第十一章 とお灯して、死体を読ませない
人間は、ひとかたまりになると少しだけ強くなる。
背中を壁につけ、互いの顔を見て、誰かの呼吸を聞く。
自分以外にも生きている人間がいると知るだけで、恐怖は形を変える。
獣のように喉へ噛みついていたものが、胸の奥でじっと身を潜める。
だが十二灯館の犯人は、それを許さなかった。
ひとかたまりになる前に、死体が呼ぶ。
怪我人が呻く。
灯が消える。
声が流れる。
壁が開く。
床が傾く。
誰かが倒れる。
生き残った者たちは、そのたびに一歩ずつ離されていく。
助けに行く者。
見張る者。
処置する者。
疑われる者。
声を失った者。
歩けない者。
立てない者。
分かれてはいけないとわかっている。
それでも、分かれなければ誰かが死ぬ。
犯人は、そのことを知っていた。
*
第九灯が消えたあと、廊下には人の息だけが残っていた。
鳳恭介は壁際に座り込み、左肩を押さえていた。
床下の点検口に飲まれかけたとき、肩を強く打っている。足首も痛めたらしく、立とうとすると顔をしかめた。
氷室圭吾は床に横たわり、煙を吸った喉で浅い呼吸を繰り返している。
額と腕の傷から血が滲み、九条雅紀が布を当てて押さえていた。
神楽坂小夜子は声を失ったまま、二階堂壮也のそばで膝を抱えている。
自分の声が館内放送に使われ、自分ではない名前を名乗らされた衝撃から、まだ戻ってこられない。喉を押さえた手が、ときおり震える。
鳴海栞は青白い顔で壁に凭れていた。
意識は戻ったが、温室で吸わされたものの影響が残っている。汗ばんだ額に、白い花粉のような粉がまだかすかに付いていた。
朽木怜二は立っている。
ただ立っているだけだった。
だが真壁彰には、その立ち方が危うく見えた。
理性で背筋を伸ばしている。
膝が笑いそうになるのを、法廷での証言のような顔で押さえつけている。
そういう人間は、折れるときに音が大きい。
死者は増えた。
傷病者も増えた。
消えた者もいる。
全員が、もう“次”を待っていた。
誰も口にはしない。
だが、全員が灯の残りを数えている。
十、十一、十二。
残り三灯。
次は九条だと、さきほどモニターが告げた。
――死体を読む者は、次に読むものを失う。
名前はまだ出ていない。
だが、生存者たちはもう知っている。
次に置かれる名前は、九条雅紀だ。
「移動する」
真壁は言った。
その一言に、全員の視線が集まった。
二階堂がすぐに問い返す。
「どこへ」
「玄関広間」
「西園寺さんの現場だよ」
「一番広い。見通しがある。少なくとも床が傾いている廊下よりはましだ」
「鏡がある」
「鏡に布をかける」
「死体は」
「距離を取る」
二階堂は一瞬、何かを言いかけた。
だが飲み込んだ。
反論するための材料は山ほどある。
玄関広間には第一の死体がある。
鏡の錯覚もある。
階段にも近い。
展示モニターもある。
それでも、全員をひとかたまりにするなら、もうそこしかない。
「わかった」
二階堂は頷いた。
「動ける人、立ってください。ただし、勝手に歩かない。二人一組。怪我人優先。触る前に声をかける。床、壁、手すり、花、紙、グラス、何も触らない」
その言葉に、小夜子が小さく頷いた。
声は出ない。
けれど、二階堂の言葉を必死に掴もうとしている。
九条が氷室の呼吸を見ながら言った。
「氷室さんは二人で運ぶ。鳳さんは歩ける?」
「少しなら」
「少しなら歩かないで」
鳳は苦笑した。
「厳しいですね」
「怪我人に優しくする余裕がない」
「合理的です」
「合理的じゃない。余裕がないだけ」
九条の声はいつも通りに聞こえた。
だが真壁は、その横顔に疲労を見た。
九条はずっと動き続けている。
死体を確認し、重傷者を処置し、薬物症状を見て、煙を吸った氷室を診て、鳴海の意識を追い、小夜子の失声を確認した。
道具もない。
救急も呼べない。
手も足りない。
現場を守ることと人命を守ることが、何度もぶつかった。
九条にとって、死体は読めるものだった。
だが今夜は、読ませてもらえない。
死体の前に次の悲鳴が来る。
