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十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


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第九章 やっつ灯して、館を閉じる

 館は、人を守るために建てられる。

 雨を避ける。

 風を防ぐ。

 夜を締め出す。

 外敵から身を隠す。

 壁とは本来、こちら側の命を守るためにある。

 扉とは本来、危険を選別するためにある。

 鍵とは本来、誰かを拒むためにある。

 だが十二灯館では、すべてが逆だった。

 壁は人を迷わせるためにあり、扉は人を閉じ込めるためにあり、鍵は助けへ向かう道を塞ぐためにあった。

 そして館の管理者である氷室圭吾は、自分が守ってきたはずの館に、食われかけていた。

     *

「開けるな。館が、閉じる」

 応接室の向こうから聞こえたのは、氷室圭吾の声だった。

 だが氷室本人は、真壁彰のすぐ後ろにいた。

 顔色を失い、唇を震わせ、自分の喉に手を当てている。

 自分の声が、自分の身体の外から聞こえるという異常に、彼の理解が追いついていなかった。

「今の……私の声です」

 氷室は言った。

 その言葉が、廊下の空気をさらに冷やした。

 神楽坂小夜子は、二階堂壮也に支えられたまま立っていた。

 声を奪われ、喉を押さえ、涙で濡れた目を大きく開いている。何かを訴えようとしても、息だけが漏れる。

 鳴海栞は温室で意識を戻したものの、まだ立てない。

 白い花の匂いと薬剤の影響を引きずり、九条雅紀が何度も呼吸を確認していた。

 烏丸鏡花は階段下にいる。

 動かせない。

 落下ではなく、落とされたように見せられた重傷者。

 御子柴瑠璃子は消えたまま。

 死者は三人。

 西園寺雅治。

 葛城慎一郎。

 蓮見詩穂。

 生きている者は、まだ生きているというだけで、もう無傷ではなかった。

 誰もが少しずつ壊れていた。

 氷室は自分の声に怯え、小夜子は自分の声を奪われ、二階堂は自分の言葉が犯人に使われる恐怖を抱え、九条は死体と生存者の間で引き裂かれ、鳳恭介は建物を読むたびに犯人へ近づいていく。

