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十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


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11/16

第十一章 とお灯して、死体を読ませない

 人間は、ひとかたまりになると少しだけ強くなる。

 背中を壁につけ、互いの顔を見て、誰かの呼吸を聞く。

 自分以外にも生きている人間がいると知るだけで、恐怖は形を変える。

 獣のように喉へ噛みついていたものが、胸の奥でじっと身を潜める。

 だが十二灯館の犯人は、それを許さなかった。

 ひとかたまりになる前に、死体が呼ぶ。

 怪我人が呻く。

 灯が消える。

 声が流れる。

 壁が開く。

 床が傾く。

 誰かが倒れる。

 生き残った者たちは、そのたびに一歩ずつ離されていく。

 助けに行く者。

 見張る者。

 処置する者。

 疑われる者。

 声を失った者。

 歩けない者。

 立てない者。

 分かれてはいけないとわかっている。

 それでも、分かれなければ誰かが死ぬ。

 犯人は、そのことを知っていた。

     *

 第九灯が消えたあと、廊下には人の息だけが残っていた。

 鳳恭介は壁際に座り込み、左肩を押さえていた。

 床下の点検口に飲まれかけたとき、肩を強く打っている。足首も痛めたらしく、立とうとすると顔をしかめた。

 氷室圭吾は床に横たわり、煙を吸った喉で浅い呼吸を繰り返している。

 額と腕の傷から血が滲み、九条雅紀が布を当てて押さえていた。

 神楽坂小夜子は声を失ったまま、二階堂壮也のそばで膝を抱えている。

 自分の声が館内放送に使われ、自分ではない名前を名乗らされた衝撃から、まだ戻ってこられない。喉を押さえた手が、ときおり震える。

 鳴海栞は青白い顔で壁に凭れていた。

 意識は戻ったが、温室で吸わされたものの影響が残っている。汗ばんだ額に、白い花粉のような粉がまだかすかに付いていた。

 朽木怜二は立っている。

 ただ立っているだけだった。

 だが真壁彰には、その立ち方が危うく見えた。

 理性で背筋を伸ばしている。

 膝が笑いそうになるのを、法廷での証言のような顔で押さえつけている。

 そういう人間は、折れるときに音が大きい。

 死者は増えた。

 傷病者も増えた。

 消えた者もいる。

 全員が、もう“次”を待っていた。

 誰も口にはしない。

 だが、全員が灯の残りを数えている。

 十、十一、十二。

 残り三灯。

 次は九条だと、さきほどモニターが告げた。

 ――死体を読む者は、次に読むものを失う。

 名前はまだ出ていない。

 だが、生存者たちはもう知っている。

 次に置かれる名前は、九条雅紀だ。

「移動する」

 真壁は言った。

 その一言に、全員の視線が集まった。

 二階堂がすぐに問い返す。

「どこへ」

「玄関広間」

「西園寺さんの現場だよ」

「一番広い。見通しがある。少なくとも床が傾いている廊下よりはましだ」

「鏡がある」

「鏡に布をかける」

「死体は」

「距離を取る」

 二階堂は一瞬、何かを言いかけた。

 だが飲み込んだ。

 反論するための材料は山ほどある。

 玄関広間には第一の死体がある。

 鏡の錯覚もある。

 階段にも近い。

 展示モニターもある。

 それでも、全員をひとかたまりにするなら、もうそこしかない。

「わかった」

 二階堂は頷いた。

「動ける人、立ってください。ただし、勝手に歩かない。二人一組。怪我人優先。触る前に声をかける。床、壁、手すり、花、紙、グラス、何も触らない」

 その言葉に、小夜子が小さく頷いた。

