表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/16

第七章 むっつ灯して、水に映す

 水は、死体を隠す。

 だが、もっと厄介なのは、水が死体を見せることだった。

 沈んだものを、そこにあるように見せる。

 映っただけのものを、そこに沈んだように見せる。

 人は水面に揺れる影を見て、勝手に意味を与える。

 黒い服なら人だと思う。

 白い手なら溺れていると思う。

 長い髪なら女だと思う。

 夜の湖面に映った顔なら、死者だと思う。

 そして一度そう思ったあとで、人はなかなか戻れない。

 見た。

 確かに見た。

 そう言い張る者ほど、本当は何を見たのかわかっていない。

 十二灯館の湖は、最初からそのためにあったのかもしれない。

 真壁彰は、温室の曇ったガラス越しに湖を見ながら、そう思った。

     *

 湖面に映った黒い影は、ほんの数秒で消えた。

 消えたというより、ほどけた。

 黒い人影の形をしていたものが、波に裂かれ、灯の反射に引き伸ばされ、ただの暗い揺らぎに戻った。

 だが小夜子の悲鳴は、まだ館内に残っていた。

「湖に、誰かいる!」

 その声を聞いた瞬間、何人かが動きかけた。

 氷室圭吾は玄関広間の方へ走ろうとした。

 朽木怜二は窓へ近づこうとした。

 鳴海栞は温室の花の中で浅い呼吸を続けている。

 九条雅紀は烏丸鏡花のもとへ戻りかけたところで足を止めた。

 二階堂壮也は、真壁を見た。

 行くべきか。

 行かないべきか。

 その問いが、全員の顔に浮かんでいた。

 真壁は言った。

「誰も湖を見に行くな」

 声は低かった。

 それでも、温室の中にも、回廊の外にも届いた。

「でも、瑠璃子さんが」

 小夜子が叫んだ。

 彼女は温室へ続くガラス回廊の入口で、両手を胸元に押し当てていた。

 顔が真っ白だった。

 黒い服の肩が震えている。

 御子柴瑠璃子の名を口にするたび、彼女自身の輪郭まで薄れていくように見えた。

「まだ瑠璃子さんだと決めるな」

 真壁は言った。

「人だとも決めるな。落ちたとも決めるな。沈んだとも決めるな」

「だって、見たんです!」

 小夜子の声がひび割れた。

「黒い服の人が、水に……沈んで……」

「水面に映ったものを見たんですか。実物を見たんですか」

 小夜子は言葉を失った。

 その沈黙が、答えだった。

 二階堂が静かに小夜子へ歩み寄る。

「小夜子さん。見えた場所を教えて」

「湖上回廊の、下……」

「下?」

「水の上です。回廊の下の水面に、黒い人が映っていて……それが、すっと……」

「回廊の上は見ましたか」

「え?」

「黒い人影の本体。水面に映っていたなら、どこかに本体があるはずです。回廊の上、ガラス、窓、温室の中、どこか」

 小夜子は震えながら首を振った。

「見てません。水しか……」

「ありがとう」

 二階堂はそれ以上追い詰めなかった。

 だが、真壁にはわかった。

 小夜子が見たのは、水面の影だけだ。

 人ではない。

 少なくとも、人と断定できるものではない。

 鳳恭介が、温室の窓枠を見ていた。

「この角度なら、あり得ます」

 真壁は振り向く。

「何が」

「温室のガラスに映った人物が、さらに湖面に重なって見える。特に今は、内側の湿気でガラスが曇っている。光が拡散する。室内にいる黒い服の人物が、湖面に立っているように見える場合があります」

