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十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


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第五章 よっつ灯して、名を隠す

 紙は、人を殺さない。

 刃物のように肉を裂かない。

 毒のように血へ混じらない。

 階段のように人を落とさない。

 だが、真壁彰は知っていた。

 紙は、人を殺したあとに残る。

 調書。

 報告書。

 新聞記事。

 戸籍。

 死亡診断書。

 検案書。

 会見資料。

 訂正文。

 告知文。

 名簿。

 人間が死んだあと、その死をどういう形で世の中に残すかを決めるのは、たいてい紙だった。

 死者は喋らない。

 だが紙は喋る。

 そして、紙に書かれた言葉は、ときに死者本人よりも長く生きる。

 十二灯館の第四の現場が書庫だったことを、真壁は偶然だとは思わなかった。

     *

 烏丸鏡花は、まだ階段下にいた。

 動かせない。

 頸椎損傷の可能性がある。

 左腕、あるいは鎖骨。

 頭部打撲。

 意識は混濁し、呼吸は浅い。

 九条雅紀は彼女の傍らを離れず、脈と呼吸を確認し続けていた。

 死体を読む男が、生きている人間を死なせないために、そこから動けないでいる。

 その姿は、真壁には痛かった。

 九条は冷静だった。

 少なくとも、そう見せていた。

 けれど声の奥には、いつもより硬いものが混じっている。

 西園寺雅治は死んだ。

 葛城慎一郎も死んだ。

 烏丸鏡花は、生きている。

 だからこそ、ここで間違えるわけにはいかない。

「固定電話は、完全に切られてる」

 二階堂壮也が管理室から戻って、低い声で言った。

「回線不良じゃない。ケーブルが切断されてる。外線に繋がるところを、きれいに」

「工具は」

「見当たらない。切り口は鋭い。ニッパーか、電工用の刃物」

「管理室の鍵は」

「開いてた。というか、開けられていた」

 真壁は二階堂を見た。

「船の鍵は」

「消えてる。予備鍵も」

「誰が管理していた」

 氷室圭吾が青ざめた顔で答えた。

「私です。管理室の金庫に」

「金庫は」

「開けられていました」

「暗証番号は」

「私しか知りません」

 二階堂が氷室を見る。

「本当に?」

「本当です」

 氷室の声はかすれていた。

「ただ、古い館です。改修や保守のたびに、業者が管理室へ入ることはありました。けれど金庫の番号は……」

「金庫そのものは古い?」

 鳳恭介が静かに訊いた。

 氷室は戸惑いながら頷く。

「はい。先代の頃からあるものです」

「なら、番号以外の開け方があった可能性があります。古い金庫は、癖を知っていれば開くことがある」

 氷室の顔がさらに白くなった。

「そんな……」

 鳳はそれ以上言わなかった。

 言わないこともまた、疑いを残す。

 鳳は建物を読める。

 古い扉、古い鍵、古い金庫、古い図面。

 この館が犯行に使われるほど、鳳恭介という男の輪郭もまた犯人に近づいていく。

 本人もそれをわかっている。

 つい先刻、鳳は言った。

 僕なら、できます。

 だからこそ、僕ではない証明は難しい。

 あの言葉は、食堂にいる全員の中へ静かに沈んでいた。

 犯人は、死体だけでなく、容疑者も置く。

 西園寺を玄関広間に置き、葛城を食卓に置き、烏丸を階段下に置いた。

 そして今度は、鳳を疑いの場所へ置いた。

 真壁は、犯人の順番に乗りたくなかった。

 だが疑いを捨てることもできない。

 それが、最悪だった。

「全員を一か所に集める」

 真壁は言った。

「食堂は葛城さんの現場。玄関広間は西園寺さんの現場。階段下は烏丸さんの処置場所。使える部屋は限られる」

「応接室があります」

 鳴海栞が言った。

「玄関広間の反対側に。展示室を抜けた先です」

「書庫は?」

 真壁が訊くと、鳴海の表情がわずかに動いた。

 ほんの一瞬だった。

 だが、真壁は見逃さなかった。

「書庫は、資料保管用です。普段は施錠しています」

「鍵は」

「氷室さんと、私が」

 鳴海は一瞬だけ言葉を切った。

「持っています」

 その間は短い。

 だが、鍵という言葉を口にする前に、彼女は自分の胸元のポケットへ目を落とした。

 そこに鍵があることを確かめる仕草だった。

 あるいは、そこに鍵があると見せる仕草だった。

「今も?」

 鳴海は自分のポケットに手を触れた。

 小さな鍵束を取り出す。

「あります」

「氷室さん」

 氷室も慌てて鍵を確認した。

「私のものも、あります」

 二階堂が横から言った。

「でも鍵があることと、入れないことは別だよね」

 鳴海が二階堂を見る。

「どういう意味ですか」

「この館、鍵より抜け道の方が信用できない」

 その言い方に、鳴海は顔をこわばらせた。

 二階堂は柔らかい顔をしていた。

 だが、その目はもう笑っていない。

 彼も傷を負っている。

 葛城の毒死で、席順を決めた者として疑われた。

 モニターに「席を分けた者は、次の名を選ぶ」と出され、場の視線を一身に受けた。

 言葉を扱う男が、言葉で切られた。

 だからこそ、今の二階堂は、言葉の端に過敏になっている。

「応接室へ移動します」

 真壁は決めた。

「ただし、二人一組で動く。誰も単独行動しない。鳳さんは俺と。二階堂は鳴海さんと氷室さんを見てくれ。九条は烏丸さんから離れるな。小夜子さん、瑠璃子さん、蓮見さん、朽木さんは二階堂の指示に従ってください」