 声は出ない。

 けれど、二階堂の言葉を必死に掴もうとしている。

 九条が氷室の呼吸を見ながら言った。

「氷室さんは二人で運ぶ。鳳さんは歩ける?」

「少しなら」

「少しなら歩かないで」

 鳳は苦笑した。

「厳しいですね」

「怪我人に優しくする余裕がない」

「合理的です」

「合理的じゃない。余裕がないだけ」

 九条の声はいつも通りに聞こえた。

 だが真壁は、その横顔に疲労を見た。

 九条はずっと動き続けている。

 死体を確認し、重傷者を処置し、薬物症状を見て、煙を吸った氷室を診て、鳴海の意識を追い、小夜子の失声を確認した。

 道具もない。

 救急も呼べない。

 手も足りない。

 現場を守ることと人命を守ることが、何度もぶつかった。

 九条にとって、死体は読めるものだった。

 だが今夜は、読ませてもらえない。

 死体の前に次の悲鳴が来る。

 処置の途中に次の灯が消える。

 生存者を診ている間に別の誰かが消える。

 読む順番を、犯人に奪われている。

「九条」

 真壁は言った。

「何」

「お前も真ん中にいろ」

「氷室さんを見る」

「見ながらでいい。端に立つな」

 九条は真壁を見た。

 何か言い返そうとしたのだろう。

 だが、その前に廊下のスピーカーが鳴った。

 低いノイズ。

 全員が身を硬くした。

 小夜子が両手で耳を塞ぐ。

 鳴海が目を閉じる。

 氷室が掠れた声で「やめてくれ」と言う。

 スピーカーから、九条の声が流れた。

「死亡している」

 第一の現場で、九条が西園寺を確認したときの声。

 続けて、別の九条の声。

「死亡」

 葛城のときの声。

 さらに。

「これは落ちたんじゃない。落とされたように見せられた」

 烏丸のときの声。

 また別の声。

「鳴海さんだけ、死なないように倒れている」

 温室での声。

 切り取られた九条の所見が、館内に並べられていく。

 死体を読む者の声が、死者の発表文のように流れる。

 九条の顔から、わずかに血の気が引いた。

 二階堂が低く言った。

「切り取りだ」

 だが朽木が震えた声で言った。

「まるで……九条さんが、全部わかっていたように聞こえる」

 二階堂が振り返る。

「朽木さん」

「違うと言いたいのはわかっています。ですが、そう聞こえる。彼は死体を見るたびに、次の見立てを正確に説明していた」

「説明できることと、仕掛けたことは違う」

「鳳さんにも同じことを言いましたね」

 朽木の声はもう、冷静ではなかった。

 死の恐怖が理屈の形をして口から出ている。

「建物を説明できる者。死体を説明できる者。言葉を説明できる者。あなた方は全員、事件を説明できる。では、我々は何を信じればいいんですか」

「信じなくていいと言ったはずです」

 真壁が言った。

「確認してください」

「確認する余裕などない!」

 朽木が叫んだ。

 その声に小夜子がびくりと震える。

「人が死んでいるんです。次々と。今も怪我人がいる。声を奪われた人もいる。消えた人もいる。なのに、あなたはまだ“決めるな”と言う。決めない間に、次の灯が消える!」

「決めたら、もっと早く消える」

 真壁は低く返した。

 朽木は言葉を失った。

 その沈黙を、九条が破った。

「俺を疑うなら、あとでいい」

 九条の声は静かだった。

「今は氷室さんを運ぶ。小夜子さんを座らせる。鳴海さんを温室から離す。鳳さんを歩かせない。死体を見るのは、そのあと」

「そのあとが来る保証は?」

 朽木が言う。

 九条は一瞬だけ黙った。

 そして、言った。

「ない」

 その正直さが、廊下をさらに冷やした。

「だから今やる」

 九条は氷室の傷口を押さえ直す。

「次が来る前に」

 真壁は九条を見た。

 その横顔はまだ静かだった。

 だが、目の奥に薄い疲労の膜がある。

