表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/16

第六章 いつつ灯して、花を閉じる

 花は、死体に似ている。

 切られたあとも、しばらく美しい。

 水を吸い、色を保ち、匂いを放ち、見る者にまだ生きているような錯覚を与える。

 だが根はない。

 土から離れた瞬間、花はすでに死へ向かっている。

 美しさとは、死が遅れて見えているだけなのかもしれない。

 十二灯館の温室に足を踏み入れたとき、真壁彰はそんなことを考えた。

 考えたくて考えたのではない。

 そう思わされる場所だった。

     *

「瑠璃子さんがいない!」

 神楽坂小夜子の悲鳴は、廊下に細く伸びた。

 右から聞こえたようでもあり、左から聞こえたようでもあった。

 書庫の紙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。

 蓮見詩穂の死体。

 紙に埋もれた身体。

 黒く塗られた名前。

 第七名。

 少女。

 氏名確認不能。

 そのすべてがまだ整理されないうちに、次の名前が叫ばれた。

 御子柴瑠璃子。

 まだ第六灯のはずだった。

 いや、真壁たちは“はず”という言葉を使える立場にない。

 それは犯人が用意した順番だ。

 西園寺雅治。

 葛城慎一郎。

 烏丸鏡花。

 蓮見詩穂。

 四つの灯は、すでに消えていた。

 だが事件は、灯の順番通りに起きているようでいて、少しずつずれている。

 烏丸は灯が消える前に落ちた。

 蓮見は書庫で死んだあとに名前を表示された。

 瑠璃子は、まだ灯が消えていないのに消えた。

 人間のほうが先に消える。

 灯はあとから追いつく。

 そのずれが、真壁には不快だった。

「小夜子さん、落ち着いて」

 二階堂壮也の声が廊下に響く。

 真壁が書庫を出ると、二階堂は小夜子の前に立っていた。

 小夜子は両手を震わせ、瑠璃子のいたはずの場所を見ている。

 鳴海栞は二階堂の背後に立っていた。

 顔色が悪い。

 唇に血の気がない。

「さっきまで、ここに」

 小夜子は何度も同じことを言った。

「ここにいたんです。私、瑠璃子さんの手を掴んでいて……でも、蓮見さんのことを聞いて、書庫の方を見て、声がして、それで……」

「手を離した?」

 二階堂が訊いた。

 小夜子は泣きそうな顔で頷く。

「一瞬だけ」

「その一瞬で、瑠璃子さんがいなくなった」

「はい」

 真壁は周囲を見る。

 玄関広間。

 階段下には烏丸鏡花がいる。

 九条雅紀がそばを離れずに状態を見ている。

 応急処置と呼べるほどの道具はない。

 ただ、身体を動かさず、呼吸を確保し、意識の変化を見ることしかできない。

 食堂には葛城慎一郎の死体。

 玄関広間には西園寺雅治の死体。

 書庫には蓮見詩穂の死体。

 生きている者を安全な一か所に集めるという方針は、もう壊れている。

 どこを安全地帯にしても、そこへ死体か悲鳴が追いかけてくる。

「瑠璃子さんを最後に見たのは」

 真壁が訊く。

 小夜子が答えようとしたが、声にならなかった。

 代わりに朽木怜二が口を開いた。

「私です」

 真壁は朽木を見る。

「どこで」

「応接室へ移動する直前です。御子柴さんは小夜子さんの隣にいました。小夜子さんが蓮見さんの不在に気づき、混乱した。御子柴さんは、小夜子さんを落ち着かせようとしていた」

