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第34話 元Sランクの実力、見せてもらいました。

鉄殻熊が谷の底へ向かって歩き出した、そのときだった。


谷の東の尾根から、黒い影が飛び降りてきた。


外套が風にはためく。長剣が陽の光を弾く。影は崖のような斜面を、ほとんど転がるような速さで駆け下りていく。


「……レオンハルトさん!?」


大岩の上で、私は思わず叫んでいた。


隣で弓使いの子が目を丸くする。


「え、なんで!? いつからいたの!?」

「わかりません!」


本当にわからなかった。昨日の朝、門のほうへ歩いていくのを見たきりだ。ギルドにも顔を出さなかった。


それが今、銀葉の谷の尾根から降ってきた。


レオンハルトさんは谷底へは向かわなかった。鉄殻熊の、真横へ回り込んだ。


石を一つ拾って、投げる。こん、と硬い殻に当たる音が、ここまで聞こえた。


鉄殻熊の首が、ゆっくりとレオンハルトさんのほうを向いた。


谷の底ではなく、レオンハルトさんのほうを。


「……引きつけてる」


弓使いの子が、かすれた声で言った。


「あの人、熊をみんなから引き離そうとしてる」


   ◇ ◇ ◇


鉄殻熊が吠えた。


腹の底を殴られたような音だった。大岩の上にいても、体が震えた。


巨体がレオンハルトさんに向かって突進する。地面が揺れる。木がなぎ倒される。


レオンハルトさんは、動かなかった。


ぎりぎりまで引きつけて、最後の一瞬で横へ跳んだ。鉄殻熊は勢いを止めきれず、背後の大木に頭から突っ込む。めきめきと音を立てて木が傾いた。


「すご……」


弓使いの子が息を呑む。


鉄殻熊が頭を振って向き直る。レオンハルトさんはもう、そこにいなかった。


いつの間にか、鉄殻熊の背中の上にいた。


長剣を逆手に持ち替える。殻と殻の継ぎ目。たぶん、そこしか刃が通らない場所。そこへ、迷いなく突き立てた。


鉄殻熊が暴れる。背中の上のレオンハルトさんを振り落とそうと、巨体をよじる。


彼は振り落とされなかった。剣の柄を握ったまま、もう一度、さらに深く押し込む。


断末魔の咆哮が、谷じゅうに響き渡った。


そして、灰色の巨体がゆっくりと横倒しになった。


地響き。舞い上がる土埃。


それから、静かになった。


私は大岩の上で、ぺたんと座り込んでいた。いつ座ったのかも覚えていない。


「……元Sランクの実力、見せてもらいました」

「見せてもらったね……」


弓使いの子も、隣で同じように座り込んでいた。


   ◇ ◇ ◇


土埃の向こうから、レオンハルトさんが歩いてきた。


外套の裾がいつもより大きく裂けている。片腕に、うっすらと血がにじんでいた。


「怪我、してるじゃないですか!」

「かすり傷だ」

「かすり傷でも怪我です! 座ってください!」


私は大岩から飛び降りて、背負い袋から包帯と傷薬を引っぱり出した。毛布と予備のペンは置いてきたけれど、これだけは減らさなかった。前回レオンハルトさんに半分置いていけと言われたとき、この二つは死守したのだ。


レオンハルトさんは渋々といった顔で岩に腰を下ろした。


「いつからいたんですか」

「昨日からだ」

「昨日!?」

「北の森の件から、魔物の動きがおかしい。銀葉の谷にも何か出るかもしれないと思って、尾根を見回っていた。昨日の夕方、尾根で見慣れない足跡を見つけた。でかいやつのな」

「それで、今日も」

「今朝からずっと尾根にいた」


ギルドに顔を出さなかった理由が、ようやくわかった。この人は昨日の朝からずっと、谷の上で見張っていたのだ。誰にも言わずに。


包帯を巻く手が、少しだけ止まった。


「……あの熊、本当なら北の山の奥にしかいないんですよね」

「ああ。自分で谷まで降りてくるような魔物じゃない」

「じゃあ、どうして」

「わからん」


レオンハルトさんは、倒れた鉄殻熊のほうへちらりと目をやった。


「追われてきたのか、それとも、呼ばれたのか」


呼ばれた。北の森で弓使いの子が言っていた言葉と、同じだった。


   ◇ ◇ ◇


包帯を巻き終えてから、私は手を止めて、まっすぐレオンハルトさんを見た。


「レオンハルトさん。どうして、一人で戦ったんですか」

「全員を逃がすには、それが一番速かった」

「一番速かったかもしれません。でも、一番安全でしたか」

「……」

「谷にはガーランドさんがいました。弓使いさんも、ここにいました。尾根から笛で合図をくれれば、ガーランドさんと二人で熊を挟むこともできたはずです」


レオンハルトさんの眉が、わずかに寄った。


「ガーランドの腕では、鉄殻熊は無理だ」

「倒すのは無理でも、引きつけることはできたと思います。レオンハルトさんが一人で熊を引きつけて、一人で背中に飛び乗って、一人で倒して。もし途中で振り落とされていたら、どうなってましたか」

「振り落とされない」

「もしも、の話です」


レオンハルトさんは答えなかった。


「昨日から一人で尾根を見回っていたのもそうです。誰にも言わずに。もしレオンハルトさんが尾根で怪我をして動けなくなっていたら、誰も探しに行けませんでした。どこにいるのか、誰も知らなかったんですから」

「……」

「前に言いましたよね。一人で全部できる人ほど厄介だって。今日のレオンハルトさん、すごく厄介でした」


隣で、弓使いの子が「受付さん、それ言っちゃう?」という顔をしていた。


言っちゃうのだ。助けてもらった直後に言うことではないのは、わかっている。でも、今言わなかったら、この人はきっと次も一人で戦う。


長い沈黙のあと、レオンハルトさんは小さく息を吐いた。


「……お前は、礼を言うより先に説教をするんだな」

「あ」


言われてみれば、まだお礼を言っていなかった。


私は慌てて頭を下げた。


「助けてくださって、ありがとうございました! 本当に! 心から!」

「順番が逆だ」

「すみません! でも、説教の中身は撤回しません!」


レオンハルトさんは呆れたように目を細めた。怒っているのか、そうでもないのか。相変わらず、表情からは読めない。


ただ、立ち上がりかけた彼の口から、ぽつりと一言だけこぼれた。


「……次は、笛を持っていく」


聞き間違いかと思った。


聞き返そうとしたとき、谷の奥から声が聞こえてきた。


「受付さーん!」


リリアンさんの声だった。


西の出口ではなく、南の斜面のほうから。三つの人影が、木々の間を縫うようにして上がってくる。


撤退の出口は塞がれていたはずなのに。三人は、別の道を見つけて帰ってきたのだ。

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