第二話 来週は来ないわ
「サラ。君との婚約を、終わりにしたい」
リュシアンがそう言ったとき、本の中では、気の毒な船長が三度目の難破をしかけていた。
私は赤い表紙を膝の上に載せたまま、顔を上げた。彼が好きな章だったから、少し大げさに読んでいた。自分の口元にまだ笑いが残っているのがわかって、恥ずかしくなった。
「……いま、何と?」
「婚約を解消したいんだ。クレール嬢を好きになった。彼女と話していると、次はいつ会えるだろうって、そればかり考える。こういう気持ちは初めてなんだ」
応接間の窓は開いていた。庭で彼のお母様が、私の母に新しく植えた木を見せている。二人の笑い声が、ここまで聞こえてきた。
今日は本の続きを読んで、それから皆でお菓子を食べるはずだった。三年の婚約が、終わる日ではなかった。
リュシアンは言いにくそうに、けれど話し始めたことには安堵したように、続けた。
「君といると落ち着くよ。誰より。でも、家族といるのに近いんだと思う。君にも、本当に恋ができる人を見つけてほしい」
私は十九歳で、彼は二十二歳だった。
結婚するならこの人だと思っていた。顔を見る日には朝から服を選び、廊下で足音がすると、何でもないふりをして背筋を伸ばした。彼が私の名を呼ぶ声を、ほかの誰より早く聞き分けられた。
それを、彼は恋に数えてくれないのだ。
「私は、あなたに恋をしていたわ」
彼の顔から、用意していたらしい微笑みが消えた。
「そうだったのか……。すまない。君も、もっと穏やかな気持ちなのかと」
「穏やかだったら、悲しくないと思った?」
自分で尋ねておきながら、答えを聞くのが怖かった。リュシアンはすぐには何も言わなかった。その沈黙で、十分だった。
私は本を閉じた。布張りの角は、何度も開いたせいで少し白くなっている。
「母たちにも、話さないとね」
「ああ。父には僕から説明する。君に迷惑がかからないようにするよ。ただ、母とはこれまでどおりにしてくれないか。あの人も君が来るのを楽しみにしているし、本の続きだって――」
続けてくれ、と言いかけたのだとわかった。
来週も、私はここへ来る。彼の向かいに座って、彼が好きなところを読み、疲れていれば途中でやめる。クレール様と会った日の話を、笑って聞く。
結婚だけがなくなって、それ以外は何も変わらないと、彼は思っていた。
「本は返してちょうだい。私が持ってきたもの、五冊とも」
「今、全部持つのは重いだろう。来週でいいじゃないか」
「来週は来ないわ」
彼が驚いた顔をするので、涙が出そうになった。
婚約を破棄しても、私に会えなくなるとは思わなかったのだ。
赤い本を、ほかの四冊が並ぶ窓際の棚へ戻した。今ここで五冊を集めているうちに、泣いてしまう気がした。
「あとで、家へ届けて。お願いします」
いつもと違う言い方に、リュシアンが立ち上がった。
私は彼より先に扉へ向かった。庭にいる母を呼んだときは、思ったより普通の声が出た。帰りの馬車が動き出すまで、泣かずにいられた。
* * *
婚約したのは、家同士の縁があったからだった。
けれど、初めから親しみのない人ではなかった。年に何度か顔を合わせるたび、私が隅で本を読んでいると、何が面白いのかと覗き込んでくる人だった。
二年前、彼が落馬して脚を傷めた。命に別状はなかったが、しばらく屋敷で過ごすことになり、皆が馬で出かける話をするたび、不機嫌になった。
私は見舞いに赤い本を持っていった。賢いとはとても言えない船長と、その船に乗ってしまった青年の冒険物語だった。
『子供向けじゃないか』
『大人が読んではいけないなんて、どこにも書いていないわ』
そう言って開くと、彼は初め、窓の外ばかり見ていた。
船長が大事な海図で魚を包んでしまうくだりで、とうとう吹き出した。その笑い方が嬉しくて、私まで読むのをやめて笑った。
脚が痛み始めると、彼は同じ場所を指で何度も叩いた。そういう日は短い章に変えたし、父親と喧嘩したあとは、本を閉じて話を聞いた。読まなくてもいいのかと聞かれて、また今度でいいわ、と答えた。
彼のお母様が隣の椅子で刺繍をし、私は声に出して本を読んだ。やがて彼の脚は治ったが、日曜の午後に訪ねる習慣だけは残った。