「蓮見さん?」

 小夜子が言った。

 その声に、全員が振り返った。

 蓮見詩穂が、いなかった。

 食堂にいたはずだった。

 葛城の毒死のあと、泣き崩れていた。

 烏丸が消えたときにも、食堂の椅子に座っていた。

 階段下で烏丸が発見されたとき、真壁は食堂側の全員を確認した。

 少なくとも、そのとき蓮見はいた。

 だが今、応接室へ移動させようとした瞬間、その席だけが空いていた。

 二階堂の顔が変わった。

「嘘だろ」

 真壁は一瞬で動いた。

「いつからいない」

「わからない」

 二階堂の声に、自分への怒りが滲む。

「鳴海さんが管理室の鍵を確認して、氷室さんが金庫の話をして、鳳さんが説明して――その間に」

「またか」

 真壁は低く呟いた。

 まただ。

 二人目の混乱で、烏丸が消えた。

 三人目の処置と通信断絶の混乱で、蓮見が消えた。

 犯人は、事件を起こすだけではない。

 事件の後始末まで、次の事件の準備に使っている。

「蓮見さんは、最後にどこにいた」

「食堂の出入口に近い席」

 二階堂が答える。

「烏丸さんが落ちたあと、泣きながら“資料が、資料が”って言ってた」

「資料?」

 鳴海が小さく反応した。

 真壁は鳴海を見た。

「何の資料です」

「わかりません。ただ、蓮見さんは二十年前の行政記録を調べていた方です。今回の追悼会にも、過去の記録照合のために……」

「書庫か」

 真壁が言うと、鳴海の顔色が変わった。

「書庫は施錠されています」

「鍵は二つ」

「はい」

「あなたと氷室さんが持っている」

「はい」

「なら、確認する」

 真壁は歩き出した。

 二階堂がすぐに続く。

「俺も行く」

「お前は全員を」

「蓮見さんを見失ったのは俺だ」

「だから残れ」

 二階堂が口を閉じた。

 真壁はその顔を見た。

 行きたい。

 自分の失敗を取り戻したい。

 だが、それこそ犯人の順番に乗ることになる。

「二階堂」

 真壁は声を抑えた。

「お前はここにいろ。全員を見ていろ。次に誰かが消えたら終わる」

 二階堂は唇を噛んだ。

「……了解」

「鳳さん」

「はい」

「一緒に」

 鳳は頷いた。

「九条」

 階段下から九条が顔を上げる。

「何」

「烏丸さんは」

「動かせない。俺はここから離れない」

「わかった」

 九条は、蓮見の不在を聞いても動かなかった。

 動けない。

 彼の前には、生きている被害者がいる。

 その選択を、真壁は責められない。

 だが、その分だけ、真壁の足は重くなった。

 誰かを守るために、別の誰かの元へ行けない。

 この館は、それをわかっている。

 人間の善意や職能を、分断の道具にしている。

     *

 書庫は、展示室の奥にあった。

 展示室には、二十年前の事件に関するパネルが並んでいる。

 死者の名前。

 発見位置。

 公式時系列。

 新聞記事の切り抜き。

 追悼文。

 保存された灯の写真。

 今となっては、そのどれもが信用できない。

 真壁は展示室を抜けながら、壁のパネルを見た。

 玄関広間。

 食堂。

 階段下。

 書庫。

 温室。

 湖上回廊。

 六つの死亡位置。

