第三章 ふたつ灯して、席を分ける
人が死んだ館で、食事をしようと言い出したのは氷室圭吾だった。
正確には、食事ではない。
氷室はそれを「皆さまにいったん落ち着いていただくため」と言った。
しかし、真壁彰には、その言い方がひどく間違って聞こえた。
人間は、死体を見たあとに落ち着くため食卓へ行くのではない。
落ち着いたふりをするために、食卓へ行く。
椅子に座る。
手を置く。
水を飲む。
誰かの顔を見る。
食器の白さや、カトラリーの銀色や、温かいスープの匂いで、自分がまだ普通の世界にいると確認しようとする。
だが、普通の世界はもう、十二灯館の中には残っていなかった。
玄関広間の第一灯は消えている。
西園寺雅治は死んだ。
その死体は、玄関広間の中央ではなく、中央に見える場所に置かれていた。
鏡が、死体の位置を修正していた。
柱が、ずれを隠していた。
照明が、血を実物より鮮やかに見せていた。
そしてモニターは、死体よりも大きく名前を表示した。
――西園寺雅治。
――第一灯、消灯。
あれは殺人の予告ではない。
発表だった。
真壁はそう判断していた。
誰かが、死体の発見より先に文面を用意していた。
誰かが、灯の消灯と名前と死体を、一つの順番に組み込んでいた。
問題は、その誰かがこの館の中にいるということだった。
「皆さま、どうか食堂へ」
氷室の声は震えていた。
震えていながら、それでも形式だけは崩れていない。
「警察への連絡は、すでに試みております。しかし湖上のため、電波状況が不安定で……固定回線も、先ほどからつながりません。船で対岸へ戻るにも、風が強く、夜間の出航は危険です。ですので、まずは食堂にお集まりいただき、皆さまの安全を確認した上で――」
「安全?」
葛城慎一郎が声を荒らげた。
五十代半ばに見える男だった。
行政資料を扱ってきた人間らしい乾いた身のこなしをしていたが、今はその乾きが苛立ちに変わっている。
眼鏡の奥の目が細く、氷室を射抜くように見ていた。
「西園寺さんが殺されたかもしれないのに、安全とは何ですか。ここに留まることのどこが安全なんです」
「葛城さん」
二階堂壮也が一歩前へ出た。
こういうとき、二階堂は声を大きくしない。
声量を上げるのではなく、場の中で一番届きやすい高さに言葉を置く。
「外へ出る方が危険です。犯人が館の外へ逃げたのか、まだ中にいるのかもわかっていません。全員を一か所に集めた方が、少なくとも互いの行動は確認できます」
「あなたに仕切る権限があるんですか」
「ありません」
二階堂は即答した。
その早さに、葛城が一瞬詰まる。
「ただ、人が一人死んでいる。警察関係者として、現場保全と二次被害の防止を優先します」
「警察関係者、ね」
葛城は鼻で笑った。
「広報の方でしたか。言葉はお上手でしょうな」
二階堂は笑わなかった。
「上手いかどうかは知りません。でも、今は言葉で人を動かすしかない」
その一言で、真壁はわずかに二階堂を見た。
言葉で人を動かす。
この館の犯人も、同じことをしている。
灯を消し、歌を出し、名前を表示する。
誰かが声を出す。
全員が同じ方向を見る。
死体へ向かう。
言葉で人を動かしている。
だからこそ、二階堂は必要だった。
同時に、危なかった。
犯人が言葉を使うなら、言葉を使える二階堂は、いずれ疑われる。
真壁はそれをわかっていた。
おそらく二階堂自身も。
九条雅紀は、食堂へ移動する前にもう一度だけ西園寺の死体を見た。
検案と呼べるほどのことはできていない。
道具も限られている。
死体を動かすわけにもいかない。
だが九条は、見える範囲の情報をすべて拾おうとしていた。
「九条」
真壁が声をかけると、九条は顔を上げた。
「うん」
「死体は動かさない。現場も封鎖する」
「それがいい」
「何か変化があれば」
「呼ぶ」
九条の返答は短い。
だが真壁には、その短さの奥に苛立ちがあるように聞こえた。
死体を前にして、十分に読めない。
九条にとってはそれが一番の不快なのだろう。
鳳恭介は、隠し扉らしき壁の継ぎ目をまだ見ていた。
「鳳さん」
真壁が呼ぶ。
「はい」
「食堂へ」
「わかりました」
鳳は素直に従った。
だが最後に一度だけ、玄関広間の鏡を見た。
その視線に、真壁は引っかかった。
「何か」