 九条が削れている。

 確実に。

 そのことに気づいた瞬間、真壁の中で怒りが重く沈んだ。

 犯人は、九条を殺す前に、九条の仕事を壊そうとしている。

 死体を読む者に、死体を読む時間を与えない。

 医師に、患者を選ばせる。

 観察者に、観察する順番を奪う。

 それが第十灯の見立てなら、もう始まっている。

「動く」

 真壁は言った。

「二階堂、小夜子さん。朽木さんは鳴海さんを。九条は氷室さんの頭側。俺が足側。鳳さんは壁から離れて、真ん中を歩く」

「真壁さん」

 鳳が言った。

「僕は」

「真ん中です」

「ですが、床を確認しながら」

「二階堂が見る。あなたは今、狙われた直後です。読もうとするな」

 鳳は目を伏せた。

「……わかりました」

 自分の武器を使うなと言われることが、どれほど苦しいか。

 真壁にはわかる。

 だが今は、それが必要だった。

 生存者たちは、ゆっくり動き出した。

 ひとかたまりになって。

 それだけで、少しだけ空気が変わった。

 二階堂が小夜子の横に立つ。

 小夜子は声のないまま、彼の袖を掴んで歩く。

 鳴海は朽木に支えられ、足元を見ずに歩こうとして何度も躓きかける。

 鳳は肩を押さえながら中央に入り、壁や床を見ないようにしている。

 九条は氷室の頭側を支え、真壁は足側を持つ。

 全員が近い。

 誰かの息が聞こえる。

 誰かの体温がある。

 それだけで、小夜子の震えが少しだけ弱まった。

 鳴海も目を閉じなくなった。

 朽木の呼吸も、わずかに整った。

 ひとかたまりになれば、耐えられる。

 そう思った瞬間、館が鳴った。

 玄関広間の方ではない。

 背後。

 食堂の方。

 皿が落ちる音。

 続けて、椅子が倒れる音。

 全員が足を止めた。

 食堂には、葛城慎一郎の死体がある。

 誰もいないはずだった。

「行くな」

 真壁は即座に言った。

 二階堂も同時に言った。

「全員止まって。振り返らない」

 だが、朽木が振り返った。

「今のは」

「見るな」

 真壁が言う。

 食堂の奥から、今度は水音がした。

 グラスが倒れて水がこぼれる音。

 そして、葛城慎一郎の声が流れた。

「何も起きませんね」

 死ぬ直前、葛城が言った言葉。

 食堂から聞こえた。

 録音だ。

 わかっている。

 それでも、死者の声は生存者の足を止めた。

 鳴海が小さく悲鳴を上げる。

 小夜子は声を出せないまま泣く。

 氷室が目を閉じる。

 朽木が青ざめる。

 九条の手が、氷室を支えたまま強張った。

「九条」

 真壁が低く呼ぶ。

「大丈夫」

「見るな」

「わかってる」

 だが九条の視線は、一瞬だけ食堂の方へ動いた。

 死体がある。

 死者の声がした。

 九条の仕事は、確認することだ。

 それをしないこと自体が、九条を削る。

 犯人は、それをわかっている。

「食堂へは行かない」

 真壁は言った。

「録音だ」

 すると今度は、階段下から烏丸鏡花の声が聞こえた。

「……私じゃ、ない……」

 生存者たちの塊が、また止まる。

 九条の顔が変わった。

 烏丸は生きている。

 意識が戻ったのかもしれない。

 あるいは録音かもしれない。

 だが、もし本当に烏丸が苦しんでいるなら。

 九条は行かなければならない。

 医師として。

「九条、止まれ」

 真壁が言う。

「烏丸さんかもしれない」

「録音かもしれない」

「本物なら?」

 九条の声が鋭くなる。

「本物なら、俺が行かないと死ぬかもしれない」

「全員で行く」

「氷室さんを運んで?」

「そうだ」

「間に合わない」

 九条が真壁を見た。

 その目に、怒りがあった。

 初めて見る種類の怒りだった。

 死者ではなく、生きている者のための怒り。