 第四の赤印は書庫だった。

「次は書庫」

 鳳が静かに言った。

「言わなくていい」

「すみません」

 鳳の謝罪は、本当に申し訳なさそうだった。

 だが真壁は、今その柔らかさが少し怖かった。

 鳳は有能だ。

 有能すぎる。

 真壁が見落としかけるものを見ている。

 建物の裏側、図面の余白、床の傾き、視線の流れ。

 犯人が使っているものと、鳳が読んでいるものが近すぎる。

 だから犯人は、鳳を置いた。

 疑いの場所へ。

 真壁の隣へ。

「鳳さん」

「はい」

「この書庫も、図面と違う可能性があるか」

「あります」

「即答ですね」

「この館では、図面と違う前提で見た方が安全です」

「安全?」

「少なくとも、騙されにくい」

 真壁は書庫の扉の前で足を止めた。

 重い木製の扉だった。

 中央に真鍮のプレートがついている。

 資料室兼書庫。

 鍵穴は古い。

 だが、ドアノブの金具だけ新しい。

 最近交換されている。

 鳴海から借りた鍵を差し込む。

 回る。

 抵抗はない。

 鍵はかかっていなかった。

 真壁は鳳を見た。

 鳳も気づいている。

「開いている」

「はい」

「鳴海さんは施錠されていると言った」

「少なくとも、そう思っていた」

 鳳の言い方に、真壁はわずかに眉を寄せた。

「かばいますか」

「いいえ」

 鳳は首を振る。

「思っていることと、事実は違います」

 真壁はドアノブにハンカチをかけ、ゆっくり回した。

 扉が開く。

 紙の匂いが、押し寄せてきた。

 古い紙。

 湿気を吸い、乾き、また湿気を吸った紙。

 段ボール。

 革表紙。

 埃。

 インク。

 人の手の脂。

 役所の地下に似た匂いだった。

 その匂いの奥に、別のものが混じっていた。

 苦い。

 焦げたような。

 薬品のような。

「換気が悪い」

 鳳が言った。

 真壁は中へ踏み込んだ。

 書庫は広かった。

 壁一面に棚があり、中央にも背の高い書架が並んでいる。

 まるで紙でできた迷路だった。

 古い事件記録。

 館の図面。

 修復報告書。

 新聞切り抜き。

 関係者の手紙。

 追悼文集。

 未整理の箱。

 そのすべてが、蓋のない棺のように積まれている。

 灯りはついていない。

 ただ、書庫の奥から薄い光が漏れていた。

 モニターの赤だ。

 真壁は息を止めた。

「蓮見さん」

 返事はない。

 鳳が扉の近くに立ち、室内の構造を見ている。

「中央通路の奥です」

「見えるのか」

「光の反射が動いていません」

 真壁は慎重に進んだ。

 床には紙が散乱している。

 何冊かのファイルが開かれ、書類が引き抜かれていた。

 足元の紙を踏まないように進むのは難しい。

 犯人がわざと散らしたのか。

 蓮見が何かを探したのか。

 棚の角を曲がった瞬間、蓮見詩穂が見えた。

 書庫の奥。

 高い書架の前。

 彼女は床に倒れていた。

 身体の上に、紙が積もっている。

 白い紙、黄ばんだ紙、古い新聞、封筒、薄いファイル。

 胸から腹、肩、髪の一部にまで散らばり、まるで資料に埋もれているようだった。

 口元には、薄いビニールの破片のようなものが貼りついている。