「鏡は、死体の位置だけではなく、人の位置も変えます」
「どういう意味です」
「先ほど、皆さんはホールにいました。ですが鏡越しには、誰がどこにいたかが少しずれて見えます。誰かが動いていないように見えて、実際には柱の影を移動していた可能性がある」
二階堂が小さく舌打ちした。
「最悪だね」
鳳は申し訳なさそうに目を伏せた。
「この館は、目撃証言と相性が悪い」
「建築家の感想としては?」
「よくできています。嫌な意味で」
先刻聞いた言葉が、ここでまた戻ってきた。
真壁は全員を食堂へ移動させた。
食堂は玄関広間から左の廊下を進んだ先にあった。
大きな両開きの扉。
内側には、長いテーブルがひとつ置かれている。
十二人が座れるように作られた食卓だった。
壁は深い緑色で、上部には古い家族写真や風景画が掛けられている。
天井からはシャンデリアが下がっていたが、灯りは落とされている。
代わりに壁際のランプが食卓だけを照らしていた。
部屋の奥には、湖に面した大窓がある。
夜の湖面が見えた。
外壁の灯も見える。
消えた第一灯だけが、黒い穴のように並びから抜けていた。
真壁はその窓を見て、食堂の中でさえ館の外の灯から逃げられないことを知った。
食べる場所にも、死者を数える灯が見える。
この食堂は、落ち着くための場所ではない。
見せられ続けるための場所だ。
「席順は決まっているんですか」
二階堂が訊いた。
氷室がわずかにうろたえる。
「本来は、会食用に席札を用意しておりました。ただ、このような事態ですので……」
「その席札は?」
氷室は食卓を見た。
各席には、小さな白いカードが置かれていた。
銀色の縁取りがある。
名前は黒いインクで印字されていた。
真壁は近くの席札を見た。
葛城慎一郎。
その隣に、蓮見詩穂。
向かい側に、烏丸鏡花。
西園寺雅治の席札もある。
空席になるはずの名前が、まだ食卓の上に置かれている。
真壁はその席札を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
西園寺の名前は、死体のそばだけでなく、食卓にも残っていた。
人が死んでも、名前だけが移動していく。
「席札の通りに座ってもらうのは危ない」
二階堂が言った。
「犯人が席順を利用する可能性がある」
葛城がすぐに反応した。
「では、あなたが決めるのですか」
「そうします」
「なぜあなたが」
「さっきも言いました。全員の行動が見えるようにするためです」
二階堂は食堂を見渡した。
「壁際に背を向けない。出入口に近い席は空ける。窓際も避ける。互いの手元が見える位置に座る。氷室さん、配膳は誰が?」
「厨房の者はおりません。今夜は簡単な食事を、あらかじめこちらで用意しておりました。温かいものは難しいですが、軽食と飲み物なら……」
「今は食事はいりません。水だけでいい」
その瞬間、蓮見詩穂が小さく言った。
「水も、危なくありませんか」
正しい。
誰もが一瞬、食卓の上のグラスを見た。
透明な水が、十二のグラスに注がれていた。
灯りを受けて、どのグラスも同じように光っている。
美しい配膳だった。
美しいからこそ、危うい。
二階堂は頷いた。
「そうですね。誰も手をつけないでください」
「では、どうしろと」
葛城が言った。
「このまま立っていろというのですか」
「立っていてください」
二階堂は迷わず言った。
「少なくとも、今は」
葛城の顔に怒りが浮かぶ。
「冗談じゃない。人が死んでいるんですよ。私はこんな場所で立ったまま尋問されるために来たのではない」
「座っても構いません。ただし、飲食物には触れないでください」
「あなたの指図は受けない」
葛城は、食卓の自分の席札を取った。
それが最初の失敗だった。
いや、あとから思えば、それも犯人の順番に含まれていたのかもしれない。
「葛城さん」
二階堂の声が少し硬くなった。
「触らないでください」
「席札ですよ。毒でも入っていると?」
「可能性を潰している最中です」
「馬鹿馬鹿しい」
葛城は席札をテーブルに戻さず、手に持ったまま自分の名前を見た。
「葛城慎一郎。行政文書管理室。二十年前の資料整理に関与。そう書いておけば満足ですか」
その言葉に、鳴海栞がかすかに反応した。
真壁は見逃さなかった。