 そして真壁は、全員の恐怖が、犯人の用意した順番に流し込まれていくのを見ていた。

「氷室さん」

 真壁は声を低くした。

「応接室の中に、誰かいる心当たりは」

 氷室は首を振った。

「ありません。応接室は、今夜は使っていません。鍵も……」

「鍵は?」

「管理室にあります。ただ、応接室は通常、内側から施錠できません。来客用の部屋ですから」

「では、向こうから押さえている」

 鳳が扉の隙間を見ながら言った。

 彼は扉に触れない。

 床。

 蝶番。

 取っ手。

 隙間。

 壁の厚み。

 上枠の歪み。

 それらを見ている。

「真壁さん。この扉、内側から単純に押さえているだけではありません」

「どういう意味です」

「扉の下端が、わずかに浮いている。内側に何か噛ませています。さらに、向こう側で重い家具が当たっている可能性がある」

「バリケードか」

「はい。ただし、急いで作ったものではない」

 二階堂が顔を上げる。

「また事前準備?」

「おそらく」

 鳳の声は、いつもより硬かった。

「応接室を安全地帯にしようとした瞬間、使えない状態になった。偶然ではありません」

「犯人は、俺たちがここを選ぶと読んでいた」

 真壁が言う。

「窓が少なく、反射が少ない。声と映像の錯覚を避けるなら、自然にこの部屋を選ぶ」

 鳳は頷いた。

「そして、その部屋を閉じた」

 廊下の奥で、館が軋んだ。

 木材が寒さで縮むような音。

 だが今は、館そのものが息をしているように聞こえた。

「開けますか」

 朽木怜二が言った。

 これまで冷静を保っていた男の声にも、薄い焦りが混じっている。

「中に人がいるなら、助けるべきです」

「その声が録音なら?」

 二階堂が言った。

「開けた瞬間、別の罠が動くかもしれない」

「では、放置するのですか」

「そうは言ってない」

 二階堂の声が少し荒くなった。

 すぐに自分で気づいたのか、彼は息を吐いて声を整えた。

「開けるなら、開け方を考える必要があるという意味です」

 朽木は口を閉じた。

 彼もまた疲れていた。

 理屈で身を守る人間が、理屈の使えない状況に削られている。視線が何度も死者のいる方へ動き、そのたびに顔の筋肉がこわばる。

 死が近すぎる。

 館のどこにいても、誰かが死んだ場所から遠ざかれない。

「氷室さん」

 真壁は訊いた。

「応接室へ別の入口は」

「ありません」

 即答だった。

 だが、その早さが気になった。

「本当に?」

「はい。少なくとも、私が知る限りは」

 鳳がわずかに顔を上げた。

「“私が知る限り”」

 氷室は鳳を見る。

「何ですか」

「この館では、その言い方は危険です」

 氷室の顔が歪んだ。

「私は管理者です。この館のことなら――」

「知っているはずなのに、知らない場所がある」

 鳳は静かに言った。

「それがこの館です」

 氷室の喉が上下した。

 怒りではない。

 恐怖だった。

 管理者である自分が、館を知らない。

 その事実が、彼を芯から怯えさせている。

「古い施工図では、応接室の裏に保守用の空間があります」

 鳳は図面の束から一枚を抜いた。

「現在の展示図面にはありません。ですが、壁厚が合わない。応接室の奥、暖炉の裏側に、人ひとりが通れるほどの空間がある可能性があります」

「そこから中へ?」

「入れるかもしれません。ただ、危険です」

「どう危険です」

「狭い。暗い。床が古い。さらに、犯人がその動線を知っているなら、罠を仕掛けている可能性がある」

 二階堂が苦く笑った。

「安全な道、ひとつもないな」

「ありません」

 鳳は即答した。

 その正直さが、廊下にいた者たちの心をさらに削った。

 安全はない。

 この館では、どの選択も誰かを危険に近づける。

 九条が小夜子の状態を見ながら言った。

「長時間ここに立たせるのも危険。小夜子さんは薬物の影響がある。鳴海さんも動けない。烏丸さんもいる」

「応接室が使えないなら」

 二階堂が言った。

「どこに集める?」

 答えはなかった。

 食堂には葛城。

 書庫には蓮見。

 玄関広間には西園寺。

 階段下には烏丸。

 温室には鳴海の被害現場。

 湖上回廊には瑠璃子の失踪。

 館の中から、使える場所が消えていく。

 部屋が一つずつ死んでいく。

「館が、閉じる」

 氷室が呟いた。

 自分の声で聞こえた言葉を、なぞるように。

「そういう意味だったのか……」

「何か心当たりが?」

 真壁が問う。

 氷室は顔を上げた。

「二十年前にも、同じような話がありました」

「同じ?」

「事件の夜、館の一部が使えなくなったと聞いています。扉が開かない。廊下が塞がる。灯りが消える。誰がどこにいるのかわからなくなる。だから、発見順が混乱したと」

「公式記録には?」

「ありません」

「なぜ」

 氷室は言葉を詰まらせた。

 真壁は一歩近づいた。

「なぜ、記録にない」

「混乱を避けるためだと……聞いています」

 二階堂が低く言った。

「また出たね。混乱を避けるため」

 氷室は目を伏せた。

「私は当時、まだ若くて、管理を引き継いだのは後です。詳しいことは」

「詳しくないのに、館を守ってきた?」

 朽木が言った。

 その声には、責めるような響きがあった。

「管理者でしょう。あなたが知らないなら、誰が知っているんです」

「私だって知りたい!」

 氷室が叫んだ。

 その叫びに、全員が息を止めた。

 氷室の目は赤くなっていた。

「私は、守ってきたんです。この館を。事件のあと、皆が忌み嫌ったこの場所を、資料が残る場所として、記憶を残す場所として、壊さずに守ってきた。なのに……なのに、私の知らない扉がある。私の知らない声が出る。私の知らない灯が消える。私は何を守っていたんですか」