 首に手を当てた形で、指が固まっていた。

 目は開いている。

 天井ではなく、書架の上の方を見ていた。

 そこに、何かを見たまま死んだような目だった。

「蓮見さん」

 真壁は呼んだ。

 返事はない。

 近づく前からわかっていた。

 死んでいる。

 それでも、確認しなければならない。

 真壁は無線を持っていないことを、今さらのように意識した。

 携帯は圏外。

 固定電話は切断。

 救急は呼べない。

 警察も来ない。

 この館では、死体が増えるたびに、外の世界が遠くなる。

「九条を呼ぶ」

 真壁は言った。

「呼んでください」

 鳳の声が硬かった。

 真壁は振り返る。

 鳳は蓮見の死体ではなく、書架の上を見ていた。

「何かあるか」

「はい」

 鳳は指を差さない。

 視線だけで示した。

 蓮見の頭上にある棚。

 そこに、黒い筒状のものが固定されていた。

 小型のファンか、換気装置の一部のように見える。

 だが、館の設備としては不自然な位置だ。

「換気口か」

「いえ。おそらく、逆です」

「逆?」

「空気を抜くのではなく、何かを吹き出した」

 真壁は蓮見の口元を見た。

 ビニール片。

 周囲の紙。

 閉ざされた書庫。

 窒息。

「ガスか」

「可能性があります。あるいは、粉末。酸素を奪うものか、咽頭を刺激して呼吸を阻害するもの」

「触るな」

「はい」

 真壁は書庫の入口へ戻りかけた。

 そのとき、床の紙の中に、赤い文字が見えた。

 印刷ではない。

 手書き。

 古い紙片。

 蓮見の右手の近くに挟まっている。

 真壁は腰を落とした。

 触れない距離で読む。

 紙片には、かすれた字でこう書かれていた。

 ――第七名、記録ナシ。

 その下に、別の筆跡で小さく。

 ――少女、氏名確認不能。

 真壁の喉が、静かに冷えた。

 少女。

 名前。

 確認不能。

「鳳さん」

「はい」

「これを見てください」

 鳳が近づき、紙片を見た。

 その顔から、いつもの柔らかさが消えた。

「これは……」

「二十年前の記録か」

「おそらく。ただ、展示資料にはありませんでした」

「欠落資料」

「はい」

 真壁は蓮見を見た。

 蓮見詩穂は、二十年前の行政記録を調べていた。

 彼女は何かを見つけた。

 少女の名前に関する欠落。

 第七名。

 公式記録では六名死亡のはずだ。

 なのに、第七名。

 記録ナシ。

 少女、氏名確認不能。

 真壁は奥歯を噛んだ。

 死者は六人ではない。

 あるいは、六人と発表された死者の中に、名前を奪われた別の一人がいた。

 この館で起きている事件は、二十年前の事件をなぞっているのではない。

 二十年前の記録が隠したものを、無理やり表に引きずり出している。

 ただし、殺人という形で。

「真壁さん」

 鳳が静かに言った。

「この書庫は、閉じ込めるための部屋ではありません」

「どういうことです」

「資料を保管するための部屋です。だから、湿度管理や換気のための装置がある。犯人はそれを利用している。窒息死に見せるなら、扉を外から塞ぐ必要はありません。空気の流れを変えればいい」