「その後は」

「書庫の方で騒ぎがありました。皆がそちらを見た。その間に、見失った」

「あなたは動いたか」

「動いていません」

「証明できますか」

 朽木はわずかに目を細めた。

「この状況で、誰が誰の証明をできますか」

「できないなら、できないと記録します」

 二階堂が横から言った。

 その声は柔らかい。

 だが、輪郭は硬かった。

 彼はもう、言葉を武器にされることを恐れていないわけではない。

 むしろ恐れている。

 だからこそ、一語ずつ足場を確かめるように発する。

「鳴海さん」

 二階堂は振り返った。

「あなたは?」

 鳴海は顔を上げた。

「私は……書庫からこちらへ戻る途中でした。蓮見さんのことで、頭がいっぱいで」

「瑠璃子さんは見た?」

「いえ」

「本当に?」

 鳴海の肩が震えた。

 二階堂は畳みかけない。

 黙って待つ。

 その待ち方が、かえって相手に言葉を選ばせる。

「見ていません」

 鳴海は言った。

「御子柴さんがいなくなったと知ったのは、小夜子さんが叫んだあとです」

 真壁は鳴海の声を聞いた。

 嘘と断じるには弱い。

 だが、完全な真実として受け取るにも、何かが残る。

「瑠璃子さんが向かいそうな場所は」

 真壁が言った。

 小夜子がすぐに顔を上げる。

「湖上回廊です」

 その答えは早すぎた。

 真壁は小夜子を見る。

「なぜ」

「だって……」

 小夜子は言葉に詰まった。

「二十年前の少女が、そこで……」

「瑠璃子さんは少女じゃない」

 九条の声がした。

 階段下からだった。

 彼は烏丸のそばに膝をついたまま、こちらを見ていた。

 顔色はいつもより悪い。

 烏丸の呼吸を気にしながら、会話の芯を聞いている。

「見立てに乗るな」

 九条は静かに言った。

「小夜子さん。犯人がそう思わせたいだけかもしれない」

 小夜子は唇を噛んだ。

「でも、瑠璃子さんは、ずっと湖を見ていました」

「いつから」

 真壁が訊く。

「最初からです。船を降りたときも、展示室でも、食堂でも。窓があると、必ず外を見ていました」

「本人は何か言っていたか」

「……水の上には、隠したものが残るって」

 その言葉に、鳴海が顔を上げた。

 真壁は見た。

 鳴海の反応は、やはり少し早い。

「鳴海さん」

 真壁が呼ぶ。

「今の言葉に心当たりがありますか」

「ありません」

「本当に?」

「……二十年前の事件のあと、そういう噂はありました」

「噂?」

「湖に映ったものは、消えたあとも残る。十二灯館では、死者が水面に映り続ける、と」

 二階堂が低く言った。

「都合のいい怪談だね」

「え?」

「湖面反射を、怪談にして隠した。実際に何かを見た人間がいても、“死者が映った”で片づけられる」

 鳴海は答えなかった。

 真壁は湖上回廊の方向を見た。

 だが、すぐには動かない。

 犯人は、叫び声で人を動かす。

 悲鳴。

 名前。

 灯。

 モニター。

 その全部で、真壁たちを次の場所へ走らせる。

 走れば、見落とす。

 焦れば、犯人の順番に乗る。

「鳳さん」

 真壁は言った。

 鳳恭介は、廊下の柱の影に立っていた。

 古い図面の束を抱え、壁の継ぎ目を見ている。

「湖上回廊へ行く動線は」

「正面からなら、玄関広間を抜けて温室横のガラス回廊を通ります。ただし、裏導線があります」

「またか」

 二階堂が苦く笑う。

 鳳は頷いた。

「展示図面には描かれていませんが、古い施工図には温室の裏に保守用通路があります。湖上回廊へ直接出られる可能性があります」

「瑠璃子さんがそこを知っていた可能性は」

「館に詳しければ」

「鳴海さん」

 真壁が言うと、鳴海は小さく首を振った。

「御子柴さんが知っていたかは、わかりません」

「あなたは知っていた」

「資料整理で、古い図面を見たことはあります」

「氷室さんは」

 氷室圭吾は、玄関広間の壁際に立っていた。

 顔色が悪いまま、頷く。

「知っています。ですが、普段は使いません。危険ですし、鍵も……」

「鍵?」

「温室側の管理扉に鍵があります」

「その鍵は」

「管理室に」

「管理室の鍵は消えた」

 二階堂が言った。

 氷室は黙った。

 真壁は決めた。

「二手に分かれる。ただし単独行動は禁止。俺と鳳さんで温室側の保守通路を見る。二階堂は小夜子さんと鳴海さんを連れて、湖上回廊の正規ルートを確認する。九条は烏丸さんから離れるな。氷室さん、朽木さんは九条の視界内にいてください」

