第4話 赤字って、こんなに怖いものでしたっけ?
帳簿は全部で十二冊あった。
一年分を月ごとに綴じたもの、らしい。らしいというのは、表紙に月が書いてあるのが半分だけだったからだ。残りの半分は中を開いて日付を探すところから始まる。
「アリサちゃん、受付の時間だよ?」
「開けてください。私は休憩時間と閉館後にやります」
「お昼は?」
「帳簿を見ながら食べます」
「それは休憩とは言わないんじゃないかなあ」
ギルド長に労働環境を心配される受付嬢。前世では一度もなかった経験である。ちょっと泣きそうになった。
◇ ◇ ◇
閉館の鐘が鳴ってから、私は本格的に十二冊と向き合った。
結論から言うと、ひどかった。
収入と支出が同じページに混ざっている。日付が前後している。途中で書く人が変わったのか、字の癖が三種類ある。そのうち一つは間違いなく昨日までの私の字だった。
昨日までの私、ここでもやらかしてたの?
「ギルド長。この帳簿、普段は誰がつけてるんですか」
「最初は経理の人がいたんだけどね。辞めちゃってからは私とアリサちゃんと、手の空いた人で」
「手の空いた人」
「冒険者さんに手伝ってもらったこともあるよ」
「外部の人に帳簿を書かせないでください!」
頭を抱えながら、私は白紙を一枚取り出した。
細かい誤りを一つずつ追っていたら夜が明ける。まずは全体の形を見る。月ごとに入ってきたお金と出ていったお金を、ざっくり二列に書き出すのだ。前世で突然押しつけられた引き継ぎ資料も、だいたいこのやり方で読み解いてきた。
仲介手数料。素材の売却益。王国からの補助金。これが入ってくるお金。
冒険者への報酬。素材の買取代金。職員の給料。建物の修繕費。魔導灯の魔石代。これが出ていくお金。
一か月分を足し合わせ、引き算する。
もう一か月分。もう一か月分。
ベルナードさんが淹れてくれた紅茶が冷めきった頃、紙の一番下に数字が並んだ。
「……ギルド長」
「うん」
「毎月、だいたい百八十万ゴルドの赤字です」
ベルナードさんがカップを持ったまま固まった。
「ひゃく、はちじゅう……?」
「百八十万です。毎月です。ほぼ一年ずっとです」
「それは、その……どのくらいなんだい?」
「私のお給料が何か月分だと思います?」
「えっと」
「計算しなくていいです。悲しくなるので」
私は自分で言って自分で傷ついた。
前世の会社にも赤字の部署はあった。でもそれは会社全体の数字のごく一部で、私の机の上に降ってくるのは「経費を削れ」という通達だけだった。赤字は遠くにある、どこか他人事の言葉だったのだ。
今は違う。この数字の向こうには、閉鎖されるギルドと、職を失う私と、行き場をなくす冒険者さんたちがいる。
赤字って、こんなに怖いものでしたっけ?
「蓄えはどのくらい残ってるんですか」
「繰越金のことかな。……もう、ほとんどないねえ」
「ですよね」
ないから閉鎖通知が来たのだ。わかっていても数字で見るとこたえる。
◇ ◇ ◇
「やっぱり、私の経営が下手だったんだね」
ベルナードさんがぽつりと言った。いつもの垂れ目がさらに下がって、ほとんど閉じかけている。
「アリサちゃん、ここまで調べてくれて本当にありがとう。でももう十分だよ。三か月あれば次の勤め先も」
「ギルド長」
「うん?」
「依頼の数、去年と比べて減ってますか?」
ベルナードさんは少し考えてから首を振った。
「いや……むしろ増えてるくらいだと思うよ。昨日も大忙しだっただろう?」
「冒険者さんの数は?」
「そっちも減ってないねえ」
「ですよね」
私はもう一度、紙の上の二列を見下ろした。
依頼は増えている。冒険者も減っていない。仕事はちゃんとある。それなのに、毎月百八十万ゴルドがどこかへ消えている。
前世の経験が小さく警報を鳴らしていた。忙しいのに儲からない職場には、必ず理由がある。そして理由のわからない赤字ほど、たちの悪いものはない。
「下手だったかどうかは、まだわかりません」
「え?」
「赤字は仕方ないこともあります。でも、理由がわからない赤字は放置できません」
私は冷めた紅茶を一気に飲み干して、一冊目の帳簿を開き直した。
「明日から、この十二冊を一行ずつ確認します」
「一行ずつ!?」
「一行ずつです」
ベルナードさんが「若いっていいねえ」と遠い目をしたけれど、聞かなかったことにした。中身はそこまで若くない。




