第十章 ここのつ灯して、建物を疑う
建物は、人を疑わない。
人が中で何をしても、壁は口を挟まない。
廊下は足音を拒まない。
扉は、開ける者の善悪を選ばない。
階段は、上がる者と落ちる者を区別しない。
だから建物は残酷だ。
人を守ることもできる。
人を隠すこともできる。
人を殺すこともできる。
だが、建物そのものには罪がない。
罪を持つのは、建物に意味を与えた人間だ。
鳳恭介は、そういうことを知っている男だった。
だからこそ、その夜、十二灯館で最も犯人に近く見えた。
*
廊下のモニターには、赤い文字が残っていた。
――残り、四灯。
――建物は、まだ読まれていない。
その文字が表示された瞬間、生き残っている者たちは、ほとんど同時に鳳恭介を見た。
誰かがはっきりと名前を呼んだわけではない。
誰かが「次は鳳だ」と言ったわけでもない。
それでも視線は動いた。
氷室圭吾は床に横たわり、九条雅紀に処置されながら、怯えた目で鳳を見た。
神楽坂小夜子は声を奪われたまま、二階堂壮也の袖を掴んでいた。
喉を押さえる指先が震えている。
声を出せないからこそ、恐怖が目に溜まっていく。
鳴海栞は壁に背を預け、青白い顔でモニターと鳳を交互に見ていた。
朽木怜二は、唇を引き結んでいる。
理性の皮膜が薄くなり、その下にある恐怖と苛立ちが見え始めていた。
誰もが思っている。
鳳ならできる。
鏡の角度を読める。
床の傾きを読める。
裏導線を見つけられる。
隠し扉に気づく。
音がどこを通るかを知っている。
建物に嘘をつかせる方法を、誰よりも知っている。
その考えは、犯人が置いたものだった。
だが、置かれた疑いは、それでも疑いだった。
真壁彰は、鳳の前に立ったまま、全員の視線を受け止めていた。
「まだです」
彼は言った。
「まだ、鳳さんの名前は置かせない」
鳳は小さく息を吐いた。
「真壁さん」
「何です」
「それは、僕を信じるという意味ですか」
「違います」
真壁は即答した。
廊下の空気が揺れた。
二階堂がわずかに顔を上げる。
鳳は、少しだけ目を細めた。
「では?」
「信じる前に、確認します」
真壁は鳳を見た。
「あなたを疑います。でも、犯人が置いた形では疑わない」
鳳は、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、口元から力が抜けた。
「厳しいですね」
「今、優しくしても誰も助かりません」
「そうですね」
鳳は頷いた。
その顔は穏やかだった。
だが真壁にはわかった。
鳳も疲れている。
この男は、ずっと建物を読んできた。
玄関広間の鏡。
食堂の席。
階段の罠。
書庫の換気。
温室の空気。
湖上回廊の反射。
応接室の壁内通路。
犯人が仕掛けるたび、鳳はそれを解いた。
解いたから、疑われた。
有能さが、罪の形に見え始めている。
この館はそうやって人を削る。
人の武器を、人の傷に変える。
「鳳さん」
朽木が言った。
声は静かだったが、奥に震えがあった。
「確認させてください。あなたは、この館へ来たことがないとおっしゃいましたね」
「はい」
「本当に?」
「ありません」
「では、なぜそれほど詳しいのです」
鳳は朽木を見た。
「詳しいのではありません。見ているだけです」
「見ただけでわかる?」
「ある程度は」
朽木の口元が歪んだ。
「便利ですね」
二階堂が低く言った。
「朽木さん」
「何です」
「その言い方、今は危ない」
「危ない?」
「犯人が置いた疑いに、自分から形を与えてる」
「私は当然の疑問を口にしただけです」
「当然の疑問は、犯人にも使える」
朽木は黙った。
だが納得した顔ではなかった。
誰も納得などしていない。
全員が疲れ切っていた。
眠気ではない。
空腹でもない。
もっと根の深い疲労だった。
自分の足元が信用できない疲労。
自分の記憶が信用できない疲労。
自分の名前が、いつモニターに表示されるかわからない疲労。
死の恐怖は、もう鋭い悲鳴ではなくなっている。
今は、喉の奥に張りつく膜のようだった。