鳴海はすぐに目を伏せた。
だが、一瞬だけ彼女の視線は葛城の手元、席札、そして食堂の奥の壁へ動いた。
壁には、古い食器棚があった。
扉は閉じられている。
その上に、小さな銀のベルが置かれている。
横には、展示室と同じ規格の小型モニターが黒い画面のまま沈んでいた。
鳴海は何を見た。
席札か。
葛城か。
それとも、何かが起きる場所か。
「葛城さん」
真壁が言った。
葛城は苛立った顔で振り向く。
「何です」
「席札を置いてください」
「あなたもですか」
「現場にあるものは、すべて証拠になる可能性があります」
「現場? ここは食堂でしょう」
「この館では、どこが次の現場になるかわからない」
葛城の口が一瞬止まった。
その沈黙の中で、食堂の窓の外を風が叩いた。
大窓が微かに鳴る。
湖面に映った灯が、ゆらりと揺れた。
第一灯は消えている。
だが湖面には、その反射だけがまだ残っているように見えた。
真壁は、それが錯覚だとわかっていた。
波が別の灯を引き伸ばし、消えた位置に光があるように見せているだけだ。
だが、人は錯覚を見たあと、それを見たと記憶する。
この館は、それを利用している。
「わかりましたよ」
葛城は乱暴に席札をテーブルへ戻した。
戻した位置が、元の位置からわずかにずれた。
九条がそれを見る。
「動かした」
「席札を少し動かしただけだ」
葛城が吐き捨てる。
「それで人が死ぬわけではないでしょう」
誰も答えなかった。
その沈黙が、返答になった。
氷室が震える声で言った。
「とにかく、皆さま、お座りください。お立ちのままでは……」
「待ってください」
二階堂が言った。
「席順はこちらで変えます」
「勝手に変えていいんですか」
朽木怜二が低く言った。
弁護士補佐らしい、静かな問いだった。
「本来の席順にも意味があるかもしれません。変えることで、かえって犯人の意図に乗る可能性もある」
「変えなくても乗る可能性があります」
二階堂は即座に返した。
「なら、少なくともこちらが把握できる形にする」
彼は食卓を見た。
「真壁は出入口側。九条はその隣。鳳さんは窓を見られる位置。俺は全体が見える端に座る。氷室さんは厨房側。鳴海さんは展示資料や設備に詳しいので、真壁の正面。葛城さん、あなたは俺の視界に入る位置へ」
「なぜ私だけ名指しされる」
「今、一番動こうとしているからです」
二階堂は柔らかく言った。
柔らかいが、逃がさない言い方だった。
葛城は唇を歪めた。
「ずいぶん失礼な広報担当だ」
「よく言われます」
「嘘でしょう」
「たまに言われます」
その場に、ほんの少しだけ空気の揺れが生まれた。
だが、笑った者はいない。
全員が席につき始めた。
真壁は座らず、しばらく全体を見ていた。
誰がどの席へ向かうか。
誰が席札を見るか。
誰がグラスに視線を落とすか。
誰が窓を見るか。
誰が消えた灯を数えるか。
御子柴瑠璃子は、静かに椅子へ座った。
神楽坂小夜子がその隣に座ろうとしたが、二階堂がやんわりと止めた。
「すみません。少し離れてください。全員の手元が見えるようにしたいので」
小夜子は不安そうに瑠璃子を見た。
瑠璃子はゆっくり頷いた。
「大丈夫」
その声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
小夜子は一つ空けた席へ移った。
手が震えている。
瑠璃子から離れることそのものが怖いように見えた。
烏丸鏡花は、椅子に座る前に何度も自分の席札を確認した。
「私、ここでいいんですか」
二階堂が頷く。
「はい。何も触らないで」
烏丸は頷いたあとも、席札から目を離せなかった。
自分の名前が、そこに書かれている。
それを確認しているというより、それが本当に自分の名前なのか確かめているようだった。
蓮見詩穂は、食卓の上のグラスをじっと見ていた。
「飲まない方がいいんですよね」
「はい」
「喉が渇いても?」
「我慢してください」
蓮見はかすかに頷いた。
その横で、葛城が鼻を鳴らした。
「まるで子ども扱いだ」
「葛城さん」
真壁が言った。
「今は全員、子どもより危うい」
葛城は黙った。
全員が席についたとき、食堂には奇妙な秩序が生まれていた。
十二人分のテーブル。
だが西園寺の席は空いている。
そこには席札だけが置かれていた。
