第四章 みっつ灯して、階を落とす
階段は、人を落とすためにあるのではない。
上がるためにある。
下りるためにある。
階と階をつなぎ、生活の高さを変えるためにある。
だが、古い洋館の階段には、ときどき別の顔がある。
見下ろすための場所。
見上げさせるための場所。
そして、人が落ちたとき、その死をもっとも絵にしやすい場所。
十二灯館の玄関広間にある大階段は、まさにそういう階段だった。
正面から見れば、緩やかな曲線を描いて二階へ伸びる優雅な階段に見える。
手すりは深い飴色に磨かれ、親柱には古い唐草模様の彫刻がある。
段板の中央には赤い絨毯が敷かれ、真鍮の押さえ棒で一段ごとに留められていた。
だが真壁彰は、最初にこの館へ入ったときから、その階段が嫌だった。
美しすぎる。
正面に立った人間が、必ず見上げるようにできている。
二階の踊り場に人が立てば、自然と全員の視線がそこへ集まる。
逆に、階段下に何かがあれば、二階から見下ろす者の目に必ず入る。
見る場所と、見られる場所が、最初から決められている。
西園寺雅治は、玄関広間に置かれた。
葛城慎一郎は、食堂の席に置かれた。
ならば三人目は、階段に置かれる。
真壁は、そう考えたくなかった。
考えたくなかったが、館はすでにその音を鳴らしていた。
食堂の外、廊下の奥。
木が軋む音。
階段の方角。
まだ第三灯は消えていない。
けれど十二灯館は、次の場所を先に知らせているようだった。
「全員、その場を動くな」
真壁は言った。
食堂には、葛城慎一郎の死体がある。
椅子から半ば崩れ落ちた身体は、九条雅紀の手で床へ横たえられていた。
気道を確保し、呼吸と脈を確認し、可能な限りの処置は試みた。
だが、結果は変わらなかった。
第二灯は消えた。
モニターには、まだ赤い文字が残っている。
――ふたつ灯して、席を分ける。
――葛城慎一郎。
――第二灯、消灯。
その下の小さな一行が、二階堂壮也を刺した。
――席を分けた者は、次の名を選ぶ。
食堂の視線は、一度は二階堂に集まった。
真壁が遮った。
だが遮っただけで、疑いが消えたわけではない。
疑いは、人の中で形を変える。
言葉にしなくても残る。
視線を逸らしても、胸の奥で持ち続けることができる。
二階堂はそれをわかっていた。
わかっていて、平然としようとしている。
顔色は悪い。
指先はまだ冷えている。
それでも彼は、食卓の上のグラスと席札とナプキンを見て、順番を確認していた。
言葉で刺された男が、それでも言葉と配置を拾おうとしている。
真壁は、その姿を見て少しだけ息を吐いた。
折れてはいない。
それならいい。
「俺と九条、鳳さんで階段を見る」
真壁は言った。
「二階堂はここに残れ。全員から目を離すな」
二階堂が顔を上げた。
「俺が残るの?」
「ここに死体がある」
「真壁」
「今、全員が動けば、食堂も階段も現場が壊れる。お前がここを押さえろ」
二階堂は一瞬だけ黙った。
その沈黙の中に、自分が疑われている場所に残されることへの苦さがあった。
それでも彼は頷いた。
「了解」
「誰も席を立たせるな。水にも食器にも触らせるな。葛城の席の周辺は特に」
「わかってる」
「それから」
真壁は声を低くした。
「モニターを見るな。見せられるな。必要なら電源を落とせ」
二階堂の口元に、ほんの少しだけ笑みが戻った。
「それ、広報的には一番やりたいことだね」
「やれ」
「了解」
九条はすでに立ち上がっていた。
葛城の死体から離れることに抵抗があるのか、視線だけを一度戻す。
だが、今は新しい異変の方が優先だった。
鳳恭介は食堂の床を見ていた。
「鳳さん」
真壁が呼ぶと、鳳は顔を上げた。
「はい」
「階段へ」
「わかりました」
その返事は、いつも通り柔らかい。
だが真壁には、鳳の表情がわずかに変わっているように見えた。
西園寺のときも、葛城のときも、鳳は冷静だった。
建物を読む人間として、場を見ていた。
だが今、階段という場所が出た瞬間、彼の中で何かが別の意味を持ったようだった。