 最後の言葉は、ほとんど泣き声だった。

 管理者が、館に裏切られている。

 その姿は見立てそのものだった。

 館の管理者が、館を知らない。

 館の管理者が、館に閉じ込められる。

 第八灯。

 真壁は奥歯を噛んだ。

 犯人は氷室の心を先に折りに来ている。

 殺す前に、役を着せる。

「氷室さん」

 真壁は静かに言った。

「今は守る対象を変えてください」

「え……」

「館じゃない。生きている人間です」

 氷室の顔が揺れた。

「あなたが知っていることを話す。それが今できる管理です」

 氷室は黙った。

 そして、小さく頷いた。

 その瞬間だった。

 応接室の向こうから、何かが倒れる音がした。

 重い家具が床を擦る音。

 そして、くぐもった呻き声。

 今度は録音ではなかった。

 真壁は直感した。

 誰かが本当に中にいる。

「開ける」

 真壁は言った。

「正面からは危険です」

 鳳が止める。

「裏から行きます」

「案内を」

「僕が先に」

「だめだ」

 真壁は即座に言った。

 鳳は真壁を見る。

「なぜです」

「鳳さんを一人で裏導線に入れるわけにはいかない」

 その言葉に、鳳はほんの少し目を伏せた。

 疑われていることを、改めて受け取った顔だった。

「わかりました」

「俺と行く。二階堂はここで全員を押さえろ」

 二階堂が頷く。

「了解」

「九条、小夜子さんと鳴海さんを」

「見てる。烏丸さんも気になるから、長くは無理」

「早く戻る」

「早くじゃなくて、生きて戻って」

 九条の声は淡々としていた。

 だが、真壁には、その淡々さの下にある焦りがわかった。

 もう誰も、次に何が起こるかに耐えられる状態ではない。

 死体は増え、怪我人は増え、失踪者は出て、声は奪われ、部屋は閉じていく。

 全員が、次は自分だと思い始めている。

 それが一番危険だった。

 人間は、死の順番を待つようになると、自分で犯人の用意した席へ座ってしまう。

     *

 応接室の裏導線は、展示室の奥、壁掛け絵の裏にあった。

 鳳が指をかけると、絵の額がわずかに浮いた。

 額そのものが扉になっているわけではない。

 額の裏の壁に、細い点検口が隠れていた。

「昔の暖炉設備の保守口です」

 鳳は言った。

「煙道と壁内配管を確認するための空間だったはずです」

「人が通れるのか」

「ぎりぎりです」

「罠は」

「ある前提で」

 真壁は小さく息を吐いた。

 鳳は点検口を開いた。

 中は暗かった。

 埃っぽい空気が流れ出てくる。

 古い木材と煤と湿気の匂い。

 人が日常的に通る場所ではない。

 だが、床の埃には筋があった。

 誰かが通っている。

 最近。

 真壁はライトを向けた。

 狭い通路が、壁の内側を横へ伸びている。

 幅は肩がぎりぎり通る程度。

 床は木板だが、ところどころ沈んでいる。

 頭上には古い配管と電線。

 蜘蛛の巣が破れている箇所があった。

 鳳が先に入ろうとする。

 真壁は肩を掴んで止めた。

「俺が先です」

「構造がわからないと危険です」

「犯人なら、構造がわかる人間を先に行かせたいかもしれない」

 鳳は真壁を見た。

 その目に、一瞬だけ痛みのようなものが浮かんだ。

「疑われるのは、仕方ありませんね」

「疑っています」

 真壁ははっきり言った。

「でも、必要ともしています」

 鳳は少しだけ笑った。

 疲れた笑みだった。

「それは、なかなか厳しい評価ですね」

「すみません」

「いえ」

 鳳は真顔に戻った。

「では、真壁さんが先に。右の壁に触れながら進んでください。左側は配管が古い。床の中央を踏まないで。端の根太に体重を乗せて」

「了解」

 真壁は身体を横にして通路へ入った。

 狭い。

 肩が壁に擦れる。

 埃が服に付く。

 床板が体重を受けて低く鳴る。

 ライトの光が、前方の闇を細く切る。