「真壁、俺は医者だ」

「知ってる」

「行かせろ」

「一人では行かせない」

「一人じゃないと早く行けない」

「犯人はそれを待ってる」

「わかってる!」

 九条の声が廊下に響いた。

 生存者たちが息を止める。

 九条自身も、自分の声の大きさに気づいたように黙った。

 それから、低く言った。

「わかってる。でも、それでも行くしかないときがある」

 真壁は九条を見た。

 その顔は疲れていた。

 冷静な仮面の下に、限界が見えている。

 犯人は九条を分断しようとしている。

 ひとかたまりでいれば安心。

 だが、烏丸の声を流せば九条は動く。

 氷室を抱えていれば、真壁はすぐに追えない。

 小夜子と鳴海を置いていけば、二階堂は動けない。

 鳳は負傷している。

 朽木は恐怖で信用できない。

 完璧な分断。

「二階堂」

 真壁は言った。

「氷室さんを頼む」

「真壁」

「俺が九条と行く。お前は全員を玄関広間へ。絶対に止まるな。声がしても、灯が消えても、誰かの名前が呼ばれても、止まるな」

 二階堂は一瞬、真壁を見る。

 判断を読み合う時間は短かった。

 そして頷く。

「了解」

「鳳さん、二階堂と一緒に」

「ですが」

「あなたも狙われた直後です」

 鳳は悔しそうに目を伏せた。

「わかりました」

 九条はもう動き出していた。

 真壁は追う。

 背後で二階堂の声がする。

「全員、玄関広間へ。止まらない。俺の声だけ聞いてください」

 その声を背中に、真壁と九条は階段下へ走った。

     *

 階段下には、烏丸鏡花がいた。

 同じ位置に。

 同じ姿勢で。

 だが、目が開いていた。

 呼吸が荒い。

 唇が震えている。

「烏丸さん」

 九条が膝をつく。

「聞こえますか」

 烏丸の目が九条を探す。

「……声が」

「声?」

「私の声が……どこかで……」

「録音です。あなたはここにいます」

「違う……私じゃない……」

「わかっています」

 九条は彼女の瞳孔を見る。

「気分は? 吐き気は? 頭痛は?」

 烏丸はうまく答えられない。

 だが、呼吸はさきほどより乱れている。

 痛みと恐怖と混乱で、身体が過呼吸に近づいている。

 九条は声を落とした。

「ゆっくり息をしてください。吸うより吐く。今、あなたは階段下にいます。名前は烏丸鏡花。あなたは生きています」

 真壁は周囲を見る。

 階段。

 ワイヤー。

 緩んだ絨毯。

 モニター。

 赤い灯。

 どこにも新しい人影はない。

 だが、それが安全を意味しないことは、もう知っている。

「九条、状態は」

「悪化はしてる。でも今すぐ死ぬ状態じゃない。過呼吸と痛み。恐怖が強い」

「録音で呼び起こされた」

「そう」

 九条は短く答える。

「犯人は、俺をここへ来させた」

「わかってるなら戻るぞ」

「待って」

 九条は烏丸の右手を見ていた。

 彼女の指が、何かを握っている。

 真壁は息を止めた。

「何だ」

「紙」

 九条は触らずに覗き込む。

 小さく折られた紙片。

 いつから握っていたのか。

 落下時からか。

 誰かが後から握らせたのか。

「開けるな」

 真壁が言う。

「わかってる」

 九条はライトを当てる。

 紙片の外側に、文字が見えた。

 ――読んだら、次はあなた。

 九条の表情が止まった。

 真壁の胸が冷える。

「九条」

「読んでない」

「見るな」

「もう見た」

 九条は目を細める。

「犯人は、俺に読ませたい」

「なら読むな」

「でも、この紙が烏丸さんの手にある理由は確認しないと」

「あとで」

「あとでは、なくなるかもしれない」

「九条」

「真壁」

 九条が顔を上げた。

 その目は、疲れているのに鋭かった。

「俺は、読まないと仕事ができない」