「階段が気になるか」
真壁が訊く。
鳳は一拍置いてから答えた。
「階段は、嘘をつかせやすいので」
「建物は嘘をつかないんじゃなかったのか」
「建物そのものは」
鳳は食堂の扉へ向かいながら言った。
「ただ、人間は建物に嘘をつかせることができます」
真壁はそれ以上訊かなかった。
食堂を出る直前、背後で烏丸鏡花が小さく言った。
「私、ここにいた方がいいんですか」
真壁は足を止めた。
烏丸は食堂の隅で椅子に座っていた。
顔色が白い。
手は膝の上で固く握られている。
まだ二十代に見える。
ここにいる誰よりも若く、誰よりも細い。
さきほどから何度も泣きそうな顔をしていたが、実際には泣いていない。
「動かないでください」
二階堂が先に言った。
穏やかな声だった。
「全員、ここにいてください。何かあったら俺が対応します」
「でも、ここにも死体が……」
「だから一人で動かないで」
烏丸は唇を噛んだ。
その視線が、食堂の窓の外へ動いた。
消えた第一灯。
消えた第二灯。
残りの灯。
そして、まだ消えていない第三の灯。
烏丸はそれを数えている。
真壁は、嫌な予感を覚えた。
「烏丸さん」
彼は言った。
「どこにも行かないでください」
烏丸は真壁を見た。
「はい」
その返事は、弱かった。
弱すぎた。
真壁は二階堂へ視線を投げる。
二階堂も気づいていた。
烏丸から目を離すな。
言わなくても伝わった。
真壁は食堂を出た。
*
廊下は、先ほどより冷えていた。
暖房は効いているはずなのに、食堂から一歩外へ出ると、空気の質が変わる。
古い木と石の匂い。
湿った絨毯。
壁紙の奥に染みついた埃。
湖の水気が、どこかから入り込んでいる。
玄関広間へ戻ると、第一の現場がまだそこにあった。
西園寺雅治の死体は、柱陰の控えスペースに横たわっている。
胸の血は黒ずみ始め、鏡の中の赤だけがまだ鮮やかに見えた。
二階堂の指示で、ホールの灯りはいくつか落とされている。
それでも鏡だけは、死体を別の場所へ移して見せる。
真壁は鏡を避けて歩いた。
自分の顔が映るのが嫌だった。
怒りが出ている。
それを犯人に見られている気がした。
九条は、西園寺の死体を横目で見ただけで通り過ぎた。
死体を見る人間が、死体から目を離す。
今はそれほど、次の異変が強い。
鳳は階段を見ていた。
大階段。
赤い絨毯。
踊り場。
二階の手すり。
階段下の空間。
そこにはまだ、誰もいない。
少なくとも、正面から見る限りは。
「さっきの音は、このあたりか」
真壁が言う。
鳳は階段の中央ではなく、右側の壁を見た。
「おそらく、上の踊り場からではありません」
「階段じゃないのか」
「階段の音に聞こえるように、別の場所で鳴った可能性があります」
九条が鳳を見た。
「音も見立てるのか」
「古い建物では、よくあります。梁や壁の中を音が伝わる。特にこの館のように増築を重ねた建物では、元の構造体と後付けの壁の間に空洞ができる。そこで音が回ります」
「つまり、階段の音に聞こえただけ」
「可能性としては」
真壁は階段下を見た。
二十年前の第三の死亡位置。
展示図面では、階段下に赤い印があった。
だが、今の事件は単純な再現ではない。
罪の名前を押しつける事件。
配置を使って、別の意味を与える事件。
階段下に若い女が倒れていたら、全員は何を思うだろう。
少女。
落下。
弱い者。
二十年前に名前を奪われた死者。
犯人は、そこまで読んでいる。
「上を見る」
真壁は言った。
「九条は下から。鳳さんは構造を見てください」
「はい」
三人は階段へ近づいた。
真壁は一段目の手前で足を止める。
絨毯の毛並みが乱れていた。
新しい乱れではない。
古く踏まれた跡が何重にも重なっている。
ただ、その中に細い線があった。
何かが引きずられたような、あるいは糸のようなものが擦れたような線。
「九条」
「見てる」
九条はしゃがみ込んだ。
「足跡?」
「違うと思う。細い。靴底じゃない」