 後ろから鳳が入ってくる。

「三メートル先に段差があります」

「見えるんですか」

「床板の高さが変わっています」

 真壁は慎重に進んだ。

 段差。

 確かにあった。

 床が十センチほど下がっている。知らずに進めば足を取られる。

 さらに進むと、壁の向こうから声が聞こえた。

 呻き声。

 男の声。

「……開けるな……」

 氷室の声。

 だが今度は、録音ではない。

 声がかすれている。

 息が混じっている。

 苦痛がある。

「氷室さん?」

 真壁が声をかける。

 壁の向こうで、息を呑む気配があった。

「誰……」

「真壁です」

「真壁さん……?」

「今、応接室の裏にいます。あなたはどこにいる」

「わからない……暗い……狭い……」

 真壁は眉を寄せた。

 氷室本人は廊下にいたはずだ。

 いや、違う。

 廊下にいた氷室は、いつから氷室だった。

 真壁の背筋が冷えた。

 さっき廊下にいた氷室。

 顔色を失い、自分の声に怯えていた男。

 あれは本当に氷室圭吾だったのか。

 声。

 名前。

 見た目。

 館は全部を曖昧にする。

「鳳さん」

 真壁は低く言った。

「廊下にいた氷室さんを、誰か確認したか」

 後ろの鳳が息を止めた。

「顔は見ました」

「顔だけか」

「声も。ですが……」

「録音がある。声は信用できない」

「まさか」

 鳳の声に初めて揺れが出た。

「入れ替わり?」

「まだ決めない」

 真壁は壁の向こうへ声を向ける。

「氷室さん。あなたはいつ応接室に入りました」

「応接室……? 違う……私は、管理室に……船の鍵を確認しに……」

「管理室?」

「二階堂さんに言われて……いや、違う。誰かに……私の声で……」

 氷室の呼吸が荒くなる。

「私の声で、管理室へ来いと……」

 真壁は歯を食いしばった。

 録音。

 声。

 誘導。

 氷室は自分の声に呼ばれて動いた。

 館の管理者が、館の中で自分自身に誘導された。

「そのあと」

「暗い通路に……扉が閉まって……息が……」

 声が途切れる。

 重い咳。

 真壁は前方を照らす。

 狭い通路の先に、小さな格子があった。

 換気口のようなもの。

 向こう側に空間がある。

 鳳が言った。

「暖炉裏の空間です。応接室の壁内にある」

「開けられるか」

「格子の固定具を外せば。ただし、周囲が脆い」

「やる」

 真壁は格子に近づいた。

 その瞬間、足元の床板が沈んだ。

 カチリ、と小さな音がした。

 鳳が叫ぶ。

「止まって!」

 真壁は動きを止めた。

 通路の奥で、何かが落ちる音がした。

 金属。

 遅れて、壁の中から白い煙のようなものが漏れ始める。

「罠か」

 真壁が言う。

「おそらく、粉塵か刺激性の煙です。戻ってください」

「氷室さんは」

「このままだと危険です!」

 真壁はハンカチを口に当てた。

「氷室さん! 聞こえますか!」

 向こうから咳き込む音。

「……苦し……」

「今開けます!」

 鳳が背後から言った。

「真壁さん、右上の固定具です! 左は触らないでください。配管と連動しているかもしれない」

「右上」

 真壁はライトを口にくわえ、ハンカチ越しに固定具へ手を伸ばした。

 錆びている。

 動かない。

 力を入れる。

 指先に痛みが走る。

 固定具がわずかに緩む。

 白い煙が濃くなる。

 目が痛い。

 喉が焼けるように熱い。

「真壁さん、下がって!」

 鳳の声。

「まだだ!」

 真壁はさらに力を込めた。

 固定具が外れた。

 格子が内側へ落ちる。

 向こう側に、人の腕が見えた。

 血がついている。

「氷室さん!」

 真壁は腕を掴んだ。

 氷室は狭い空間に押し込められていた。

 応接室の暖炉裏、点検用の空洞。

 身体を折り曲げるように閉じ込められ、腕と額に傷がある。

 口元に布を巻かれていたが、ずれている。