 真壁は言葉に詰まった。

 そうだ。

 九条から読むことを奪うのは、九条から九条自身を奪うのと同じだ。

 犯人はそれを狙っている。

 読むな。

 読め。

 どちらを選んでも、九条は削られる。

「わかった」

 真壁は言った。

「読むなとは言わない」

 九条は真壁を見る。

「ただし、一人で読むな。見たものだけ言え。意味は俺があとで拾う」

 九条の目が、わずかに揺れた。

 昔からの言葉ではない。

 だが、今この場で必要な言葉だった。

 九条は小さく頷いた。

「わかった」

 その瞬間、階段上で音がした。

 かすかな噴霧音。

 真壁が顔を上げるより早く、九条が反応した。

「離れろ!」

 白い霧が、階段の手すりの下から吹き出した。

 真壁は烏丸の顔を覆うように動く。

 九条も身を引こうとした。

 だが、遅かった。

 霧は細く、一直線に九条の顔の高さを狙っていた。

 九条が咳き込む。

「九条!」

 真壁は腕を掴んで引く。

 九条は片手で口元を押さえ、もう片方の手で烏丸を庇った。

「烏丸さんを……」

「お前が先だ!」

「違う、吸ってないか確認を――」

 九条の言葉が途中で途切れた。

 身体がふらつく。

 真壁が支える。

 九条の瞳孔が揺れていた。

「何を吸った」

「わからない」

 声がかすれている。

「視界が……」

「九条」

「床が傾いてる」

「傾いてない」

「いや、傾いてる。いや、違う……階段が……」

 九条の身体から力が抜けかける。

 真壁は抱えるように支えた。

「しっかりしろ」

「吐き気……目が……焦点が合わない」

 薬物。

 視界。

 平衡感覚。

 判断力。

 第十灯が、いま現実になっている。

 死体を読む者が、読めなくなる。

 真壁は怒鳴りそうになるのをこらえた。

 怒鳴っても薬は抜けない。

 怒鳴れば九条の混乱が増す。

「九条、俺を見るな。目を閉じろ」

「閉じると、もっと回る」

「じゃあ俺の声だけ聞け」

「真壁」

「ここは階段下。烏丸さんは生きてる。お前も生きてる。霧は止まった。俺が支えてる」

 九条は浅く息をする。

「死体の向きが……」

「何?」

「違う」

「何の話だ」

「西園寺さん……鏡の中と、実際の向き……血が先じゃない……名前が、あとから来てる」

 真壁は息を止めた。

 薬物で判断力を削られながら、九条は断片を拾っている。

 死体の向きが違う。

 血が先じゃない。

 名前があとから来てる。

「続けろ」

「葛城さん……席じゃなくて、手。毒は飲んだんじゃない。触った。蓮見さん……息を止められたんじゃない。息を止める場所に置かれた」

「九条」

「鳴海さんは……死なない。死なない場所。温室は……見つけてもらう場所」

 真壁は九条を支えたまま、必死に聞いた。

 九条の声は途切れ途切れだった。

 だが、それは事件の芯を突いていた。

「小夜子さんは……声じゃない。声を奪われたんじゃない。声を置かれた。瑠璃子さんは……水にいない。水は、名前を映すだけ」

「九条、もういい」

「鳳さんは……落とされてない。疑わせるために、落ちる場所へ……」

「もういい。息をしろ」

「真壁」

「何だ」

「読む順番が違う」

 九条の目が、焦点の合わないまま真壁を見ようとした。

「犯人は、殺した順に見せてない」

「わかってる」

「違う。もっと……」

 九条は苦しげに息をした。

「助けた順に、壊してる」

 真壁の背筋に冷たいものが走った。

「助けた順?」

「俺たちが、誰を助けようとしたか……その順に、次の罠が来る。西園寺は死体。葛城は二階堂が場を仕切った。烏丸は俺が処置した。蓮見は書庫へ行かされた。鳴海は俺が診た。小夜子は二階堂が支えた。氷室は真壁が助けた。鳳さんは真壁と二階堂が助けた」