西園寺雅治。
名前だけが、まだ食卓に参加している。
真壁はその席札を見ないようにした。
見てしまえば、犯人が用意した配置にまた乗せられる気がした。
「まず、灯が消える前後の行動を確認します」
二階堂が言った。
「一人ずつ、最後に西園寺さんを見た時間と位置を」
「その前に」
朽木が手を上げた。
「警察への連絡状況を明確にすべきではありませんか。外部への通報ができない状況なら、我々はここに監禁されているに等しい」
「固定電話は?」
真壁が氷室を見る。
「玄関脇の管理室にあります。しかし発信音がしません。回線が落ちているようです」
「携帯は」
「圏外です」
氷室が言うと、何人かが自分の携帯を確認した。
圏外。
あるいは、弱い電波が一瞬だけ立って消える。
湖上。
強風。
古い館。
外部と切り離すには、十分すぎる条件だった。
葛城が言った。
「船を出せばいい」
「夜の湖で、しかもこの風です」
氷室が首を振る。
「危険です。操船できる者も限られています」
「あなたができるでしょう」
「私は小型船の資格は持っておりますが、夜間の出航は……」
「では朝まで待てと?」
「少なくとも、風が弱まるまでは」
「その間に次が起きたらどうするんです」
葛城の声が高くなった。
次。
その言葉で、全員がまた外の灯を見た。
第一灯は消えている。
残りは十一。
この館では、数が人を脅す。
「次を防ぐために、今こうして集まっている」
真壁が言った。
「だから指示に従ってください」
葛城は真壁を見た。
「あなたは、ずいぶん冷静ですね」
「冷静じゃない」
「そうは見えませんが」
「そう見えるようにしているだけです」
二階堂が小さくこちらを見た。
真壁は無視した。
「始めます」
二階堂が言った。
「まず、灯が消える直前。西園寺さんを最後に見た人は?」
沈黙。
誰もすぐには答えない。
その沈黙の質が、真壁には気になった。
知らない沈黙ではない。
言いたくない沈黙でもない。
思い出せない沈黙だ。
全員、同じ場所にいた。
展示室にいた。
ホールにいた。
鳴海の説明を聞いていた。
図面を見ていた。
モニターを見た。
灯を見た。
それなのに、西園寺を最後に見た瞬間だけが曖昧になっている。
まるで、最初から全員が彼を見ないよう誘導されていたように。
「署名のあと」
蓮見が小さく言った。
「西園寺さんは、名簿に署名したあと、鳴海さんと話していました」
鳴海が顔を上げた。
「はい。展示図面について、少し」
「内容は」
真壁が問う。
「当時の死亡位置の説明に関してです。西園寺様は、公式記録の順序を崩さないように、と」
「公式記録の順序」
二階堂が繰り返した。
「はい」
鳴海は頷く。
「追悼会で不用意な憶測を招かないために、公開されている記録に沿って説明するようにと、事前にも言われていました」
「誰に」
「西園寺様と、氷室さんに」
氷室は慌てて頷いた。
「はい。混乱を避けるためです」
「混乱を避けるために、順番を固定した」
二階堂の声が少しだけ低くなった。
真壁は西園寺の席札を見た。
順番を固定した男が、最初に死んだ。
それは偶然か。
犯人の皮肉か。
それとも、もっと具体的な意味があるのか。
「他には」
二階堂が続けた。
「灯が消える前に、西園寺さんを見た人」
御子柴瑠璃子が静かに言った。
「鏡のそばにいらしたと思います」
真壁は瑠璃子を見た。
「鏡?」
「ええ。正確には、鏡に映っていたのを見ました。ご本人を直接見たわけではありません」
鳳がわずかに反応した。
「向きは」
真壁が訊く。
「背中でした。広間の奥へ向かうように見えました」
鳳と同じ証言。
だが鏡越し。
直接見ていない。
「そのとき、誰か一緒にいましたか」
「わかりません。鏡の端でしたので」
小夜子が瑠璃子の方を見た。
「私も見た気がします。でも……」
「でも?」
「西園寺さんだったかどうか、自信がありません。黒い背中で、肩幅があって……でも、鏡だったから」
鏡だったから。
その言葉が、食堂の中に落ちる。
鏡なら、人は自分の記憶を一段弱くする。
見たけれど、直接ではない。
そう言い訳できる。
犯人は、その曖昧さも利用できる。
「鳳さん」
真壁が言う。
「はい」
「西園寺さんの背中を見たと言いましたね」
