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第29話 逃げる勇気も、冒険者の才能です。

二回目の講習の朝。訓練場に来た新人さんは、四人だった。


六人から四人。三分の二。前世の新人研修なら、二日目にしては上出来の生存率だ。


「……減りましたね」

「減ったな」


レオンハルトさんは無表情のまま腕を組んでいた。少しは気にしているのかと思ったけれど、たぶん気にしていない。


残ったのは、リリアンさん、トビアスさん、それから槍使いの男の子と、弓を持った女の子。トビアスさんは膝が少し震えているけれど、ちゃんと来てくれた。


「トビアスさん、来てくださったんですね」

「来たっす。……正直、夢にまで出てきたっすけど」

「レオンハルトさんが?」

「お前は死んだ、って。百回くらい」


それはさすがに同情する。


   ◇ ◇ ◇


今回の座学には、新しい資料を用意していた。


倉庫で見つけた、三十年前の依頼書の写しだ。


「これは、昔このギルドで使われていた依頼書です。ここを見てください」


私は撤退条件の欄を指さした。


「魔物の数が三を超えたら、帰ってくること。日没の一刻前になったら、帰ってくること。この場合、違約金は発生しない」


新人さんたちが顔を見合わせた。


「昔は、ギルドが最初から決めていたんです。ここまで来たら帰ってこい、って。依頼を途中でやめても、それは失敗じゃなかったんです」

「え、でも、今は違約金取られるんですよね?」


槍使いの男の子が手を挙げた。


「今の規約ではそうなっています。でも、その規約は変えます。少なくともこのギルドでは」


ベルナードさんとは、昨夜のうちに話をつけてあった。新しい依頼書には、撤退条件の欄を復活させる。条件を守って引き返した場合、違約金は取らない。


ギルドの損になる。でも、怪我の見舞金を払うよりずっと安い。


「なので、今日の実技では、帰ってくる練習をします」


   ◇ ◇ ◇


レオンハルトさんの実技は、前回とは少し違った。


訓練場に、縄で区切った小さな森を作ってある。木の代わりに杭を立て、茂みの代わりに藁を積んである。その奥に、薬草に見立てた赤い布が置かれていた。


「依頼は薬草採り。あの赤い布を取ってこい」


四人がうなずく。


「森の中には、俺がいる。俺は魔物だ。お前たちを見つけたら襲う」


四人の顔がこわばる。


「撤退条件は、魔物の気配を二回感じたら引き返すこと。条件を守って帰ってきたら、依頼失敗でも生存。条件を破って死んだら、依頼成功でも死亡だ」


最初に入ったのは、槍使いの男の子だった。


藁の茂みが一度がさりと揺れた。男の子は一瞬立ち止まって、それでも前に進んだ。二回目に揺れたとき、赤い布はもう目の前だった。


彼は手を伸ばした。


「死んだ」


背後から木剣が首筋に当たった。


「二回目の気配で引き返さなかった。布は取れたが、お前は帰れない」

「でも、あと一歩で」

「あと一歩で死ぬやつが、一番多い」


男の子は唇を噛んで、引き下がった。


弓の女の子も、トビアスさんも、同じだった。気配を感じても、赤い布が見えると足が前に出てしまう。あと少し、もう少しで。そして死ぬ。


前世の私も同じだった。あと一件だけ、あと一時間だけ。そうやって終電を逃し、体を壊した。


最後に、リリアンさんが縄の内側に入った。


   ◇ ◇ ◇


リリアンさんの歩き方は、ほかの三人と違っていた。


まっすぐ赤い布に向かわない。一歩進むたびに立ち止まって、左右の藁を見る。そして時々、来た道を振り返る。


「……何してるんすかね、あれ」


トビアスさんが小声で聞いてきた。


「帰り道を確かめてるんだと思います」

「帰り道?」

「村で子どもたちを連れて山に入ってたとき、そうしてたそうです」


藁の茂みが、一度揺れた。


リリアンさんはぴたりと止まった。それから、ゆっくりと一歩下がった。


赤い布までは、まだ半分の距離がある。


もう一度、藁が揺れた。さっきとは別の場所。


リリアンさんは、迷わなかった。


くるりと踵を返して、さっき振り返って確かめていた道を、小走りで戻ってきた。縄の外に出て、肩で息をしながら立ち止まる。


赤い布は、取れなかった。


訓練場が静まり返った。


藁の陰から、レオンハルトさんが姿を現した。木剣を下ろしたまま、リリアンさんの前に立つ。


「依頼は失敗だ」

「……はい」

「だが、生きている」


リリアンさんが顔を上げた。


「四人の中で、生きて帰ってきたのはお前だけだ」


   ◇ ◇ ◇


講習が終わったあと、リリアンさんは訓練場の隅に一人で座っていた。


私は水筒を持って隣に座った。


「お疲れさまでした」

「受付さん……」


リリアンさんは膝を抱えたまま、ぽつりと言った。


「私、村では臆病者って言われてたんです。熊の足跡で逃げたときも、天気が崩れそうで引き返したときも。お前はすぐ逃げる、だから冒険者なんか向いてないって」

「はい」

「だから、冒険者になったら強くなろうって思ってました。魔物をたくさん倒して、お金を稼いで、臆病者じゃないって見返してやろうって」


リリアンさんは、赤い布が置かれたままの藁の森を見つめた。


「でも今日、逃げて褒められました。生きて帰ったのはお前だけだって」

「褒められましたね」

「……逃げるのって、いいことなんですか?」


私は少し考えてから答えた。


「逃げること自体は、いいことでも悪いことでもないと思います。大事なのは、逃げるべきときに逃げられることです」

「逃げるべきときに」

「ほかの三人は、逃げるべきときがわかっていても、足が前に出てしまいました。赤い布が欲しかったから。あと少しだと思ったから。それは普通のことです。私も前は、そうでした」


前世の終電の灯りが、一瞬だけ頭をよぎった。


「でもリリアンさんは、欲しいものが目の前にあっても引き返せました。それは怖いからじゃなくて、帰り道を先に確かめて、自分で決めたからです」


リリアンさんの目が、少し潤んだ。


「逃げる勇気も、冒険者の才能です。魔物を倒すことだけが、冒険者の仕事じゃありません。生きて帰ることも、仲間を連れて帰ることも、立派な仕事です」

「……生きて帰ることも、仕事」

「はい。たぶん、一番大事な仕事です」


リリアンさんは長いこと黙っていた。それから、膝を抱えていた腕をほどいて、ぐいっと目元を拭った。


「受付さん。私、もっと練習したいです。逃げる練習」

「逃げる練習」

「はい。私が上手に逃げられたら、一緒にいる人も逃がしてあげられるかもしれないから」


私は思わず笑ってしまった。


この子はもう、自分の才能の使い道を見つけかけている。


訓練場の入口で、レオンハルトさんが木剣を片づけていた。こちらの話が聞こえていたのかいないのか、背中を向けたまま。


ただ、その背中が、ほんの少しだけいつもより重たく見えた。


逃げるべきときに逃げられること。あの人はそれを、どこで覚えたのだろう。


聞いてはいけない気がして、私は水筒の蓋を閉めた。

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