鳳が手すりを見た。
「こちらにもあります」
真壁が視線を上げる。
手すりの内側、彫刻の陰に、細い擦れ跡がある。
真鍮か、硬い繊維か。
何かが一度だけ強く通ったような跡。
「糸か」
真壁が言う。
「紐の可能性があります」
鳳が答えた。
「階段で?」
「落下を演出するなら、階段は非常に使いやすい。ただし、本当に人を落とすと痕跡が残りすぎます」
「血も、打撲も、骨折も、位置も乱れる」
九条が言った。
「落ちたなら、身体はもっと汚くなる」
真壁は二人を見た。
「まだ誰も落ちてない」
「だから今見ている」
九条の返答は淡々としている。
そのとき、上からかすかな音がした。
こんどは明確だった。
木が軋む。
何かが床を滑る。
そして、女の息を呑むような声。
真壁は階段を駆け上がった。
「真壁!」
九条の声が背中に飛ぶ。
「下にいろ!」
真壁は叫び返した。
階段を一段飛ばしで上がる。
赤い絨毯が靴底の下で沈む。
手すりの内側から、何か細いものが頬を掠めた気がした。
反射的に身を引く。
糸。
いや、金属線か。
目に見えないほど細いものが、手すりと壁の間に張られていた。
危なかった。
首の高さではない。
胸元の高さでもない。
手を伸ばした位置、ちょうど何かを掴もうとした人間の指に引っかかる高さだ。
真壁は階段の途中で足を止めた。
「罠がある!」
下から九条の声が返る。
「触るな!」
「わかってる!」
上の踊り場には誰もいないように見えた。
だが、左奥の廊下に影が動いた。
黒い服。
細い肩。
烏丸鏡花。
なぜここにいる。
食堂にいたはずだ。
「烏丸さん!」
真壁が叫んだ。
烏丸は振り返った。
その顔は、ぼんやりしていた。
恐怖ではない。
混乱でもない。
眠りから半分だけ覚めた人間のような顔だった。
「だめです」
彼女は言った。
声が小さい。
「私じゃない」
「そこで止まってください!」
「私じゃないんです」
烏丸の足元が揺れた。
彼女は踊り場の手すりに近い場所に立っていた。
背後には大階段。
身体の重心が、少しずつ外側へ傾いている。
真壁は息を殺した。
走れば間に合うか。
だが足元には細い線がある。
罠がどこまで張られているかわからない。
焦って踏み込めば、自分が転ぶ。
あるいは、烏丸の身体を落とす仕掛けを作動させる。
鳳の声が下から届いた。
「真壁さん、右の壁際を通ってください! 絨毯の中央は危険です!」
「なぜわかる!」
「擦れ跡が中央だけ続いています!」
真壁は右壁へ寄った。
その瞬間、烏丸の身体がふらりと動いた。
誰かに押されたわけではない。
だが、まるで見えない手に引かれたように、彼女の肩が階段側へ傾く。
「烏丸さん!」
真壁が踏み出す。
彼女は手すりを掴もうとした。
その指が、手すりの内側に張られた細い線に触れた。
小さな金属音。
線が弾ける。
手すりの向こうで、何かが落ちた。
同時に、烏丸の足元の絨毯がわずかに滑った。
彼女の身体が宙へ浮いた。
時間が、一瞬だけ遅くなる。
黒い服の裾。
白い手。
開いた目。
声にならない息。
真壁は右壁を蹴って腕を伸ばした。
届かない。
烏丸鏡花は階段へ落ちた。
だが、落ち方が奇妙だった。
人が階段から落ちるとき、身体は暴れる。
頭や肩や腰が段に当たり、回転し、予測できない方向へ跳ねる。
だが烏丸の身体は、一度、階段の中央へ吸い込まれるように落ち、そのあと不自然なほどまっすぐ階段下へ滑った。
転がったのではない。
滑らされた。
真壁はそう見た。
下で九条が走る。
鳳も動いた。
烏丸の身体は階段の下、二十年前の赤印に近い場所で止まった。
首が不自然な方向へ曲がっているように見えた。
だが胸がわずかに上下している。
「九条!」
真壁は階段を駆け下りようとして、足を止めた。
まだ罠がある。
自分が動けば、現場を壊す。
歯を食いしばる。
「九条、状態!」
九条は烏丸の横へ膝をつき、呼吸を確認した。
「生きてる!」
食堂側から悲鳴が聞こえた。
二階堂が飛び出してくる。