「温室の中にいた人物が、湖に映った?」

「あるいは、温室のガラスそのものに映ったものを、小夜子さんが湖面の影だと思った」

 二階堂が眉を寄せる。

「でも、小夜子さんは回廊から見ていた」

「その位置が重要です」

 鳳はガラス越しに湖上回廊を見た。

「この館は、湖面とガラスと外壁灯が三重に反射します。正面からなら区別できますが、斜めから見ると、どれが実像でどれが反射かわからなくなる」

「つまり、湖に誰かが落ちたとは限らない」

「はい」

 小夜子がかすれた声で言った。

「でも、瑠璃子さんがいないんです」

 それは事実だった。

 御子柴瑠璃子は消えている。

 その事実だけは、反射ではない。

 真壁は温室の床に倒れた鳴海栞を見た。

 鳴海は意識を失っている。

 九条の見立てでは、致死量ではない何かを吸わされたか、眠らされた可能性がある。

 死なないように置かれている。

 白い花の中に、被害者として。

 つまり、第五灯の被害は鳴海だった。

 では、瑠璃子の消失は何か。

 第六灯か。

 それとも、第六灯を見せるための準備か。

「全員の位置を確認する」

 真壁は言った。

「二階堂。生存者を数えろ」

 二階堂はすぐに頷いた。

「真壁、俺、九条、鳳さん。小夜子さん、氷室さん、朽木さん。鳴海さんは温室で意識不明。烏丸さんは階段下で重傷。死者は西園寺さん、葛城さん、蓮見さん。瑠璃子さんが不明」

