第六章 いつつ灯して、花を閉じる
花は、死体に似ている。
切られたあとも、しばらく美しい。
水を吸い、色を保ち、匂いを放ち、見る者にまだ生きているような錯覚を与える。
だが根はない。
土から離れた瞬間、花はすでに死へ向かっている。
美しさとは、死が遅れて見えているだけなのかもしれない。
十二灯館の温室に足を踏み入れたとき、真壁彰はそんなことを考えた。
考えたくて考えたのではない。
そう思わされる場所だった。
*
「瑠璃子さんがいない!」
神楽坂小夜子の悲鳴は、廊下に細く伸びた。
右から聞こえたようでもあり、左から聞こえたようでもあった。
書庫の紙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
蓮見詩穂の死体。
紙に埋もれた身体。
黒く塗られた名前。
第七名。
少女。
氏名確認不能。
そのすべてがまだ整理されないうちに、次の名前が叫ばれた。
御子柴瑠璃子。
まだ第六灯のはずだった。
いや、真壁たちは“はず”という言葉を使える立場にない。
それは犯人が用意した順番だ。
西園寺雅治。
葛城慎一郎。
烏丸鏡花。
蓮見詩穂。
四つの灯は、すでに消えていた。
だが事件は、灯の順番通りに起きているようでいて、少しずつずれている。
烏丸は灯が消える前に落ちた。
蓮見は書庫で死んだあとに名前を表示された。
瑠璃子は、まだ灯が消えていないのに消えた。
人間のほうが先に消える。
灯はあとから追いつく。
そのずれが、真壁には不快だった。
「小夜子さん、落ち着いて」
二階堂壮也の声が廊下に響く。
真壁が書庫を出ると、二階堂は小夜子の前に立っていた。
小夜子は両手を震わせ、瑠璃子のいたはずの場所を見ている。
鳴海栞は二階堂の背後に立っていた。
顔色が悪い。
唇に血の気がない。
「さっきまで、ここに」
小夜子は何度も同じことを言った。
「ここにいたんです。私、瑠璃子さんの手を掴んでいて……でも、蓮見さんのことを聞いて、書庫の方を見て、声がして、それで……」
「手を離した?」
二階堂が訊いた。
小夜子は泣きそうな顔で頷く。
「一瞬だけ」
「その一瞬で、瑠璃子さんがいなくなった」
「はい」
真壁は周囲を見る。
玄関広間。
階段下には烏丸鏡花がいる。
九条雅紀がそばを離れずに状態を見ている。
応急処置と呼べるほどの道具はない。
ただ、身体を動かさず、呼吸を確保し、意識の変化を見ることしかできない。
食堂には葛城慎一郎の死体。
玄関広間には西園寺雅治の死体。
書庫には蓮見詩穂の死体。
生きている者を安全な一か所に集めるという方針は、もう壊れている。
どこを安全地帯にしても、そこへ死体か悲鳴が追いかけてくる。
「瑠璃子さんを最後に見たのは」
真壁が訊く。
小夜子が答えようとしたが、声にならなかった。
代わりに朽木怜二が口を開いた。
「私です」
真壁は朽木を見る。
「どこで」
「応接室へ移動する直前です。御子柴さんは小夜子さんの隣にいました。小夜子さんが蓮見さんの不在に気づき、混乱した。御子柴さんは、小夜子さんを落ち着かせようとしていた」
「その後は」
「書庫の方で騒ぎがありました。皆がそちらを見た。その間に、見失った」
「あなたは動いたか」
「動いていません」
「証明できますか」
朽木はわずかに目を細めた。
「この状況で、誰が誰の証明をできますか」
「できないなら、できないと記録します」
二階堂が横から言った。
その声は柔らかい。
だが、輪郭は硬かった。
彼はもう、言葉を武器にされることを恐れていないわけではない。
むしろ恐れている。
だからこそ、一語ずつ足場を確かめるように発する。
「鳴海さん」
二階堂は振り返った。
「あなたは?」
鳴海は顔を上げた。
「私は……書庫からこちらへ戻る途中でした。蓮見さんのことで、頭がいっぱいで」
「瑠璃子さんは見た?」
「いえ」
「本当に?」
鳴海の肩が震えた。
二階堂は畳みかけない。
黙って待つ。
その待ち方が、かえって相手に言葉を選ばせる。