 九条の声が震える。

「犯人は、助ける手を見てる」

 真壁は息を呑んだ。

 犯人は、被害者だけを選んでいるのではない。

 誰が誰を助けるかを見ている。

 助けた者を、次の疑いに巻き込む。

 二階堂が席を決めたあと、葛城が死んだ。

 二階堂が小夜子を支えたあと、声の罠が来た。

 鳳が建物を読んだあと、鳳が疑われた。

 真壁が氷室を助けたあと、第七保管室の鍵が出た。

 そして今、九条は烏丸を助けようとして薬物を浴びた。

 ひとかたまりでいれば安全なのに、助けるために離れさせる。

 離れた者を、次の罠にする。

 その攻防こそが、この館の本質だった。

「真壁」

 九条の身体が重くなる。

「烏丸さんを……」

「烏丸さんも連れて戻る」

「動かせない」

「なら全員をここへ戻す」

「だめだ……階段は……」

「じゃあどうする」

 九条は答えようとした。

 だが、その前に膝が崩れた。

 真壁は九条を抱き止めた。

「九条!」

 九条の目は開いている。

 だが焦点が合っていない。

 額に汗が浮き、呼吸が荒い。

 吐き気を堪えるように喉が動く。

 顔色が急速に悪くなる。

「真壁……」

「喋るな」

「見えない」

 その一言が、真壁の胸を刺した。

「何が」

「全部、ずれる」

 九条は震える手で空間を探るように動かした。

「死体も、血も、名前も……位置が……」

「見なくていい」

「見ないと」

「見なくていい」

 真壁は九条の肩を強く支えた。

「読めないなら、読まなくていい。お前が見たものはもう聞いた。意味は俺が拾う」

 九条は、かすかに目を閉じた。

 その瞬間、外で第十灯が消えた。

 音はなかった。

 だが、館全体が一瞬だけ息を止めたように感じた。

 階段横のモニターが赤く点いた。

 文字が浮かぶ。

 ――とお灯して、死体を読ませない。

 白い名前。

 ――九条雅紀。

 ――第十灯、消灯。

 続けて、一行。

 ――読む者は、読めない夜に沈む。

 真壁はモニターを見なかった。

 九条を支えたまま、低く言った。

「勝手に沈めるな」

 階段下に、烏丸の荒い息。

 九条の浅い呼吸。

 遠く玄関広間から、二階堂の声。

「真壁!」

 近づいてくる足音。

 複数。

 ひとかたまりが崩れた。

 犯人の狙い通りに。

 だが、今度は違った。

 二階堂は一人で来なかった。

 鳳がいる。

 朽木がいる。

 小夜子も、鳴海も、氷室も、玄関広間の入口近くに見える。

 全員で来た。

 恐怖におののきながら。

 足元に怯えながら。

 それでも、一人ずつ分断されることを拒んで、まとまったまま来た。

 二階堂が真壁のそばへ膝をつく。

「九条は」

「薬物。視界と平衡感覚をやられてる」

「意識は」

「ある」

 九条がかすかに言った。

「ある……うるさい……」

 二階堂の顔が一瞬だけ崩れた。

 安堵と恐怖が混ざった顔だった。

「悪態つけるなら生きてるね」

「うるさい……」

 九条はもう一度言った。

 それだけで、小夜子が泣きそうな顔で口元を押さえた。

 声は出ない。

 だが、彼女の目に少しだけ人間の光が戻る。

 鳳は階段の噴霧装置を見ていた。

「これは、手すりの内側に仕込まれています。烏丸さんの処置に近づく人間の顔の高さを狙っている」

「九条を狙った」

 真壁が言う。

「はい。ですが、誰かが烏丸さんを助けに来ることを前提にしています」

 二階堂が九条を見る。

「助ける手を見てる」

 真壁は頷いた。

「九条が言った」

 二階堂の目が鋭くなる。

「犯人は、被害者だけじゃなく、助ける側の動きも組み込んでる」

「そうだ」

