第五章 よっつ灯して、名を隠す
紙は、人を殺さない。
刃物のように肉を裂かない。
毒のように血へ混じらない。
階段のように人を落とさない。
だが、真壁彰は知っていた。
紙は、人を殺したあとに残る。
調書。
報告書。
新聞記事。
戸籍。
死亡診断書。
検案書。
会見資料。
訂正文。
告知文。
名簿。
人間が死んだあと、その死をどういう形で世の中に残すかを決めるのは、たいてい紙だった。
死者は喋らない。
だが紙は喋る。
そして、紙に書かれた言葉は、ときに死者本人よりも長く生きる。
十二灯館の第四の現場が書庫だったことを、真壁は偶然だとは思わなかった。
*
烏丸鏡花は、まだ階段下にいた。
動かせない。
頸椎損傷の可能性がある。
左腕、あるいは鎖骨。
頭部打撲。
意識は混濁し、呼吸は浅い。
九条雅紀は彼女の傍らを離れず、脈と呼吸を確認し続けていた。
死体を読む男が、生きている人間を死なせないために、そこから動けないでいる。
その姿は、真壁には痛かった。
九条は冷静だった。
少なくとも、そう見せていた。
けれど声の奥には、いつもより硬いものが混じっている。
西園寺雅治は死んだ。
葛城慎一郎も死んだ。
烏丸鏡花は、生きている。
だからこそ、ここで間違えるわけにはいかない。
「固定電話は、完全に切られてる」
二階堂壮也が管理室から戻って、低い声で言った。
「回線不良じゃない。ケーブルが切断されてる。外線に繋がるところを、きれいに」
「工具は」
「見当たらない。切り口は鋭い。ニッパーか、電工用の刃物」
「管理室の鍵は」
「開いてた。というか、開けられていた」
真壁は二階堂を見た。
「船の鍵は」
「消えてる。予備鍵も」
「誰が管理していた」
氷室圭吾が青ざめた顔で答えた。
「私です。管理室の金庫に」
「金庫は」
「開けられていました」
「暗証番号は」
「私しか知りません」
二階堂が氷室を見る。
「本当に?」
「本当です」
氷室の声はかすれていた。
「ただ、古い館です。改修や保守のたびに、業者が管理室へ入ることはありました。けれど金庫の番号は……」
「金庫そのものは古い?」
鳳恭介が静かに訊いた。
氷室は戸惑いながら頷く。
「はい。先代の頃からあるものです」
「なら、番号以外の開け方があった可能性があります。古い金庫は、癖を知っていれば開くことがある」
氷室の顔がさらに白くなった。
「そんな……」
鳳はそれ以上言わなかった。
言わないこともまた、疑いを残す。
鳳は建物を読める。
古い扉、古い鍵、古い金庫、古い図面。
この館が犯行に使われるほど、鳳恭介という男の輪郭もまた犯人に近づいていく。
本人もそれをわかっている。
つい先刻、鳳は言った。
僕なら、できます。
だからこそ、僕ではない証明は難しい。
あの言葉は、食堂にいる全員の中へ静かに沈んでいた。
犯人は、死体だけでなく、容疑者も置く。
西園寺を玄関広間に置き、葛城を食卓に置き、烏丸を階段下に置いた。
そして今度は、鳳を疑いの場所へ置いた。
真壁は、犯人の順番に乗りたくなかった。
だが疑いを捨てることもできない。
それが、最悪だった。
「全員を一か所に集める」
真壁は言った。
「食堂は葛城さんの現場。玄関広間は西園寺さんの現場。階段下は烏丸さんの処置場所。使える部屋は限られる」
「応接室があります」
鳴海栞が言った。
「玄関広間の反対側に。展示室を抜けた先です」
「書庫は?」
真壁が訊くと、鳴海の表情がわずかに動いた。
ほんの一瞬だった。
だが、真壁は見逃さなかった。
「書庫は、資料保管用です。普段は施錠しています」
「鍵は」
「氷室さんと、私が」
鳴海は一瞬だけ言葉を切った。
「持っています」
その間は短い。