息を吸うたびに、少しずつ肺へ入ってくる。
九条が氷室の傷を押さえながら言った。
「全員、座った方がいい」
「どこに」
二階堂が訊いた。
九条は一瞬黙った。
その沈黙が、全員に現実を突きつけた。
座れる場所がない。
食堂には葛城の死体。
書庫には蓮見の死体。
玄関広間には西園寺の死体。
階段下には烏丸。
温室には鳴海の被害現場。
湖上回廊には瑠璃子の影。
応接室には氷室が閉じ込められた痕跡。
生きている者が身を休められる場所は、一つずつ殺されていった。
「床でもいい」
九条は言った。
「倒れるよりはいい」
小夜子がその言葉で、二階堂の袖をさらに強く掴んだ。
声は出ない。
けれど目が言っていた。
倒れたら、次は自分の名が置かれるのではないか。
二階堂は小夜子の肩に、布越しにそっと手を添えた。
「大丈夫です。座りましょう」
小夜子は頷く。
鳴海も壁にもたれて座り込む。
氷室は九条の処置を受けながら、荒い息をしている。
朽木だけは立っていた。
立っていることで、かろうじて自分を保っているように見えた。
鳳も立っていた。
真壁はそれを見た。
「鳳さんも座ってください」
「僕は」
「座ってください」
真壁の声に、わずかな命令が混じった。
鳳は何か言いかけて、やめた。
そして廊下の壁際に腰を下ろした。
そのときだった。
廊下の床が、低く鳴った。
ぎし、と。
誰も動いていない。
それなのに、床が鳴った。
全員が身を硬くする。
鳳が顔を上げた。
「今のは」
「床?」
二階堂が言った。
次の瞬間、廊下の灯りが一つ消えた。
外の十二灯ではない。
館内の壁灯だった。
廊下の奥から、順番に灯りが落ちていく。
一つ。
二つ。
三つ。
暗闇が、こちらへ歩いてくる。
小夜子が声のない悲鳴を上げた。
鳴海が壁にしがみつく。
氷室が「やめてくれ」と呻く。
朽木が一歩後ずさる。
二階堂が小夜子の前に立つ。
九条は処置の手を止めず、ただ顔を上げる。
真壁は、暗くなる廊下の奥を睨んだ。
「全員、動くな」
声を低く置く。
「何も踏むな。壁に触るな」
灯りがまた一つ消える。
暗闇が近づく。
そして、その暗闇の中から音がした。
鳳の声だった。
「真壁さん」
真壁は振り返った。
鳳は、まだ壁際に座っている。
声は、廊下の奥から聞こえた。
同じ声。
同じ高さ。
同じ穏やかさ。
「この建物は、まだ嘘をついています」
鳳本人が、青ざめた。
「僕の声です」
二階堂が低く呟く。
「録音か」
「おそらく」
鳳の声は、暗闇の中で続いた。
「正しい図面は、床の下にあります」
床の下。
真壁は足元を見る。
廊下の絨毯。
古い床板。
その下に、何かがある。
生存者全員の視線が床へ落ちる。
その瞬間、廊下の中央の床板が沈んだ。
大きな音ではなかった。
だが、人間の心を折るには十分だった。
床が、わずかに傾いた。
小夜子が滑りそうになる。
二階堂が支える。
鳴海が壁に手をつきかける。
真壁が叫んだ。
「壁に触るな!」
鳴海の手が止まる。
その直後、壁の中で金属が鳴った。
もし触れていたら、何かが作動していたのかもしれない。
鳴海はその場で震え崩れた。
「もう、嫌……」
彼女の声はかすれていた。
「もう、何も触れない……何も見たくない……」
誰も責めなかった。
全員が同じ気持ちだった。
触れたものが毒かもしれない。
見たものが罠かもしれない。
聞いた声が偽物かもしれない。
呼ばれた名前が、自分の死の宣告かもしれない。
人間は、こんなにも簡単に世界から締め出される。
「床が動いてる」
九条が言った。
氷室の側に膝をついたまま、廊下の傾きを見ている。
「少しずつ」
真壁も感じていた。
床が完全に崩れるほどではない。
だが、微妙に傾いている。
人間の平衡感覚を狂わせる程度に。
目ではわかりにくい。
だが身体はわかる。
足元が信用できない。
立っているだけで、胃の奥が落ち着かなくなる。
鳳が壁際から立ち上がろうとした。
真壁が制する。
「動くな」
「この床は、廊下全体が傾いています」
