虹の底から来た少年
「行こう」
リオンが低い声で言った。
いつもの飄々とした調子は、すっかり消えていた。彼にとって、この音楽の国は、たとえ自分が音を奏でられなくても、大切な故郷のような場所なのだろう。その音楽が奪われようとしている——それを見過ごすことは、できないらしかった。
「でも、危なくない?」
「危ないさ」
リオンは、不吉な気配が這い寄ってくる闇の回廊の奥を見据えた。
「でも、放っておいたら、この国の音は、ぜんぶ消えてしまう。……行かなきゃ」
アリスはこくりとうなずいた。ひとりにはしない。さっき、そう決めたばかりだった。
二人は、固く閉ざされていた闇の扉を押し開け、暗い階段を下っていった。
下へ。下へ。
降りるほどに、空気は冷たく、重くなっていく。あれほど豊かに響いていた音楽は、一段ごとに痩せ細り、やがて、糸のように細い旋律が、心細げに尾を引くばかりになった。
「……静かすぎる」
アリスは思わず声を潜めた。自分の足音だけが、やけに大きく反響する。
最後の段を降りきると、そこは、見上げるほど天井の高い、がらんとした地下の大空洞だった。
光ひとつ届かない、底の見えない深い闇が、足元にぽっかりと口を開けている。音楽を吸い込んで黙り込んだ、巨大な静寂そのもののようだった。
その、底知れぬ闇の奥から。
ふいに、一筋の光が射した。
赤、橙、黄、緑……。
暗闇を塗り替えるように、鮮やかな虹が、奈落の底からぐんぐんと伸び上がってくる。
「な、なに……?」
アリスが目を見張る間にも、虹はみるみる近づき——その先端から、何かが勢いよく飛び出してきた。
ポーン!
軽やかな音とともに、宙へ跳ね上がったそれは、くるりと一回転して、二人の目の前にぴょこんと着地した。
小さな男の子だった。
歳の頃は、アリスより少し下くらい。けれど、その瞳は好奇心でキラキラと輝き、青みがかった髪は、まるで炎のようにツンツンと跳ねている。背中では、虹の名残が、きらきらと光の粒になって溶けていくところだった。
少年は腰に手を当て、胸を反らして、にっと笑った。
「よう! あんたたち、こんな辛気くさいとこで何やってんだ?」
「えっと……」
「迷子か? それとも、おいらと同じで、あいつから逃げてきたクチか?」
「あいつ……?」
アリスとリオンが顔を見合わせる。
少年は「おっと」と肩をすくめ、それから、ぴしっと自分の鼻を指さした。
「おいらはプク! 見ての通り、どこにだって行ける、自由な風来坊さ!」
プクが、ぷうっと頬を膨らませ、口をすぼめて、息を吐く。
すると、その口元から、シャボン玉がぷかりと生まれた。けれどそれは、リオンの月色の泡とは違って、内側に小さな火種を宿したような、ほんのりと赤く透き通る泡だった。
「わあ……あなたも、シャボン玉?」
「あなたも?」
プクが目を丸くする。アリスが、リオンの作った月色の泡を見せると、プクは「へえ!」と感心したように口笛を吹いた。
「仲間じゃん。……ま、おいらのは、ちょっと熱いけどな」
そう言って、彼は赤い泡を指先で軽く弾いた。泡はパチンと爆ぜ、小さな火花を散らして消える。
リオンが興味深そうにプクを見つめた。
「君、ただの人間じゃないね」
プクは一瞬きょとんとして、それから、ちょっとだけ得意げに、けれどどこか挑むように笑った。
「お、わかる? おいら、ほんとはちっこい竜なんだ。誰かさんの意地悪な呪いで、こーんなナリにされちまってるけどさ。——でも、別に。竜だろうが人間だろうが、おいらはおいらだもんね」
その口ぶりは、からりと明るかった。
リオンは、何か言いかけて、けれど結局、口をつぐんだ。
自分のことを隠して笑う少年と、自分のことを笑い飛ばす少年。同じ笑顔でも、ずいぶん違うものなのだと、アリスは思った。
と、そのときだった。
ズズ……ズズズ……。
足元の、底知れぬ闇の奥から、地鳴りのような重い音が響いてきた。
プクの表情が、さっと引き締まる。
「……来やがったな」
「な、何が?」
アリスの声は、わずかに震えていた。
プクは、奈落の縁を覗き込み、ごくりと唾を飲んだ。
「あれだよ。この国の音を、根こそぎ食っちまおうとしてる、でっかいやつ。——おいらじゃ、手に負えなくてさ」
闇の底で、何か巨大なものが、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