「見ていません」
鳴海は言った。
「御子柴さんがいなくなったと知ったのは、小夜子さんが叫んだあとです」
真壁は鳴海の声を聞いた。
嘘と断じるには弱い。
だが、完全な真実として受け取るにも、何かが残る。
「瑠璃子さんが向かいそうな場所は」
真壁が言った。
小夜子がすぐに顔を上げる。
「湖上回廊です」
その答えは早すぎた。
真壁は小夜子を見る。
「なぜ」
「だって……」
小夜子は言葉に詰まった。
「二十年前の少女が、そこで……」
「瑠璃子さんは少女じゃない」
九条の声がした。
階段下からだった。
彼は烏丸のそばに膝をついたまま、こちらを見ていた。
顔色はいつもより悪い。
烏丸の呼吸を気にしながら、会話の芯を聞いている。
「見立てに乗るな」
九条は静かに言った。
「小夜子さん。犯人がそう思わせたいだけかもしれない」
小夜子は唇を噛んだ。
「でも、瑠璃子さんは、ずっと湖を見ていました」
「いつから」
真壁が訊く。
「最初からです。船を降りたときも、展示室でも、食堂でも。窓があると、必ず外を見ていました」
「本人は何か言っていたか」
「……水の上には、隠したものが残るって」
その言葉に、鳴海が顔を上げた。
真壁は見た。
鳴海の反応は、やはり少し早い。
「鳴海さん」
真壁が呼ぶ。
「今の言葉に心当たりがありますか」
「ありません」
「本当に?」
「……二十年前の事件のあと、そういう噂はありました」
「噂?」
「湖に映ったものは、消えたあとも残る。十二灯館では、死者が水面に映り続ける、と」
二階堂が低く言った。
「都合のいい怪談だね」
「え?」
「湖面反射を、怪談にして隠した。実際に何かを見た人間がいても、“死者が映った”で片づけられる」
鳴海は答えなかった。
真壁は湖上回廊の方向を見た。
だが、すぐには動かない。
犯人は、叫び声で人を動かす。
悲鳴。
名前。
灯。
モニター。
その全部で、真壁たちを次の場所へ走らせる。
走れば、見落とす。
焦れば、犯人の順番に乗る。
「鳳さん」
真壁は言った。
鳳恭介は、廊下の柱の影に立っていた。
古い図面の束を抱え、壁の継ぎ目を見ている。
「湖上回廊へ行く動線は」
「正面からなら、玄関広間を抜けて温室横のガラス回廊を通ります。ただし、裏導線があります」
「またか」
二階堂が苦く笑う。
鳳は頷いた。
「展示図面には描かれていませんが、古い施工図には温室の裏に保守用通路があります。湖上回廊へ直接出られる可能性があります」
「瑠璃子さんがそこを知っていた可能性は」
「館に詳しければ」
「鳴海さん」
真壁が言うと、鳴海は小さく首を振った。
「御子柴さんが知っていたかは、わかりません」
「あなたは知っていた」
「資料整理で、古い図面を見たことはあります」
「氷室さんは」
氷室圭吾は、玄関広間の壁際に立っていた。
顔色が悪いまま、頷く。
「知っています。ですが、普段は使いません。危険ですし、鍵も……」
「鍵?」
「温室側の管理扉に鍵があります」
「その鍵は」
「管理室に」
「管理室の鍵は消えた」
二階堂が言った。
氷室は黙った。
真壁は決めた。
「二手に分かれる。ただし単独行動は禁止。俺と鳳さんで温室側の保守通路を見る。二階堂は小夜子さんと鳴海さんを連れて、湖上回廊の正規ルートを確認する。九条は烏丸さんから離れるな。氷室さん、朽木さんは九条の視界内にいてください」
「僕もですか」
朽木が言った。
「そうです」
「私は何も」
「何もしていない証明のためです」
朽木は黙った。
真壁は二階堂に目を向ける。
「二階堂」
「何」
「絶対に一人になるな」
「わかってる」
「それと、鳴海さんから目を離すな」
二階堂は一瞬だけ鳴海を見た。
「了解」
鳴海はその視線を受けて、わずかに俯いた。
*
温室へ向かう回廊は、外の闇に張りついていた。
片側がガラス張りで、もう片側が石壁。
湖の黒さが、ガラスの向こうに広がっている。
外壁の灯が、ガラスと湖面の両方に映る。