「わかるんですか」
「足裏で」
鳳の顔は青い。
「古い床の沈みではありません。人為的に、片側だけ下がっている」
「仕掛けか」
「はい。おそらく、床下のジャッキか、古い舞台装置のようなものを利用している。館の一部を傾ける仕掛けです」
氷室が掠れ声で言った。
「そんなもの……知らない……」
「でしょうね」
鳳は言った。
その声には、初めて怒りに近いものが混じった。
「これは管理用設備ではありません。見世物の装置です」
「見世物……」
「昔、この館に何かの舞台装置か、展示装置が組み込まれていた可能性があります。床を傾ける。壁を動かす。視線を誘導する。人を驚かせるための仕掛け」
二階堂が低く言う。
「それを殺人に使ってる」
「はい」
鳳の声が硬くなる。
「建物に、人を疑わせている」
その瞬間、廊下の奥のモニターが赤く点いた。
文字が浮かぶ。
――ここのつ灯して、建物を疑う。
全員の息が止まった。
まだ第九灯は消えていない。
だが、言葉が先に置かれた。
モニターの下に、白い文字。
――鳳恭介。
まだ消灯とは出ていない。
名前だけが、先に置かれた。
鳳の顔から血の気が引いた。
朽木が一歩後ずさった。
「やはり……」
「朽木さん」
二階堂が制した。
だが朽木は止まらなかった。
「やはり、あなたではないんですか。今までの仕掛けも、すべて建物を使ったものだった。鏡、床、通路、換気、音、反射。あなたなら全部説明できる。説明できるということは、作れるということでしょう」
「違います」
鳳は静かに言った。
「僕は作っていない」
「証明できますか」
「できません」
鳳はまっすぐ答えた。
「だから、疑われるのは当然です」
「そんな……」
鳴海が呟いた。
彼女は鳳を庇いたいのか、疑いたいのか、自分でもわからない顔をしていた。
氷室は震えながら鳳を見る。
「あなたが……この館を……」
「違います」
鳳の声はまだ穏やかだった。
だが、その穏やかさが傷に見えた。
「僕なら、できます。だからこそ、僕ではない証明が難しい」
先刻も言った言葉を、もう一度。
だが今度は、全員の前で。
死の恐怖に削られた生存者たちは、その言葉を冷静に受け取れなかった。
できる。
その部分だけが残る。
なら犯人ではないのか。
その恐怖が、廊下に広がる。
「鳳さん」
真壁が言った。
「今は黙ってください」
鳳は真壁を見る。
「はい」
「あなたの言葉は、今、全部犯人に使われる」
鳳は小さく頷いた。
その顔には、諦めがあった。
自分の専門性も、自分の誠実さも、自分の説明も、全部が疑いに変わる。
建物を読む力を、犯人に奪われている。
真壁はモニターを見た。
鳳恭介。
名前だけ。
まだ消灯ではない。
犯人は鳳の名前を先に置き、生存者に疑わせ、鳳自身の判断を削っている。
次は、鳳を物理的に壊す。
真壁はそう読んだ。
「全員、廊下から離れる」
彼は言った。
「床が傾いている。危険です」
「どこへ」
二階堂が問う。
真壁は一瞬考える。
安全な場所はない。
だが、危険の種類を選ぶしかない。
「玄関広間へ戻る。鏡に背を向ける。死体から距離を取る。階段には近づかない」
「西園寺さんの現場だよ」
「わかってる」
「でも、ここより広い」
「そうだ」
二階堂は頷いた。
「小夜子さん、立てますか」
小夜子は声のないまま頷いた。
九条が氷室を見た。
「氷室さんは歩ける?」
「……少しなら」
「無理なら支える。ただし、俺一人じゃ足りない」
真壁は朽木を見た。
「朽木さん。手伝ってください」
朽木は鳳から視線を外さない。
「朽木さん」
真壁の声が低くなる。
「今は生きている人間を運ぶ」
朽木はようやく頷いた。
全員が動き出す。
その瞬間だった。
廊下の床が、さらに大きく傾いた。
鳴海が悲鳴を上げる。
小夜子が倒れかける。
二階堂が支える。
氷室が呻く。
九条が目を細める。
そして鳳の立っていた場所の床板が、音を立てて沈んだ。
「鳳さん!」
真壁が叫ぶ。
鳳の身体が廊下の中央へ滑る。