だが、鍵という言葉を口にする前に、彼女は自分の胸元のポケットへ目を落とした。
そこに鍵があることを確かめる仕草だった。
あるいは、そこに鍵があると見せる仕草だった。
「今も?」
鳴海は自分のポケットに手を触れた。
小さな鍵束を取り出す。
「あります」
「氷室さん」
氷室も慌てて鍵を確認した。
「私のものも、あります」
二階堂が横から言った。
「でも鍵があることと、入れないことは別だよね」
鳴海が二階堂を見る。
「どういう意味ですか」
「この館、鍵より抜け道の方が信用できない」
その言い方に、鳴海は顔をこわばらせた。
二階堂は柔らかい顔をしていた。
だが、その目はもう笑っていない。
彼も傷を負っている。
葛城の毒死で、席順を決めた者として疑われた。
モニターに「席を分けた者は、次の名を選ぶ」と出され、場の視線を一身に受けた。
言葉を扱う男が、言葉で切られた。
だからこそ、今の二階堂は、言葉の端に過敏になっている。
「応接室へ移動します」
真壁は決めた。
「ただし、二人一組で動く。誰も単独行動しない。鳳さんは俺と。二階堂は鳴海さんと氷室さんを見てくれ。九条は烏丸さんから離れるな。小夜子さん、瑠璃子さん、蓮見さん、朽木さんは二階堂の指示に従ってください」
「蓮見さん?」
小夜子が言った。
その声に、全員が振り返った。
蓮見詩穂が、いなかった。
食堂にいたはずだった。
葛城の毒死のあと、泣き崩れていた。
烏丸が消えたときにも、食堂の椅子に座っていた。
階段下で烏丸が発見されたとき、真壁は食堂側の全員を確認した。
少なくとも、そのとき蓮見はいた。
だが今、応接室へ移動させようとした瞬間、その席だけが空いていた。
二階堂の顔が変わった。
「嘘だろ」
真壁は一瞬で動いた。
「いつからいない」
「わからない」
二階堂の声に、自分への怒りが滲む。
「鳴海さんが管理室の鍵を確認して、氷室さんが金庫の話をして、鳳さんが説明して――その間に」
「またか」
真壁は低く呟いた。
まただ。
二人目の混乱で、烏丸が消えた。
三人目の処置と通信断絶の混乱で、蓮見が消えた。
犯人は、事件を起こすだけではない。
事件の後始末まで、次の事件の準備に使っている。
「蓮見さんは、最後にどこにいた」
「食堂の出入口に近い席」
二階堂が答える。
「烏丸さんが落ちたあと、泣きながら“資料が、資料が”って言ってた」
「資料?」
鳴海が小さく反応した。
真壁は鳴海を見た。
「何の資料です」
「わかりません。ただ、蓮見さんは二十年前の行政記録を調べていた方です。今回の追悼会にも、過去の記録照合のために……」
「書庫か」
真壁が言うと、鳴海の顔色が変わった。
「書庫は施錠されています」
「鍵は二つ」
「はい」
「あなたと氷室さんが持っている」
「はい」
「なら、確認する」
真壁は歩き出した。
二階堂がすぐに続く。
「俺も行く」
「お前は全員を」
「蓮見さんを見失ったのは俺だ」
「だから残れ」
二階堂が口を閉じた。
真壁はその顔を見た。
行きたい。
自分の失敗を取り戻したい。
だが、それこそ犯人の順番に乗ることになる。
「二階堂」
真壁は声を抑えた。
「お前はここにいろ。全員を見ていろ。次に誰かが消えたら終わる」
二階堂は唇を噛んだ。
「……了解」
「鳳さん」
「はい」
「一緒に」
鳳は頷いた。
「九条」
階段下から九条が顔を上げる。
「何」
「烏丸さんは」
「動かせない。俺はここから離れない」
「わかった」
九条は、蓮見の不在を聞いても動かなかった。
動けない。
彼の前には、生きている被害者がいる。
その選択を、真壁は責められない。
だが、その分だけ、真壁の足は重くなった。
誰かを守るために、別の誰かの元へ行けない。