「僕もですか」

 朽木が言った。

「そうです」

「私は何も」

「何もしていない証明のためです」

 朽木は黙った。

 真壁は二階堂に目を向ける。

「二階堂」

「何」

「絶対に一人になるな」

「わかってる」

「それと、鳴海さんから目を離すな」

 二階堂は一瞬だけ鳴海を見た。

「了解」

 鳴海はその視線を受けて、わずかに俯いた。

     *

 温室へ向かう回廊は、外の闇に張りついていた。

 片側がガラス張りで、もう片側が石壁。

 湖の黒さが、ガラスの向こうに広がっている。

 外壁の灯が、ガラスと湖面の両方に映る。

 残っている灯が、実数より多く見えた。

 消えた四つの灯の穴も、波と反射で曖昧になる。

 どれが本当に消えているのか。

 どれが映っているだけなのか。

 歩きながら見ていると、目が騙される。

 鳳が言った。

「この回廊は、夜に歩くようには作られていません」

「灯があるのに?」

「灯があるからです」

 真壁は鳳を見る。

「外壁灯と室内灯が、ガラスに二重に映る。視線が外へ抜けず、自分たちの姿と外の灯が重なります。人の位置を錯覚しやすい」

「湖上回廊のトリックに使えるか」

「十分に」

 鳳は静かに答える。

「ただ、今気になるのは温室です」

「なぜ」

「湿度と換気です。書庫もそうでしたが、この館は“空気”を使われている可能性がある」

「蓮見さんの窒息」

「はい。温室は、もっと空気を操作しやすい」

 真壁は足を止めそうになった。

「鳴海さんの第五灯か」

 鳳は答えない。

 答えないことが答えになっている。

 真壁が知っているのは、鳴海が怪しいということだけだ。

 そして怪しい人物ほど、犯人に被害者として置かれることがある。

 疑いを洗うため。

 あるいは、疑いを深めるため。

 温室の扉は、回廊の奥にあった。

 古い鉄枠に、曇ったガラス。

 扉の上部には蔓草の飾りがあり、取っ手には緑青が浮いている。

 鍵はかかっていなかった。

 真壁はハンカチ越しに取っ手を回す。

 扉を開けた瞬間、濃い植物の匂いが押し寄せた。

 湿った土。

 水。

 葉。

 甘く腐った花。

 それから、薄い薬品臭。

 真壁は眉を寄せる。

「臭いが」

「強いですね」

 鳳も顔をしかめた。

 温室の中は、外より暖かかった。

 湿度が高い。

 ガラスの内側に水滴がびっしりついている。

 夜の湖を映すガラス面に、葉の影と灯の反射が重なり、どこまでが外で、どこからが室内なのかわからなくなる。

 中央には細い通路。

 左右に鉢植えとプランターが並ぶ。

 奥には、古い噴水のような水盤があった。

 水は止まっている。

 代わりに、温室全体へ白い霧が薄く漂っていた。

「加湿装置か」

 真壁が言う。

 鳳は天井近くを見た。

「元はそうでしょう。ただ、今出ている霧が通常のものかはわかりません」

「入って大丈夫か」

「長居は危険です」

 真壁は口元にハンカチを当てた。

「瑠璃子さん!」

 呼ぶ。

 返事はない。

 葉の間で、水滴が落ちる音だけがした。

 温室の中では、音も柔らかくなる。

 葉と湿気が声を吸い、足音を丸める。

 誰かが奥にいても、気づきにくい。

 真壁は一歩ずつ進んだ。

 鳳は後方で構造を見ている。

 視線が天井、配管、床の排水溝、窓の開閉金具へ移動する。

「ここは、閉じ込める場所ではありません」

 鳳が言った。

「何?」

「温室は、植物を育てる場所です。空気を閉じるけれど、完全密閉ではない。水を入れ、空気を循環させ、光を調整する。つまり、人を殺すために閉じ込めるより、状態を管理するのに向いている」