処置の途中に次の灯が消える。
生存者を診ている間に別の誰かが消える。
読む順番を、犯人に奪われている。
「九条」
真壁は言った。
「何」
「お前も真ん中にいろ」
「氷室さんを見る」
「見ながらでいい。端に立つな」
九条は真壁を見た。
何か言い返そうとしたのだろう。
だが、その前に廊下のスピーカーが鳴った。
低いノイズ。
全員が身を硬くした。
小夜子が両手で耳を塞ぐ。
鳴海が目を閉じる。
氷室が掠れた声で「やめてくれ」と言う。
スピーカーから、九条の声が流れた。
「死亡している」
第一の現場で、九条が西園寺を確認したときの声。
続けて、別の九条の声。
「死亡」
葛城のときの声。
さらに。
「これは落ちたんじゃない。落とされたように見せられた」
烏丸のときの声。
また別の声。
「鳴海さんだけ、死なないように倒れている」
温室での声。
切り取られた九条の所見が、館内に並べられていく。
死体を読む者の声が、死者の発表文のように流れる。
九条の顔から、わずかに血の気が引いた。
二階堂が低く言った。
「切り取りだ」
だが朽木が震えた声で言った。
「まるで……九条さんが、全部わかっていたように聞こえる」
二階堂が振り返る。
「朽木さん」
「違うと言いたいのはわかっています。ですが、そう聞こえる。彼は死体を見るたびに、次の見立てを正確に説明していた」
「説明できることと、仕掛けたことは違う」
「鳳さんにも同じことを言いましたね」
朽木の声はもう、冷静ではなかった。
死の恐怖が理屈の形をして口から出ている。
「建物を説明できる者。死体を説明できる者。言葉を説明できる者。あなた方は全員、事件を説明できる。では、我々は何を信じればいいんですか」
「信じなくていいと言ったはずです」
真壁が言った。
「確認してください」
「確認する余裕などない!」
朽木が叫んだ。
その声に小夜子がびくりと震える。
「人が死んでいるんです。次々と。今も怪我人がいる。声を奪われた人もいる。消えた人もいる。なのに、あなたはまだ“決めるな”と言う。決めない間に、次の灯が消える!」
「決めたら、もっと早く消える」
真壁は低く返した。
朽木は言葉を失った。
その沈黙を、九条が破った。
「俺を疑うなら、あとでいい」
九条の声は静かだった。
「今は氷室さんを運ぶ。小夜子さんを座らせる。鳴海さんを温室から離す。鳳さんを歩かせない。死体を見るのは、そのあと」
「そのあとが来る保証は?」
朽木が言う。
九条は一瞬だけ黙った。
そして、言った。
「ない」
その正直さが、廊下をさらに冷やした。
「だから今やる」
九条は氷室の傷口を押さえ直す。
「次が来る前に」
真壁は九条を見た。
その横顔はまだ静かだった。
だが、目の奥に薄い疲労の膜がある。
九条が削れている。
確実に。
そのことに気づいた瞬間、真壁の中で怒りが重く沈んだ。
犯人は、九条を殺す前に、九条の仕事を壊そうとしている。
死体を読む者に、死体を読む時間を与えない。
医師に、患者を選ばせる。
観察者に、観察する順番を奪う。
それが第十灯の見立てなら、もう始まっている。
「動く」
真壁は言った。
「二階堂、小夜子さん。朽木さんは鳴海さんを。九条は氷室さんの頭側。俺が足側。鳳さんは壁から離れて、真ん中を歩く」
「真壁さん」
鳳が言った。
「僕は」
「真ん中です」
「ですが、床を確認しながら」
「二階堂が見る。あなたは今、狙われた直後です。読もうとするな」
鳳は目を伏せた。
「……わかりました」
自分の武器を使うなと言われることが、どれほど苦しいか。
真壁にはわかる。
だが今は、それが必要だった。
生存者たちは、ゆっくり動き出した。
ひとかたまりになって。
それだけで、少しだけ空気が変わった。
二階堂が小夜子の横に立つ。
小夜子は声のないまま、彼の袖を掴んで歩く。
鳴海は朽木に支えられ、足元を見ずに歩こうとして何度も躓きかける。
鳳は肩を押さえながら中央に入り、壁や床を見ないようにしている。
九条は氷室の頭側を支え、真壁は足側を持つ。
全員が近い。
