百の扉の城
その夜、アリスはふたたび、自分の部屋の鏡の前に立っていた。
鏡の表面は、水面のように静かに揺れている。けれど、そこから差し込む光は、今度は銀色ではなく、どこか冷ややかで淡い青い色を帯びていた。
「来ると思ってたよ」
鏡の向こう側で、リオンが嬉しそうに笑った。
アリスが一歩、踏み出す。
次の瞬間、足元はカチリとした石畳に変わっていた。
見上げる夜空には、現実では見たこともない見知らぬ星々が瞬いている。遠くには白く気高い塔がそびえ、そして目の前には、圧倒されるほど巨大なお城が佇んでいた。
——いや、それは城というより、ひとつの巨大な「迷宮」だった。
壁にも、塔にも、空中を渡る廊下にすらも、無数の扉が並んでいる。丸い扉、細長い扉、きらびやかな金の扉、古びた木の扉。数え切れないほどのそれは、まるで、誰かが思いつく限りの「入口」を世界中から集めて敷き詰めたかのようだった。
「すごい……」
アリスは息を呑んで見上げた。
「ねえ、どこから入るの?」
するとリオンは腕を組み、いかにも困ったというように眉を下げた。
「それが……僕にも、わからないんだ」
「え?」
「どこから入ったらいいのか、さっぱり」
アリスは思わずくすっと笑った。
「そんなことある?」
「あるよ」
リオンは、いたずらっぽさの一切ない、真面目な顔だった。
「だから、君が選んで」
「選んでって言われても……」
「いいから。君が選ぶべきなんだ。この迷宮の入口は」
アリスは改めて、無数の扉をじっと眺めた。どれも同じように奇妙で、どれも同じように怪しく見える。
けれど、ひとつだけ。
大きな塔の根元に、ひっそりと佇む小さな木の扉が、どうしても気になった。
飾りもなく、目立たず、むしろ誰かの目から隠されているような、そんな健気な扉。誰にも選ばれないまま、ずっとそこで待っていたような気が、なぜだかした。
「これ……かな」
アリスが指さすと、リオンは、その扉を見て少し驚いたように目を丸くした。
「なるほど」
「違った?」
「いや」
彼はすぐに、いつもの笑みを浮かべた。
「たぶん、大正解だ」
重い木の扉を押し開ける。
その瞬間、奥から心地よい風がふわりと流れ出してきた。
——いや、それは風ではなかった。「音」だった。
目に見えないはずの音が、柔らかな風の塊となって、またたく間に空間を満たしていく。ピアノ、笛、優美な弦楽器、そして遠くから響く清らかな歌声。いくつもの美しい旋律が、まるでリボンのように複雑に絡み合いながら流れていった。
アリスは思わず足を止めた。
「あ……」
なぜだろう。初めて聴く、知らない曲のはずなのに、ひどく懐かしい。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。それは、忘れたくないのに薄れていくあの記憶を、必死に手繰り寄せようとするときの感覚に、よく似ていた。会いたいのに、もう会えない。思い出したいのに、ぼやけていく。そんな切ない愛おしさが、音のなかから静かにこみ上げてくる。
隣のリオンは、黙り込んでいた。
音楽がこれほど豊かに鳴り響いているのに、彼はただじっと、それに耳を澄ませている。ただ、それだけだった。
「リオン?」
アリスがそっと呼びかけると、彼は少し遅れて、はっとしたように振り返った。
「なに?」
「きれいな曲ね」
「……そうだね」
彼はそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。
入り組んだ廊下の先には、風変わりな人々が暮らしていた。
けれど、誰も言葉を話そうとはしない。彼らは代わりに、手にした小さな楽器をそっと鳴らしているのだ。
挨拶も、日常の会話も、楽しげな笑い声すらも、すべて音の響きで交わし合っている。鈴、笛、リュート、ハープ。ここでは、あらゆる音が「言葉」そのものだった。
「この人たちは……?」
「ハルモニアの人たちだよ」
リオンが、前を見据えたまま答える。
「この国では、昔からこうして話をするんだ」
すると、すれ違いざまに、一人の老人がリオンに目を留めた。
老人は優しく微笑み、手元を振って、小さなベルをチリンと鳴らした。それはとても温かみのある、親愛の情がこもった響きだった。
だが、リオンは何も返さなかった。いや、返せなかった。
老人は少しだけ寂しそうに微笑むと、そのまま静かに去っていく。
アリスは、その様子を黙って見ていた。何かが、決定的におかしい。
今度は、小さな子供たちが、コロコロと楽しそうな鈴の音を響かせながら、目の前を走り抜けていった。彼らはリオンに気づくと少しだけ立ち止まり、不思議そうに彼を見つめ、そしてまた、遠くへと走り去っていく。
アリスは、ようやくその違和感の正体に気がついた。
「……リオン」
「うん?」
「あなた……楽器を、持っていないの?」
リオンの足が、ぴたりと止まった。
彼はしばらくの間、何も言わずに沈黙していた。やがて、ゆっくりと顔を上げ、窓の外の夜空を見つめる。そこには相変わらず、見知らぬ星々が冷たく輝いていた。
「持ってるよ」
「じゃあ、どうして——」
「でも、演奏できないんだ」
ぽつりと漏らした声は、驚くほど静かだった。
「この笛も、シャボン玉は作れる。……でも、歌わせることができない。みんなみたいに、音で誰かに何かを伝えることができないんだ。——最初から、ずっと」
廊下を吹き抜けていた音楽の風が、ぴたりと止んだような気がした。遠くの部屋で、誰かがつま弾くハープの音だけが、ポツン、ポツンと寂しげに響いている。
リオンは、アリスを振り返り、少しだけ笑った。
それはいつもの見慣れた笑顔だったけれど、どこか悲しみを湛えた、アリスが今まで見たことのない種類の笑顔だった。
「音楽の国なのにね」
彼は自嘲気味に呟く。
「僕だけ、誰とも話せないんだ」
アリスは言葉に詰まってしまった。かけるべき優しい言葉が、どうしても見つからない。
——でも。
アリスは、何も言わずに、リオンのすぐ隣へ並んで立った。そして、彼と同じように、窓の外の冷たい星空を一緒に見上げる。
うまく慰めることはできない。けれど、ひとりにはしない。それくらいは、できる気がした。
リオンは、ちらりとアリスを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いたようだった。
ゴーン——、ゴーン——。
そのとき、遠くから、重々しい城の鐘の音が響き渡った。まるで、何かの不吉な始まりを告げるかのように。
城の、さらに奥。固く閉ざされた闇の回廊の向こう側から、低く不気味な、地鳴りのような音が、じわりと這い寄ってくる。
誰かが、あるいは何かが、この美しい城から音楽を奪い去ろうとしている。
刺すような冷たい気配だけが、静かに、確実に、二人の足元へと漂いはじめていた。