「状態を管理?」

「死なせる量と、死なせない量を分けやすい」

 その言葉が、真壁の耳に残った。

 死なせる量。

 死なせない量。

「鳳さん」

「はい」

「それは、誰かを殺す話ですか。それとも、殺されかけたように見せる話ですか」

 鳳は一瞬だけ黙った。

「どちらにも使えます」

 真壁は奥へ進んだ。

 温室の奥、白い花が集められた区画があった。

 百合に似た花。

 蘭。

 名前のわからない小さな花。

 どれも白い。

 白すぎる。

 その中央に、人が倒れていた。

 黒い服。

 細い肩。

 長い髪。

 真壁は一瞬、御子柴瑠璃子だと思った。

 だが違った。

 鳴海栞だった。

 鳴海は花の中に横たわっていた。

 胸の上に、白い花弁が散らされている。

 手は身体の横に置かれ、顔は横を向いている。

 目は閉じている。

 唇はわずかに開いている。

 まるで眠っているようだった。

 いや。

 眠っているように見せられていた。

「鳴海さん!」

 真壁は駆け寄りかけて、寸前で止まった。

 床に白い粉がある。

 花粉か。

 薬剤か。

 それとも、見立ての一部か。

「鳳さん、足元」

「見えています」

「換気」

「開けます。ただし、先に位置を確認します」

「長居は危険だと言っただろ」

「だから急ぎます」

 鳳は温室の側面へ向かい、ガラス窓の開閉レバーを探した。

 真壁はハンカチで口を覆いながら、鳴海のそばへ膝をつく。

 触る前に見る。

 九条に何度も言われてきたことだ。

 鳴海の顔色は悪い。

 唇に青みがある。

 だが完全な死者の色ではない。

 胸が、ほんのわずかに動いている。

 生きている。

「鳴海さん、聞こえますか」

 反応はない。

 真壁は脈を見ようとして、手を止めた。

 指先に白い粉がついている可能性がある。

 ハンカチ越しに首元へ触れる。

 脈がある。

 弱いが、ある。

「生きてる」

 真壁は言った。

「鳳さん、窓を」

「開けました」

 温室の側面で、ガラス窓が軋む音がした。

 外の冷たい空気が入り、白い霧が揺れる。

 植物の匂いが薄まり、湖の湿った風が流れ込む。

「二階堂を呼べ!」

 真壁が叫ぶ。

 返事はない。

 温室の湿気が声を吸った。

 鳳が扉の方へ走る。

 その瞬間、温室の奥のモニターが点いた。

 赤い光。

 花の葉の間に隠されていた小型モニターだった。

 今まで存在に気づかなかった。

 いや、植物の影に紛れて、見えないように置かれていた。

 画面に文字が浮かぶ。

 ――いつつ灯して、花を閉じる。

 外で、第五灯が消えた。

 温室のガラス越しに見える灯の列のうち、ひとつがふっと闇に沈む。

 そしてモニターに白い名前が表示された。

 ――鳴海栞。

 ――第五灯、消灯。

 さらに一行。

 ――記録を読む者は、花の中で眠る。

 真壁はモニターを睨んだ。

「まだ死んでない」

 低く言った。

 鳴海は生きている。

 犯人の発表は、事実より先に置かれた。

 まただ。

 死体より先に名前が置かれる。

 今度は、死んでさえいない人間へ、死者のような名前が置かれた。

 鳳が扉から戻ってきた。

「二階堂さんを呼びました。九条さんも」

「瑠璃子さんは」

「湖上回廊にはいません。二階堂さんたちが確認中です。少なくとも正規ルートには痕跡がないと」

「なら、これは」

「第五灯です」

 鳳は鳴海を見る。

「御子柴さんの失踪は、第六灯の前振りか、こちらへ誘導するための攪乱かもしれません」