 目は血走り、呼吸は荒い。

 生きている。

 だが、長くは持たない。

「引き出します!」

 真壁は叫んだ。

 鳳が背後から支える。

「肩からです! 首を曲げすぎないで!」

 真壁は氷室の腕を引く。

 氷室が呻く。

 狭い格子の縁に肩が引っかかる。

 血が滲む。

「痛い……痛い……」

「我慢してください」

「無理だ、狭い、息が……」

 氷室の声は子どものようだった。

 館の管理者の声ではなかった。

 死の恐怖に削られた、生身の人間の声だった。

「引きます!」

 真壁は歯を食いしばり、さらに力を込めた。

 氷室の身体が格子から抜けた。

 狭い壁内通路へ崩れ込む。

 同時に、奥の空間で何かが作動した。

 応接室側から、重い音。

 家具が倒れる音。

 そしてモニターの起動音。

 赤い光が、壁の隙間から漏れた。

 廊下の方で、二階堂の声が響く。

「真壁! 第八灯が消えた!」

 真壁は氷室を支えながら、壁内通路の中で顔を上げた。

 外の灯が消えたのは見えない。

 だが、わかった。

 第八灯。

 館の管理者が、館に閉じ込められる。

 氷室圭吾。

 モニターが、おそらくその名を表示している。

 そして案の定、応接室側のスピーカーから声が流れた。

 ――やっつ灯して、館を閉じる。

 白い文字が浮かんでいるのだろう。

 見えなくても、もうわかる。

 ――氷室圭吾。

 ――第八灯、消灯。

 続いて、平坦な音声。

 ――守る者は、守った壁に食われる。

 氷室が、その言葉を聞いた。

 彼の身体が震えた。

「やめてくれ……」

 血と埃で汚れた顔が歪む。

「私は、守ったんだ……私は……館を……」

「違う」

 真壁は低く言った。

「今はあなたを助ける」

「私は……何も知らなかった……本当に……」

「それは後で聞く」

「信じてください……私は、鍵を……船の鍵を……」

 氷室の手が震えながら、ジャケットの内側へ動いた。

 真壁は止めようとした。

 だが氷室は、血まみれの指で小さなものを取り出した。

 鍵だった。

 金属の小さな鍵。

 船のものか。

 管理室のものか。

 いや、もっと古い。

 真鍮の札がついている。

 札には、かすれた文字で書かれていた。

 ――第七保管室。

 真壁の目が細くなる。

「これは」

「管理室の金庫には……ありませんでした……壁の中に……私の手元に……握らされて……」

「誰に」

 氷室は首を振った。

「暗くて……声だけが……私の声で……」

「何と言った」

 氷室の目が、恐怖で見開かれる。

「開けるな」

「ほかには」

「第七名を、出すな、と」

 真壁は息を止めた。

 第七名。

 少女。

 記録ナシ。

 名前を呼ぶな。

 そして第七保管室。

 消えた名前の保管場所。

 犯人は、鍵を氷室に握らせた。

 館の管理者に。

 知らないはずの秘密の鍵を。

 つまり、次に疑われるのは氷室だ。

 氷室は被害者であり、秘密の鍵を持つ者になった。

 まただ。

 被害者に、罪の名前を置く。

「真壁さん!」

 鳳が咳き込みながら言った。

「ここを出ます。煙が濃い」

「氷室さんを運ぶ」

「僕が後ろを支えます」

 二人で氷室を壁内通路から引きずるように戻した。

 狭い通路を戻る間、氷室は何度も「開けるな」と呟いた。

 自分の声に怯え、自分の知らない鍵に怯え、館の壁に触れるたびに身体を震わせた。

 鳳も咳き込んでいた。

 埃と煙で目が赤い。

 それでも彼は、床の危険な場所を示し、真壁と氷室を導いた。

 疑われている男が、一番正確に生きる道を示している。

 真壁は、そのことを苦く思った。

     *

 廊下へ戻ると、空気がまるで違った。

 広い。

 明るい。

 だが安全ではない。

 二階堂が駆け寄ってくる。

「氷室さん!」

「生きてる。九条!」