「七人が動ける」

「鳴海さんを入れれば八人。ただし意識なし。烏丸さんは動かせない」

「よし」

 真壁は鳳を見た。

「湖上回廊へ行く。正規ルートと裏導線、両方確認する。鳳さんは俺と正規ルート。二階堂は九条のところへ戻って、鳴海さんと烏丸さん、動ける全員を視界に入れろ」

 二階堂が顔をしかめる。

「俺が残る?」

「鳴海さんを死なせるな。烏丸さんもだ。小夜子さんも一人にするな」

「真壁」

「湖へ走るのは犯人の順番かもしれない」

 二階堂は黙った。

 言いたいことはある。

 だが、わかっている。

 今、全員が湖上回廊へ向かえば、温室も階段下も玄関広間も空く。

 鳴海も烏丸も、無防備になる。

 犯人がそれを待っている可能性がある。

「了解」

 二階堂は短く答えた。

「小夜子さんは?」

「ここに残す」

 小夜子が顔を上げた。

「嫌です。瑠璃子さんを探しに――」

「だめです」

 真壁は言った。

「あなたは、瑠璃子さんと服装や輪郭が似ている」

 小夜子は息を呑んだ。

「え……」

「犯人が、あなたと瑠璃子さんを入れ替えて見せる可能性がある。あなたが動くと、目撃証言がさらに壊れる」

「私が……瑠璃子さんに?」

「似ているかどうかは問題じゃない。似て見える条件が揃っている」

 二階堂が続けた。

「黒い服、まとめた髪、暗い照明、ガラス、湖面。小夜子さんと瑠璃子さんは、近くで見れば違います。でも遠目や反射なら、誰かが間違える可能性がある」

 小夜子は唇を震わせた。

「だから、私じゃないって……」

 その言葉に、真壁は反応した。

 私じゃない。

 烏丸が言った。

 鳴海も言った。

 私じゃない。

 誰かの名前を押しつけられた人間が、同じ言葉を口にしている。

「今、何と言いましたか」

 真壁が訊くと、小夜子は怯えたように瞬きをした。

「え?」

「私じゃない、と」

「……だって、皆さんが、私と瑠璃子さんを間違えるかもしれないって」

「前にも言ったことがありますか」

「ありません」

「本当に?」

「はい」

 小夜子の声は震えていたが、嘘をついているようには見えなかった。

 ただ、恐怖が言葉を先回りさせている。

 この館では、自分が自分であることすら証明しなければならない。

「小夜子さん」

 二階堂が穏やかに言った。

「あなたはここにいてください。俺の視界から出ないで」

「でも」

「瑠璃子さんを探すためです」

 その言い方はうまかった。

 禁止ではなく、協力にする。

 小夜子は泣きそうな顔で頷いた。

「……はい」

 真壁は鳳とともに、湖上回廊へ向かった。

     *

 温室の先にあるガラス扉を抜けると、湖上回廊へ出る。

 名前の通り、回廊は湖の上へ突き出していた。

 床は古い木板で、左右は腰高の柵。

 その外側はすぐ湖だ。

 屋根はあるが、壁はない。

 夜風がまともに吹き込み、温室の湿気を一瞬で奪っていく。

 足元の木板が、ぎし、と鳴った。

 真壁は立ち止まった。

「危険か」

 鳳が床を見た。

「老朽化はありますが、今すぐ抜けるほどではない。ただ、濡れています」

 確かに、木板の表面には薄く水が乗っていた。

 湖から吹き上げた飛沫か。

 夜露か。

 あるいは、誰かが水を撒いたのか。

 回廊の外壁側には、灯が並んでいる。

 そのひとつが、まだ点いていた。

 第六灯。

 湖上回廊に対応する灯。

 真壁はその灯を見ないようにした。

 消えるところを待つな。

 灯に順番を決めさせるな。

「痕跡は」

 真壁が訊く。

 鳳は床に目を落とした。

「足跡が複数あります。濡れているせいで輪郭が残っている。ただ、風で乾きかけている」

「瑠璃子さんのものか」

「靴底を照合しないとわかりません」

「小さいものは」

「二種類あります。女性用と思われる細い靴跡。ひとつは温室側から回廊中央へ。もうひとつは、戻っているようにも見える」

「二人いた?」

「あるいは、同じ人物が往復した」

 真壁は屈み、床を見る。

 湖上回廊の中央あたりに、水滴が多く集まっている場所があった。

 柵の近く。

 そこだけ、木板が濃く濡れている。

 落ちた場所に見える。

 だが、それが罠だとしたら。

「柵に傷がある」

 鳳が言った。

 真壁は近づく。

 柵の上部に、布が擦れたような跡がある。

 黒い繊維が一本、木のささくれに引っかかっていた。

「黒い服」

「可能性はあります」

 鳳は柵の外を見た。

 湖面が黒く揺れている。

 外壁灯の反射が、長く伸びている。

 少し離れた温室のガラスには、真壁と鳳の姿が映っている。

 その姿がさらに湖面に重なり、まるで水の中に二人立っているように見えた。

「ひどいな」

 真壁は言った。

「これは証言が壊れる」

「ええ」

 鳳の声も硬かった。

「この位置に立つと、温室の中の人物、回廊の上の人物、湖面の反射が重なります。しかも外壁灯が背後から当たる。黒い服なら輪郭だけになる」