 真壁は鳴海の呼吸を確認した。

 浅い。

 だが安定している。

 この温室で、白い花に囲まれ、モニターに名前を出され、死んだように横たわるには十分。

 だが死ぬには、足りない。

「鳳さん」

「はい」

「この場所、見つけてもらいやすいですか」

 鳳は温室全体を見た。

「はい」

「隠す場所ではない」

「違います。温室は奥まっていますが、正規ルートからも裏導線からも来られる。さらに外から灯が見える。第五灯が消えれば、自然にここを探す人が出る」

「つまり、閉じ込める場所じゃなく、発見される場所」

 鳳は黙った。

 沈黙は、肯定だった。

 真壁の中で、何かが冷たく形を持つ。

 鳴海栞は、殺されかけたのか。

 それとも、殺されかけた人間として置かれたのか。

 その違いは大きい。

 大きすぎる。

     *

 九条雅紀が温室に入ってきたとき、まず鳳を見た。

「換気は」

「側面を開けました。天窓はまだです」

「開けて。真壁、鳴海さんを動かすな」

「わかってる」

 九条は口元をハンカチで覆い、鳴海のそばへ膝をついた。

 その動きは速かった。

 烏丸のそばから離れたくなかったはずだ。

 だが鳴海が生きている以上、九条は来るしかない。

 死体を読む者である前に、医師だ。

「鳴海さん、聞こえますか」

 反応はない。

 九条は瞳孔、呼吸、脈、皮膚の色、口元、爪、手指を順に見た。

 唇をわずかに開き、口腔内を確認する。

 真壁は黙って見ていた。

「どうだ」

「意識障害。呼吸は浅いけど保たれてる。チアノーゼは軽い。致死的な量ではないかもしれない」

「毒か」

「吸入の可能性。皮膚からの可能性もある。けど、書庫の蓮見さんとは違う」

「違う?」

「蓮見さんは本当に呼吸を奪われてる。鳴海さんは、眠らされている感じに近い」

 二階堂が温室に入ってきた。

「眠らされてる?」

 声が硬い。

 真壁は二階堂を見た。

「小夜子さんたちは」

「鳳さんに言われた通り、入口に集めてある。氷室さんと朽木さんも。烏丸さんは動かせないから、鳳さんが戻って見てる」

「瑠璃子さんは」

「見つからない。湖上回廊にはいなかった。少なくとも、正面ルートには」

「裏は」

「まだ」

 二階堂は鳴海を見た。

 白い花の中に横たわる鳴海。

 赤いモニター。

 第五灯、消灯。

「できすぎてる」

 彼は言った。

 九条が顔を上げずに答える。

「うん」

「九条もそう思う?」

「思う」

「理由は」

「位置」

 九条は鳴海の手を見る。

「鳴海さんは、花の中央に倒れてる。手足の位置が整っている。苦しんで倒れた人間の形じゃない。誰かが置いたか、自分で横になったか」

 二階堂の目が鋭くなる。

「自分で?」

「可能性として」

「九条」

 真壁が言う。

「言葉を選べ」

「選んでる」

 九条は淡々と返した。

「鳴海さんは生きてる。だからまだ断定しない。でも、この倒れ方は“死なないように”置かれている」

 その一言が、温室の空気を変えた。

 死なないように。

 真壁はモニターを見る。

 ――鳴海栞。

 ――第五灯、消灯。

 犯人は鳴海を死者として発表した。

 だが九条は、死なないように置かれていると言う。

 二階堂が静かに呟いた。

「被害者リストに、自分を入れた人間がいる」

 真壁は二階堂を見る。

「何?」

「いや、まだ推測。でも、これだけ十二灯のルールが強くなってると、被害者に見えること自体が安全地帯になる」

「犯人が自分を被害者に見せる」

