第33話 依頼書にない魔物が出るなんて、聞いてません!
合同依頼の二日目は、ガーランドさんの青空教室から始まった。
「いいか。一回しか言わねえからな」
銀葉の谷の入口。集合地点の大岩の前で、ガーランドさんは三人の前に仁王立ちしていた。私は大岩の上に座って、帳面を広げている。
「鹿は逃げる。音がしたら、遠ざかる。がさがさの後に、たったったって軽い足音が離れていけば鹿だ」
「は、はい」
「魔物は逃げねえ。音がしたら、止まる。がさっと鳴って、そのあと静かになったら、そいつはこっちを見てる」
リリアンさんがごくりと唾を飲んだ。
「静かになったら、魔物」
「そうだ。昨日のお前は、がさっの時点で逃げた。だから全部鹿だった。次はがさっの後に、一呼吸だけ耳を澄ませろ。足音が離れていくか、静かになるか。それを確かめてから合図を出せ」
「一呼吸」
「一呼吸だ。二呼吸は待つな。二呼吸目には、魔物ならもう飛びかかってくる」
私は帳面に書き込んだ。鹿は遠ざかる。魔物は止まる。確かめるのは一呼吸だけ。
ガーランドさんの十か条の、四つ目の続きだ。獣が急に静かになったら、何かがいる。
「以上だ。行くぞ」
「えっ、もう終わりですか」
「一回しか言わねえって言ったろ。あとは谷で覚えろ」
四人が谷へ下りていく。昨日より少しだけ、足並みが揃っているように見えた。
◇ ◇ ◇
大岩の上からは、谷の入口付近と、東側の岩場がよく見えた。
弓使いの子が岩場に登っていくのが見える。谷底のほうは木々に隠れて見えないけれど、ときどき剣士さんの籠がちらりと覗く。
午前中は、驚くほど順調だった。
一度、谷の奥から鳥が飛び立った。岩場の弓使いの子が手を振るのが見えた。笛ではなく、手の合図。鹿だ。
しばらくして、もう一度。今度も手の合図。
谷底から、撤退の声は上がらなかった。
「……うまくいってる」
私は帳面に書き込んだ。見張りの合図、手旗二回。判断係、撤退せず。採集続行。
昨日の話し合いが、ちゃんと形になっている。
昼過ぎ、剣士さんが小分けの袋を一つ持って谷を上がってきた。
「受付さん、これ、一袋目です。昨日の倍のペースで摘めてます」
「本当ですか!」
「リリアンさんが、がさっの後にちゃんと一呼吸待ってくれるので、僕も落ち着いて摘めるんです」
剣士さんは嬉しそうに笑って、また谷へ下りていった。
私は袋を大岩の陰に置いて、空を見上げた。日没の二刻前まで、まだかなりある。このままいけば、今日は予定の量に届きそうだ。
◇ ◇ ◇
最初の異変は、音ではなかった。
谷の西の奥。撤退の出口に決めていた方角から、鳥が一斉に飛び立った。
一羽や二羽ではない。何十羽もの鳥が、黒い雲みたいに空へ舞い上がっていく。
岩場の弓使いの子が、立ち上がるのが見えた。
ぴいいいい、と笛の音が谷に響いた。
一回目の合図だ。
私は大岩の上で背筋を伸ばした。何かが見えたのだ。手の合図ではなく、笛で知らせなければいけない何かが。
二回目の笛は、すぐには鳴らなかった。
一呼吸。二呼吸。
その代わりに聞こえてきたのは、地面を揺らすような重い足音だった。
木々の向こうで、何かが動いている。枝が折れる音。岩が転がる音。そして、腹の底に響くような低い唸り声。
ぴいいいい。
二回目の笛が鳴った。
撤退条件、成立だ。
谷底から、リリアンさんの声が聞こえた。何と言っているかまではわからない。でも、撤退の合図を出しているのだとわかった。
私は立ち上がって、西の出口のほうを見た。撤退の方向は、谷の西の出口。そこから回り込んで、この大岩に集合する手筈になっている。
その西の出口から、それは姿を現した。
◇ ◇ ◇
最初は、岩が動いているのだと思った。
灰色のごつごつした背中。私の背丈の倍はある巨体。全身が、甲羅みたいな硬い殻に覆われている。熊に似ているけれど、熊ではない。熊はあんなふうに、殻をきしませて歩かない。
それが、撤退の出口をふさぐように、谷の中へのっそりと入ってくる。
「……嘘」
岩場の弓使いの子が、転がるように大岩まで走ってきた。顔が真っ青だった。
「受付さん! あれ、あれ鉄殻熊だよ!」
「てっかくぐま?」
「北の山の、ずっと奥にしかいないやつ! 前に、図鑑で見たことある! こんな谷にいるはずないのに!」
私は頭の中の危険度表をめくった。銀葉の谷。危険度二。出現する魔物は、小型の獣と、ときどき大蛙。鉄殻熊なんて、一度も記録されていない。
弓使いさんたちが描いた分布図にも、レオンハルトさんの報告書にも、どこにも。
依頼書にない魔物だった。
「三人は!?」
「谷の底! 撤退の合図は出てた。でも、撤退の出口が」
弓使いの子の声が途切れた。
撤退の出口は、西。そこに今、鉄殻熊がいる。
決めておいた逃げ道が、最初に塞がれた。
谷の底から、悲鳴とも叫びともつかない声が上がった。木々がざわめく。鉄殻熊が、ゆっくりと首を巡らせる。その鼻先が向いたのは、谷の底。三人がいるはずの場所だ。
私は大岩の上で拳を握りしめた。
剣は使えない。魔法は湯を沸かすくらい。ここから声を張り上げても、谷の底までは届かない。
大岩から一歩も動くな。ガーランドさんとの約束が、頭の中で鳴り響いた。
動けない。動いても、何もできない。
「依頼書にない魔物が出るなんて」
震える声が、勝手に口からこぼれた。
「聞いてません……!」
鉄殻熊の殻が、陽の光を受けて鈍く光った。
そして、谷の底へ向かって、一歩、また一歩と歩き出した。