「瑠璃子さんと小夜子さんを入れ替えられるか」

「条件次第では」

「人形は」

 鳳は一瞬だけ真壁を見た。

「使えます」

「どうやって」

「黒い布を着せた軽い人形か、衣服だけを吊るしたものを柵の外へ垂らす。湖面には人影のように映る。実体はすぐ引き上げられる。見た者は、湖に沈んだと思う」

「落下音は」

「湖面への落下音が必要なら、別に重りを落とせばいい。逆に、風が強いので音は曖昧になります」

 真壁は湖を見た。

 黒い水。

 揺れる反射。

 そこには何もない。

 少なくとも、今は。

「瑠璃子さんが本当に落ちた可能性は」

「あります」

 鳳はためらわず答えた。

「ただし、落ちたところを見た証言はまだありません。見たのは、湖面の影だけです」

 そのとき、回廊の奥で小さな音がした。

 金属が柵に触れる音。

 真壁は顔を上げた。

 回廊の先は、行き止まりではない。

 湖の上へ突き出した先に、小さな展望スペースがある。

 そこから右へ折れると、古い舟着き場へ続く下り階段があるはずだった。

 鳳が囁く。

「奥です」

「見えてる」

 真壁は足音を殺して進んだ。

 展望スペースへ出る。

 誰もいない。

 だが、柵の内側に黒い布が引っかかっていた。

 女性用のストールか、薄手のショール。

 濡れている。

 真壁は触らない。

「御子柴さんのものか」

 鳳が見る。

「似ています。ですが、断定はできません」

 真壁は周囲を確認した。

 展望スペースの床には、細い線があった。

 まただ。

 透明な糸。

 階段のワイヤーほど硬くはない。

 むしろ釣り糸に近い。

 柵の下部から、床板の隙間へ消えている。

「鳳さん」

「はい」

「これを引くと?」

 鳳は糸の方向を目で追った。

「柵の外へ何かを垂らすか、引き上げる仕掛けでしょう。床板の隙間を通して、下の梁へ回している」

「今は」

「切れています」

 鳳が言った。

「使われたあとです」

 真壁は湖面を見下ろした。

 回廊の下には、梁がいくつも走っている。

 黒い水のすぐ上に、木と鉄の構造が複雑に組まれていた。

 その一部に、黒い布の切れ端が絡んでいる。

 人形か。

 衣服か。

 それとも本当に、瑠璃子が落ちる際に引っかかったのか。

「下り階段を見る」

 真壁は言った。

 展望スペースの右手に、舟着き場へ降りる階段があった。

 古い鉄階段だ。

 濡れて錆びている。

 踏み板には滑り止めがついているが、一部が剥がれている。

 湖面に近づくほど闇が濃くなる。

 真壁は慎重に下りた。

 風が強い。

 水音が近い。

 下りきると、小さな舟着き場があった。

 昼間なら船を横付けできる場所だろう。

 今は波が打ちつけ、木製の桟橋がきしんでいる。

 そこに、黒い靴が片方落ちていた。

 女性用。

 濡れている。

「瑠璃子さんの靴か」

 真壁が言う。

 鳳は少し離れた場所から見た。

「可能性はあります。ただ、置かれ方が不自然です」

「どう不自然だ」

「波が当たる場所ではありません。ここに落ちたなら、もっと水に流されるか、逆に奥へ入り込む。これは、見つけやすい位置に置かれています」

「置かれた」

「少なくとも、そう見えます」

 真壁は靴を見下ろした。

 濡れた黒い靴。

 黒いショール。

 湖面の影。

 証拠が多すぎる。

 多すぎる証拠は、だいたい誰かが置いている。

「死体はない」

 真壁は言った。

「はい」

「血痕もない」

「見える範囲では」

「落下の確証もない」

「ありません」

 真壁は湖を見た。

 黒い水は、答えを返さない。

 そのとき、上の回廊で声がした。

 二階堂だった。

「真壁!」

「どうした!」

「第六灯が!」

 真壁は階段を駆け上がった。

 回廊へ戻る。

 外壁の灯のひとつが、ふっと消えた。

 第六灯。

 音はない。

 もう、誰も驚かない。

 驚かないことが、ひどかった。

 人間は慣れる。

 死にも、消灯にも、名前にも。

 それが、この館の恐ろしさだった。

 温室側のモニターが赤く点いた。

 いや、湖上回廊の柱に埋め込まれた小型モニターだった。

 これまで闇に紛れて見えなかっただけだ。

 文字が浮かぶ。

 ――むっつ灯して、水に映す。

 白い名前。

 ――御子柴瑠璃子。

 ――第六灯、消灯。

 さらに一行。

 ――沈んだ者は、水の中で名を変える。

 小夜子が泣き崩れた。

「瑠璃子さん……!」

 真壁は強く言った。

「まだ死体はない」

 小夜子は泣きながら首を振る。

「でも、名前が……!」

「名前は犯人が置いたものです」

 真壁はモニターを睨んだ。

「死体じゃない」

 その言葉は、小夜子に向けたものでもあり、自分に向けたものでもあった。

 名前が出た。

 灯が消えた。

 見立ての文が表示された。

 だが死体はない。

 御子柴瑠璃子が死んだとは、まだ決めない。