「真壁!」
「来るな!」
真壁は叫んだ。
「階段に罠がある! 全員を食堂に戻せ!」
「烏丸さんが――」
「生きてる! 九条が見てる!」
二階堂は一瞬だけ階段下を見た。
顔が強張る。
だが次の瞬間には、食堂側へ振り返った。
「全員、食堂から出ないで! 動いた人から容疑者にします!」
その言い方は乱暴だった。
けれど今は、それでよかった。
蓮見の泣き声。
小夜子の悲鳴。
氷室の混乱した声。
朽木の制止。
瑠璃子の低い呼びかけ。
鳴海の「烏丸さん」という細い声。
それらが食堂側で絡まり、二階堂の声がその上から押さえる。
真壁は階段の右側を慎重に下りた。
足元を見る。
絨毯の中央に、細い透明な線がある。
釣り糸のようにも見える。
いや、もっと硬い。
ワイヤーに近い。
階段の段鼻に沿って、低い位置に這わせてある。
普通に上がる分には気づきにくい。
だが足首や靴に引っかかれば、体勢を崩す。
さらに手すり側には、指を引っかける高さの線。
落ちそうになった人間が手すりを掴む。
その手が線を弾く。
おそらく、それが何かの固定を外す。
烏丸が滑った絨毯。
真壁は階段中央の赤い絨毯を見た。
絨毯の押さえ棒が、一部だけ外れている。
固定されているように見えたが、上部の数段だけ緩められていたのだ。
足を乗せれば、絨毯ごと滑る。
鳳が言った。
「落下そのものではなく、落下らしく見える滑落です」
真壁は階段を下りきった。
九条は烏丸の首と頭を支え、体をむやみに動かさないようにしている。
「どうだ」
「意識はない。呼吸あり。脈あり。頭部打撲。左腕か鎖骨に骨折の可能性。頸椎も確認が必要。動かせない」
「命は」
「今すぐ死ぬ状態ではない。でも危険」
九条の声は冷静だった。
冷静だが、わずかに速い。
生きている被害者。
死体とは違う。
読めばいいわけではない。
守らなければならない。
九条は、烏丸の顔を覗き込んだ。
「烏丸さん。聞こえますか」
反応はない。
彼女の唇がかすかに動いた。
真壁は屈んだ。
「何か言ってる」
九条が耳を寄せる。
烏丸の声は、ほとんど息だった。
「……私じゃ、ない……」
第一声と同じ。
私じゃない。
何が違う。
誰と間違えられている。
真壁の背筋に冷たいものが走った。
少女。
階段。
見立て。
二十年前の事件では、階段下で長男が見つかったはずだ。
少女は湖上回廊だった。
だが、今、烏丸は“少女”として落とされている。
年齢。
雰囲気。
白い顔。
細い身体。
館にいる者の中で、最も“少女”の記憶を呼びやすい人物。
犯人は、彼女の名前ではなく、役を置いた。
「九条」
「うん」
「これは落ちたのか」
九条は烏丸の身体、階段、絨毯、手すりの順に見た。
そして言った。
「違う」
短い言葉。
だが、その場の空気を切った。
「これは落ちたんじゃない。落とされたように見せられた」
鳳が静かに息を吐いた。
真壁は九条を見る。
「説明しろ」
「落ちたなら、打撲の位置がもっと散る。段に何度も当たるから、肩、腰、膝、顔面、いろんなところに傷が出る。まだ外から見ただけだけど、烏丸さんの身体は、階段を転がったというより、途中から滑っている」
「絨毯か」
「うん。落下の始まりは上。けど途中から、力の加わり方が変わってる」
鳳が階段を見上げた。
「手すりの線に触れると、絨毯の固定が外れる仕組みかもしれません」
「そんなものを、いつ仕掛けた」
真壁が言う。
鳳は首を振った。
「今夜、短時間で全て仕掛けたとは思えません。少なくとも絨毯の固定を緩めるには時間がかかる。事前に準備されていた可能性が高い」
「この館の者か、事前に館へ入れた者」
「はい」
真壁は階段上を見た。
烏丸はどうやってそこへ行った。
食堂にいたはずだ。
二階堂が見張っていた。
全員を動かすなと言っていた。
それなのに烏丸は、いつの間にか食堂を出て、二階の踊り場にいた。
自分の意思で来たのか。
誘導されたのか。
薬物か。
声か。
鏡か。
「二階堂!」
真壁が呼ぶ。