残っている灯が、実数より多く見えた。
消えた四つの灯の穴も、波と反射で曖昧になる。
どれが本当に消えているのか。
どれが映っているだけなのか。
歩きながら見ていると、目が騙される。
鳳が言った。
「この回廊は、夜に歩くようには作られていません」
「灯があるのに?」
「灯があるからです」
真壁は鳳を見る。
「外壁灯と室内灯が、ガラスに二重に映る。視線が外へ抜けず、自分たちの姿と外の灯が重なります。人の位置を錯覚しやすい」
「湖上回廊のトリックに使えるか」
「十分に」
鳳は静かに答える。
「ただ、今気になるのは温室です」
「なぜ」
「湿度と換気です。書庫もそうでしたが、この館は“空気”を使われている可能性がある」
「蓮見さんの窒息」
「はい。温室は、もっと空気を操作しやすい」
真壁は足を止めそうになった。
「鳴海さんの第五灯か」
鳳は答えない。
答えないことが答えになっている。
真壁が知っているのは、鳴海が怪しいということだけだ。
そして怪しい人物ほど、犯人に被害者として置かれることがある。
疑いを洗うため。
あるいは、疑いを深めるため。
温室の扉は、回廊の奥にあった。
古い鉄枠に、曇ったガラス。
扉の上部には蔓草の飾りがあり、取っ手には緑青が浮いている。
鍵はかかっていなかった。
真壁はハンカチ越しに取っ手を回す。
扉を開けた瞬間、濃い植物の匂いが押し寄せた。
湿った土。
水。
葉。
甘く腐った花。
それから、薄い薬品臭。
真壁は眉を寄せる。
「臭いが」
「強いですね」
鳳も顔をしかめた。
温室の中は、外より暖かかった。
湿度が高い。
ガラスの内側に水滴がびっしりついている。
夜の湖を映すガラス面に、葉の影と灯の反射が重なり、どこまでが外で、どこからが室内なのかわからなくなる。
中央には細い通路。
左右に鉢植えとプランターが並ぶ。
奥には、古い噴水のような水盤があった。
水は止まっている。
代わりに、温室全体へ白い霧が薄く漂っていた。
「加湿装置か」
真壁が言う。
鳳は天井近くを見た。
「元はそうでしょう。ただ、今出ている霧が通常のものかはわかりません」
「入って大丈夫か」
「長居は危険です」
真壁は口元にハンカチを当てた。
「瑠璃子さん!」
呼ぶ。
返事はない。
葉の間で、水滴が落ちる音だけがした。
温室の中では、音も柔らかくなる。
葉と湿気が声を吸い、足音を丸める。
誰かが奥にいても、気づきにくい。
真壁は一歩ずつ進んだ。
鳳は後方で構造を見ている。
視線が天井、配管、床の排水溝、窓の開閉金具へ移動する。
「ここは、閉じ込める場所ではありません」
鳳が言った。
「何?」
「温室は、植物を育てる場所です。空気を閉じるけれど、完全密閉ではない。水を入れ、空気を循環させ、光を調整する。つまり、人を殺すために閉じ込めるより、状態を管理するのに向いている」
「状態を管理?」
「死なせる量と、死なせない量を分けやすい」
その言葉が、真壁の耳に残った。
死なせる量。
死なせない量。
「鳳さん」
「はい」
「それは、誰かを殺す話ですか。それとも、殺されかけたように見せる話ですか」
鳳は一瞬だけ黙った。
「どちらにも使えます」
真壁は奥へ進んだ。
温室の奥、白い花が集められた区画があった。
百合に似た花。
蘭。
名前のわからない小さな花。
どれも白い。
白すぎる。
その中央に、人が倒れていた。
黒い服。
細い肩。
長い髪。
真壁は一瞬、御子柴瑠璃子だと思った。
だが違った。
鳴海栞だった。
鳴海は花の中に横たわっていた。
胸の上に、白い花弁が散らされている。
手は身体の横に置かれ、顔は横を向いている。
目は閉じている。
唇はわずかに開いている。
まるで眠っているようだった。
いや。
眠っているように見せられていた。
「鳴海さん!」
真壁は駆け寄りかけて、寸前で止まった。
床に白い粉がある。
花粉か。
薬剤か。
それとも、見立ての一部か。
「鳳さん、足元」
「見えています」
「換気」