「建物に殺させた」

「建物の機能を、殺人に使った」

 真壁は鳳を見た。

「それも、鳳さんならできますか」

 鳳は一瞬、黙った。

 その沈黙が答えだった。

「知識としては」

「そうですか」

「ですが、この装置がいつ設置されたか、僕にはまだわかりません。館の保守設備として元からあったものか、最近取り付けられたものか」

「最近なら?」

「設置した人間がいます」

「元からなら?」

「使い方を知っていた人間がいます」

 どちらにせよ、人間がいる。

 この館を知っている人間。

 資料に触れられる人間。

 設備に触れられる人間。

 鍵を持つ人間。

 鳴海栞。

 氷室圭吾。

 そして、古い図面を読める鳳恭介。

 真壁は、三つの名前を頭の中に置いた。

 しかし、そこで止めた。

 名前を先に置くな。

 自分に言い聞かせる。

「二階堂を呼べ」

 真壁は言った。

「九条も」

「はい」

 鳳が入口へ向かった。

 その背中を見て、真壁はふと思った。

 犯人がもし鳳ではないなら、なぜここまで鳳に近い犯行をするのか。

 答えは一つではない。

 鳳を犯人に見せるため。

 あるいは、鳳に事件を読ませるため。

 犯人は、建物を読める人間がこの館に来ることを知っていた。

 それどころか、必要としていたのかもしれない。

 真壁は蓮見の死体を見る。

 彼女は紙に埋もれている。

 記録に埋もれている。

 名を隠された者を見つけたせいで、自分の名もまた紙の中へ沈められた。

 そのとき、書庫の奥のモニターが明るくなった。

 赤い光。

 真壁は顔を上げる。

 画面に文字が浮かぶ。

 ――よっつ灯して、名を隠す。

 遅れて、外の灯が消えた。

 第四灯。

 書庫側の外壁にあった灯だった。

 真壁には見えない。

 だが、館のどこかで誰かが息を呑む音が聞こえた。

 そしてモニターに、白い名前が表示される。

 ――蓮見詩穂。

 ――第四灯、消灯。

 さらに一行。

 ――記録にない名は、紙の下で息を止める。

 真壁は拳を握った。

 発表。

 まただ。

 灯が消える。

 見立ての歌が出る。

 名前が表示される。

 死者の意味が、犯人の言葉で決められる。

 真壁はモニターを睨んだ。

「勝手に決めるな」

 声が低く出た。

 書庫の紙が、その声を吸った。

     *

 九条が書庫に入ったとき、最初にしたのは顔をしかめることだった。

「臭いが変」

「薬品か」

 真壁が訊く。

「薬品か、カビか、古い紙か。混ざってる。でも、普通の書庫の臭いじゃない」

 九条は蓮見のそばへしゃがんだ。

「換気が必要。でも窓を開ける前に、現場を記録したい」

 二階堂が入口から言った。

「写真を撮る」

「マスクは」

「ない」

 真壁が答える。

「ハンカチで口を覆え。長居するな」

 二階堂は頷き、携帯で書庫全体を撮影し始めた。

 その手が、わずかに震えている。

 蓮見を見失ったのは自分だ。

 二階堂はそう思っている。

 だが、それを口にはしない。

 口にすれば、犯人の言葉になる。

「九条、死因は」

「まだ断定できない」

 九条は蓮見の口元を見た。

「窒息の可能性が高い。口元のビニール片、首元の掻き傷、指の形。呼吸できなくなって、自分で何かを剥がそうとしたように見える」

「ビニールで口を塞がれた?」

「それだけなら、もっと抵抗痕があるはず。身体を押さえられた形跡が少ない。意識が朦朧としていたか、空気そのものが悪かったか」

 鳳が言う。

「棚の上に装置があります」

 九条は顔を上げた。

「何の?」

「わかりません。換気設備に見せた噴出装置かもしれません」

「吸入か」

 九条の目が細くなる。

「蓮見さんは、ここで何かを吸わされた。そのあと、口元にビニールを貼られたか、自分で何かを覆った」

「自分で?」

「刺激臭から逃れようとして、口元を覆うことはある。けど、これが見立てなら、犯人が仕上げた可能性が高い」

 九条の声は冷たい。

 死体を読む声だった。

 だが、蓮見の手元の紙片を見たとき、その冷たさが少し変わった。

「これ」

「触るな」

「触らない」

 九条は紙片を見つめた。

「第七名、記録ナシ。少女、氏名確認不能」

 二階堂が撮影の手を止めた。

「六人死亡じゃなかったの」

「公式には」

 真壁が言った。

 二階堂の顔が険しくなる。

「公式には、ね」

「蓮見さんは、それを見つけた」

「だから殺された?」

「可能性はある」

 二階堂は蓮見の死体を見た。

 紙に埋もれた身体。

 名前を隠された死者。

 記録にない第七名。

「これ、蓮見さん自身も関わってたんじゃないかな」

 彼が言った。

 真壁は二階堂を見る。

「理由は」

「さっき、彼女はずっと資料を気にしてた。“資料が、資料が”って。怯えていたけど、ただ怖がってたんじゃない。自分が知ってることが、次に出てくるとわかってた感じがした」