二階堂が食堂の扉前から返事をする。
「いる!」
「烏丸さんは、いつ食堂を出た!」
「わからない!」
その声には、悔しさが滲んでいた。
「葛城さんの死体とモニターで、全員の視線が一瞬割れた。鳴海さんが倒れかけて、蓮見さんが支えて、氷室さんが水を取ろうとして、止めて――その間に」
「誰かが一緒に出たか」
「見てない。少なくとも俺は見てない」
真壁は歯を食いしばった。
犯人は、二人目の混乱を利用して三人目を動かした。
いや、三人目を動かすために、二人目の死を食堂で起こしたのかもしれない。
毒死。
食卓。
全員の視線。
二階堂への疑い。
その混乱の間に、烏丸だけを連れ出す。
階段へ。
第三の場所へ。
きれいすぎる。
順番が整いすぎている。
「烏丸さんは、自分で歩ける状態だったか」
真壁が訊く。
九条は烏丸の瞳孔を確認しながら答えた。
「さっき食堂では立っていた。けど今の様子だと、意識がぼんやりしていた可能性がある」
「薬か」
「可能性はある。葛城さんの毒とは別かもしれない。彼女が何に触れたか、何を飲んだか確認が必要」
「飲食物には触らせてない」
「飲食物だけじゃない」
九条は言った。
「席札、ナプキン、椅子、扉、ハンカチ。皮膚からでも、吸入でも、いろいろある」
「烏丸さんの席は」
二階堂が食堂側から言う。
「食卓の端。窓に近い。最初の席札配置では、彼女の席は階段側に近かった。俺が動かしたあとも、出入口に近い席になった」
「誰が近くにいた」
「蓮見さん、小夜子さん、少し離れて瑠璃子さん。向かいに朽木さん」
鳳が小さく言った。
「“少女”を一人で歩かせたかった」
真壁は振り向く。
「何?」
「二十年前の見立てでは、少女の死亡位置は湖上回廊でした。けれど、館内の語りとしては、少女は“移動する存在”だったのかもしれません。階段、回廊、湖。見つかった場所と、そこへ至る道が違う」
「つまり、今回の烏丸さんは、少女の死そのものではなく、少女がそこへ向かわされた過程をなぞらされている?」
鳳は頷いた。
「まだ推測です」
「推測でいい」
真壁は言った。
「今は可能性を出せ」
鳳は階段を見上げる。
「この階段は、上から落ちるより、下から見上げる方が印象に残ります。落下そのものより、落下後の姿を見せるための階段です。烏丸さんが階段下に倒れた瞬間、全員が二十年前の赤印を思い出す」
「場所の記憶を使っている」
「はい」
九条が静かに続けた。
「でも、身体は場所に合ってない」
「どういう意味だ」
「烏丸さんの怪我は、階段から激しく転落した人間のものとしては不自然。重傷だけど、死ぬように落とされてはいないかもしれない」
「犯人は殺す気がなかった?」
「わからない。でも少なくとも、西園寺さんや葛城さんとは違う。烏丸さんは、死体としてではなく、生きたまま“見立て”に使われている」
真壁は烏丸の顔を見た。
白い顔。
薄く開いた唇。
小さな呼吸。
死なせるためではなく、傷つけるため。
役を着せるため。
彼女を“少女”として階段下に置くため。
この事件は、ただの連続殺人ではない。
十二人全員が、罪の名前を押しつけられる。
その構造が、物語の中で現実になり始めていた。
真壁は怒りを抑えた。
「二階堂、食堂の全員に確認しろ。烏丸さんに触れた者、話しかけた者、席を立った者。順番に」
「わかった」
「鳴海さんにも確認する。二十年前の“少女”について、公式記録以外に何を知っているか」
食堂側で、鳴海の息を呑む気配がした。
真壁はその反応を聞いた。
「鳴海さん」
彼は食堂へ声を向けた。
「あとで話を聞きます」
鳴海は答えなかった。
代わりに、御子柴瑠璃子の声がした。
「少女の話を、ここでするのですか」
その声は静かだった。
だが、食堂のざわめきを一瞬で止めた。
真壁は瑠璃子を見た。
食堂の扉の向こう、瑠璃子は立ち上がっていた。
二階堂が止めようとしているが、彼女は動かない。
ただ、こちらを見ている。
「ここでしなければ、どこでしますか」