誰かの息が聞こえる。
誰かの体温がある。
それだけで、小夜子の震えが少しだけ弱まった。
鳴海も目を閉じなくなった。
朽木の呼吸も、わずかに整った。
ひとかたまりになれば、耐えられる。
そう思った瞬間、館が鳴った。
玄関広間の方ではない。
背後。
食堂の方。
皿が落ちる音。
続けて、椅子が倒れる音。
全員が足を止めた。
食堂には、葛城慎一郎の死体がある。
誰もいないはずだった。
「行くな」
真壁は即座に言った。
二階堂も同時に言った。
「全員止まって。振り返らない」
だが、朽木が振り返った。
「今のは」
「見るな」
真壁が言う。
食堂の奥から、今度は水音がした。
グラスが倒れて水がこぼれる音。
そして、葛城慎一郎の声が流れた。
「何も起きませんね」
死ぬ直前、葛城が言った言葉。
食堂から聞こえた。
録音だ。
わかっている。
それでも、死者の声は生存者の足を止めた。
鳴海が小さく悲鳴を上げる。
小夜子は声を出せないまま泣く。
氷室が目を閉じる。
朽木が青ざめる。
九条の手が、氷室を支えたまま強張った。
「九条」
真壁が低く呼ぶ。
「大丈夫」
「見るな」
「わかってる」
だが九条の視線は、一瞬だけ食堂の方へ動いた。
死体がある。
死者の声がした。
九条の仕事は、確認することだ。
それをしないこと自体が、九条を削る。
犯人は、それをわかっている。
「食堂へは行かない」
真壁は言った。
「録音だ」
すると今度は、階段下から烏丸鏡花の声が聞こえた。
「……私じゃ、ない……」
生存者たちの塊が、また止まる。
九条の顔が変わった。
烏丸は生きている。
意識が戻ったのかもしれない。
あるいは録音かもしれない。
だが、もし本当に烏丸が苦しんでいるなら。
九条は行かなければならない。
医師として。
「九条、止まれ」
真壁が言う。
「烏丸さんかもしれない」
「録音かもしれない」
「本物なら?」
九条の声が鋭くなる。
「本物なら、俺が行かないと死ぬかもしれない」
「全員で行く」
「氷室さんを運んで?」
「そうだ」
「間に合わない」
九条が真壁を見た。
その目に、怒りがあった。
初めて見る種類の怒りだった。
死者ではなく、生きている者のための怒り。
「真壁、俺は医者だ」
「知ってる」
「行かせろ」
「一人では行かせない」
「一人じゃないと早く行けない」
「犯人はそれを待ってる」
「わかってる!」
九条の声が廊下に響いた。
生存者たちが息を止める。
九条自身も、自分の声の大きさに気づいたように黙った。
それから、低く言った。
「わかってる。でも、それでも行くしかないときがある」
真壁は九条を見た。
その顔は疲れていた。
冷静な仮面の下に、限界が見えている。
犯人は九条を分断しようとしている。
ひとかたまりでいれば安心。
だが、烏丸の声を流せば九条は動く。
氷室を抱えていれば、真壁はすぐに追えない。
小夜子と鳴海を置いていけば、二階堂は動けない。
鳳は負傷している。
朽木は恐怖で信用できない。
完璧な分断。
「二階堂」
真壁は言った。
「氷室さんを頼む」
「真壁」
「俺が九条と行く。お前は全員を玄関広間へ。絶対に止まるな。声がしても、灯が消えても、誰かの名前が呼ばれても、止まるな」
二階堂は一瞬、真壁を見る。
判断を読み合う時間は短かった。
そして頷く。
「了解」
「鳳さん、二階堂と一緒に」
「ですが」
「あなたも狙われた直後です」
鳳は悔しそうに目を伏せた。
「わかりました」
九条はもう動き出していた。
真壁は追う。
背後で二階堂の声がする。
「全員、玄関広間へ。止まらない。俺の声だけ聞いてください」
その声を背中に、真壁と九条は階段下へ走った。
*
階段下には、烏丸鏡花がいた。
同じ位置に。
同じ姿勢で。
だが、目が開いていた。
呼吸が荒い。
唇が震えている。
「烏丸さん」
九条が膝をつく。
「聞こえますか」
烏丸の目が九条を探す。
「……声が」
「声?」
「私の声が……どこかで……」
「録音です。あなたはここにいます」
「違う……私じゃない……」