「罪の名前を押しつけられた」

「うん」

 二階堂はゆっくり頷いた。

「蓮見さんは、記録を隠した側かもしれない。あるいは、隠された記録を見つけたのに黙っていた側」

「見立ては、記録に埋もれる者」

「そして死に方は、文字通り紙の下で息を止める」

 二階堂の声が苦くなる。

「趣味が悪い」

「犯人はそう見せたいんだろう」

 真壁は言った。

「蓮見さんを“記録に埋もれた者”として」

「本当にそうだったかは、まだわからない」

「そうだ」

 真壁はモニターを見た。

「犯人の説明を信用するな」

 九条が静かに言った。

「蓮見さんの手元」

「紙片か」

「紙片だけじゃない」

 蓮見の右手は紙の中に半分埋もれていた。

 指先が何かを掴んでいる。

 真壁はライトを向けた。

 小さな金属片だった。

 鍵ではない。

 薄いプレート。

 文字が刻まれている。

 鳳が息を呑んだ。

「棚番号です」

「棚番号?」

「書庫の棚に付ける金属ラベルです。見てください」

 鳳は壁際の棚を視線で示す。

 各棚には小さな金属ラベルがついている。

 A一、A二、B一、B二。

 蓮見の手にあるプレートには、こう刻まれていた。

 G七。

 G七。

 第七名。

 記録ナシ。

 少女。

 氏名確認不能。

「G七の棚を探せ」

 真壁が言った。

「触る前に撮る」

 二階堂がすぐに撮影する。

 鳳が棚の配置を見て、奥へ進む。

「こちらです」

 G列は、書庫の最奥にあった。

 そこだけ棚の形が違う。

 他の棚は木製だが、G列の七番だけ金属製のキャビネットが入っている。

 鍵付き。

 だが扉はわずかに開いていた。

 真壁はハンカチ越しに扉を開ける。

 中は空だった。

 いや、完全に空ではない。

 底に、白い紙片が一枚残されている。

 印刷された文字。

 古い台帳のコピーらしい。

 そこには、名前の欄だけが黒く塗り潰されていた。

 年齢欄。

 十二歳。

 性別。

 女。

 発見場所。

 空欄。

 身元確認者。

 空欄。

 備考。

 判読できないほど黒く塗られている。

 二階堂が、ほとんど息だけで言った。

「名前が消されてる」

「違う」

 九条が言った。

「名前だけじゃない。発見場所も、確認者も消されてる」

 鳳が続ける。

「つまり、死んだ場所と、誰がその子をその子だと確認したかが隠されている」

 真壁は黒塗りの紙を見た。

 死体より先に名前が置かれる。

 だが、この少女には名前すら置かれなかった。

 あるいは、別の名前を置かれた。

「二十年前の少女は」

 二階堂が言った。

「本当に少女だったのかな」

 真壁は二階堂を見る。

「どういう意味だ」

「いや、逆か。少女だったからこそ、名前を消されたのか」

 彼は黒塗りの紙を見つめた。

「この事件、ただの復讐じゃない。誰かが、二十年前に消された名前を戻そうとしてる。でも、戻し方が壊れてる」

 真壁は黙った。

 その通りだった。

 犯人は正しいことを暴こうとしているのかもしれない。

 だが、正しいことのために人を殺している。

 それは、許されない。

 絶対に。

 そのとき、入口の方から小さな音がした。

 紙が擦れる音。

 真壁は振り向く。

 誰かがいた。

 書庫の入口。

 鳴海栞だった。

 顔色が悪い。

 両手を胸の前で握りしめている。

 二階堂がすぐに鋭い声を出した。

「鳴海さん。来ないでと言いましたよね」

「すみません」

 鳴海は消え入りそうな声で言った。

「でも、蓮見さんが……」

「誰と来た」

 真壁が問う。

 鳴海は戸惑ったように答える。

「一人で」

 二階堂の顔が強張った。

「一人で動くなって言った」

「すみません。蓮見さんが、書庫にいるかもしれないと思って」

「なぜそう思った」

 真壁の声が低くなる。

 鳴海は言葉を失った。

「鳴海さん」

 真壁は一歩近づいた。

「あなたは、蓮見さんが書庫へ行く理由を知っていたんですか」

「……彼女は、資料を気にしていたので」

「どの資料です」