 九条がすぐに来た。

 小夜子は壁際で座り込み、声のないまま泣いていた。

 鳴海は意識を保っているが、青白い顔でこちらを見ている。

 朽木は顔を強張らせ、応接室の扉を見つめていた。

 氷室を床へ横たえる。

 九条がすぐに状態を見る。

「意識あり。呼吸は荒い。煙を吸ってる。腕と額に裂創。肋骨も痛めてるかもしれない」

「命は」

「今すぐではない。でも、これ以上続くと全員危ない」

 九条の声が硬い。

 それは医師としての限界を超え始めている声だった。

 助けたい人間が増える。

 処置できる道具はない。

 外へ連絡できない。

 船の鍵もない。

 怪我人を移せない。

 死体を守れない。

 現場を守れない。

 人間を守れない。

 九条は、そのすべてを一人で背負わされている。

「九条」

 真壁が呼ぶ。

「何」

「優先順位を決めろ」

 九条は一瞬だけ真壁を見た。

 厳しい言葉だった。

 だが必要だった。

「烏丸さん。氷室さん。小夜子さん。鳴海さん」

「順に」

「烏丸さんは動かせないが呼吸は保ってる。氷室さんは煙と外傷。小夜子さんは薬物症状と失声。鳴海さんは意識回復傾向」

「一番危ないのは」

「烏丸さんと氷室さん」

「わかった」

 真壁は二階堂を見る。

「応接室は」

「開いた。中は無人。家具で塞がれてた。モニターもあった」

「表示は」

 二階堂は苦い顔をした。

「予想通り」

 真壁は応接室を見た。

 赤いモニター。

 ――やっつ灯して、館を閉じる。

 ――氷室圭吾。

 ――第八灯、消灯。

 ――守る者は、守った壁に食われる。

 氷室はその文字を見ないように顔を背けた。

 だが、見なくても聞いている。

 自分がどう見立てられたかを。

 誰よりもよく。

「氷室さん」

 真壁は床に膝をついた。

「この鍵に心当たりは」

 氷室は震える目で鍵を見る。

「ありません」

「第七保管室は」

「知りません」

「本当に?」

「本当に……」

 氷室の声がひび割れる。

「もう、わからないんです。自分が何を知っていて、何を知らないのかも。館のどこが本物で、どこが隠されているのかも。私は管理者なのに……」

「知らないことは罪じゃない」

 真壁は言った。

「でも、知らないことを隠すのは罪になります」

 氷室の目に涙が浮かんだ。

「隠していたわけでは……」

「なら、今から全部出してください」

 氷室は震えながら頷いた。

「第七保管室という名前は、聞いたことがありません。ただ……」

「ただ?」

「二十年前、事件後に一部の資料が“別保管”になったと聞いたことがあります」

 二階堂が反応する。

「別保管?」

「公開資料にも、館内の通常書庫にも入れられないもの。身元確認に関するもの。家名に関わるもの。未成年者に関するもの」

「少女」

 鳴海が、かすれた声で言った。

 全員が鳴海を見る。

 鳴海は壁に背を預けていた。

 まだ顔色は悪い。

 だが目は、先ほどよりはっきりしていた。

「第七保管室は、少女の資料を隠した場所です」

 廊下の空気が止まった。

 真壁は鳴海を見る。

「知っていたんですね」

 鳴海は目を伏せる。

「名前までは、知りませんでした」

 二階堂が静かに言う。

「“名前までは”」

 鳴海の肩が震えた。

「でも、場所は知っていた」

「……資料の断片だけです。第七保管室という言葉が、古いリストに残っていました」

「なぜ黙っていた」

 鳴海は答えない。

 答えられないのか。

 答えたくないのか。

 その沈黙を破ったのは、朽木だった。

「あなたが隠したんですか」

 鳴海は顔を上げる。

「違います」

「では、誰が」

「知りません」

「都合がいいですね」

 朽木の声が鋭くなった。

 彼も限界だった。

 死者が増え、怪我人が増え、閉じ込められ、通信を絶たれ、自分もいつ名を呼ばれるかわからない。