この館は、それをわかっている。
人間の善意や職能を、分断の道具にしている。
*
書庫は、展示室の奥にあった。
展示室には、二十年前の事件に関するパネルが並んでいる。
死者の名前。
発見位置。
公式時系列。
新聞記事の切り抜き。
追悼文。
保存された灯の写真。
今となっては、そのどれもが信用できない。
真壁は展示室を抜けながら、壁のパネルを見た。
玄関広間。
食堂。
階段下。
書庫。
温室。
湖上回廊。
六つの死亡位置。
第四の赤印は書庫だった。
「次は書庫」
鳳が静かに言った。
「言わなくていい」
「すみません」
鳳の謝罪は、本当に申し訳なさそうだった。
だが真壁は、今その柔らかさが少し怖かった。
鳳は有能だ。
有能すぎる。
真壁が見落としかけるものを見ている。
建物の裏側、図面の余白、床の傾き、視線の流れ。
犯人が使っているものと、鳳が読んでいるものが近すぎる。
だから犯人は、鳳を置いた。
疑いの場所へ。
真壁の隣へ。
「鳳さん」
「はい」
「この書庫も、図面と違う可能性があるか」
「あります」
「即答ですね」
「この館では、図面と違う前提で見た方が安全です」
「安全?」
「少なくとも、騙されにくい」
真壁は書庫の扉の前で足を止めた。
重い木製の扉だった。
中央に真鍮のプレートがついている。
資料室兼書庫。
鍵穴は古い。
だが、ドアノブの金具だけ新しい。
最近交換されている。
鳴海から借りた鍵を差し込む。
回る。
抵抗はない。
鍵はかかっていなかった。
真壁は鳳を見た。
鳳も気づいている。
「開いている」
「はい」
「鳴海さんは施錠されていると言った」
「少なくとも、そう思っていた」
鳳の言い方に、真壁はわずかに眉を寄せた。
「かばいますか」
「いいえ」
鳳は首を振る。
「思っていることと、事実は違います」
真壁はドアノブにハンカチをかけ、ゆっくり回した。
扉が開く。
紙の匂いが、押し寄せてきた。
古い紙。
湿気を吸い、乾き、また湿気を吸った紙。
段ボール。
革表紙。
埃。
インク。
人の手の脂。
役所の地下に似た匂いだった。
その匂いの奥に、別のものが混じっていた。
苦い。
焦げたような。
薬品のような。
「換気が悪い」
鳳が言った。
真壁は中へ踏み込んだ。
書庫は広かった。
壁一面に棚があり、中央にも背の高い書架が並んでいる。
まるで紙でできた迷路だった。
古い事件記録。
館の図面。
修復報告書。
新聞切り抜き。
関係者の手紙。
追悼文集。
未整理の箱。
そのすべてが、蓋のない棺のように積まれている。
灯りはついていない。
ただ、書庫の奥から薄い光が漏れていた。
モニターの赤だ。
真壁は息を止めた。
「蓮見さん」
返事はない。
鳳が扉の近くに立ち、室内の構造を見ている。
「中央通路の奥です」
「見えるのか」
「光の反射が動いていません」
真壁は慎重に進んだ。
床には紙が散乱している。
何冊かのファイルが開かれ、書類が引き抜かれていた。
足元の紙を踏まないように進むのは難しい。
犯人がわざと散らしたのか。
蓮見が何かを探したのか。
棚の角を曲がった瞬間、蓮見詩穂が見えた。
書庫の奥。
高い書架の前。
彼女は床に倒れていた。
身体の上に、紙が積もっている。
白い紙、黄ばんだ紙、古い新聞、封筒、薄いファイル。
胸から腹、肩、髪の一部にまで散らばり、まるで資料に埋もれているようだった。
口元には、薄いビニールの破片のようなものが貼りついている。
首に手を当てた形で、指が固まっていた。
目は開いている。
天井ではなく、書架の上の方を見ていた。
そこに、何かを見たまま死んだような目だった。
「蓮見さん」
真壁は呼んだ。
返事はない。