真壁が答える。
瑠璃子は、ほんの少し目を伏せた。
「二十年前も、そうでした」
「何が」
「少女の話だけ、いつも場所が変わるのです」
九条が顔を上げた。
鳳も瑠璃子を見る。
「公式記録では、湖上回廊ですね」
真壁が言う。
瑠璃子は頷いた。
「ええ。けれど、人によって話が違いました。階段で見たと言う人もいた。温室の前を走っていたと言う人もいた。湖へ向かったと言う人もいた。最後には、湖上回廊で見つかったことになりました」
「ことになった?」
真壁の声が低くなる。
瑠璃子は顔を上げた。
「私は、子どもでした。大人たちがどう決めたのかは知りません」
「でも、決めたという感覚はある」
「はい」
食堂の奥で、鳴海が小さく言った。
「御子柴さん」
止めるような声だった。
瑠璃子は鳴海を見ない。
「もう、隠しても同じでしょう」
その瞬間だった。
玄関広間のモニターが赤く点いた。
食堂のモニターではない。
階段の正面、展示パネルの横に設置されていた大きな画面。
赤い文字が浮かぶ。
――みっつ灯して、階を落とす。
外で、第三灯が消えた。
誰も声を出さなかった。
今度は、順番が逆だった。
烏丸が落ちた。
発見された。
そして、そのあとに灯が消えた。
真壁はモニターを見た。
赤い文字の下に、白い名前が表示される。
――烏丸鏡花。
――第三灯、消灯。
さらに一行。
――少女はまだ、落ちつづけている。
小夜子が悲鳴を上げた。
蓮見が泣き崩れる。
氷室が壁に手をつく。
朽木は顔を強張らせ、鳴海は唇を震わせていた。
瑠璃子だけが、静かに画面を見ていた。
真壁は、その表情を見逃さなかった。
驚いていない。
悲しんではいる。
だが、驚いていない。
「真壁」
九条の声がした。
「何だ」
「烏丸さん、少し意識が戻るかもしれない」
真壁はすぐに屈んだ。
烏丸の瞼が震えている。
唇が動く。
九条が顔を近づけた。
「烏丸さん。聞こえますか。ここは十二灯館です。階段から落ちました。わかりますか」
烏丸の目が薄く開いた。
焦点は合っていない。
それでも、彼女は何かを見ようとしていた。
「……ちがう」
「何が違う」
真壁が訊く。
「……私じゃ……ない」
「誰と間違えられた」
烏丸の喉が小さく鳴る。
声が細く切れた。
「……あの子……」
「誰だ」
「……名前……」
九条が静かに言った。
「無理に話させるな」
だが烏丸は、震える唇で続けた。
「……名前を……呼ばないで……」
そこで意識が落ちた。
九条はすぐに呼吸を確認した。
「まだ大丈夫。だが動かせない。救急が必要」
「外へ出られない」
「わかってる」
九条の声が、わずかに荒くなった。
その荒さに、真壁は胸を突かれた。
九条は死体には冷静だ。
だが、生きている人間が目の前で壊されていくことには、冷静でいられない。
まして、その人間が犯人の見立てに使われているなら。
「二階堂!」
真壁が呼ぶ。
「はい」
「救急要請をもう一度試せ。携帯、固定、館内回線、全部だ。外へ出られる船の確認も」
「わかった」
「一人で行くな。鳳さん」
鳳が顔を上げる。
「はい」
「二階堂と行ってください。管理室と通信設備を見る。ついでに、この階段の図面上の位置も確認してほしい」
「承知しました」
二階堂が一瞬だけ真壁を見る。
疑われている自分を、鳳と二人で動かす。
それが安全なのか、危険なのか。
真壁はわかっている。
だが、今は人手が足りない。
「二階堂」
「何」
「一人になるな」
二階堂は少し笑った。
「それ、俺が言うやつなんだけど」
「今は俺が言う」
「了解」
二階堂と鳳が管理室へ向かう。
真壁は、九条とともに烏丸のそばに残った。
階段下。
二十年前の赤印。
そこに生きた被害者が置かれている。
死者ではない。
だが、犯人は彼女を“死体の形”で見せた。
それが真壁には、西園寺や葛城の死よりも別の意味で許せなかった。
殺すよりも先に、役を着せる。
生きている人間から、自分の名前を奪う。