「わかっています」
九条は彼女の瞳孔を見る。
「気分は? 吐き気は? 頭痛は?」
烏丸はうまく答えられない。
だが、呼吸はさきほどより乱れている。
痛みと恐怖と混乱で、身体が過呼吸に近づいている。
九条は声を落とした。
「ゆっくり息をしてください。吸うより吐く。今、あなたは階段下にいます。名前は烏丸鏡花。あなたは生きています」
真壁は周囲を見る。
階段。
ワイヤー。
緩んだ絨毯。
モニター。
赤い灯。
どこにも新しい人影はない。
だが、それが安全を意味しないことは、もう知っている。
「九条、状態は」
「悪化はしてる。でも今すぐ死ぬ状態じゃない。過呼吸と痛み。恐怖が強い」
「録音で呼び起こされた」
「そう」
九条は短く答える。
「犯人は、俺をここへ来させた」
「わかってるなら戻るぞ」
「待って」
九条は烏丸の右手を見ていた。
彼女の指が、何かを握っている。
真壁は息を止めた。
「何だ」
「紙」
九条は触らずに覗き込む。
小さく折られた紙片。
いつから握っていたのか。
落下時からか。
誰かが後から握らせたのか。
「開けるな」
真壁が言う。
「わかってる」
九条はライトを当てる。
紙片の外側に、文字が見えた。
――読んだら、次はあなた。
九条の表情が止まった。
真壁の胸が冷える。
「九条」
「読んでない」
「見るな」
「もう見た」
九条は目を細める。
「犯人は、俺に読ませたい」
「なら読むな」
「でも、この紙が烏丸さんの手にある理由は確認しないと」
「あとで」
「あとでは、なくなるかもしれない」
「九条」
「真壁」
九条が顔を上げた。
その目は、疲れているのに鋭かった。
「俺は、読まないと仕事ができない」
真壁は言葉に詰まった。
そうだ。
九条から読むことを奪うのは、九条から九条自身を奪うのと同じだ。
犯人はそれを狙っている。
読むな。
読め。
どちらを選んでも、九条は削られる。
「わかった」
真壁は言った。
「読むなとは言わない」
九条は真壁を見る。
「ただし、一人で読むな。見たものだけ言え。意味は俺があとで拾う」
九条の目が、わずかに揺れた。
昔からの言葉ではない。
だが、今この場で必要な言葉だった。
九条は小さく頷いた。
「わかった」
その瞬間、階段上で音がした。
かすかな噴霧音。
真壁が顔を上げるより早く、九条が反応した。
「離れろ!」
白い霧が、階段の手すりの下から吹き出した。
真壁は烏丸の顔を覆うように動く。
九条も身を引こうとした。
だが、遅かった。
霧は細く、一直線に九条の顔の高さを狙っていた。
九条が咳き込む。
「九条!」
真壁は腕を掴んで引く。
九条は片手で口元を押さえ、もう片方の手で烏丸を庇った。
「烏丸さんを……」
「お前が先だ!」
「違う、吸ってないか確認を――」
九条の言葉が途中で途切れた。
身体がふらつく。
真壁が支える。
九条の瞳孔が揺れていた。
「何を吸った」
「わからない」
声がかすれている。
「視界が……」
「九条」
「床が傾いてる」
「傾いてない」
「いや、傾いてる。いや、違う……階段が……」
九条の身体から力が抜けかける。
真壁は抱えるように支えた。
「しっかりしろ」
「吐き気……目が……焦点が合わない」
薬物。
視界。
平衡感覚。
判断力。
第十灯が、いま現実になっている。
死体を読む者が、読めなくなる。
真壁は怒鳴りそうになるのをこらえた。
怒鳴っても薬は抜けない。
怒鳴れば九条の混乱が増す。
「九条、俺を見るな。目を閉じろ」
「閉じると、もっと回る」
「じゃあ俺の声だけ聞け」
「真壁」
「ここは階段下。烏丸さんは生きてる。お前も生きてる。霧は止まった。俺が支えてる」
九条は浅く息をする。
「死体の向きが……」
「何?」
「違う」
「何の話だ」
「西園寺さん……鏡の中と、実際の向き……血が先じゃない……名前が、あとから来てる」
真壁は息を止めた。
薬物で判断力を削られながら、九条は断片を拾っている。
死体の向きが違う。
血が先じゃない。
名前があとから来てる。
「続けろ」