「じゃあ、俺たちがまとまれば」

「今度は、まとめて狙う」

 鳳が静かに言った。

 その言葉で、全員が黙った。

 ひとかたまりでいれば安全。

 だが、まとまれば一網打尽にされるかもしれない。

 分かれれば、ひとりずつ狙われる。

 どちらも罠。

 生存者たちの顔に、絶望が滲んだ。

 朽木が低く言った。

「どうすればいいんです」

 誰もすぐには答えられなかった。

 九条が真壁の腕の中で、浅く息をしながら言った。

「順番……」

「喋るな」

「順番を、こっちで決める」

 真壁は九条を見る。

 九条は目を開けていない。

 それでも、言葉だけを絞り出す。

「犯人に、呼ばれた場所へ行かない。俺たちが、場所を決める。死体も、怪我人も……運べるものは、こっちが決めた順で……」

「九条」

「真壁、現場は壊れる」

 九条の声は苦かった。

「でも、人が死ぬよりまし」

 真壁は目を閉じた。

 九条がそれを言う。

 現場を読むために、現場を守る男が。

 だが、今はそういう夜だった。

 死体より、生きている者。

 記録より、呼吸。

 真壁は顔を上げた。

「全員、玄関広間へ戻る」

 朽木が叫びかける。

「またですか」

「今度は、俺たちの順番で戻る」

 真壁は言った。

「先に鳳さんが床を見る。二階堂が声とモニターを見る。俺が人の位置を見る。九条は喋るな。小夜子さんは二階堂の隣。鳴海さんは朽木さんと。氷室さんは壁に触らず、中央を。烏丸さんは動かせない。だから階段下を中心に、一時的に全員で広がる」

「広がる?」

「ひとかたまりじゃなく、互いが見える距離で円を作る」

 二階堂がすぐに理解した。

「一か所に固まらない。でも、誰も視界から消えない」

「そうだ」

 鳳が頷いた。

「反射と死角を減らせます」

 真壁は続けた。

「犯人が声で呼んでも動かない。灯が消えても動かない。名前が出ても動かない。動くときは、こっちが決める」

 全員が黙って聞いていた。

 恐怖は消えていない。

 むしろ濃くなっている。

 だが、恐怖の中に一本だけ線が通った。

 犯人の順番に乗らない。

 それだけが、今できる抵抗だった。

 そのとき、館内のモニターが一斉に赤く点いた。

 生存者たちは反射的に身を縮める。

 真壁は見ない。

 二階堂が見る。

「表示」

「読め」

 二階堂は息を呑んだ。

「――とおあまりひとつ、言葉を殺す」

 真壁は二階堂を見た。

 二階堂の顔から、すっと血の気が引いていく。

 次。

 第十一灯。

 二階堂壮也。

 広報。

 言葉を置く者。

 これまで犯人の言葉と戦ってきた男。

 モニターには、まだ名前は出ていない。

 だが、もう十分だった。

 館は次の獲物を、全員に理解させた。

 九条が、真壁の腕の中でかすかに言った。

「二階堂……」

「喋るな」

 真壁が言う。

 二階堂は一歩、後ろへ下がった。

 小夜子が袖を掴もうとして、声のないまま泣きそうな顔をする。

 二階堂は彼女の手をそっと押さえた。

「大丈夫」

 そう言った声が、少しだけ震えていた。

 本人も気づいただろう。

 言葉で場を支えてきた男の声が、初めて崩れた。

 真壁は言った。

「二階堂」

「何」

「まだ、お前の名前も置かせない」

 二階堂は、薄く笑おうとした。

 だが失敗した。

「頼むよ」

 短い返事だった。

 その一言に、恐怖が滲んでいた。

 外では十個目の灯が消えていた。

 湖面には、消えたはずの灯がまだ揺れている。

 残り二灯。

 館は、言葉を殺す準備を始めていた。

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