近づく前からわかっていた。
死んでいる。
それでも、確認しなければならない。
真壁は無線を持っていないことを、今さらのように意識した。
携帯は圏外。
固定電話は切断。
救急は呼べない。
警察も来ない。
この館では、死体が増えるたびに、外の世界が遠くなる。
「九条を呼ぶ」
真壁は言った。
「呼んでください」
鳳の声が硬かった。
真壁は振り返る。
鳳は蓮見の死体ではなく、書架の上を見ていた。
「何かあるか」
「はい」
鳳は指を差さない。
視線だけで示した。
蓮見の頭上にある棚。
そこに、黒い筒状のものが固定されていた。
小型のファンか、換気装置の一部のように見える。
だが、館の設備としては不自然な位置だ。
「換気口か」
「いえ。おそらく、逆です」
「逆?」
「空気を抜くのではなく、何かを吹き出した」
真壁は蓮見の口元を見た。
ビニール片。
周囲の紙。
閉ざされた書庫。
窒息。
「ガスか」
「可能性があります。あるいは、粉末。酸素を奪うものか、咽頭を刺激して呼吸を阻害するもの」
「触るな」
「はい」
真壁は書庫の入口へ戻りかけた。
そのとき、床の紙の中に、赤い文字が見えた。
印刷ではない。
手書き。
古い紙片。
蓮見の右手の近くに挟まっている。
真壁は腰を落とした。
触れない距離で読む。
紙片には、かすれた字でこう書かれていた。
――第七名、記録ナシ。
その下に、別の筆跡で小さく。
――少女、氏名確認不能。
真壁の喉が、静かに冷えた。
少女。
名前。
確認不能。
「鳳さん」
「はい」
「これを見てください」
鳳が近づき、紙片を見た。
その顔から、いつもの柔らかさが消えた。
「これは……」
「二十年前の記録か」
「おそらく。ただ、展示資料にはありませんでした」
「欠落資料」
「はい」
真壁は蓮見を見た。
蓮見詩穂は、二十年前の行政記録を調べていた。
彼女は何かを見つけた。
少女の名前に関する欠落。
第七名。
公式記録では六名死亡のはずだ。
なのに、第七名。
記録ナシ。
少女、氏名確認不能。
真壁は奥歯を噛んだ。
死者は六人ではない。
あるいは、六人と発表された死者の中に、名前を奪われた別の一人がいた。
この館で起きている事件は、二十年前の事件をなぞっているのではない。
二十年前の記録が隠したものを、無理やり表に引きずり出している。
ただし、殺人という形で。
「真壁さん」
鳳が静かに言った。
「この書庫は、閉じ込めるための部屋ではありません」
「どういうことです」
「資料を保管するための部屋です。だから、湿度管理や換気のための装置がある。犯人はそれを利用している。窒息死に見せるなら、扉を外から塞ぐ必要はありません。空気の流れを変えればいい」
「建物に殺させた」
「建物の機能を、殺人に使った」
真壁は鳳を見た。
「それも、鳳さんならできますか」
鳳は一瞬、黙った。
その沈黙が答えだった。
「知識としては」
「そうですか」
「ですが、この装置がいつ設置されたか、僕にはまだわかりません。館の保守設備として元からあったものか、最近取り付けられたものか」
「最近なら?」
「設置した人間がいます」
「元からなら?」
「使い方を知っていた人間がいます」
どちらにせよ、人間がいる。
この館を知っている人間。
資料に触れられる人間。
設備に触れられる人間。
鍵を持つ人間。
鳴海栞。
氷室圭吾。
そして、古い図面を読める鳳恭介。
真壁は、三つの名前を頭の中に置いた。
しかし、そこで止めた。
名前を先に置くな。
自分に言い聞かせる。
「二階堂を呼べ」
真壁は言った。
「九条も」
「はい」
鳳が入口へ向かった。
その背中を見て、真壁はふと思った。