「そう」

 二階堂は鳴海から目を離さない。

「殺されかけた人間は、疑われにくい。しかも第五灯は“生存”。死者じゃない。後から復帰できる。情報を握ったまま、被害者側に戻れる」

 九条が続ける。

「ただ、本人がやったとは限らない」

「わかってる」

 二階堂は苦く言った。

「でも、犯人はそれを見せたい。鳴海さんを被害者に見せたいのか、犯人に見せたいのか、まだわからない」

 真壁は鳴海の顔を見た。

 鳴海は苦しそうではある。

 だが、西園寺や葛城や蓮見とは違う。

 死へ押し込まれた人間の顔ではない。

 死の手前に並べられた人間の顔だ。

「九条、助かるか」

「このまま換気して、安静にすれば意識は戻る可能性がある。ただし、何を吸ったかによる。水も飲ませない。動かさない。吐いた場合の気道確保だけ注意」

「烏丸さんは」

「状態は不安定。戻らなきゃいけない」

「行け」

 真壁は言った。

「鳴海さんは俺と二階堂で見ている」

「真壁、医療的な判断は」

「必要になったら呼ぶ」

 九条は鳴海と真壁を交互に見た。

「鳴海さんの呼吸が落ちたらすぐ呼べ」

「わかった」

「それと」

 九条は鳴海の胸元に散らされた花弁を見た。

「この花、触るな」

「毒か」

「わからない。でも花弁の上に粉がある。薬剤かもしれない」

「了解」

 九条は立ち上がった。

 温室の扉へ向かう途中で、一度だけ振り返る。

「真壁」

「何だ」

「鳴海さんだけ、死なないように倒れてる」

 真壁は頷いた。

「覚えておく」

 九条は出て行った。

 温室に、真壁と二階堂と鳴海が残る。

 外の風が開いた窓から流れ込み、白い霧を薄くしていく。

 花の匂いが少しずつ弱まり、代わりに湖の冷気が入ってくる。

 二階堂はモニターの赤い文字を見ていた。

「犯人は、文章を書く人間だね」

「またそれか」

「うん。歌の文句、表示のタイミング、名前の置き方。どれも、場を説明する文章になってる。ただの脅迫文じゃない。読ませる文だ」

「鳴海さんの説明文に似ているか」

 二階堂はすぐには答えなかった。

 温室の赤い光が、彼の横顔を照らしている。

「似てる」

「そうか」

「でも、似せられる」

「誰が」

「鳴海さんの文章を読んだことがある人間なら」

 真壁は鳴海を見る。

 資料展示。

 説明パネル。

 公式記録。

 鳴海は、この館の言葉を整えていた。

 だから犯人の文章が鳴海に似ているのは、鳴海が犯人だからかもしれない。

 あるいは、犯人が鳴海の文章を模倣しているのかもしれない。

 どちらにせよ、鳴海は中心にいる。

「二階堂」

「うん」

「鳴海さんが目を覚ましたら、最初に何を訊く」

「自分でここへ来たか」

「俺なら、誰に呼ばれたかを訊く」

「俺なら、その前に」

 二階堂は鳴海を見つめた。

「“第五灯になることを知っていましたか”って訊く」

 真壁は、わずかに眉を寄せた。

「直接すぎる」

「でも必要でしょ」

「必要だが、順番がある」

「順番ね」

 二階堂は小さく笑った。

 疲れた笑いだった。

「この館に来てから、その言葉が嫌いになりそう」

「嫌いになっても守れ」

「わかってる」

 そのとき、鳴海の指が動いた。

 二階堂が身を乗り出す。

「鳴海さん」

 鳴海の瞼が震える。

 唇がわずかに開く。

 声は出ない。

 真壁は低く言った。

「鳴海さん。聞こえますか。真壁です。動かないでください。あなたは温室で倒れていました」

 鳴海の目が薄く開いた。

