崩れる迷宮
しばらくして、地の底の轟きは、ようやく収まった。
夜が、白みはじめている。
屋根の上から見下ろすと、闇を吐き出していた城の地下は、すっかり崩れ落ち、あの深海の巨体も、瓦礫とともに、底の見えない奈落へと永遠に沈んでいったようだった。
そして——。
どこからともなく、細い音が、聞こえてきた。
ポロン、と一音。チリン、と一音。
途切れ途切れに、けれど確かに。崩れた城のあちこちから人々が顔を出し、無事を確かめ合うように、めいめいの楽器をそっと鳴らしはじめたのだ。
やがてそれは、いくつもの旋律となって重なり、ふたたび、あの豊かで懐かしい音楽の風となって、夜明けの空いっぱいに広がっていった。
奪われかけていた音が、戻ってきた。
リオンは、何も言わずに、ただその音楽にじっと聴き入っていた。横顔は、嬉しそうにも、少し泣きそうにも見えた。自分では一音も奏でられない国の音楽を、誰よりも大切に想っている、そんな横顔だった。
「いやー、間に合ってよかったぜ!」
プクが、伸びをしながら、からりと笑った。
「あんたたちのおかげで、おいらも久しぶりに胸がすっとしたよ」
「プクは、これからどうするの?」
アリスが尋ねると、プクは「んー」と空を見上げた。夜明けの空には、薄れゆく星々のあいだに、まだ淡い虹がかかっている。
「決めてねえ。風来坊だからな。気の向くまま、あっちこっちさ」
そう言って、彼はぴょんと屋根の縁に飛び乗った。背中から、また鮮やかな虹がほどけて、空へと伸びていく。
「じゃあな、アリス、リオン! ……ま、世界は意外と狭いからさ。きっと、どっかでまた会うって」
「うん。……ありがとう、プク!」
プクは、にっと白い歯を見せて笑うと、虹を蹴って、朝焼けの空へと勢いよく駆け上がっていった。
その小さな後ろ姿が、光の粒に溶けて見えなくなるまで、アリスは手を振り続けた。
プクが去ったあと。
崩れ残った塔の根元——最初にアリスが選んだ、あの小さな木の扉の前に、ひとりの老人が立っていた。
ハルモニアの、あの老人だった。
老人は、リオンの前まで歩いてくると、両手で大切そうに抱えていたものを、そっと差し出した。
古びた、けれど磨き抜かれた、一本の金色のラッパだった。
老人は何も言わない。ただ、優しい目で、チリン、と小さなベルを鳴らした。それは、言葉にせずとも伝わる響きだった。
——ずっと、待っていた。いつか、この国を救う者に、これを渡すために。
「これを……僕に?」
リオンの声が、かすかに震えた。
老人は深くうなずき、ラッパをリオンの手に握らせると、満ち足りた顔で静かに去っていった。
リオンは、しばらくの間、その金色のラッパを、信じられないように見つめていた。
それから、おそるおそる、唇に当てる。
息を、吹き込む。
ブベェッ——。
返ってきたのは、ひどく間の抜けた、潰れたような音だった。
しん、と静まり返る。
リオンの顔が、かあっと赤くなった。あれほど美しい音楽が満ちる国で、自分の出した音だけが、無様に響いて、消える。
「……ほら、ね」
彼は、唇を噛んで、力なく笑った。
「やっぱり、僕には……」
「リオン」
アリスは、その言葉を遮るように、まっすぐに彼を見た。
「今のは、ちょっと変な音だったけど」
「……うん」
「でも、ちゃんと、音は出たよ」
リオンが、きょとんとアリスを見る。
「最初から上手な人なんて、いないもん。練習すれば、きっと。……それに」
アリスは、ほんの少し照れながら、付け加えた。
「私、その音、嫌いじゃなかったよ」
リオンは、目を丸くして、それから、今度はさっきとは違う、くしゃっとした年相応の笑顔になった。
「……変なの」
「変じゃないもん」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
リオンは、金色のラッパを、大切そうに胸に抱いた。いつか、この国の音楽みたいに、美しく歌わせることができる日を、心のどこかで願うように。
夜は、すっかり明けていた。
新しい朝の光が、音楽の国を、隅々まで金色に照らしている。
「さあ、行こうか」
リオンが、ラッパを腰に提げて、歩き出す。
その背を追いかけようとした、そのとき。
遥か遠くの空の彼方で、何か大きなものが、ぐぅ……と、低く身じろぎするような気配がした。
まるで、あの不格好なラッパの音を、どこか遠くで聞きつけたかのように。