犯人がもし鳳ではないなら、なぜここまで鳳に近い犯行をするのか。
答えは一つではない。
鳳を犯人に見せるため。
あるいは、鳳に事件を読ませるため。
犯人は、建物を読める人間がこの館に来ることを知っていた。
それどころか、必要としていたのかもしれない。
真壁は蓮見の死体を見る。
彼女は紙に埋もれている。
記録に埋もれている。
名を隠された者を見つけたせいで、自分の名もまた紙の中へ沈められた。
そのとき、書庫の奥のモニターが明るくなった。
赤い光。
真壁は顔を上げる。
画面に文字が浮かぶ。
――よっつ灯して、名を隠す。
遅れて、外の灯が消えた。
第四灯。
書庫側の外壁にあった灯だった。
真壁には見えない。
だが、館のどこかで誰かが息を呑む音が聞こえた。
そしてモニターに、白い名前が表示される。
――蓮見詩穂。
――第四灯、消灯。
さらに一行。
――記録にない名は、紙の下で息を止める。
真壁は拳を握った。
発表。
まただ。
灯が消える。
見立ての歌が出る。
名前が表示される。
死者の意味が、犯人の言葉で決められる。
真壁はモニターを睨んだ。
「勝手に決めるな」
声が低く出た。
書庫の紙が、その声を吸った。
*
九条が書庫に入ったとき、最初にしたのは顔をしかめることだった。
「臭いが変」
「薬品か」
真壁が訊く。
「薬品か、カビか、古い紙か。混ざってる。でも、普通の書庫の臭いじゃない」
九条は蓮見のそばへしゃがんだ。
「換気が必要。でも窓を開ける前に、現場を記録したい」
二階堂が入口から言った。
「写真を撮る」
「マスクは」
「ない」
真壁が答える。
「ハンカチで口を覆え。長居するな」
二階堂は頷き、携帯で書庫全体を撮影し始めた。
その手が、わずかに震えている。
蓮見を見失ったのは自分だ。
二階堂はそう思っている。
だが、それを口にはしない。
口にすれば、犯人の言葉になる。
「九条、死因は」
「まだ断定できない」
九条は蓮見の口元を見た。
「窒息の可能性が高い。口元のビニール片、首元の掻き傷、指の形。呼吸できなくなって、自分で何かを剥がそうとしたように見える」
「ビニールで口を塞がれた?」
「それだけなら、もっと抵抗痕があるはず。身体を押さえられた形跡が少ない。意識が朦朧としていたか、空気そのものが悪かったか」
鳳が言う。
「棚の上に装置があります」
九条は顔を上げた。
「何の?」
「わかりません。換気設備に見せた噴出装置かもしれません」
「吸入か」
九条の目が細くなる。
「蓮見さんは、ここで何かを吸わされた。そのあと、口元にビニールを貼られたか、自分で何かを覆った」
「自分で?」
「刺激臭から逃れようとして、口元を覆うことはある。けど、これが見立てなら、犯人が仕上げた可能性が高い」
九条の声は冷たい。
死体を読む声だった。
だが、蓮見の手元の紙片を見たとき、その冷たさが少し変わった。
「これ」
「触るな」
「触らない」
九条は紙片を見つめた。
「第七名、記録ナシ。少女、氏名確認不能」
二階堂が撮影の手を止めた。
「六人死亡じゃなかったの」
「公式には」
真壁が言った。
二階堂の顔が険しくなる。
「公式には、ね」
「蓮見さんは、それを見つけた」
「だから殺された?」
「可能性はある」
二階堂は蓮見の死体を見た。
紙に埋もれた身体。
名前を隠された死者。
記録にない第七名。
「これ、蓮見さん自身も関わってたんじゃないかな」
彼が言った。
真壁は二階堂を見る。
「理由は」
「さっき、彼女はずっと資料を気にしてた。“資料が、資料が”って。怯えていたけど、ただ怖がってたんじゃない。自分が知ってることが、次に出てくるとわかってた感じがした」
「罪の名前を押しつけられた」
「うん」
