってしまった。
第九灯。
ここのつ灯して、建物を疑う。
鳳恭介。
建物を読む男。
犯人に最も近く見える男。
鳳は、静かに目を閉じた。
「来ますね」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、痛かった。
二階堂が言った。
「鳳さん」
鳳は小さく笑った。
「大丈夫です」
真壁はその笑みを見て、違うと思った。
大丈夫な人間の顔ではない。
大丈夫に見せることに慣れた人間の顔だった。
この館は、とうとう鳳の名前を置き始めた。
生存者たちは、もう誰も声を出さなかった。
死の恐怖は、叫び声の段階を過ぎていた。
次は自分かもしれない。
その思いだけが、赤い光の中で、一人ひとりの喉を塞いでいた。
真壁は、鳳の前に立った。
「まだです」
鳳が目を開ける。
「何がですか」
「まだ、あなたの名前は置かせない」
モニターの赤が、また一段強くなった。
館が笑っているように見えた。
だが真壁は、画面を見なかった。
見るべきものは、赤い文字ではない。
その文字を置いた人間だ。
どこかで、この場を見ているかもしれない人間。
あるいは、すでに仕掛けを終え、生存者たちが勝手に壊れていくのを待っている人間。
真壁は低く言った。
「次は、建物じゃない。建物を疑わせようとしている人間を見る」
外では、八つ目の灯が消えていた。
湖面には、消えた灯の反射がまだ揺れていた。
生きている者たちの顔にも、その赤が映っている。
誰もが、もう自分の顔を失いかけていた。
十二灯館は、残り四つの灯を残して、ようやく本当に閉じ始めた。