「はい」
「時間は」
「第一灯が消える少し前です。正確には、鳴海さんが湖上回廊の赤印を説明していた頃」
鳴海が息を呑む。
「私の説明中……」
「ええ」
鳳は穏やかに言った。
「ただ、鏡越しでした。実際にどの方向へ動いたのかは断定できません」
「つまり、誰かが西園寺に見えるように動いた可能性もある」
真壁が言うと、食堂の空気がまた硬くなった。
西園寺は、あの時点ですでに死んでいた可能性がある。
だとすれば、鏡に映った背中は誰だったのか。
西園寺本人か。
犯人か。
それとも、犯人が用意した別の何かか。
「真壁」
九条が言った。
「何だ」
「背中だけなら、服で作れる」
「人形か」
「あるいは、誰かが西園寺さんの上着を羽織った」
烏丸鏡花が小さく震えた。
「そんなこと……」
「できるかどうかの話」
九条は淡々としていた。
「実際にそうだったとは言ってない」
葛城が吐き捨てた。
「不安を煽るような言い方はやめていただきたい」
「煽ってない」
九条は葛城を見た。
「可能性を減らしているだけ」
「減っているようには聞こえませんが」
「増やさないと減らせないこともある」
葛城は黙った。
その沈黙に、微かな怒りが混じっていた。
真壁は葛城を見ていた。
葛城慎一郎は、疑われることに苛立っている。
指示されることに苛立っている。
自分が管理される側に回ったことに耐えられない。
こういう人間は、犯人に利用されやすい。
動くなと言われると動く。
触るなと言われると触る。
飲むなと言われると、飲む。
真壁は食卓の上のグラスを見た。
透明な水。
全員同じように注がれている。
それなのに、今やどのグラスも凶器に見える。
「飲食物はすべて撤去する」
真壁は言った。
氷室が慌てて立ち上がる。
「私が――」
「触らないでください」
真壁が制した。
「二階堂、記録してくれ。誰がどの席の前に座っているか、グラスと皿の位置も」
「了解」
二階堂は携帯を取り出しかけて、圏外表示を見て一瞬だけ顔をしかめた。
それでもカメラは使える。
彼は食卓全体、各席、席札、グラスの位置を順に撮影していった。
その動作を、葛城が見ていた。
「ずいぶん手際がいい」
二階堂は撮影しながら答えた。
「慣れているので」
「広報の方が?」
「現場に出ることもあります」
「なるほど。では、席順を変え、写真を撮り、全員の位置を記録する。あなたの作った配置が、これから公式な記録になるわけだ」
二階堂の指が、わずかに止まった。
真壁は葛城を見た。
「何が言いたい」
「別に」
葛城は肩をすくめた。
「ただ、西園寺さんの件も“発表”だとおっしゃっていたのでしょう。なら、次の発表文を書いているのは誰なのかと思っただけです」
食堂が静かになった。
二階堂の表情は変わらない。
だが真壁にはわかった。
葛城の言葉は、二階堂に向けられている。
広報。
発表。
席順。
記録。
犯人が使っている道具に、二階堂の職能が重ねられていく。
それは偶然ではない。
この館の犯人は、二階堂をいずれそこへ置くつもりでいる。
「葛城さん」
二階堂は静かに言った。
「疑うのは自由です。ただ、今はその疑い方も記録します」
「脅しですか」
「いいえ」
二階堂はカメラを下ろした。
「誰が最初に、誰へ、どんな言葉を置いたか。それを覚えておきたいだけです」
葛城は鼻で笑った。
「言葉、言葉。あなた方は本当に言葉がお好きだ」
そう言って、彼は自分の前のグラスへ手を伸ばした。
「触るな」
真壁の声が飛んだ。
葛城の手が止まる。
止まったのは一瞬だった。
彼はあえて、真壁を見たままグラスを掴んだ。
「これは私の前に置かれた水です」
「置かれたものを信用するな」
「なら、何を信用すればいい?」
「今は何も」
葛城は笑った。
「刑事らしいお答えだ」
二階堂が椅子を引いて立ち上がる。
「葛城さん、置いてください」
「あなたが席を決めた」
葛城は言った。
「あなたが私をここに座らせた。あなたが写真を撮った。あなたが全員に手元を見せるように言った。なら、このグラスが私の前にあることも、あなたの作った配置の一部でしょう」
「それと飲むことは別です」
「別ではない」
葛城の声は、妙に落ち着いていた。
さっきまでの苛立ちとは違う。
自分の理屈で相手を追い詰めることに慣れた人間の声だった。