 焦点が合っていない。

 だが、意識は戻りかけている。

「……あ」

「ここへ自分で来ましたか」

 真壁が訊く。

 鳴海の唇が動く。

「……花」

「花?」

「……花を……見て……」

「誰に言われた」

 鳴海は答えない。

 目だけが、温室の奥へ動く。

 そこには、赤いモニターがある。

 ――いつつ灯して、花を閉じる。

 鳴海の瞳が、その文字を読んだ。

 瞬間、彼女の顔が恐怖に歪んだ。

「いや……」

 かすれた声。

「違う……私じゃ……」

 真壁と二階堂は、同時に反応した。

 私じゃない。

 烏丸もそう言った。

 私じゃない。

 誰かの役を押しつけられた者の言葉。

「何が違う」

 真壁が訊く。

 鳴海の呼吸が荒くなる。

「私じゃない……私じゃ、ないんです……」

「誰と間違えられた」

「違う……あの子は……」

 あの子。

 まただ。

 烏丸も言った。

 あの子。

「鳴海さん」

 二階堂が声を低くした。

「第七名の少女のことですか」

 鳴海の目が、二階堂を見た。

 恐怖。

 怒り。

 それから、ほんの一瞬だけ、諦めのようなもの。

「名前を……」

「名前?」

「名前を、戻さないと……」

 そこまで言って、鳴海の意識がまた沈んだ。

 真壁は鳴海の呼吸を確認する。

 まだある。

 だが、浅い。

「九条を呼ぶ」

 二階堂が言った。

「呼べ」

 二階堂は扉へ向かいかけた。

 そのとき、温室の外で、別の声がした。

 小夜子だった。

「湖に、誰かいる!」

 真壁は顔を上げた。

 温室のガラス越しに、湖上回廊の方向が見える。

 黒い水。

 揺れる灯。

 その中に、黒い服の人影が映っていた。

 湖面に。

 実物ではない。

 反射だ。

 だが、回廊の上に立っているはずの人物が、湖面だけに見えているように見えた。

 二階堂が息を呑む。

「瑠璃子さん?」

 真壁はガラスに近づいた。

 人影は水の上で揺れている。

 黒い服。

 細い首。

 まとめた髪。

 御子柴瑠璃子にも見える。

 神楽坂小夜子にも見える。

 あるいは、ただの影にも見える。

 外壁の灯が波で歪み、人影を何度も引き伸ばす。

 次の瞬間、その影が水の中へ沈むように消えた。

 温室の空気が凍った。

 まだ第六灯は消えていない。

 だが湖は、もう次の死体を映していた。

 真壁は低く言った。

「見るな」

 二階堂が振り返る。

「え?」

「まだ見るな。見たものに名前を置くな」

「でも」

「瑠璃子さんだと決めるな。小夜子さんだと決めるな。人だと決めるな」

 真壁はガラスの向こうを睨んだ。

「犯人は、それを待ってる」

 そのとき、遠くで灯が揺れた。

 まだ消えていない。

 だが、次に消える灯の位置を、真壁はもう見てしまった気がした。

 湖上回廊。

 水に映る場所。

 人が見たものを、見たと信じる場所。

 二階堂が、かすれた声で言った。

「第六灯」

 真壁は答えなかった。

 鳴海の浅い呼吸。

 温室の白い花。

 赤いモニター。

 湖面に消えた黒い影。

 この館は、死体より先に名前を置く。

 だが今度は、死体より先に影を置いた。

 真壁は拳を握った。

「九条を呼べ。鳴海さんを死なせるな」

「湖は?」

「まだ行くな」

「真壁」

「行くな」

 真壁は、湖面から目を離さなかった。

「次は、見たものを疑う番だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