「そこまでは」

「G七を知っていますか」

 鳴海の瞳が揺れた。

 真壁は、それを見た。

 二階堂も見た。

 鳳も、九条も。

 鳴海は唇を開いた。

「知りません」

 遅かった。

 ほんの半秒。

 否定するには、遅すぎた。

 二階堂が静かに言った。

「今の“知りません”は、かなり悪いです」

 鳴海は二階堂を見た。

「どういう意味ですか」

「文章にするなら、“私はG七という棚番号を知らない”じゃなくて、“その棚の中身については申し上げられません”に近い間でした」

 鳴海の顔から血の気が引いた。

「そんな言いがかり――」

「言いがかりでいいです」

 二階堂は柔らかく言った。

「俺は、誰がどの言葉をどの順番で置いたかを見ているだけなので」

 その言葉に、鳴海は黙った。

 真壁は鳴海を見つめる。

 資料担当。

 鍵の所持者。

 展示説明の作成者。

 G七に反応した人間。

 疑う材料は増えている。

 増えすぎている。

 だが、犯人がそう置いている可能性もある。

 真壁は、まだ名前を置かない。

「鳴海さん」

「はい」

「二十年前の第七名について、知っていることを話してください」

 鳴海は俯いた。

 書庫の赤いモニターが、まだ彼女の横顔を照らしている。

 蓮見詩穂。

 第四灯、消灯。

 記録にない名は、紙の下で息を止める。

 その赤い文字の中で、鳴海は小さく言った。

「第七名なんて、ありません」

「では、この紙は」

「間違いです」

「何が」

「記録の」

「誰が間違えた」

 鳴海は答えない。

 真壁はさらに一歩近づいた。

「誰が、間違えたことにした」

 鳴海の肩が震えた。

 その瞬間、書庫の外で悲鳴が上がった。

 小夜子の声だった。

「瑠璃子さん!」

 真壁は反射的に振り向いた。

 二階堂も走り出しかける。

 だが、真壁は腕で制した。

「待て!」

「でも」

「犯人は、叫び声で動かす」

 二階堂が止まる。

 真壁は鳴海を見る。

 鳴海は顔を上げていた。

 その目に浮かんでいたものを、真壁は読み切れなかった。

 恐怖か。

 驚きか。

 それとも、予定外の何かを見た顔か。

 外で、小夜子がもう一度叫んだ。

「瑠璃子さんがいない!」

 御子柴瑠璃子。

 第六灯のはずの女。

 湖上回廊から失踪するはずの女。

 まだ第五灯にも至っていない。

 順番が乱れた。

 いや。

 乱れたように見せられているのかもしれない。

 真壁は、書庫のモニターを見た。

 第四灯は消えている。

 蓮見詩穂は死んでいる。

 鳴海栞は目の前にいる。

 御子柴瑠璃子が消えた。

 十二灯館は、また次の名前を置こうとしている。

 真壁は低く言った。

「二階堂、鳴海さんから目を離すな」

「了解」

「鳳さん、俺と来てください。九条は蓮見さんを」

「わかった」

 九条は蓮見の死体の前から動かない。

 だが、その顔は険しい。

 死体が増え、生存者が傷つき、失踪者が出る。

 九条の手が足りない。

 真壁の目も足りない。

 二階堂の言葉も足りない。

 鳳の建築知識さえ、館の全部を押さえきれない。

 この館は、人間の能力を一つずつ足りなくしていく。

 真壁は書庫を出た。

 外の廊下には、紙の匂いがまだついてきていた。

 蓮見の死体に積もっていた紙。

 黒く塗られた名前。

 第七名。

 記録ナシ。

 少女。

 氏名確認不能。

 そして、今消えた瑠璃子の名。

 まだ灯は消えていない。

 だが、誰かの名前だけが先に消えようとしている。

 真壁は奥歯を噛んだ。

「勝手に順番を変えるな」

 低く呟く。

 だが、館は答えない。

 ただ、廊下の向こうで、小夜子の泣き声だけが響いていた。

 その声は、どこから聞こえているのかわからなかった。

 右からのようにも、左からのようにも。

 階段の上からのようにも。

 湖の方からのようにも聞こえた。

 十二灯館では、声さえも、名を隠す。


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