床の傾きに沿って、まるで建物そのものが彼を吸い込むように。
鳳は手を伸ばした。
壁に触れようとする。
だが自分で止めた。
壁に罠があるかもしれないからだ。
その迷いが、致命的だった。
足元の床板が開いた。
完全な穴ではない。
細長い点検口。
人ひとりが落ちるには狭いが、身体が横向きになれば吸い込まれる幅。
鳳の片足が沈む。
真壁が飛び出した。
「手を!」
鳳が手を伸ばす。
真壁は掴んだ。
だが床が滑る。
古い絨毯の下に、何か粉のようなものが撒かれている。
靴底が効かない。
鳳の身体がさらに沈む。
穴の下から、冷たい空気が吹き上げた。
地下か。
壁内通路か。
館の腹の中。
「真壁さん、離してください」
鳳が言った。
「黙れ!」
「あなたまで落ちます」
「黙って掴まってろ!」
二階堂が飛び込んできた。
小夜子を朽木に預け、真壁の腰を掴む。
「引く!」
九条も氷室から離れかける。
真壁が叫ぶ。
「九条は氷室さんを!」
「でも」
「そっちを死なせるな!」
九条は歯を食いしばった。
動けない。
まただ。
助けたい人間が二人いる。
身体は一つしかない。
この館は、九条にその選択を突きつけ続ける。
鳳の手が、汗で滑る。
彼の顔に初めて明確な焦りが浮かんだ。
「真壁さん」
「何だ!」
「床の下に、通路があります」
「今それを言うな!」
「違います。聞いてください」
鳳は息を荒くしながら言った。
「この穴は、落とすためではなく、移動させるためのものです。僕を殺すつもりなら、もっと深く落とす。これは、僕を閉じ込める仕掛けです」
「だから何だ!」
「下に落ちても、すぐには死にません」
「慰めにもならない」
「僕を引き上げるより、穴を広げないようにしてください。床板が割れると、全員が危ない」
こんな状況でも、鳳は建物を読んでいる。
自分の命より、床の構造を見ている。
それが、真壁には腹立たしかった。
「あんたは自分の心配をしろ!」
思わず言葉が荒くなる。
鳳は目を見開いた。
真壁が敬称を忘れたのは、初めてだった。
二階堂が低く言った。
「真壁、右へ引け。床の端ならまだ踏ん張れる」
「わかってる!」
二人で鳳を引く。
鳳の肩が穴の縁にぶつかる。
痛みに顔が歪む。
それでも声を上げない。
その瞬間、廊下の奥から鳳の声が流れた。
録音。
「僕なら、できます」
全員が凍った。
続けて、同じ声。
「だからこそ、僕ではない証明が難しい」
鳳本人の声。
彼が以前言った言葉。
切り取られ、今流されている。
朽木が叫んだ。
「やはり!」
「違う!」
二階堂が怒鳴った。
「切り取りだ!」
だが、生存者たちの心はもう限界だった。
目の前で鳳が穴へ落ちかけている。
モニターには鳳の名前。
館内には鳳の声。
彼自身が「僕ならできます」と言っている。
恐怖に削られた人間は、複雑な推理よりも、目の前に置かれた意味へ飛びつく。
鳴海が泣きながら首を振る。
氷室は怯えて鳳を見ている。
朽木は距離を取る。
小夜子は声もなく震える。
疑いが、形になる。
その中心で、鳳は穴に半身を落としたまま、静かに目を伏せた。
真壁は叫んだ。
「誰も鳳さんの名前を置くな!」
その声が、廊下を打った。
「犯人が今置いたのは証拠じゃない。言葉だ。名前だ。疑いだ。拾うな!」
二階堂が歯を食いしばり、さらに引く。
「鳳さん、腕に力入れて!」
「入れています」
「もっと!」
「これ以上は少し」
「上品に返してる場合か!」
鳳が一瞬、苦しげに笑った。
そのわずかな力で、真壁は彼の身体を引き上げた。
穴から肩が抜ける。
腰が抜ける。
二階堂が後ろへ倒れ込み、真壁も膝をついた。
鳳の身体が廊下に転がる。
息が荒い。
左肩を押さえている。
足も痛めたようだった。
だが生きている。
落ちなかった。
落とされなかった。
真壁は鳳の腕を離さなかった。
そのとき、外で第九灯が消えた。
ふっと。
もう見なくてもわかる。
館内のモニターが、一斉に表示を変えた。
――ここのつ灯して、建物を疑う。
――鳳恭介。
――第九灯、消灯。