「開けます。ただし、先に位置を確認します」
「長居は危険だと言っただろ」
「だから急ぎます」
鳳は温室の側面へ向かい、ガラス窓の開閉レバーを探した。
真壁はハンカチで口を覆いながら、鳴海のそばへ膝をつく。
触る前に見る。
九条に何度も言われてきたことだ。
鳴海の顔色は悪い。
唇に青みがある。
だが完全な死者の色ではない。
胸が、ほんのわずかに動いている。
生きている。
「鳴海さん、聞こえますか」
反応はない。
真壁は脈を見ようとして、手を止めた。
指先に白い粉がついている可能性がある。
ハンカチ越しに首元へ触れる。
脈がある。
弱いが、ある。
「生きてる」
真壁は言った。
「鳳さん、窓を」
「開けました」
温室の側面で、ガラス窓が軋む音がした。
外の冷たい空気が入り、白い霧が揺れる。
植物の匂いが薄まり、湖の湿った風が流れ込む。
「二階堂を呼べ!」
真壁が叫ぶ。
返事はない。
温室の湿気が声を吸った。
鳳が扉の方へ走る。
その瞬間、温室の奥のモニターが点いた。
赤い光。
花の葉の間に隠されていた小型モニターだった。
今まで存在に気づかなかった。
いや、植物の影に紛れて、見えないように置かれていた。
画面に文字が浮かぶ。
――いつつ灯して、花を閉じる。
外で、第五灯が消えた。
温室のガラス越しに見える灯の列のうち、ひとつがふっと闇に沈む。
そしてモニターに白い名前が表示された。
――鳴海栞。
――第五灯、消灯。
さらに一行。
――記録を読む者は、花の中で眠る。
真壁はモニターを睨んだ。
「まだ死んでない」
低く言った。
鳴海は生きている。
犯人の発表は、事実より先に置かれた。
まただ。
死体より先に名前が置かれる。
今度は、死んでさえいない人間へ、死者のような名前が置かれた。
鳳が扉から戻ってきた。
「二階堂さんを呼びました。九条さんも」
「瑠璃子さんは」
「湖上回廊にはいません。二階堂さんたちが確認中です。少なくとも正規ルートには痕跡がないと」
「なら、これは」
「第五灯です」
鳳は鳴海を見る。
「御子柴さんの失踪は、第六灯の前振りか、こちらへ誘導するための攪乱かもしれません」
真壁は鳴海の呼吸を確認した。
浅い。
だが安定している。
この温室で、白い花に囲まれ、モニターに名前を出され、死んだように横たわるには十分。
だが死ぬには、足りない。
「鳳さん」
「はい」
「この場所、見つけてもらいやすいですか」
鳳は温室全体を見た。
「はい」
「隠す場所ではない」
「違います。温室は奥まっていますが、正規ルートからも裏導線からも来られる。さらに外から灯が見える。第五灯が消えれば、自然にここを探す人が出る」
「つまり、閉じ込める場所じゃなく、発見される場所」
鳳は黙った。
沈黙は、肯定だった。
真壁の中で、何かが冷たく形を持つ。
鳴海栞は、殺されかけたのか。
それとも、殺されかけた人間として置かれたのか。
その違いは大きい。
大きすぎる。
*
九条雅紀が温室に入ってきたとき、まず鳳を見た。
「換気は」
「側面を開けました。天窓はまだです」
「開けて。真壁、鳴海さんを動かすな」
「わかってる」
九条は口元をハンカチで覆い、鳴海のそばへ膝をついた。
その動きは速かった。
烏丸のそばから離れたくなかったはずだ。
だが鳴海が生きている以上、九条は来るしかない。
死体を読む者である前に、医師だ。
「鳴海さん、聞こえますか」
反応はない。
九条は瞳孔、呼吸、脈、皮膚の色、口元、爪、手指を順に見た。
唇をわずかに開き、口腔内を確認する。
真壁は黙って見ていた。
「どうだ」
「意識障害。呼吸は浅いけど保たれてる。チアノーゼは軽い。致死的な量ではないかもしれない」
「毒か」
「吸入の可能性。皮膚からの可能性もある。けど、書庫の蓮見さんとは違う」
「違う?」
「蓮見さんは本当に呼吸を奪われてる。鳴海さんは、眠らされている感じに近い」
二階堂が温室に入ってきた。
「眠らされてる?」
声が硬い。
真壁は二階堂を見た。