「葛城さん……席じゃなくて、手。毒は飲んだんじゃない。触った。蓮見さん……息を止められたんじゃない。息を止める場所に置かれた」
「九条」
「鳴海さんは……死なない。死なない場所。温室は……見つけてもらう場所」
真壁は九条を支えたまま、必死に聞いた。
九条の声は途切れ途切れだった。
だが、それは事件の芯を突いていた。
「小夜子さんは……声じゃない。声を奪われたんじゃない。声を置かれた。瑠璃子さんは……水にいない。水は、名前を映すだけ」
「九条、もういい」
「鳳さんは……落とされてない。疑わせるために、落ちる場所へ……」
「もういい。息をしろ」
「真壁」
「何だ」
「読む順番が違う」
九条の目が、焦点の合わないまま真壁を見ようとした。
「犯人は、殺した順に見せてない」
「わかってる」
「違う。もっと……」
九条は苦しげに息をした。
「助けた順に、壊してる」
真壁の背筋に冷たいものが走った。
「助けた順?」
「俺たちが、誰を助けようとしたか……その順に、次の罠が来る。西園寺は死体。葛城は二階堂が場を仕切った。烏丸は俺が処置した。蓮見は書庫へ行かされた。鳴海は俺が診た。小夜子は二階堂が支えた。氷室は真壁が助けた。鳳さんは真壁と二階堂が助けた」
九条の声が震える。
「犯人は、助ける手を見てる」
真壁は息を呑んだ。
犯人は、被害者だけを選んでいるのではない。
誰が誰を助けるかを見ている。
助けた者を、次の疑いに巻き込む。
二階堂が席を決めたあと、葛城が死んだ。
二階堂が小夜子を支えたあと、声の罠が来た。
鳳が建物を読んだあと、鳳が疑われた。
真壁が氷室を助けたあと、第七保管室の鍵が出た。
そして今、九条は烏丸を助けようとして薬物を浴びた。
ひとかたまりでいれば安全なのに、助けるために離れさせる。
離れた者を、次の罠にする。
その攻防こそが、この館の本質だった。
「真壁」
九条の身体が重くなる。
「烏丸さんを……」
「烏丸さんも連れて戻る」
「動かせない」
「なら全員をここへ戻す」
「だめだ……階段は……」
「じゃあどうする」
九条は答えようとした。
だが、その前に膝が崩れた。
真壁は九条を抱き止めた。
「九条!」
九条の目は開いている。
だが焦点が合っていない。
額に汗が浮き、呼吸が荒い。
吐き気を堪えるように喉が動く。
顔色が急速に悪くなる。
「真壁……」
「喋るな」
「見えない」
その一言が、真壁の胸を刺した。
「何が」
「全部、ずれる」
九条は震える手で空間を探るように動かした。
「死体も、血も、名前も……位置が……」
「見なくていい」
「見ないと」
「見なくていい」
真壁は九条の肩を強く支えた。
「読めないなら、読まなくていい。お前が見たものはもう聞いた。意味は俺が拾う」
九条は、かすかに目を閉じた。
その瞬間、外で第十灯が消えた。
音はなかった。
だが、館全体が一瞬だけ息を止めたように感じた。
階段横のモニターが赤く点いた。
文字が浮かぶ。
――とお灯して、死体を読ませない。
白い名前。
――九条雅紀。
――第十灯、消灯。
続けて、一行。
――読む者は、読めない夜に沈む。
真壁はモニターを見なかった。
九条を支えたまま、低く言った。
「勝手に沈めるな」
階段下に、烏丸の荒い息。
九条の浅い呼吸。
遠く玄関広間から、二階堂の声。
「真壁!」
近づいてくる足音。
複数。
ひとかたまりが崩れた。
犯人の狙い通りに。
だが、今度は違った。
二階堂は一人で来なかった。
鳳がいる。
朽木がいる。
小夜子も、鳴海も、氷室も、玄関広間の入口近くに見える。
全員で来た。
恐怖におののきながら。
足元に怯えながら。
それでも、一人ずつ分断されることを拒んで、まとまったまま来た。
二階堂が真壁のそばへ膝をつく。
「九条は」
「薬物。視界と平衡感覚をやられてる」
「意識は」
「ある」
九条がかすかに言った。
「ある……うるさい……」
二階堂の顔が一瞬だけ崩れた。
安堵と恐怖が混ざった顔だった。
「悪態つけるなら生きてるね」
「うるさい……」
九条はもう一度言った。
