第26話 新人冒険者に、命の授業を。
「安全講習?」
翌朝、ギルド長室で計画を話すと、ベルナードさんは紅茶のカップを持ったまま首をかしげた。
「はい。新人さん向けの、命を守るための講習です」
「アリサちゃんが先生をやるのかい?」
「座学の部分は私がやります。でも、それだけじゃ足りません」
私は泥のしみがついた帳面を広げた。昨日の西の丘の記録だ。
「昨日一日で、依頼書に書いてない危険が一ページ分見つかりました。危険度一の丘だけで、です。新人さんは、これを全部自分で見つけないといけないんです。怪我をしながら」
「うん……」
「最初から知っていれば、避けられる怪我がたくさんあります。だったら、教えればいいんです」
ベルナードさんは帳面をめくりながら、しみじみと言った。
「昔はね、そういうのは先輩冒険者が後輩に教えてたんだよ。一緒に依頼に行って、背中を見せてね」
「今は?」
「みんな自分のことで手一杯だからねえ。報酬が安い危ない依頼を、新人が一人で受けるようになってから、そういうのがなくなっちゃった」
背中を見せる先輩がいなくなった。だから新人さんは、自分の体で危険を覚えるしかなくなった。
報酬の歪みは、お金だけじゃなく、知識の受け渡しまで壊していたのだ。
◇ ◇ ◇
講習の中身を考えるために、私はまず材料を集めることにした。
一つ目は、帳簿だ。この三年分の事故の記録を、全部書き出す。場所、時期、原因、怪我の程度。
「アリサちゃん、三年分も?」
「昨日わかったんです。事故には季節と場所の癖があるって。西の丘の牙猪みたいに」
書き出してみると、癖は面白いほどはっきりしていた。
春は雪解けの沢で足を滑らせる事故。夏は蜂と毒蛇。秋の終わりは山から降りてくる獣。冬は日暮れの早さを見誤って、森で夜を明かす羽目になる事故。
そして季節に関係なく、一番多い原因が一つあった。
「引き返すのが遅れた」。
報告書の言葉はまちまちだった。「予定より魔物が多かったが続行」「途中で異変に気づいたが依頼完了を優先」「撤退の機を逸した」。でも、言っていることは全部同じだ。
「ギルド長。怪我の半分以上が、引き返すのが遅れたせいです」
「半分以上……」
「包帯の剣士さんも、そうでした。違約金が怖くて、引き返せなかったって」
講習の柱が、一本決まった。
魔物と戦う方法ではなく、魔物から逃げる判断を教える。
◇ ◇ ◇
二つ目の材料は、人だった。
昼過ぎ、カウンターの隅で依頼書を眺めていたガーランドさんに、私は声をかけた。
「ガーランドさん。少しお時間いいですか」
「なんだ。また面倒な話か」
「面倒な話です」
「正直だな」
講習の計画を話すと、ガーランドさんは腕を組んで黙り込んだ。
「……で、俺に何をしろってんだ」
「教えてほしいんです。現場で気をつけていること。新人のころに知っておきたかったこと」
「講師なんかやらねえぞ。ガラじゃねえ」
「講師じゃなくていいです。私に話してくれるだけで。それを私がまとめます」
ガーランドさんはしばらく天井を見上げていた。
それから、ぼそりと言った。
「……雨のあと三日は沢に近づくな」
「はい」
私は急いでペンを走らせた。
「日暮れの一刻前には帰り道に入れ。森の夜は思ってるより早く来る」
「はい」
「知らねえ足跡を見つけたら、まず数を数えろ。数えられねえなら、引き返せ」
「はい」
「獣が急に静かになったら、何かがいる」
「はい」
「仲間がいるなら、行く前に逃げる方向を決めとけ。いざってときに相談してる暇はねえ」
ぽつり、ぽつりと。ガーランドさんの口から、十五年分の知恵がこぼれてくる。
十個目を言い終えたところで、彼はふと口をつぐんだ。
「……最後の一個は、言うまでもねえか」
「なんですか?」
「死んだら終わりだ。依頼も、報酬も、全部」
それだけ言って、ガーランドさんは立ち上がった。
「書いたか」
「書きました。ガーランドさんの十か条です」
「俺の名前をつけるな」
「つけます。一番説得力がありますから」
「……勝手にしろ」
去っていく大きな背中を見送りながら、私は帳面の十か条を見つめた。どれも依頼書には書いていない。でも、どれも命に関わることだ。
◇ ◇ ◇
夕方、講習の参加者を募る貼り紙を作っていると、リリアンさんが帰ってきた。今日は伝令の依頼だったらしい。
「受付さん、ただいま戻りました! あれ、何作ってるんですか?」
「新人さん向けの安全講習の案内です」
「安全講習!」
リリアンさんの目が輝いた。
「私、出たいです! 絶対出ます!」
「ありがとうございます。リリアンさんみたいな方に来てほしかったんです」
「どんなことやるんですか?」
「魔物に遭ったときの対処と、逃げる判断の仕方です」
「逃げる……」
リリアンさんは少し考えてから、照れくさそうに笑った。
「それ、私、村でずっとやってました。熊の足跡で逃げたとき、大人に臆病者って笑われたけど」
「臆病者じゃありません。正しい判断です」
「……講習で、そう教えてくれるんですか?」
「教えます」
リリアンさんは貼り紙をじっと見て、それから小さく頷いた。
「じゃあ、新人の子たちにも声かけておきます! 私の知り合い、みんな危ない依頼ばっかり受けたがってるので」
彼女が駆け出していったあと、私は講習の計画表を見直した。
座学は私。事故の記録と季節の癖、それからガーランドさんの十か条。
でも、計画表には一つだけ空欄が残っていた。
実技。
魔物に遭遇したときの体の動かし方。撤退の判断を、実際の場面で身につける訓練。これは私には教えられない。紙の上の知識では、足は動かないから。
教えられる人は、一人しか思い浮かばなかった。
ガーランドさんは講師をやらないと言った。ほかの中堅さんたちは、自分の依頼で手一杯だ。
残るのは、協調性一の、あの人だけだ。
「アリサちゃん、その顔」
ベルナードさんがお茶を置きながら、心配そうに覗き込んできた。
「また誰かに無茶なお願いをしようとしてる顔だね」
「よくわかりますね」
「最近よく見るからねえ」
私は計画表の空欄に、そっと名前を書き込んだ。
レオンハルト。
断られるのは、もう見えている。だから、断られない理由を考えなければいけない。