「あなたが“全員の安全のため”と言って作った配置です。その配置で私だけが危険に晒されるなら、それはあなたの責任になる」
二階堂の顔から、少しだけ血の気が引いた。
真壁は一歩踏み出した。
「葛城、やめろ」
呼び捨てにした。
だが遅かった。
葛城慎一郎は、グラスの水を口に含んだ。
一口。
ほんの一口だった。
飲み込んだあと、彼は勝ち誇ったように二階堂を見た。
「何も起きませんね」
その直後。
食堂の窓の外で、第二灯が消えた。
誰かが悲鳴を上げた。
今度は、全員が見ていた。
玄関広間から少し離れた外壁の灯。
第一灯の隣ではない。
食堂の窓からちょうど正面に見える位置の灯だった。
それが、ふっと暗くなった。
また、音はない。
光だけが消えた。
次の瞬間、食堂の奥に置かれていた小型モニターが赤く点いた。
いつの間にそこにあったのか。
いや、最初からあった。
食器棚の横、壁の影に、展示用の補助モニターのように置かれていた。
誰も意識していなかっただけだ。
画面に文字が浮かんだ。
――ふたつ灯して、席を分ける。
葛城の顔から、表情が消えた。
彼は何か言おうとした。
口が開く。
声は出ない。
代わりに、喉の奥で小さな音がした。
かすれた、引っかかるような音。
葛城は自分の喉を押さえた。
グラスがテーブルに当たって倒れた。
水が白いクロスの上に広がる。
透明な水が、ランプの光を受けて銀色に光った。
「葛城さん?」
蓮見が椅子を引いた。
「離れろ!」
真壁が叫んだ。
九条はすでに動いていた。
椅子を蹴るようにして葛城の横へ回り、身体を支える。
葛城の喉が、ひゅう、と鳴った。
目が大きく見開かれている。
唇の色が急速に悪くなる。
顔色が灰色へ沈んでいく。
右手が喉を掻くように動き、左手がテーブルクロスを掴んだ。
布が引き寄せられ、グラスがいくつか倒れる。
水がこぼれ、皿が鳴り、席札が濡れた。
葛城慎一郎。
その名前の書かれた席札だけが、水を吸って滲んでいく。
「九条!」
真壁が叫ぶ。
「触るな、口元だけ見る」
九条は葛城の顎を支え、呼吸を確認した。
表情が変わった。
「気道が狭くなってる。急性の反応。毒か、強いアレルギー様反応」
「水か」
「まだわからない」
「飲んだのは水だけだ」
二階堂の声が震えていた。
震えていることを、彼自身が許していないような声だった。
「俺が席を変えた。俺が葛城さんをそこに座らせた」
「二階堂」
真壁が言う。
「今は黙れ」
二階堂は唇を噛んだ。
葛城の身体が大きく痙攣した。
烏丸が悲鳴を上げる。
小夜子が椅子から立ち上がりかけ、瑠璃子がその腕を掴んだ。
氷室は食堂の入り口で立ち尽くしている。
鳴海は顔面蒼白でモニターを見ていた。
蓮見は両手で口を覆い、涙を浮かべている。
朽木は席を立たず、ただ葛城のグラスを見ていた。
鳳は、葛城ではなく、食卓を見ていた。
グラスの配置。
倒れた水。
席札。
ナプキン。
塩入れ。
銀のベル。
「九条、処置は」
真壁が訊く。
「ここでは限界がある。エピペンも酸素もない。救急へ――」
「つながらない」
「それでも試せ」
二階堂が携帯を握りしめたまま、食堂の外へ走りかける。
「待て」
真壁が止めた。
「一人で動くな」
「でも」
「一人で動くな」
二階堂は止まった。
その顔には、怒りと焦りと、自責が混じっていた。
葛城が、声にならない声を漏らした。
椅子から滑り落ちそうになる身体を、九条が支える。
真壁も反対側へ回った。
葛城の体重は重い。
だが生きている人間の重さではない。
力が抜け、抵抗の方向が消え始めている。
「葛城さん、聞こえますか」
九条が呼びかける。
葛城の目が、九条を見た。
いや、見ていない。
目は開いているが、焦点が揺れている。
呼吸が浅く、喉が不規則に動く。
唇の端から泡が滲んだ。
九条は一瞬、目を細めた。
その表情を見て、真壁は理解した。
厳しい。
数十秒後、葛城慎一郎の身体から、最後の力が抜けた。
九条は呼吸と脈を確認した。
短い沈黙。
食堂の外で、風が窓を叩いている。
湖面の灯が揺れている。
第二灯は消えている。
九条は顔を上げた。
「死亡」
その言葉は、誰の悲鳴よりも静かだった。
だからこそ、食堂の全員に届いた。
蓮見が泣き崩れた。