 理性の表面が剥がれ、恐怖が刃になって他人へ向かう。

「資料担当者が知らない。管理者も知らない。建築の専門家だけが道を見つける。警察関係者は次々と現場を仕切る。いったい誰を信じろと言うんです」

 小夜子が声もなく泣く。

 氷室が震える。

 鳴海が俯く。

 二階堂の顔が硬くなる。

 鳳は何も言わない。

 九条は処置を続ける。

 真壁は、その全員を見た。

 ここで崩れる。

 疑心暗鬼は、犯人の道具だ。

 恐怖は、次の被害者を自分で歩かせる。

「誰も信じなくていい」

 真壁は言った。

 朽木が目を見開く。

「何ですって」

「信じなくていい。今必要なのは信頼じゃない。確認です」

 真壁は廊下の全員を見渡した。

「見たものを確認する。聞いた声を確認する。触ったものを確認する。誰がどこにいたか確認する。名前を置く前に、順番を確認する。それだけです」

 二階堂が小さく息を吐いた。

 その息に、わずかな安堵が混じっていた。

 真壁は続ける。

「犯人は、俺たちを信じさせたいんじゃない。疑わせたいんです。鳳さんを疑わせ、二階堂を疑わせ、鳴海さんを疑わせ、氷室さんを疑わせる。疑いを置いて、俺たちにそれを拾わせる」

「では、犯人は誰なんです」

 朽木が言った。

「まだ置かない」

「またそれですか」

「そうです」

 真壁は低く言った。

「死体より先に、名前を置かない」

 朽木は黙った。

 その瞬間、館内のすべてのモニターが一斉に赤く点いた。

 玄関広間。

 応接室。

 温室。

 湖上回廊。

 食堂。

 見える範囲の画面が、同じ色に染まる。

 生存者たちは、思わず身を縮めた。

 小夜子は耳を塞ぐ。

 氷室は目を閉じる。

 鳴海は息を詰める。

 二階堂は唇を噛む。

 九条でさえ、処置の手を一瞬止めた。

 画面に、白い文字が浮かぶ。

 ――残り、四灯。

 続いて。

 ――建物は、まだ読まれていない。

 鳳の顔から、血の気が引いた。

 真壁は鳳を見る。

 鳳はゆっくり画面を見上げた。

 赤い光が、その横顔を照らしている。

 次の名は、まだ表示されていない。

 だが、全員がわかってしまった。

 第九灯。

 ここのつ灯して、建物を疑う。

 鳳恭介。

 建物を読む男。

 犯人に最も近く見える男。

 鳳は、静かに目を閉じた。

「来ますね」

 その声は穏やかだった。

 穏やかすぎて、痛かった。

 二階堂が言った。

「鳳さん」

 鳳は小さく笑った。

「大丈夫です」

 真壁はその笑みを見て、違うと思った。

 大丈夫な人間の顔ではない。

 大丈夫に見せることに慣れた人間の顔だった。

 この館は、とうとう鳳の名前を置き始めた。

 生存者たちは、もう誰も声を出さなかった。

 死の恐怖は、叫び声の段階を過ぎていた。

 次は自分かもしれない。

 その思いだけが、赤い光の中で、一人ひとりの喉を塞いでいた。

 真壁は、鳳の前に立った。

「まだです」

 鳳が目を開ける。

「何がですか」

「まだ、あなたの名前は置かせない」

 モニターの赤が、また一段強くなった。

 館が笑っているように見えた。

 だが真壁は、画面を見なかった。

 見るべきものは、赤い文字ではない。

 その文字を置いた人間だ。

 どこかで、この場を見ているかもしれない人間。

 あるいは、すでに仕掛けを終え、生存者たちが勝手に壊れていくのを待っている人間。

 真壁は低く言った。

「次は、建物じゃない。建物を疑わせようとしている人間を見る」

 外では、八つ目の灯が消えていた。

 湖面には、消えた灯の反射がまだ揺れていた。

 生きている者たちの顔にも、その赤が映っている。

 誰もが、もう自分の顔を失いかけていた。

 十二灯館は、残り四つの灯を残して、ようやく本当に閉じ始めた。


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