第25話 初めての現場視察は、命懸けでした。
日の出の門の前は、思っていたより寒かった。
「来たか」
「来ました! 遅れてません!」
「……その荷物はなんだ」
レオンハルトさんの視線が、私の背中に向けられる。背負い袋がぱんぱんに膨らんでいた。
「水筒と、お弁当と、帳面とペンと、予備のペンと、危険度表の写しと、毛布と、包帯と、傷薬と」
「置いていけ」
「えっ」
「半分は要らない。重い荷物は足を遅くする。足が遅いやつは死ぬ」
「死ぬ」
「現場ではな」
私は門の脇で袋の中身を半分に減らした。毛布と予備のペンと、お弁当のおかずの一品が犠牲になった。
「今日の行き先は」
「西の丘です。薬草採りの依頼の場所です」
西の丘。かつて報酬八千ゴルドの名物だった、安全で楽な依頼の舞台だ。危険度は一。私が自分で決めた数字だった。
「一番安全な場所から確かめたいんです。一番安全だと思っている場所が本当に安全なのか。それがわかれば、ほかの場所の見方も変わると思うので」
レオンハルトさんは一瞬だけ私を見て、何も言わずに歩き出した。
◇ ◇ ◇
街道を外れて丘への道に入ったところで、最初の注意が飛んできた。
「止まれ」
「は、はい!」
「足元を見ろ」
言われて見下ろすと、草むらの中に細い紐のようなものが横たわっていた。
紐ではなかった。蛇だった。
「ひっ」
「動くな。噛まれたら半日歩けなくなる種類だ。向こうから去るのを待て」
蛇がするすると草むらに消えていくまで、私は息を止めて固まっていた。
「……依頼書に、蛇のことは書いてなかったです」
「書く必要がないからな。慣れたやつなら避ける」
「慣れてない人は」
「噛まれる」
私は帳面を取り出して、震える手で書き込んだ。西の丘、入口付近、毒蛇。
少し進むと、また止められた。
「あの木を避けて通れ」
「どうしてですか」
「枝の付け根を見ろ」
目を凝らすと、灰色の塊がぶら下がっていた。蜂の巣だ。私の頭くらいの大きさがある。
「秋の蜂は気が立ってる。巣の下を通っただけで襲ってくる」
「刺されたら」
「一回なら腫れるだけだ。十回刺されたら、運が悪ければ死ぬ」
帳面に書き込む。西の丘、中腹の大木、蜂の巣。
それからも、道すがら止められ続けた。足を滑らせやすい斜面。雨水が溜まって底が見えない窪み。採集地点の近くに生えている、薬草とよく似た毒草。
丘の頂上に着いたとき、私の帳面は一ページ丸ごと埋まっていた。
「……危険度一って、何だったんでしょう」
「お前が決めたんだろう」
「そうなんですけど」
私は頂上の岩に座り込んで、帳面を見返した。
どれも、一つ一つは大したことのない危険だ。慣れた冒険者さんなら何も考えずに避けるだろう。でも、新人さんが一人で来たら。リリアンさんみたいに、熊の足跡で引き返せる子ならともかく、そうでない子だったら。
依頼書には一行も書かれていない危険が、こんなにあった。
◇ ◇ ◇
お弁当を食べ終えて、帰り道を下りはじめたときだった。
レオンハルトさんが、急に足を止めた。
今までの「止まれ」とは違った。声を出さずに、左手だけを私の前に突き出す。
私も止まった。
丘の斜面の下、雑木林のほうから、がさがさと枝を折る音が近づいてくる。
「受付」
レオンハルトさんの声が、低く落ちた。
「伏せろ。俺がいいと言うまで、絶対に顔を上げるな」
私は迷わず地面に伏せた。前世の新人研修、ありがとう。上司の指示には即答。体が勝手に動いた。
次の瞬間、雑木林から何かが飛び出してきた。
地面が揺れた。私の視界の端に、茶色い毛皮と、鋭く湾曲した白い牙が見えた。牙猪だ。それも、普通の猪の二倍はある。
荒い鼻息が、すぐそこまで迫ってくる。
私は顔を地面に押しつけたまま、目をぎゅっと閉じた。
金属が空気を裂く音。重いものが地面に倒れる音。
それから、静かになった。
「……もういい」
顔を上げると、レオンハルトさんが長剣の血を払っていた。その足元に、巨大な牙猪が横たわっている。
一撃だった。たぶん。私には何も見えなかったけれど。
「け、怪我は」
「ない」
「本当に」
「ない。お前は」
「ないです……たぶん。腰が抜けてますけど」
立ち上がろうとして、膝が笑って座り込んだ。
レオンハルトさんは呆れたように息を吐いて、手を差し出してくれた。その手を借りて、ようやく立ち上がる。
「牙猪は、普段は山の奥にいる」
「どうしてこんなところに」
「秋の終わりは、山の木の実が減る。餌を探して里の近くまで降りてくる。毎年のことだ」
毎年のこと。
その言葉に、頭の奥で何かが引っかかった。
「レオンハルトさん。去年の今ごろ、西の丘で怪我人が出ていませんか」
「知らん。俺はここに来てまだ半年だ」
「でも、帳簿で見た気がするんです。去年の秋の終わり、西の丘の薬草採りで、新人さんが獣に襲われて」
後でギルドに帰って記録を確かめると、やっぱりあった。去年の秋の終わり、西の丘で新人冒険者が獣に襲われて重傷。報告書には「獣」とだけ書かれていて、牙猪とは書いていなかった。その前の年にも、似た時期に似た事故が一件。
毎年同じ季節に、同じ場所で、同じことが起きていた。
「……これ、記録をちゃんと並べていたら、防げたかもしれません」
「お前の仕事だな」
「はい。私の仕事です」
◇ ◇ ◇
ギルドに戻ったのは、夕方の鐘が鳴る少し前だった。
扉を開けた私を見て、ベルナードさんが悲鳴を上げた。
「アリサちゃん! 泥だらけじゃないか!」
「伏せたので」
「伏せた!?」
「牙猪が出ました」
「きばいのしし!?」
カウンターの奥で、ガーランドさんが椅子から立ち上がりかけていた。私の顔を見て、それから後ろのレオンハルトさんを見て、ゆっくりと座り直す。
「……生きて帰ってきたか」
「帰ってきました」
「で、どうだった。現場は」
私は泥だらけの帳面を、カウンターに置いた。
「依頼書に書いてない危険が、一ページ分ありました。危険度一の丘で、です」
ガーランドさんは黙って帳面をめくった。蛇、蜂の巣、斜面、窪み、毒草、牙猪。最後のページには、去年と一昨年の事故の記録との照らし合わせ。
「……ふん」
彼は帳面を閉じて、私に押し返した。
「命懸けだったろ」
「命懸けでした」
「それが現場だ」
私は帳面を胸に抱えた。
命懸けだった。本当に。でも、命を懸けて見てきたものは、全部この中に書いてある。
これを、次に西の丘へ行く新人さんに渡せたら。去年と一昨年の事故は、もう起きないかもしれない。
「ガーランドさん。この知識、ギルドにいる全員で共有したいんです」
「共有?」
「新人さんたちに、現場の危険の見分け方を教える場を作れないかと思って」
ガーランドさんの眉が、ぴくりと動いた。
その後ろで、報告書を書いていたレオンハルトさんのペンが、ほんの一瞬だけ止まった気がした。