烏丸は椅子に座り込んだまま、震えている。
小夜子は瑠璃子の袖を掴み、声を出せずにいる。
氷室は「そんな」と呟いたきり動かない。
鳴海はモニターの赤い文字を見つめていた。
朽木は、ようやく椅子から立ち上がった。
「これは……」
彼は二階堂を見た。
「これは、あなたが席を変えた結果ではありませんか」
食堂の空気が、一斉に二階堂へ向いた。
二階堂は何も言わなかった。
言葉を扱う男が、言葉を失っていた。
真壁が前へ出る。
「違う」
「本当に?」
朽木の声は静かだった。
「二階堂さんが席を指定した。葛城さんをそこへ座らせた。葛城さんはその席のグラスを飲んだ。そして死んだ」
「飲むなと言った」
「しかし、そのグラスが葛城さんの前にあったのは、二階堂さんの決めた席順の結果です」
「違う」
真壁の声が低くなる。
「それは犯人が置いた言い方だ」
朽木は眉を動かした。
「犯人が?」
「二階堂が席を変えることまで、犯人は読んでいた可能性がある」
二階堂が真壁を見た。
真壁は続けた。
「いや、違うな。席を変えても変えなくても、葛城がそこへ座るように作られていた」
「どうやって」
朽木が問う。
真壁は答えず、鳳を見た。
「鳳さん」
鳳は食卓の端を見ていた。
「席の間隔が違います」
「何?」
「このテーブル、十二人掛けに見えますが、実際には左右で椅子の間隔が違う。食堂の窓側から見て右列だけ、椅子がわずかに狭く詰められている。人は無意識に、広い方へ座りたがります」
二階堂が顔を上げる。
「俺が席を決めた時も?」
「はい。二階堂さんは全体が見える端を選びました。真壁さんを出入口側に置いた。九条さんをその隣に置いた。葛城さんを自分の視界に入る位置へ置いた。合理的です。ですが、その合理性を誘導するように、椅子の配置と席札の初期位置が作られていた可能性がある」
「つまり、俺は誘導された」
「可能性があります」
鳳の声は柔らかい。
その柔らかさが、二階堂には痛かったのかもしれない。
彼は小さく笑った。
「最悪だな」
九条が葛城の死体から目を離さずに言った。
「グラスだけじゃない」
「何が」
真壁が問う。
「口元の反応が早すぎる。毒が水に溶けていたなら、飲み込んでから症状が出るまでにもう少し差があってもいい。もちろん毒物の種類による。でも、口腔内か咽頭に直接触れた可能性がある」
「つまり」
「グラスの水ではなく、グラスの縁。あるいは、席札を触った指。ナプキン。塩入れ。葛城さんがさっき触ったもの全部が候補」
真壁は思い出した。
葛城は席札を取った。
名前を見た。
テーブルに戻した。
そのあと、グラスを掴んだ。
席札を触った指で、グラスを持った。
そして飲んだ。
「毒は水じゃない」
二階堂が言った。
「席か」
九条は頷かなかった。
「まだ断定しない」
「でも、同じ水を飲んでも、他の人は死なない」
鳳が静かに言った。
「“席を分ける”」
全員がモニターを見た。
――ふたつ灯して、席を分ける。
赤い文字。
その意味が、ようやく別の形で見えてくる。
同じ料理。
同じ水。
同じ食卓。
だが、席が違えば、触れるものが違う。
席札、ナプキン、グラスの縁、椅子の肘掛け、テーブルの端、塩入れの位置。
犯人は食事を毒にしたのではない。
席を毒にした。
「全員、手を見せてください」
二階堂が言った。
声はまだ少し硬い。
だが戻ってきていた。
「今すぐ。何に触ったか、順番に確認します」
葛城を疑っていた者たちは、今度は二階堂を見た。
それでも、誰も逆らわなかった。
二人目が死んだからだ。
西園寺雅治。
葛城慎一郎。
二つの名前が、すでに館に置かれている。
そして残りの者たちは、ようやく理解し始めていた。
自分たちは客ではない。
席につかされた被害者なのだ。
真壁は食卓を見下ろした。
葛城の席札は、水を吸って滲んでいる。
黒い文字が薄く広がり、葛城慎一郎という名前の輪郭が崩れていた。
人間が死ぬより先に、名前が滲んでいく。
その光景が、妙にこの館らしかった。
「真壁」
九条が呼んだ。
「何だ」
「葛城さんの右手」
真壁は葛城の右手を見た。
親指と人差し指の腹が、わずかに赤くなっている。
火傷のようにも、薬品に触れた跡のようにも見える。
「席札か」
「触った指」
九条は短く言った。