烏丸鏡花は、烏丸鏡花として落とされたのではない。
“少女”として落とされた。
だから彼女は言った。
私じゃない。
名前を呼ばないで。
「九条」
「うん」
「烏丸さんは、助ける」
「助ける」
九条は即答した。
その声には、いつもの淡々さが戻っていた。
戻そうとしていた。
「それから、見立てを剥がす」
「うん」
「この人を、少女にしない」
九条は烏丸の呼吸を見ながら言った。
「この人は烏丸鏡花だ」
真壁は頷いた。
それでいい。
死体より先に名前を置かない。
だが、生きている人間から名前を奪わせもしない。
外では第三灯が消えていた。
湖面には、また反射だけが揺れている。
消えたはずの灯の場所に、波が別の光を連れてくる。
ないはずのものが、あるように見える。
いるはずの人間が、別の名前に見える。
十二灯館は、そういう館だった。
階段の上で、まだ細いワイヤーが揺れていた。
誰かが張った線。
誰かが用意した落下。
誰かが置いた少女の名前。
真壁はそれを見上げ、低く呟いた。
「順番を間違えるなよ」
犯人に向けた言葉だった。
同時に、自分へ向けた言葉でもあった。
この事件は、死んだ順番を追っても解けない。
落ちた順番を追っても解けない。
誰が、何を、誰に見せたか。
誰が、最初にその名前を置いたか。
そこから剥がしていくしかない。
そのとき、管理室へ向かったはずの二階堂の声が、廊下の奥から響いた。
「真壁!」
切迫した声だった。
真壁は振り向く。
二階堂が走って戻ってくる。
鳳もその後ろにいる。
鳳の手には、古びた図面の束が握られていた。
二階堂の顔は青ざめていた。
「固定電話、切られてる。回線じゃなくて、物理的に」
「船は」
「鍵がない」
「鍵?」
「船の鍵も、管理室の予備鍵も消えてる」
真壁は目を細めた。
鳳が、手にした図面を差し出した。
「それだけではありません」
「何だ」
「この階段、現在の展示図面と古い施工図で位置が違います」
真壁は図面を見る。
赤い印。
階段。
壁。
裏導線。
現在の展示図面には描かれていなかった細い空間が、古い図面にはある。
階段の裏。
食堂から玄関広間へ抜ける壁の中。
人ひとりが通れるほどの管理用通路。
「ここを通れば」
鳳が言う。
「食堂から誰にも見られず、階段の上へ出られます」
真壁は食堂側を見た。
全員がいたはずの場所。
誰も動いていないはずの場所。
だが、この館には、展示図面にない道がある。
見えている動線と、実際の動線は違う。
西園寺の死体。
葛城の席。
烏丸の落下。
すべてに、見えない道が絡んでいる。
「鳳さん」
真壁は言った。
「この通路を知っていた人間は?」
「館の管理者。古い図面を見た人間。改修に関わった人間。資料整理で施工図に触れた人間」
その言葉で、数人の顔が頭に浮かんだ。
氷室圭吾。
鳴海栞。
そして、建物を読める鳳恭介自身。
二階堂もそれに気づいたのだろう。
鳳を見た。
鳳は静かに視線を受けた。
「僕も、今この図面を見るまでは知りませんでした」
柔らかい声だった。
だが、その言葉を証明するものはない。
真壁は、鳳を疑いたくなかった。
しかし疑わないわけにはいかなかった。
犯人は、建物に嘘をつかせている。
ならば、建物の嘘を読める男は、もっとも犯人に近い場所にいる。
鳳はそれを理解しているようだった。
彼は少しだけ目を伏せ、静かに言った。
「僕なら、できます」
二階堂が息を止めた。
真壁は黙って鳳を見る。
鳳は続けた。
「階段の罠も、裏導線の利用も、鏡による位置の錯誤も。知識としてなら、僕には可能です」
「何が言いたい」
真壁の声が低くなる。
「だからこそ、僕ではない証明は難しい」
階段下で、烏丸鏡花の呼吸が小さく続いている。
第三灯は消えた。
そして今、館は新しい名前を置こうとしていた。
鳳恭介。
建物を読む男。
建物に嘘をつかせることができる男。
真壁は図面を握る手に力を込めた。
犯人は、人を殺すだけではない。
次の容疑者まで、順番に置いている。