 二階堂が息を整えながら言った。

「真壁、さっき小夜子さんが見た影、全員じゃないけど、氷室さんと朽木さんも見てる。鳴海さんは意識なし。九条は烏丸さんの処置中」

「誰が最初に瑠璃子さんの名前を出した」

 二階堂はすぐ答えた。

「小夜子さん」

「その前に誰かが?」

「少なくとも俺は聞いてない。ただ、モニターに名前が出る前に、小夜子さんは瑠璃子さんだと叫んだ」

 真壁は小夜子を見る。

 彼女は泣いている。

 だが、その泣き方もまた、犯人に利用されているのかもしれない。

「小夜子さん」

 真壁は呼んだ。

「あなたは本当に、あの影を瑠璃子さんだと思ったんですか」

 小夜子は涙の中から顔を上げた。

「思いました」

「なぜ」

「黒い服で、髪をまとめていて、瑠璃子さんと同じで……」

「あなたも同じです」

 小夜子は息を呑んだ。

 二階堂が静かに補う。

「小夜子さん。もし別の誰かが、あなたの影を見ていたら、瑠璃子さんだと思ったかもしれない」

「そんな……」

「犯人はそれを使っている」

 真壁は言った。

「瑠璃子さんが消えた。あなたが影を見た。名前を叫んだ。第六灯が消えた。モニターに瑠璃子さんの名前が出た。これで全員が、瑠璃子さんは湖に沈んだと思う」

「違うんですか」

「まだわからない」

「でも、靴が」

 小夜子の目が、真壁の手元に向いた。

 真壁は靴を持っていない。

 触っていない。

 だが彼女は、靴の存在を知っているような目をした。

 真壁の中で何かが止まった。

「小夜子さん」

「はい」

「靴を見ましたか」

 小夜子の顔色が変わった。

「え?」

「湖上回廊の下に、黒い靴が落ちていました。俺はまだ誰にも言っていない。あなたはなぜ、靴と言ったんです」

 二階堂の表情が変わった。

 小夜子は青ざめた。

「違います。私は……瑠璃子さんが、さっき、靴が片方痛いって言っていたから……」

「いつ」

「温室へ行く前です。回廊のところで、少し足を気にしていて」

「誰か聞いていましたか」

 小夜子は周囲を見る。

 誰も答えない。

 氷室は首を振った。

 朽木も黙っている。

 二階堂は低く言った。

「その証言は保留」

「私、嘘なんて」

「嘘と決めていません」

 真壁は言った。

「ただし、順番を確認します」

 小夜子は震えていた。

 責められているというより、自分の記憶が自分を裏切り始めていることに怯えているようだった。

 この館では、見たことも、聞いたことも、思い出したことさえ信用できない。

 鳳が、回廊の柵を見ていた。

「真壁さん」

「何です」

「この仕掛け、見せるためだけではないかもしれません」

「どういう意味です」

「黒い布や影を湖面に映すための仕掛けなら、もっと簡単でいい。ですが、これは舟着き場の下まで糸が伸びています。誰かが下から操作した可能性がある」

「舟着き場にいた人間が?」

「あるいは、裏導線から舟着き場へ出た人間」

 二階堂が顔を上げる。

「つまり、瑠璃子さん本人が操作した可能性もある?」

 鳳は静かに答えた。

「可能性としては」

 小夜子が叫ぶ。

「瑠璃子さんが、そんなことするわけありません!」

「まだ誰も決めていません」

 真壁は言った。

 だが、その可能性は消せない。

 御子柴瑠璃子は消えた。

 死体はない。

 靴と布は置かれたように見える。

 湖面の影は反射かもしれない。

 ならば、瑠璃子は殺されたのではなく、自分で消えた可能性もある。

 あるいは、誰かに消えさせられた。

 どちらにせよ、彼女はこの事件の中心へ近づいている。

「瑠璃子さんは、二十年前の少女について何か知っていた」

 真壁は言った。

 小夜子が震える声で答える。

「知っていたと思います」

「何を」

「名前を」

 回廊に、風が吹き抜けた。

「瑠璃子さんは、知っていました。あの子の名前を」

「その名前は」

 小夜子は首を振った。

「教えてくれませんでした。ただ、言っていました。名前を呼んだら、全部戻ってくるって」

「全部?」

「二十年前に、沈めたものが」

 二階堂が低く言った。

「水の中で名を変える」

 モニターの文面。

 沈んだ者は、水の中で名を変える。

 犯人は、瑠璃子の言葉を知っている。

 あるいは、瑠璃子自身が、その文面を作れる立場にいる。

 真壁はモニターを見た。

 赤い光。

 白い名前。

 御子柴瑠璃子。

 第六灯、消灯。

 だが、彼女はここにいない。

 死体もない。

 あるのは名前だけ。

「真壁」

 二階堂が言った。

「嫌なこと言っていい?」

「言え」

「瑠璃子さん、死んでないと思う」

「根拠は」

「文章が違う」

「文章?」

「西園寺さん、葛城さん、蓮見さんは、死後に発表された。鳴海さんは死者のように置かれた。でも瑠璃子さんの文面は“沈んだ者”って言ってる。死んだとは書いてない。水の中で名を変える。これは死亡宣告じゃなくて、身元を曖昧にする文だ」

