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【連載版】私を振った婚約者が、いちばん遅く失恋した【全5話】  作者: 堀吉 蔵人


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第一話 いちばん遅い失恋

 

 その頃、リュシアンは、自分の決断を間違いだとは思っていなかった。


 クレールとの外出は楽しかった。彼女は弓を射るのが好きで、リュシアンが知らない競技の話をしてくれた。サラのことを悪く言ったことは一度もなく、婚約を解消したと聞いたときも、相手の方は大丈夫なのかと尋ねた。


 彼は、大丈夫だと思う、と答えた。その答えを、本人に確かめたわけではなかった。


 日曜日、リュシアンは赤い本を開いた。

 サラがもう来ないということは、手紙でわかっている。今は傷ついていても、しばらくすれば落ち着く。そうなれば、以前のように話せるはずだった。


 船長が海図で魚を包むところを読み、小さく笑った。


「でも、これじゃ港へも戻れないだろうな」


 向かいの椅子を見てから、口を閉じた。


 サラなら、戻ったって借金取りが待っているわ、と言っただろう。初めて聞いたとき、見舞いに来たおとなしい婚約者がそんなことを言うものだから、彼はおかしくて仕方がなかった。


 文字は前と同じだった。面白いところも、ちゃんと面白い。


 それなのに、笑ったあと、誰に顔を向けてよいのかわからなかった。


 お茶を運んできた従僕に、少し読んでくれないかと頼んだ。


 若い従僕は本を受け取り、丁寧に読み始めた。何も間違っていないし、声も聞き取りやすい。半頁ほど聞いてから、リュシアンは止めた。


「すまない。もういいんだ」


「何か、不手際がございましたか」


「いや。君のせいではない。おかしなことを頼んだ」


 困った顔の従僕から本を受け取る。誰かに読んでもらえばよいのだと思った、自分が恥ずかしかった。

 サラは、彼が笑うと嬉しそうに続きを読んだ。何か言いたいことがある日は、頁をめくらずに待った。彼が父に小言を言われた日には、本を閉じて、どの言葉が一番嫌だったのかと聞いた。