「水を飲む前に、毒に触れてるかもしれない」
「だとしたら、席札が凶器か」
「あるいは、席札に見せかけた別のもの」
二階堂が葛城の席札を見た。
手を伸ばしかけて、止める。
触らない。
真壁はその動作を見ていた。
二階堂は学んでいる。
犯人の順番に乗らないために、いったん止まる。
それでいい。
「鳳さん」
真壁は言った。
「この席、最初の席札配置で葛城さん用だったんですね」
「はい」
「二階堂が席順を変えたあとも、葛城さんは結局この席に近い位置へ来た」
「そうです」
「なぜ」
鳳は椅子の脚元を見た。
「床です」
「床?」
「この席だけ、椅子の引き跡が新しい。他の席は装飾として整えられているだけですが、この席は最近、何度も出し入れされています。人が座ることを想定して調整されている」
「つまり、座りやすい」
「はい。椅子の高さもわずかに違う。葛城さんの体格なら、この席が一番自然に座りやすいはずです」
二階堂が顔を歪めた。
「そこまで?」
「建物と家具は、人間を誘導します。本人が選んだと思っていても、選ばされていることがあります」
真壁は葛城の死体を見た。
葛城は、自分の意思でグラスを取った。
自分の意思で飲んだ。
しかし、その意思に至るまでの道筋を、犯人が整えていたとしたら。
席札を触る苛立ち。
二階堂への反発。
自分だけは従わないという態度。
そのすべてが、犯人にとって予定通りだったとしたら。
「葛城さんは殺された」
真壁は言った。
「だが、殺され方は西園寺さんと同じだ」
蓮見が泣きながら顔を上げた。
「同じ……?」
「死体を置かれたんじゃない」
真壁は食卓の上を見る。
「行動を置かれた」
誰かが息を呑んだ。
「西園寺さんは、死体を見つける順番を作られた。葛城さんは、毒に触る順番を作られた。犯人は殺す瞬間だけを作っているんじゃない。その前に、被害者が自分でそこへ進むように道を作っている」
二階堂が低く言った。
「俺たちも、その道の一部にされた」
「そうだ」
真壁は認めた。
「だから、ここからは一つずつ剥がす。見たもの、触ったもの、言ったこと、言わされたこと。全部だ」
そのとき、食堂のモニターがまた点滅した。
赤い画面に、白い文字が追加される。
――葛城慎一郎。
――第二灯、消灯。
そして、その下に小さく一行。
――席を分けた者は、次の名を選ぶ。
食堂の視線が、また二階堂へ集まった。
二階堂は動かなかった。
だが、真壁には見えた。
二階堂の指先が、テーブルの下でわずかに震えている。
言葉で場を制御する男が、言葉で刺されている。
犯人は二人目で、もう二階堂を狙い始めている。
真壁は二階堂の前に立った。
視線を遮るように。
「見るな」
低く言った。
「二階堂を見るな。モニターを見ろ。葛城の死体を見ろ。食卓を見ろ。犯人が見せたい順番に乗るな」
誰もすぐには答えなかった。
だが、食堂の視線は少しずつ二階堂から離れた。
二階堂が小さく息を吐いた。
「助かった」
「まだだ」
「だよね」
二階堂は薄く笑った。
笑おうとしただけだった。
真壁は食堂の窓を見た。
第一灯。
第二灯。
二つの灯が消えている。
湖面には、その二つ分の闇があるはずだった。
だが波が揺れるたび、残った灯の反射が伸び、消えた場所にも光があるように見える。
消えたはずのものが、まだそこにあるように見える。
死んだはずの名前が、まだ食卓に残っているように見える。
真壁は思った。
この館は、死者を消さない。
消したあとで、別の形に置き直す。
西園寺は玄関広間に置かれた。
葛城は食卓に置かれた。
次は誰が、どこに、どんな名前で置かれるのか。
その答えを、犯人はもう用意している。
食堂の空気の中で、誰かが小さくすすり泣いていた。
その泣き声に紛れるように、廊下の奥から、かすかな音がした。
今度は金属音ではなかった。
木が軋む音。
階段の方角。
真壁が顔を上げる。
九条も同時に顔を上げた。
鳳は、音の方向を見ずに、床を見た。
「今のは」
二階堂が言う。
鳳が静かに答えた。
「上です」
食堂の全員が黙った。
階段。
二十年前の第三の死亡位置。
展示図面の赤い印。
階段下。
真壁の背中に、冷たいものが走った。
第三灯は、まだ消えていない。
だが館はもう、次の場所を鳴らし始めていた。