 真壁は黙った。

 二階堂は続ける。

「犯人は、瑠璃子さんを殺したと見せたいんじゃない。瑠璃子さんが誰なのか、わからなくしたい」

「水に映して」

「そう」

 二階堂は湖を見た。

「本物じゃなく、反射で」

 鳳が静かに言った。

「そして、反射は左右を反転させます」

 真壁は鳳を見る。

「左右?」

「小夜子さんと瑠璃子さんの見分けに、何か左右差はありますか」

 二階堂が考える。

「髪の分け目?」

 小夜子が小さく答えた。

「瑠璃子さんは、左に髪を流しています。私は右です」

 鳳は頷いた。

「湖面に映れば、それは逆になります」

 真壁の背筋が冷えた。

 反射で見た瑠璃子は、小夜子に見える。

 反射で見た小夜子は、瑠璃子に見える。

 この館は、そこまで利用できる。

「小夜子さん」

 真壁は言った。

「あの影の髪は、どちらへ流れていましたか」

 小夜子は目を見開いた。

 答えられない。

 当たり前だ。

 湖面に揺れる影の髪の向きなど、見ているはずがない。

 だが、見たと思い込んでいる人間は、後から記憶を作ることがある。

 真壁はそれを待った。

 小夜子は、震えながら言った。

「……わかりません」

 その答えに、真壁はわずかに頷いた。

 正しい。

 わからないと言えるうちは、まだ犯人の物語に完全には乗っていない。

 そのとき、湖上回廊の奥で、また音がした。

 水音ではない。

 人の声だった。

 かすかに。

 女の声。

「……呼ばないで」

 全員が息を止めた。

 声は湖から聞こえたようだった。

 だが湖が喋るはずはない。

 回廊の下か。

 温室のガラスか。

 舟着き場か。

 それとも、館内放送か。

「今の」

 二階堂が言う。

「瑠璃子さん?」

 小夜子が呟く。

 真壁は即座に言った。

「決めるな」

 声がもう一度聞こえた。

 今度は少しはっきりと。

「……名前を、呼ばないで……」

 烏丸が言った言葉。

 鳴海が言った言葉。

 そして今、水の方から聞こえる声。

 名前を呼ばないで。

 真壁は湖上回廊の柱を見た。

 そこに、小さなスピーカーが埋め込まれていた。

 はじめから、館内放送のような声はあった。

 モニターもあった。

 音の方向も狂っていた。

 声は人間の声とは限らない。

 録音かもしれない。

 切り取られた言葉かもしれない。

「二階堂」

「見えてる」

 二階堂は柱のスピーカーを見ていた。

「録音だ」

「誰の声かわかるか」

「似てる。瑠璃子さんにも、小夜子さんにも、鳴海さんにも。わざと加工してるか、反響で混ざってる」

 犯人は声まで曖昧にした。

 名前を奪うために。

 そのとき、柱のモニターが再び点滅した。

 赤い文字が変わる。

 ――水は、最初に名を映す。

 次の行。

 ――正しい名を呼んだ者だけが、次へ進める。

 小夜子が震えた。

「正しい名……?」

 二階堂が低く舌打ちした。

「最悪」

「何だ」

 真壁が訊く。

「犯人は、ここで名前当てをさせたいんだ。湖に映った影が誰か。瑠璃子さんか、小夜子さんか、あの子か。正しい名を呼べって」

「呼んだらどうなる」

「次へ進める、だってさ」

 真壁はモニターを睨んだ。

 正しい名。

 この事件の中心。

 奪われた名前。

 押しつけられる名前。

 呼んではいけない名前。

 真壁は、低く言った。

「呼ばない」

 小夜子が顔を上げた。

「え?」

「犯人が呼べと言っている名前は呼ばない」

「でも、瑠璃子さんを助けるには」

「名前を呼ぶことと、助けることは違う」

 真壁は湖上回廊の全員を見た。

「この館では、名前を呼んだ瞬間に、その人間の役が決まる。西園寺さんは最初に名前を呼ばれて死体になった。葛城さんは席に名前を置かれて死んだ。烏丸さんは少女にされた。蓮見さんは記録に埋められた。鳴海さんは花の中で死者にされた。今度は瑠璃子さんを、水の中の誰かにしようとしている」