それだけで、小夜子が泣きそうな顔で口元を押さえた。
声は出ない。
だが、彼女の目に少しだけ人間の光が戻る。
鳳は階段の噴霧装置を見ていた。
「これは、手すりの内側に仕込まれています。烏丸さんの処置に近づく人間の顔の高さを狙っている」
「九条を狙った」
真壁が言う。
「はい。ですが、誰かが烏丸さんを助けに来ることを前提にしています」
二階堂が九条を見る。
「助ける手を見てる」
真壁は頷いた。
「九条が言った」
二階堂の目が鋭くなる。
「犯人は、被害者だけじゃなく、助ける側の動きも組み込んでる」
「そうだ」
「じゃあ、俺たちがまとまれば」
「今度は、まとめて狙う」
鳳が静かに言った。
その言葉で、全員が黙った。
ひとかたまりでいれば安全。
だが、まとまれば一網打尽にされるかもしれない。
分かれれば、ひとりずつ狙われる。
どちらも罠。
生存者たちの顔に、絶望が滲んだ。
朽木が低く言った。
「どうすればいいんです」
誰もすぐには答えられなかった。
九条が真壁の腕の中で、浅く息をしながら言った。
「順番……」
「喋るな」
「順番を、こっちで決める」
真壁は九条を見る。
九条は目を開けていない。
それでも、言葉だけを絞り出す。
「犯人に、呼ばれた場所へ行かない。俺たちが、場所を決める。死体も、怪我人も……運べるものは、こっちが決めた順で……」
「九条」
「真壁、現場は壊れる」
九条の声は苦かった。
「でも、人が死ぬよりまし」
真壁は目を閉じた。
九条がそれを言う。
現場を読むために、現場を守る男が。
だが、今はそういう夜だった。
死体より、生きている者。
記録より、呼吸。
真壁は顔を上げた。
「全員、玄関広間へ戻る」
朽木が叫びかける。
「またですか」
「今度は、俺たちの順番で戻る」
真壁は言った。
「先に鳳さんが床を見る。二階堂が声とモニターを見る。俺が人の位置を見る。九条は喋るな。小夜子さんは二階堂の隣。鳴海さんは朽木さんと。氷室さんは壁に触らず、中央を。烏丸さんは動かせない。だから階段下を中心に、一時的に全員で広がる」
「広がる?」
「ひとかたまりじゃなく、互いが見える距離で円を作る」
二階堂がすぐに理解した。
「一か所に固まらない。でも、誰も視界から消えない」
「そうだ」
鳳が頷いた。
「反射と死角を減らせます」
真壁は続けた。
「犯人が声で呼んでも動かない。灯が消えても動かない。名前が出ても動かない。動くときは、こっちが決める」
全員が黙って聞いていた。
恐怖は消えていない。
むしろ濃くなっている。
だが、恐怖の中に一本だけ線が通った。
犯人の順番に乗らない。
それだけが、今できる抵抗だった。
そのとき、館内のモニターが一斉に赤く点いた。
生存者たちは反射的に身を縮める。
真壁は見ない。
二階堂が見る。
「表示」
「読め」
二階堂は息を呑んだ。
「――とおあまりひとつ、言葉を殺す」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の顔から、すっと血の気が引いていく。
次。
第十一灯。
二階堂壮也。
広報。
言葉を置く者。
これまで犯人の言葉と戦ってきた男。
モニターには、まだ名前は出ていない。
だが、もう十分だった。
館は次の獲物を、全員に理解させた。
九条が、真壁の腕の中でかすかに言った。
「二階堂……」
「喋るな」
真壁が言う。
二階堂は一歩、後ろへ下がった。
小夜子が袖を掴もうとして、声のないまま泣きそうな顔をする。
二階堂は彼女の手をそっと押さえた。
「大丈夫」
そう言った声が、少しだけ震えていた。
本人も気づいただろう。
言葉で場を支えてきた男の声が、初めて崩れた。
真壁は言った。
「二階堂」
「何」
「まだ、お前の名前も置かせない」
二階堂は、薄く笑おうとした。
だが失敗した。
「頼むよ」
短い返事だった。
その一言に、恐怖が滲んでいた。
外では十個目の灯が消えていた。
湖面には、消えたはずの灯がまだ揺れている。
残り二灯。
館は、言葉を殺す準備を始めていた。