そして最後の一行。
――建物を読む者は、建物の口に落ちる。
鳳はその文字を見上げた。
赤い光が、汗で濡れた顔を照らしている。
彼はゆっくり息を吐いた。
「……なるほど」
二階堂が怒ったように言った。
「なるほどじゃないでしょう」
「すみません」
鳳は痛みを堪えながら言った。
「でも、わかりました」
「何が」
真壁が訊く。
「犯人は、この館の建築知識だけで動いているわけではありません」
「どういう意味です」
「今の床の仕掛けは、構造を知っているだけでは足りません。人がいつどこに立つかを正確に予測している。つまり、犯人は建物だけでなく、僕たちの行動の順番も読んでいる」
「それは今までも」
「いえ」
鳳は痛みに顔を歪めながら、首を振った。
「もっと具体的です。僕をあの位置に立たせるためには、モニターで僕の名前を先に出し、皆の視線を集め、僕を壁際から立たせ、床の傾きで中央へ滑らせる必要がある」
「仕掛けと心理誘導がセット」
「はい」
二階堂が呟く。
「言葉で動かして、建物で落とす」
「そうです」
鳳は真壁を見る。
「この犯人は、建物だけの人間ではない」
真壁は目を細めた。
「言葉も使える」
二階堂が言った。
「記録も使える」
九条が低く続けた。
「死体も使える」
四人の視線が、一瞬だけ重なった。
真壁。
二階堂。
九条。
鳳。
それぞれが読んでいるものは違う。
現場。
言葉。
身体。
建物。
犯人は、その全部を使っている。
だから一人では解けない。
だから四人が必要だった。
真壁は鳳の肩を見た。
「立てますか」
「少しなら」
「無理するな」
「はい」
鳳は素直に頷いた。
その顔に、さっきまでとは違う疲労があった。
死の恐怖を初めて自分の身体で受けた人間の顔だった。
建物を読む者が、建物に飲まれかけた。
その恐怖は、理屈で整理できるものではない。
「真壁さん」
「何です」
「怖いですね」
鳳は、静かに言った。
その一言に、廊下の誰もが息を止めた。
鳳が初めて、恐怖を口にした。
「ああ」
真壁は答えた。
「怖い」
それを否定しなかった。
否定できなかった。
全員、怖い。
死者が増え、傷が増え、名前が奪われ、声が奪われ、部屋が閉じ、床が傾き、仲間が疑われる。
怖くないはずがない。
「でも」
真壁は鳳の腕を支えながら言った。
「怖いまま確認する」
二階堂が小さく笑った。
「やっぱり真壁らしい」
「うるさい」
その短いやり取りで、ほんの一瞬だけ、人間の空気が戻った。
犯人の作った物語ではない。
生きている者たちの呼吸。
だが、それも長くは続かなかった。
玄関広間のモニターが、また赤く点いた。
文字が浮かぶ。
――残り、三灯。
続いて。
――死体を読む者は、次に読むものを失う。
九条雅紀の手が、氷室の傷口を押さえたまま止まった。
廊下の全員が、今度は九条を見た。
第十灯。
真壁の胸の奥が冷えた。
九条は顔を上げた。
その表情は静かだった。
静かすぎた。
彼は、自分の名前がまだ表示されていないことを理解していた。
それでも、次に置かれるのが自分だとわかっていた。
九条は、低く言った。
「来るなら、早く来い」
真壁は即座に言った。
「乗るな」
九条は真壁を見る。
「わかってる」
「なら、そういうことを言うな」
九条は少しだけ黙った。
そして、珍しく目を逸らした。
「悪い」
その短い謝罪に、疲労が滲んでいた。
九条も削られている。
死体を読み、生存者を保護し、自分の手が足りない現実に何度もぶつけられた。
次は、自分の番だとわかっている。
真壁は、九条の前に立ちたかった。
だが鳳を支えている。
氷室は床にいる。
小夜子は声を失っている。
鳴海はまだ立てない。
朽木は恐怖で硬直している。
二階堂は全員を見ている。
手が足りない。
何もかもが足りない。
それでも、順番を守るしかない。
真壁は低く言った。
「九条の名前も、まだ置かせない」
だが館は、答えるように低く軋んだ。
まるで次の獲物を、すでに床下で待っているように。