 真壁は拳を握る。

「だから呼ばない。見たものを、まだ名前にしない」

 二階堂が小さく息を吐いた。

「真壁らしい」

「褒めてるのか」

「かなり」

 鳳が湖面を見ていた。

「真壁さん」

「何です」

「見たものを名前にしないなら、次に見るべきものがあります」

「何です」

「水面ではなく、水面を映しているものです」

「ガラスか」

「はい」

 鳳は温室のガラスを示した。

「小夜子さんが見た影は、湖面そのものではなく、温室ガラスに映ったものかもしれない。なら、影の元は温室の中か、その手前にいた」

 真壁は温室を見た。

 温室には鳴海が倒れていた。

 真壁と鳳が発見した。

 その前に、誰かがいた可能性がある。

 黒い服の人物。

 瑠璃子か。

 小夜子か。

 鳴海か。

 あるいは、黒い服を着せた人形か。

「温室へ戻る」

 真壁は言った。

「二階堂、小夜子さんを連れて。鳳さん、ガラスの反射位置を見てください」

「了解」

 そのときだった。

 湖上回廊の下、舟着き場の方から、何かが水面に浮かび上がった。

 黒いもの。

 布だ。

 人ではない。

 黒い布の塊が、水を吸って重くなり、波に揺れている。

 その上に、白いものが貼りついていた。

 小さな紙片。

 真壁は舟着き場へ下り、身を乗り出した。

 棒がない。

 手を伸ばすには危険すぎる。

 鳳が近くにあった古い船竿を見つけ、慎重に布を寄せた。

 引き上げる。

 黒い布は、喪服の上着の一部だった。

 袖だけ。

 人間の身体はない。

 袖口に、白い紙片が結びつけられている。

 真壁は触らず、ライトを当てた。

 紙には、手書きで一行。

 ――これは御子柴瑠璃子ではない。

 小夜子が息を呑んだ。

 二階堂が低く言った。

「犯人が否定してきた」

 真壁は紙を見つめた。

 これは御子柴瑠璃子ではない。

 なら、誰なのか。

 そう考えさせるための文。

 また名前を探させる。

 真壁は目を閉じそうになった。

 犯人は、こちらが名前を置くのを待っている。

 置いた瞬間、それを次の罠にする。

 だから。

「まだ誰でもない」

 真壁は言った。

「これは布だ。人間じゃない。瑠璃子さんでも、小夜子さんでも、少女でもない」

 小夜子が涙を流しながら頷いた。

 そのとき、遠くで鳴海の咳き込む声がした。

 九条の声も続く。

「真壁!」

 真壁は振り返る。

「鳴海さんが意識を戻した!」

 湖上回廊のモニターは、まだ赤く光っている。

 御子柴瑠璃子。

 第六灯、消灯。

 だが死体はない。

 あるのは影と、布と、否定文だけ。

 真壁は温室へ走り出した。

 走りながら、思った。

 御子柴瑠璃子は死んでいない。

 少なくとも、犯人は死体を見せていない。

 死体を見せずに名前だけを置いた。

 それは、死よりも厄介だった。

 死体がない限り、名前は揺れ続ける。

 水面の灯のように。

 反射の中の顔のように。

 そしてその揺れの中で、人は自分の見たいものを見てしまう。

     *

 温室に戻ると、鳴海栞は半身を起こしかけていた。

 九条がそれを押さえている。

「動くな」

「でも、瑠璃子さんが……」

 鳴海の声は掠れていた。

 意識は戻っているが、まだ朦朧としている。

 額に汗が滲み、呼吸は浅い。

 それでも目だけは必死だった。

「鳴海さん」

 真壁は膝をついた。

「御子柴瑠璃子さんは、どこにいますか」

 鳴海は目を見開いた。

「知りません」

「本当に?」

「知りません……でも」

「でも?」

「湖には、いません」

 温室の空気が止まった。

 二階堂がゆっくり鳴海を見る。

「なぜそう言えるんですか」

 鳴海は唇を震わせた。

「瑠璃子さんは……水が怖いんです」

「水が?」

「二十年前から」

 小夜子が泣きながら言った。

「違います。瑠璃子さんは、いつも湖を見ていました」

「見ることと、近づくことは違います」

 鳴海は苦しげに息をする。

「瑠璃子さんは、湖には近づかない。少なくとも、自分から水へ落ちることはありません」

「それを、なぜあなたが知っている」

 真壁が訊く。

 鳴海は黙った。

 真壁は続けた。

「鳴海さん。あなたは二十年前のことを、資料以上に知っていますね」

 鳴海の目が揺れた。

「……私は」

「第七名の少女を知っている」

「知りません」