『サラの声を聞くと、ほっとする』
そう言われた日のことを、家に帰ってから何度も思い出した。
好きな人を安心させられる。それが、私にもできるのだと嬉しかった。
彼がうとうとし始めたら、読むのをやめた。私が好きな長い物語は、退屈だと言われて持っていかなくなった。新しい本を買うときも、彼が笑うかどうかを先に考えた。
自分が寂しくなっていたことには、気づかないふりをした。結婚したら一緒に過ごす時間が増える。そうしたら、私の話も聞いてもらえると思っていた。
「私はずっと、楽しみにしていたの」
母に言うと、声が崩れた。
自分の部屋に着いても、手袋を外せなかった。指の先を引こうとして、うまくつかめなかった。
「来年の春には、同じ家に住むんだって。日曜日じゃなくても会えるんだって。それなのに、あの人は、本当の恋が初めてだって……」
母は黙って手袋を外してくれた。片方ずつ、机の上に置いてから、私を抱き寄せた。
彼が別の人を好きになったことは、私が泣いても変わらない。それでも、私の三年間まで、たいした気持ちではなかったように言われたのが悲しかった。
「気づかなかったって、どうして言えるの。毎週、あんなに楽しみにしていたのに」
母の肩に顔を押しつけた。
好きだと言えばよかった。もっと甘えてみればよかった。そんなことばかり浮かんだ。自分にも悪いところがあったと思えば、まだ何かを直せる気がした。
母が私の背を撫でながら言った。
「サラ。あの方が気づかなかったことを、あなた一人で償わなくていいのよ」
私はしばらく、その言葉に返事ができなかった。
五日後、両家の話し合いが終わった。リュシアンの申し出による婚約解消として、正式に書類が交わされた。
彼のお母様からは、残念だけれど、また遊びにいらして、と手紙が届いた。悪気はないのだろう。私を娘のように思ってくださっていたのも、嘘ではない。
でも、もうあの応接間へ行きたくはなかった。
私はこれまでの親切にお礼を書き、今後の訪問は遠慮すると伝えた。リュシアンには、本を五冊返してほしいと改めて頼んだ。
次の日曜日、昼食を終えてから、部屋で何度も時計を見た。
今なら支度が間に合う。馬車を出してもらえば、いつもの時間に着く。そう思うたび、行かないと自分で言ったことを思い出した。
あの家へ行かないだけなのに、午後がひどく長かった。
机の引き出しから、マノンの手紙を取り出した。月に一度、彼女の家で友人が集まり、好きな本の話をする。誘われるたび、リュシアンのところへ行く日だからと断っていた。
『今月、私も伺ってよろしいかしら』
そこまで書いたあと、一緒に何を読むのかも尋ねた。
翌日には返事が来た。ぜひ来てほしい、何か持ってきたい本はあるか、と。
私は本棚の前に立ち、薄い冒険小説へ手を伸ばしかけた。途中で眠くならないもの、笑ってもらえるもの。そうやって選び始めてから、今度の相手はリュシアンではないのだと気づいた。
奥から、厚い歴史物語を引き出した。宮廷でうまく嘘をつけない女官が、もっと嘘の下手な王妃に仕える話だった。
『長いのだけれど、私はこれが好きです』
そう返事を書いた。
マノンは二日後に訪ねてきて、私の部屋でその本を開いた。
「先に聞いておくけれど、サラはどちらが好きなの。王妃様? 女官?」
「女官のほう。でも、お味方にはなりたくないわ。隠し事を頼んだ日に、全部ばれそうだもの」
マノンが声を立てて笑った。
私も笑い、まだ言いたいことがあると気づいた。女官が嘘をつけないところは面白いけれど、そのせいで王妃を傷つける場面は嫌だったこと。最後に謝りに行くときの、あまりに長い言い訳のこと。
途中で話を止めて、マノンを見た。
「ごめんなさい。私ばかり」
「まだ読んでいないところは内緒にしてね。そこ以外は、もっと聞きたい」
誰かの返事を待つために口を閉じるのと、退屈させないように黙るのは、違うことだった。
その日は彼女が帰ってからも、ずっと本を開いていた。リュシアンを思い出して泣いたのは、夜になってからだった。
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