野兎の贈り物
その日の夕方のことだった。
アリスが庭をのんびりと歩いていると、花壇の向こうから、一羽の野兎がひょっこりと姿を現した。
茶色い毛並みに、長い耳。どこにでもいそうな、ごく普通の兎だった。
ところが、その野兎は、アリスと目が合うなり、すくっと後ろ足で立ち上がった。そして、まるで頭の帽子を脱ぐような仕草をして、ていねいにお辞儀をしたのだ。
「昨日は、ありがとうございました」
アリスは完全に固まってしまった。
数秒、いや、十秒ほどの間。
「……え?」
ようやくそれだけ言うと、野兎はコホンと小さく咳払いをした。
「ですから、ありがとうございました、と申し上げたのです」
「うさぎが……しゃべった!?」
「ええ」
「しゃべったの!?」
「二回も驚かれましても、事実ですから」
野兎は、少し困ったように眉をひそめた。アリスは、その表情にひどく見覚えがあった。
「もしかして……時計ウサギ?」
「はい、その通りです」
——やっぱり、夢じゃなかったんだ。
枕元のシャボン玉。そして今、目の前で頭を下げている兎。ふたつの世界は、たしかに地続きで繋がっている。アリスの胸が不思議とざわめいた。怖さと、それから、ほんの少しの——期待で。
ウサギがそう答えた、そのときだった。
どこからか、あの優しくて素朴な笛の音が響いてきた。
ふわり、と庭の空気が心地よく揺れる。夕暮れの光に照らされて、庭の片隅に置かれた積み木やドミノの影が、不自然なほど長く伸びていった。
ふと見上げると、レンガの塀の上に、小さな三角帽子をかぶった少年が、ちょこんと腰掛けていた。まるで、最初からずっとそこにいたかのように。
「やあ、アリス」
それは、間違いなくリオンだった。
「リオン!? どうしてここに……」
「女王を助けたんだってね。時計ウサギから聞いたよ」
「助けた?」
「そう。君は彼女を倒したんじゃなくて、悪い魔法から助けたんだろう?」
リオンはいたずらっぽく笑った。
アリスは少し考えてから、誇らしげに小さくうなずいた。
リオンは満足そうに微笑むと、軽やかな身のこなしで塀の上に立ち上がった。
「それじゃあ、行こうか」
「行くって……どこへ?」
「どこだろうね。それは、行ってみてのお楽しみさ」
リオンが、帽子のつばを指でくいと押さえる。その瞬間、冷ややかな夕暮れの風が吹き抜け、どこか遠くで、大きな鏡が静かに揺れるような不思議な音が響き渡った。
アリスは、ほんの少しだけ迷った。
ここは、慣れた現実の庭。あたたかくて、安全で、何も起こらない場所。塀の上の少年についていけば、きっとまた、あの恐ろしくて、寂しくて、けれど目を逸らせないような世界が待っている。
昨日のことを、ぜんぶ綺麗な夢にして、忘れてしまうこともできる。そのほうが、きっとずっと楽だ。
——でも。
アリスは、自分の手のひらをそっと見つめた。女王を包んだ、あの大きな泡の感触が、まだ残っている気がした。眠っていたあの子たちは、目を覚ました。止まったままでは、いられなかったから。
だったら、自分も。
「……うん。行く」
アリスは、はっきりとそう言った。
リオンが、少しだけ目を見開いた。それから、いつもよりずっと優しく笑う。まるで、その返事をずっと待っていたかのように。
「僕の魔法を貸したお礼、君からまだ、ちゃんともらってないからね」
その言葉に、アリスは、これから始まる新しい冒険への確かな予感を覚えた。
隣では、時計ウサギがやれやれといった風に長い耳を伏せている。
気がつけば、茜色の空の向こうには、淡い月が静かに昇りはじめていた。