二階堂はゆっくり頷いた。
「蓮見さんは、記録を隠した側かもしれない。あるいは、隠された記録を見つけたのに黙っていた側」
「見立ては、記録に埋もれる者」
「そして死に方は、文字通り紙の下で息を止める」
二階堂の声が苦くなる。
「趣味が悪い」
「犯人はそう見せたいんだろう」
真壁は言った。
「蓮見さんを“記録に埋もれた者”として」
「本当にそうだったかは、まだわからない」
「そうだ」
真壁はモニターを見た。
「犯人の説明を信用するな」
九条が静かに言った。
「蓮見さんの手元」
「紙片か」
「紙片だけじゃない」
蓮見の右手は紙の中に半分埋もれていた。
指先が何かを掴んでいる。
真壁はライトを向けた。
小さな金属片だった。
鍵ではない。
薄いプレート。
文字が刻まれている。
鳳が息を呑んだ。
「棚番号です」
「棚番号?」
「書庫の棚に付ける金属ラベルです。見てください」
鳳は壁際の棚を視線で示す。
各棚には小さな金属ラベルがついている。
A一、A二、B一、B二。
蓮見の手にあるプレートには、こう刻まれていた。
G七。
G七。
第七名。
記録ナシ。
少女。
氏名確認不能。
「G七の棚を探せ」
真壁が言った。
「触る前に撮る」
二階堂がすぐに撮影する。
鳳が棚の配置を見て、奥へ進む。
「こちらです」
G列は、書庫の最奥にあった。
そこだけ棚の形が違う。
他の棚は木製だが、G列の七番だけ金属製のキャビネットが入っている。
鍵付き。
だが扉はわずかに開いていた。
真壁はハンカチ越しに扉を開ける。
中は空だった。
いや、完全に空ではない。
底に、白い紙片が一枚残されている。
印刷された文字。
古い台帳のコピーらしい。
そこには、名前の欄だけが黒く塗り潰されていた。
年齢欄。
十二歳。
性別。
女。
発見場所。
空欄。
身元確認者。
空欄。
備考。
判読できないほど黒く塗られている。
二階堂が、ほとんど息だけで言った。
「名前が消されてる」
「違う」
九条が言った。
「名前だけじゃない。発見場所も、確認者も消されてる」
鳳が続ける。
「つまり、死んだ場所と、誰がその子をその子だと確認したかが隠されている」
真壁は黒塗りの紙を見た。
死体より先に名前が置かれる。
だが、この少女には名前すら置かれなかった。
あるいは、別の名前を置かれた。
「二十年前の少女は」
二階堂が言った。
「本当に少女だったのかな」
真壁は二階堂を見る。
「どういう意味だ」
「いや、逆か。少女だったからこそ、名前を消されたのか」
彼は黒塗りの紙を見つめた。
「この事件、ただの復讐じゃない。誰かが、二十年前に消された名前を戻そうとしてる。でも、戻し方が壊れてる」
真壁は黙った。
その通りだった。
犯人は正しいことを暴こうとしているのかもしれない。
だが、正しいことのために人を殺している。
それは、許されない。
絶対に。
そのとき、入口の方から小さな音がした。
紙が擦れる音。
真壁は振り向く。
誰かがいた。
書庫の入口。
鳴海栞だった。
顔色が悪い。
両手を胸の前で握りしめている。
二階堂がすぐに鋭い声を出した。
「鳴海さん。来ないでと言いましたよね」
「すみません」
鳴海は消え入りそうな声で言った。
「でも、蓮見さんが……」
「誰と来た」
真壁が問う。
鳴海は戸惑ったように答える。
「一人で」
二階堂の顔が強張った。
「一人で動くなって言った」
「すみません。蓮見さんが、書庫にいるかもしれないと思って」
「なぜそう思った」
真壁の声が低くなる。
鳴海は言葉を失った。
「鳴海さん」
真壁は一歩近づいた。
「あなたは、蓮見さんが書庫へ行く理由を知っていたんですか」
「……彼女は、資料を気にしていたので」