 忙しい日々の中で、そうやって自分のために時間を使う人がいた。だから、何があっても日曜には少し楽になれた。


 彼は本を膝に置いたまま、長いこと動けなかった。


 翌週、父から初めて、一人で出席した会合の応対を褒められた。


 帰り道、サラに話そうと思った。父の言い方まで真似をしたら、きっと笑う。前の会合で失敗したことも知っているから、今度はよかったわねと言ってくれる。


 家に着き、彼は便箋を出した。そのまま、何も書けなかった。


 彼女の言葉なら、いくつも思い浮かぶ。自分が彼女に何を返していたかは、少しも出てこなかった。


 サラが母の手紙に返事を寄せたと知り、リュシアンは応接間へ行った。母は、もう来ないそうよ、と言って、封筒を引き出しへしまった。


「わたくし、引き留めてしまったの。これまでどおりなんて、あの子には無理よね」


 母が目元を押さえた。リュシアンは、そのそばで立ち尽くした。

 彼女が来ない日曜日を、一度過ごしただけだった。サラは、結婚を楽しみにしていた何年もの時間を、終わりにすると告げられた。


 穏やかな気持ちだから平気だろうと、自分はどれほど簡単に考えたのか。


 本を返すよう家の者へ伝え、リュシアンは棚から五冊を下ろした。


 どの扉にも、サラ・フェネルと名前が書いてあった。赤い本には、少し幼い字で。子供の頃から、彼女が大切にしていた本なのだ。


 四冊を箱へ入れたところで、手が止まった。


 これも返せば、彼女が自分の家へ来る理由は、ひとつもなくなる。


 赤い本を、机の引き出しへ入れた。ひどく卑怯なことをしていると、しまう瞬間からわかっていた。


 * * *


 返ってきた箱には、本が四冊しか入っていなかった。


 赤い本がなかった。母から誕生日にもらって、大切にしてきた本だった。置き忘れではないかと手紙を書こうとしたところへ、リュシアンからの使いが来た。


 一度だけ話したい、最後の本もそのとき返す、と。


 私は封筒を机に置いた。会いたいと思ってしまう自分が、つらかった。


 それでも、本のことを理由にいつまでも彼の連絡を待ちたくはなかった。

『明日の午後、家でお待ちします。本を返していただくためです。お話を伺うのも、これで最後にします』


 何度も書き直し、そう返事をした。


 リュシアンが来たとき、母は隣室にいてくれた。私の侍女が扉の近くへ立った。


 彼は赤い本を両手で持っていた。座ってからも、渡そうとはしなかった。


「サラ。まず、謝らせてほしい。君が僕をどう思っていたか、聞こうともしなかった。君ならわかってくれるって、自分に都合のいいことばかり考えた」


 私は黙って聞いた。すぐに大丈夫と言わないように、膝の上で手を重ねていた。


「クレール嬢にも話した。君を忘れられないまま、彼女と会っていたことを。もう会わないと伝えたよ」


「そう」


 リュシアンが私の顔を見た。


 彼女と別れたと聞けば、喜ぶと思ったのだろう。少し前の私なら、喜んだかもしれない。そのことも含めて悲しかった。


「君と、もう一度やり直したい。婚約のことを、考え直してもらえないだろうか」


 ずっと好きだった声だった。


 どうして今になってと思った。何も失わないうちに、一度だけ、私も次の日曜を楽しみにしていると気づいてくれたらよかったのに。


「考え直さないわ」

 彼が何か言いかけたので、私は顔を上げた。


「あなたに選んでもらいたくて、本を読んでいたわけではないの。好きだったから、少しでも楽しく過ごしてほしかった。あなたが眠ってしまっても、つまらない話だと言っても、疲れているんだろうと思った」


 言葉が震えた。彼は初めて、本から片手を離し、こちらへ伸ばしかけた。


 私は自分の手を膝に重ねたままにした。


「でも、婚約を終わりにしても、同じように来てほしいと言われて……私が悲しくなることは、そんなに考えに入らないのかと思った。あなたの前で泣いたら、困らせてしまうと考えていたのは、私ばかりだった」


「ごめん。本当に、君がいなくなってから……」


 リュシアンはそこで言葉を切った。


 以前なら、何があったの、と私が尋ねた。今は、続きを促さなかった。


 彼は自分で続けた。


「嬉しいことがあっても、嫌なことがあっても、君に話したくなる。あの本を読んで笑ったとき、君のほうを見てしまった。君がいないと気づくたびに、自分でそうしたんだと思う」


