↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/31

野兎の贈り物

その日の夕方のことだった。

アリスが庭をのんびりと歩いていると、花壇の向こうから、一羽の野兎がひょっこりと姿を現した。

茶色い毛並みに、長い耳。どこにでもいそうな、ごく普通の兎だった。

ところが、その野兎は、アリスと目が合うなり、すくっと後ろ足で立ち上がった。そして、まるで頭の帽子を脱ぐような仕草をして、ていねいにお辞儀をしたのだ。

「昨日は、ありがとうございました」

アリスは完全に固まってしまった。

数秒、いや、十秒ほどの間。

「……え?」

ようやくそれだけ言うと、野兎はコホンと小さく咳払いをした。

「ですから、ありがとうございました、と申し上げたのです」

「うさぎが……しゃべった!?」

「ええ」

「しゃべったの!?」

「二回も驚かれましても、事実ですから」

野兎は、少し困ったように眉をひそめた。アリスは、その表情にひどく見覚えがあった。

「もしかして……時計ウサギ?」

「はい、その通りです」

——やっぱり、夢じゃなかったんだ。

枕元のシャボン玉。そして今、目の前で頭を下げている兎。ふたつの世界は、たしかに地続きで繋がっている。アリスの胸が不思議とざわめいた。怖さと、それから、ほんの少しの——期待で。

ウサギがそう答えた、そのときだった。

どこからか、あの優しくて素朴な笛の音が響いてきた。

ふわり、と庭の空気が心地よく揺れる。夕暮れの光に照らされて、庭の片隅に置かれた積み木やドミノの影が、不自然なほど長く伸びていった。

ふと見上げると、レンガの塀の上に、小さな三角帽子をかぶった少年が、ちょこんと腰掛けていた。まるで、最初からずっとそこにいたかのように。

「やあ、アリス」

それは、間違いなくリオンだった。

「リオン!? どうしてここに……」

「女王を助けたんだってね。時計ウサギから聞いたよ」

「助けた?」

「そう。君は彼女を倒したんじゃなくて、悪い魔法から助けたんだろう?」

リオンはいたずらっぽく笑った。

アリスは少し考えてから、誇らしげに小さくうなずいた。

リオンは満足そうに微笑むと、軽やかな身のこなしで塀の上に立ち上がった。

「それじゃあ、行こうか」

「行くって……どこへ?」

「どこだろうね。それは、行ってみてのお楽しみさ」

リオンが、帽子のつばを指でくいと押さえる。その瞬間、冷ややかな夕暮れの風が吹き抜け、どこか遠くで、大きな鏡が静かに揺れるような不思議な音が響き渡った。

アリスは、ほんの少しだけ迷った。

ここは、慣れた現実の庭。あたたかくて、安全で、何も起こらない場所。塀の上の少年についていけば、きっとまた、あの恐ろしくて、寂しくて、けれど目を逸らせないような世界が待っている。

昨日のことを、ぜんぶ綺麗な夢にして、忘れてしまうこともできる。そのほうが、きっとずっと楽だ。

——でも。

アリスは、自分の手のひらをそっと見つめた。女王を包んだ、あの大きな泡の感触が、まだ残っている気がした。眠っていたあの子たちは、目を覚ました。止まったままでは、いられなかったから。

だったら、自分も。

「……うん。行く」

アリスは、はっきりとそう言った。

リオンが、少しだけ目を見開いた。それから、いつもよりずっと優しく笑う。まるで、その返事をずっと待っていたかのように。

「僕の魔法を貸したお礼、君からまだ、ちゃんともらってないからね」

その言葉に、アリスは、これから始まる新しい冒険への確かな予感を覚えた。

隣では、時計ウサギがやれやれといった風に長い耳を伏せている。

気がつけば、茜色の空の向こうには、淡い月が静かに昇りはじめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。