「どの資料です」
「そこまでは」
「G七を知っていますか」
鳴海の瞳が揺れた。
真壁は、それを見た。
二階堂も見た。
鳳も、九条も。
鳴海は唇を開いた。
「知りません」
遅かった。
ほんの半秒。
否定するには、遅すぎた。
二階堂が静かに言った。
「今の“知りません”は、かなり悪いです」
鳴海は二階堂を見た。
「どういう意味ですか」
「文章にするなら、“私はG七という棚番号を知らない”じゃなくて、“その棚の中身については申し上げられません”に近い間でした」
鳴海の顔から血の気が引いた。
「そんな言いがかり――」
「言いがかりでいいです」
二階堂は柔らかく言った。
「俺は、誰がどの言葉をどの順番で置いたかを見ているだけなので」
その言葉に、鳴海は黙った。
真壁は鳴海を見つめる。
資料担当。
鍵の所持者。
展示説明の作成者。
G七に反応した人間。
疑う材料は増えている。
増えすぎている。
だが、犯人がそう置いている可能性もある。
真壁は、まだ名前を置かない。
「鳴海さん」
「はい」
「二十年前の第七名について、知っていることを話してください」
鳴海は俯いた。
書庫の赤いモニターが、まだ彼女の横顔を照らしている。
蓮見詩穂。
第四灯、消灯。
記録にない名は、紙の下で息を止める。
その赤い文字の中で、鳴海は小さく言った。
「第七名なんて、ありません」
「では、この紙は」
「間違いです」
「何が」
「記録の」
「誰が間違えた」
鳴海は答えない。
真壁はさらに一歩近づいた。
「誰が、間違えたことにした」
鳴海の肩が震えた。
その瞬間、書庫の外で悲鳴が上がった。
小夜子の声だった。
「瑠璃子さん!」
真壁は反射的に振り向いた。
二階堂も走り出しかける。
だが、真壁は腕で制した。
「待て!」
「でも」
「犯人は、叫び声で動かす」
二階堂が止まる。
真壁は鳴海を見る。
鳴海は顔を上げていた。
その目に浮かんでいたものを、真壁は読み切れなかった。
恐怖か。
驚きか。
それとも、予定外の何かを見た顔か。
外で、小夜子がもう一度叫んだ。
「瑠璃子さんがいない!」
御子柴瑠璃子。
第六灯のはずの女。
湖上回廊から失踪するはずの女。
まだ第五灯にも至っていない。
順番が乱れた。
いや。
乱れたように見せられているのかもしれない。
真壁は、書庫のモニターを見た。
第四灯は消えている。
蓮見詩穂は死んでいる。
鳴海栞は目の前にいる。
御子柴瑠璃子が消えた。
十二灯館は、また次の名前を置こうとしている。
真壁は低く言った。
「二階堂、鳴海さんから目を離すな」
「了解」
「鳳さん、俺と来てください。九条は蓮見さんを」
「わかった」
九条は蓮見の死体の前から動かない。
だが、その顔は険しい。
死体が増え、生存者が傷つき、失踪者が出る。
九条の手が足りない。
真壁の目も足りない。
二階堂の言葉も足りない。
鳳の建築知識さえ、館の全部を押さえきれない。
この館は、人間の能力を一つずつ足りなくしていく。
真壁は書庫を出た。
外の廊下には、紙の匂いがまだついてきていた。
蓮見の死体に積もっていた紙。
黒く塗られた名前。
第七名。
記録ナシ。
少女。
氏名確認不能。
そして、今消えた瑠璃子の名。
まだ灯は消えていない。
だが、誰かの名前だけが先に消えようとしている。
真壁は奥歯を噛んだ。
「勝手に順番を変えるな」
低く呟く。
だが、館は答えない。
ただ、廊下の向こうで、小夜子の泣き声だけが響いていた。
その声は、どこから聞こえているのかわからなかった。
右からのようにも、左からのようにも。
階段の上からのようにも。
湖の方からのようにも聞こえた。
十二灯館では、声さえも、名を隠す。