 嬉しいことを、ほかの誰より先に聞きたかった。

 そう思っていた自分が、まだ胸の中にいた。だから、冷たく笑うことなどできなかった。


「私も、まだ日曜になると時計を見るわ。あなたのことが、全部嫌いになったわけではないの」


 彼の目に、期待が浮かんだ。それを見て、急いで言った。


「だから、もう会いに来ないでほしい。また何かを待ってしまうから。今度こそ大切にしてもらえるかしらって、あなたの顔ばかり見てしまうから」


 涙が一つ落ちた。拭う前に、次が落ちた。


 リュシアンが身を乗り出した。差し出しかけた手が、私のそばまで来る前に止まった。


「待たせない。僕が、これからは――」


「私は、あなたを待たない暮らしに戻りたいの」


 彼は口を閉じた。


 好きだから一緒にいたいと、何度も思った。今は、好きだった気持ちが残っていても離れたい。そう思う私の言葉を、今度こそ聞いてほしかった。


 しばらくして、リュシアンが赤い本を持ち直した。


「これ、まだ最後まで一緒に読んでいないだろう。一度だけ……続きだけでも」


 私が彼のために読む最後の午後を、思い浮かべた。いつもの椅子と、いつもの声。彼が笑って、私もつられて笑う。

 そこへ戻るのは、たぶん簡単だった。


「自分で読むわ。それは、私の本だから」


 表紙を押さえる彼の指に、力が入った。


 返してくれなかった理由が、そのときはっきりわかった。もう一度来てもらうために、残したのだ。私が大切にしているものを。


 悲しいのに、腹が立った。もう一度、返してほしいと頼まなければならないのか。


 口を開きかけた私より先に、リュシアンが顔を上げた。


「ごめん、サラ」


 彼はゆっくり立ち上がった。


 私の前へ来て、本を差し出す。受け取ると、すぐに指を離した。


「あとで、もう一冊買って送る……」


 そう言いかけて、彼は首を振った。


「いや。送らない。何も送らないし、返事も求めない。君がもう会わないと言ったこと、わかったよ」


 その声で、顔を上げた。


 リュシアンの目が赤くなっていた。口元を引き結び、何かを堪えるように一度、息を吐いた。


「これを残せば、君に会えると思った。返してほしいと頼まれていたのに。……ごめん」


 彼は空になった手を下ろした。


 もう本の話はしなかった。自分がどれほど寂しいかも、言わなかった。

「サラ。好きだよ。僕は、好きだったんだと思う」


 泣きながら、私は頷いた。気づいてくれたのが嬉しくて、それでも戻りたくなかった。


「私も、あなたが好きだった」


 彼の顔が歪んだ。


 私が言い直してくれるのを待つように、一瞬だけこちらを見た。それから、わかった、と言った。


 別れを告げられた日の私も、あんな顔をしたのだろうか。彼の悲しみを見ているのはつらかった。つらいからといって、そばに座って慰めることはできなかった。


 私を振った人が、私よりずっと遅く、恋を失ったのだとわかった。


 侍女が扉を開けた。リュシアンは私に一礼し、部屋を出ていった。


 彼の足音が聞こえなくなってから、私は本を抱えたまま母を呼んだ。今日も少し、泣かせてもらった。


 * * *


 マノンの読書会には、翌月も、その次の月も出かけた。


 すぐに何もかも平気になったわけではない。似た声に振り返ったり、新しい冒険物語の広告を見て、リュシアンが好きそうだと思ったりした。


 彼から手紙は来なかった。本も、花も届かなかった。


 約束を守ってくれているのだと思った。少し寂しくて、ほっとした。

 ある日、読書会に赤い本を持っていった。


 家で読み返したら、船長よりも、いつも荷物を背負わされる青年のほうが好きだと気づいた。彼は何度文句を言っても船を降りない。宝島へ行きたいのは、船長だけではなかったからだ。


 その話をすると、マノンは本を覗き込んで言った。


「私は、船長のほうが好きかもしれないわ。こんな人の家族には、絶対になりたくないけれど」


 皆で笑った。


 読みたいと言う人がいたので、私は机の上へ本を置いた。自分の好きな頁を教え、別の人の好きなくだりを聞いた。途中で意見が分かれて、それぞれの言い分を確かめるために、また本を開いた。


 マノンが私の皿へ焼き菓子を一つ載せた。


「サラの好きな胡桃入り、最後の一つよ。話に夢中で、なくなりそうだったから」


「ありがとう。では、これはゆっくりいただくわ」


 私は菓子を割り、半分を隣の友人へ勧めた。その人もこれが好きだと、先月聞いたばかりだった。


 向かいでは、マノンがさっきの意見の続きを話している。私は彼女を見て笑い、食べ終わってから自分の考えも話した。


「来月は、私の家にいらっしゃらない? あの歴史物語の続編を買ったの」

 マノンが、また分厚いのかと笑いながら尋ねた。私はええ、と頷き、皆の都合のよい日を聞いた。


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