「小夜子さんたちは」
「鳳さんに言われた通り、入口に集めてある。氷室さんと朽木さんも。烏丸さんは動かせないから、鳳さんが戻って見てる」
「瑠璃子さんは」
「見つからない。湖上回廊にはいなかった。少なくとも、正面ルートには」
「裏は」
「まだ」
二階堂は鳴海を見た。
白い花の中に横たわる鳴海。
赤いモニター。
第五灯、消灯。
「できすぎてる」
彼は言った。
九条が顔を上げずに答える。
「うん」
「九条もそう思う?」
「思う」
「理由は」
「位置」
九条は鳴海の手を見る。
「鳴海さんは、花の中央に倒れてる。手足の位置が整っている。苦しんで倒れた人間の形じゃない。誰かが置いたか、自分で横になったか」
二階堂の目が鋭くなる。
「自分で?」
「可能性として」
「九条」
真壁が言う。
「言葉を選べ」
「選んでる」
九条は淡々と返した。
「鳴海さんは生きてる。だからまだ断定しない。でも、この倒れ方は“死なないように”置かれている」
その一言が、温室の空気を変えた。
死なないように。
真壁はモニターを見る。
――鳴海栞。
――第五灯、消灯。
犯人は鳴海を死者として発表した。
だが九条は、死なないように置かれていると言う。
二階堂が静かに呟いた。
「被害者リストに、自分を入れた人間がいる」
真壁は二階堂を見る。
「何?」
「いや、まだ推測。でも、これだけ十二灯のルールが強くなってると、被害者に見えること自体が安全地帯になる」
「犯人が自分を被害者に見せる」
「そう」
二階堂は鳴海から目を離さない。
「殺されかけた人間は、疑われにくい。しかも第五灯は“生存”。死者じゃない。後から復帰できる。情報を握ったまま、被害者側に戻れる」
九条が続ける。
「ただ、本人がやったとは限らない」
「わかってる」
二階堂は苦く言った。
「でも、犯人はそれを見せたい。鳴海さんを被害者に見せたいのか、犯人に見せたいのか、まだわからない」
真壁は鳴海の顔を見た。
鳴海は苦しそうではある。
だが、西園寺や葛城や蓮見とは違う。
死へ押し込まれた人間の顔ではない。
死の手前に並べられた人間の顔だ。
「九条、助かるか」
「このまま換気して、安静にすれば意識は戻る可能性がある。ただし、何を吸ったかによる。水も飲ませない。動かさない。吐いた場合の気道確保だけ注意」
「烏丸さんは」
「状態は不安定。戻らなきゃいけない」
「行け」
真壁は言った。
「鳴海さんは俺と二階堂で見ている」
「真壁、医療的な判断は」
「必要になったら呼ぶ」
九条は鳴海と真壁を交互に見た。
「鳴海さんの呼吸が落ちたらすぐ呼べ」
「わかった」
「それと」
九条は鳴海の胸元に散らされた花弁を見た。
「この花、触るな」
「毒か」
「わからない。でも花弁の上に粉がある。薬剤かもしれない」
「了解」
九条は立ち上がった。
温室の扉へ向かう途中で、一度だけ振り返る。
「真壁」
「何だ」
「鳴海さんだけ、死なないように倒れてる」
真壁は頷いた。
「覚えておく」
九条は出て行った。
温室に、真壁と二階堂と鳴海が残る。
外の風が開いた窓から流れ込み、白い霧を薄くしていく。
花の匂いが少しずつ弱まり、代わりに湖の冷気が入ってくる。
二階堂はモニターの赤い文字を見ていた。
「犯人は、文章を書く人間だね」
「またそれか」
「うん。歌の文句、表示のタイミング、名前の置き方。どれも、場を説明する文章になってる。ただの脅迫文じゃない。読ませる文だ」
「鳴海さんの説明文に似ているか」
二階堂はすぐには答えなかった。
温室の赤い光が、彼の横顔を照らしている。
「似てる」
「そうか」
「でも、似せられる」
「誰が」
「鳴海さんの文章を読んだことがある人間なら」
真壁は鳴海を見る。
資料展示。
説明パネル。
公式記録。
鳴海は、この館の言葉を整えていた。
だから犯人の文章が鳴海に似ているのは、鳴海が犯人だからかもしれない。
あるいは、犯人が鳴海の文章を模倣しているのかもしれない。
どちらにせよ、鳴海は中心にいる。