「では、なぜ“名前を戻さないと”と言った」

 鳴海の顔が強張る。

 意識が曖昧な中で漏らした言葉。

 名前を戻さないと。

 二階堂が静かに言った。

「鳴海さん。ここから先は、言葉を選ばない方がいいです。選んだ言葉は、犯人に使われる」

 鳴海は二階堂を見た。

 その目に、怯えと疲労が浮かんでいる。

「私は……」

 彼女が言いかけた瞬間、温室のスピーカーから音がした。

 女の声。

 加工され、反響した声。

「名前を、呼ばないで」

 鳴海の身体がびくりと震えた。

 声は続く。

「呼んだら、次はあなた」

 小夜子が泣き声を漏らす。

 鳴海は両手で耳を塞ごうとした。

 九条がそれを止める。

「動くな」

 スピーカーの声は、笑わなかった。

 ただ、静かに同じ言葉を繰り返した。

「名前を、呼ばないで」

 真壁は温室の天井を見上げた。

 犯人は聞いている。

 どこかで。

 見ている。

 そして、会話の切れ目に言葉を差し込んでくる。

 人間が真相へ近づくたびに、名前を封じる。

「二階堂」

「わかってる」

 二階堂はスピーカーと配線を探し始めた。

 鳳も天井を見る。

「温室の制御盤は奥です」

「行く」

 二階堂が言う。

「一人で行くな」

 真壁が止める。

「俺も行く」

 鳳が言った。

「配線なら僕が見た方が早い」

 真壁は二人を見た。

 二階堂と鳳。

 言葉を読む男と、建物を読む男。

 どちらも犯人に近い場所へ置かれている。

 だが、今はこの二人が必要だった。

「行け。ただし互いから離れるな」

「了解」

 二階堂と鳳が温室奥へ向かった。

 九条は鳴海を押さえながら、真壁を見る。

「真壁」

「何だ」

「鳴海さん、恐怖反応は本物だと思う」

「犯人ではない?」

「そこまでは言ってない」

 九条は鳴海の脈を見る。

「でも、少なくとも今の声には本気で怯えてる」

「演技の可能性は」

「ある」

「だろうな」

 真壁は鳴海を見る。

 鳴海は震えている。

 白い花の中で、まだ死者のように置かれたまま。

 犯人なのか。

 被害者なのか。

 それとも、被害者であり犯人なのか。

 この館では、その境目すら曖昧になる。

「鳴海さん」

 真壁は声を低くした。

「名前を呼ばないで、というのは誰の名前です」

 鳴海は目を閉じた。

 答えない。

「御子柴瑠璃子さんですか」

 答えない。

「神楽坂小夜子さんですか」

 答えない。

「第七名の少女ですか」

 鳴海の頬を、涙が一筋流れた。

 それが答えだった。

 真壁はそれ以上訊かなかった。

 訊けば、名前を置くことになる。

 今はまだ、その名前を犯人の前に出してはいけない。

 温室の奥で、二階堂の声がした。

「真壁!」

「どうした!」

「スピーカーの配線、切れた。でも録音装置がある。タイマーじゃない。遠隔でもない」

「何だ」

「人感センサーだ!」

 鳳の声が続いた。

「誰かがこの温室に入ったタイミングで、音声が再生される仕組みです!」

 真壁は鳴海を見る。

 鳴海が目覚めたタイミングではない。

 真壁たちが戻ってきたタイミング。

 犯人が聞いていたのではない。

 聞いているように見せていた。

 また、見せ方。

 また、順番。

 真壁は息を吐いた。

「鳴海さん」

 彼は言った。

「犯人は今ここを見ていないかもしれない」

 鳴海が目を開く。

「だから話せます。第七名の少女の名前を、今ここで呼ぶ必要はない。ですが、その名前を知っているかどうかだけ答えてください」

 鳴海は長い沈黙のあと、かすかに頷いた。

 小夜子が息を呑む。

 九条の目が細くなる。

 真壁は、静かに言った。

「よし」

 名前を聞くのは、まだ後だ。

 順番を守る。

 そのとき、外で何かが水を打つ音がした。

 全員が湖を見る。

 黒い水面に、波紋が広がっていた。

 だが何が落ちたのかは見えない。

 遅れて、湖上回廊のスピーカーから、また声が流れた。

 今度は、女の声ではない。

 機械的な、平坦な声。

「次の名を、準備してください」

 モニターに赤い文字が浮かぶ。

 ――ななつ灯して、声を奪う。

 小夜子の顔から、血の気が消えた。

 第七灯。

 次の名前が、もう置かれようとしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