「二階堂」
「うん」
「鳴海さんが目を覚ましたら、最初に何を訊く」
「自分でここへ来たか」
「俺なら、誰に呼ばれたかを訊く」
「俺なら、その前に」
二階堂は鳴海を見つめた。
「“第五灯になることを知っていましたか”って訊く」
真壁は、わずかに眉を寄せた。
「直接すぎる」
「でも必要でしょ」
「必要だが、順番がある」
「順番ね」
二階堂は小さく笑った。
疲れた笑いだった。
「この館に来てから、その言葉が嫌いになりそう」
「嫌いになっても守れ」
「わかってる」
そのとき、鳴海の指が動いた。
二階堂が身を乗り出す。
「鳴海さん」
鳴海の瞼が震える。
唇がわずかに開く。
声は出ない。
真壁は低く言った。
「鳴海さん。聞こえますか。真壁です。動かないでください。あなたは温室で倒れていました」
鳴海の目が薄く開いた。
焦点が合っていない。
だが、意識は戻りかけている。
「……あ」
「ここへ自分で来ましたか」
真壁が訊く。
鳴海の唇が動く。
「……花」
「花?」
「……花を……見て……」
「誰に言われた」
鳴海は答えない。
目だけが、温室の奥へ動く。
そこには、赤いモニターがある。
――いつつ灯して、花を閉じる。
鳴海の瞳が、その文字を読んだ。
瞬間、彼女の顔が恐怖に歪んだ。
「いや……」
かすれた声。
「違う……私じゃ……」
真壁と二階堂は、同時に反応した。
私じゃない。
烏丸もそう言った。
私じゃない。
誰かの役を押しつけられた者の言葉。
「何が違う」
真壁が訊く。
鳴海の呼吸が荒くなる。
「私じゃない……私じゃ、ないんです……」
「誰と間違えられた」
「違う……あの子は……」
あの子。
まただ。
烏丸も言った。
あの子。
「鳴海さん」
二階堂が声を低くした。
「第七名の少女のことですか」
鳴海の目が、二階堂を見た。
恐怖。
怒り。
それから、ほんの一瞬だけ、諦めのようなもの。
「名前を……」
「名前?」
「名前を、戻さないと……」
そこまで言って、鳴海の意識がまた沈んだ。
真壁は鳴海の呼吸を確認する。
まだある。
だが、浅い。
「九条を呼ぶ」
二階堂が言った。
「呼べ」
二階堂は扉へ向かいかけた。
そのとき、温室の外で、別の声がした。
小夜子だった。
「湖に、誰かいる!」
真壁は顔を上げた。
温室のガラス越しに、湖上回廊の方向が見える。
黒い水。
揺れる灯。
その中に、黒い服の人影が映っていた。
湖面に。
実物ではない。
反射だ。
だが、回廊の上に立っているはずの人物が、湖面だけに見えているように見えた。
二階堂が息を呑む。
「瑠璃子さん?」
真壁はガラスに近づいた。
人影は水の上で揺れている。
黒い服。
細い首。
まとめた髪。
御子柴瑠璃子にも見える。
神楽坂小夜子にも見える。
あるいは、ただの影にも見える。
外壁の灯が波で歪み、人影を何度も引き伸ばす。
次の瞬間、その影が水の中へ沈むように消えた。
温室の空気が凍った。
まだ第六灯は消えていない。
だが湖は、もう次の死体を映していた。
真壁は低く言った。
「見るな」
二階堂が振り返る。
「え?」
「まだ見るな。見たものに名前を置くな」
「でも」
「瑠璃子さんだと決めるな。小夜子さんだと決めるな。人だと決めるな」
真壁はガラスの向こうを睨んだ。
「犯人は、それを待ってる」
そのとき、遠くで灯が揺れた。
まだ消えていない。
だが、次に消える灯の位置を、真壁はもう見てしまった気がした。
湖上回廊。
水に映る場所。
人が見たものを、見たと信じる場所。
二階堂が、かすれた声で言った。
「第六灯」
真壁は答えなかった。
鳴海の浅い呼吸。
温室の白い花。
赤いモニター。
湖面に消えた黒い影。
この館は、死体より先に名前を置く。
だが今度は、死体より先に影を置いた。
真壁は拳を握った。
「九条を呼べ。鳴海さんを死なせるな」
「湖は?」
「まだ行くな」
「真壁」
「行くな」
真壁は、湖面から目を離さなかった。
「次は、見たものを疑う番だ」




